銀河英雄伝説~悪夢編
しおりを利用するにはログインしてください。会員登録がまだの場合はこちらから。
ページ下へ移動
第五十一話 暫くそこでもがいていろ
宇宙暦798年 3月 10日 ハイネセン ジョアン・レベロ
「酷い状況だな、まさかここまで酷くなるとは……」
「同感だ、乗り切れるかな?」
「さあどうかな、状況はなかなか厳しいんじゃないか」
私が答えるとホアンは“そうだな”と言った。
お互い視線を交わすことは無い、窓から外を見ている。ホアンの事務所の窓からはデモ隊が通りを練り歩いている光景が見えた。参加人数は二千人を超えるだろう、彼らはいずれも手に警戒杖や警棒の類を持っている。彼らの掲げる横断幕には“トリューニヒトの嘘吐き野郎”、“お前達は俺達を切り捨てた”、“国家のためになど二度と戦わない”等の言葉が書かれていた。そして口々に政府を誹謗する言葉を叫んでいる。此処だけでは無いだろう、おそらくは他の場所でも同じようなデモが起きているはずだ。
あのヴァレンシュタインの放送はまさにメガトン級の爆弾だった。捕虜交換を自画自賛していたトリューニヒト政権はその爆弾の直撃を喰らった。マスコミ、議会、そして帰還兵達から捕虜を見殺しにした、それを隠して皆を欺いたと激しい非難を浴びせられたのだ。そして政府はそれに対し効果的な弁明を出来ずにいる。
捕虜交換直後のトリューニヒト政権への支持率は七十パーセントを超えていたが今では五十パーセントを大きく割り込み四十パーセントを何とか維持しているのが精一杯の状況だ。そして不支持率は四十パーセントを超え五十パーセントに近付きつつある。支持者よりも不支持者の方が多いのだ。
「ホアン、トリューニヒトはアイランズを切り捨てないらしいな」
横目でチラリと窺うとホアンが頷くのが見えた。
「一度ネグロポンティを切り捨てたからな、流石に二度目は拙いという事だろう」
「おかげでアイランズは集中砲火か」
「ノイローゼ気味だという噂が有る。本人は辞めたがっているようだ。クビではなく病気で辞任というのは有るかもしれない」
切ない話だ、私が溜息を吐くとホアンも溜息を吐いた。
「その話は私も聞いたが後任者はいるのかな?」
私が問い掛けるとホアンが首を横に振った。
「引き受け手がいないようだ、この状況じゃ国防委員長は戦死覚悟でないと引き受けられん……、まあそれも有ってトリューニヒトはアイランズのクビを切れなければ辞任も認められないらしい」
戦死覚悟とは穏やかではないが現状を見れば大袈裟とは思えない。アイランズは四面楚歌の状態だ。周囲から叩かれまくってフラフラになっている。これがボクシングならとっくにレフェリーが試合を止めているだろう。
「アイランズも災難だな」
「已むを得ない、帝国との交渉の窓口はアイランズだった。例えトリューニヒトの言いなりでも責任は有るだろう」
政府は必死に弁明している。軍は政府の了承を得て帝国軍と交渉したのであり、政府が捕虜交換に消極的だったのではないと言っている。しかし実際に謝罪を拒んで交渉が一度決裂したのは事実だ。政府はそれも駆け引きの一部だと弁明しているが面子を守るために捕虜を見殺しにしたと非難されても仕方が無いところは有る。政府はあの放送は帝国の卑劣な罠で有り騙されてはいけないと言ってはいるが……。
「ヴァレンシュタインは冷酷非情な陰謀家、人の皮を被ったケダモノ、残虐な冷血漢か……」
「ネーミングセンスは今一つだな、大体今じゃ同盟政府がそう言われている。連中にヴァレンシュタインを非難など出来んだろう」
「同感だな」
ヴァレンシュタインを責めれば責めるほど自分達のとった行動の非道さが際立つ、そんな悪循環に政府は陥っている。
「反戦派は政府間交渉を纏めておけば帝国との間に新しい関係が結べた可能性が有ると言っているが……、ホアン、君はどう思う?」
私の問いかけにホアンが首を傾げた。ソーンダイクを中心とする反戦派はヴァレンシュタインが改革を進めている以上帝国を敵視すべきではない、むしろ彼との間に和を結ぶべきだと主張している。
確かに帝国では改革が急ピッチで進められているようだ。劣悪遺伝子排除法が廃法になった事は改革の象徴だろう。帝国は民主共和政ではないが上からの改革で開明的な国家になりつつある。政治評論家の中にはヴァレンシュタインを啓蒙政治家と評価する人間も出始めた。彼らは帝国との戦争は改革を否定しルドルフを肯定するに等しい行為だと言っている。
反戦派以外からも今は帝国との間に和を結んで戦力の整備に努めるべきだという意見が出ている。こちらは理性的な主戦派とでも言うべき存在だろう。そして彼らが口にするのはトリューニヒトは帝国に信頼されていない、同盟市民からも信頼されていない、政権を交代すべきだという意見だ。支持率が五十パーセントを切った以上無視は出来ない。政府は追い詰められている。
「難しいだろうな。今回の一件だが明らかに帝国は同盟を罠に嵌めたと私は考えている」
「と言うと?」
私が問い掛けるとホアンは一つ大きな息を吐いた
「交渉者のシャフハウゼン子爵だが自分の要求を言うだけで交渉力は皆無に等しかったと政府は言っている。だから政府は帝国側の真意が掴めず交渉に積極的に取り組めなかったと……。言い訳だと皆から非難されているがあながち嘘じゃないんじゃないかと思う」
「……」
「もちろん、同盟側に甘さが有った事は事実だ、交渉を同盟が打ち切った形になったのは何とも拙かった。非難されても已むを得ないんだがヴァレンシュタインはそういう風に持って行ったのだと思う。何とも狡猾なやり方だよ。同盟が内乱に介入した時からこれを狙っていたのだろう、強烈なしっぺ返しだ」
「……」
ホアンが顔を顰めた。
「彼は同盟との和平など望んでいないんじゃないかな。むしろこれ幸いと同盟を陥れ痛めつけたんじゃないかと思う」
「私も同感だ。出来る事なら帝国と和を結びたいと思うが……、ヴァレンシュタインが相手では難しいかもしれん」
「……」
ホアンが溜息を吐いている。私も出そうになったが慌てて堪えた。
帝国からの亡命者から聞くヴァレンシュタインの人物評は決して良くは無い。もちろん亡命者からの情報である以上追い出した人間を良く言う筈が無い。しかし多くの人間が冷酷非情で油断のならない陰謀家、野心家と彼を評しているのは根拠が無いとも思えない。現実に同盟はあの放送により酷い混乱に陥っているのだ。
そして帝国では彼の政敵の殆どが死んでいる。穏やかで誠実そうな外見の下に獰猛なまでの苛烈さと酷薄さを秘めていると見て良い。そして当代無双と称される軍才。今改革を進めているのも権力の地盤固めを狙った人気取りという事は十分に有るだろう。
「ホアン、私は彼が簒奪を考えているんじゃないかと思うんだが……」
私が話しかけるとホアンが頷いた。
「私も同意見だ。簒奪するには民衆の支持が要る。それを得るためには国家指導者としての成果が必要だ。内政面ではドラスティックな改革を、外政面では軍事的な大勝利を必要としているんじゃないかと見ている。今回の捕虜交換もそのためだろう」
「国内の権力基盤を固める間、同盟が国力を回復させるのを阻もうとした、そういう事か……」
「そういう事だ」
ホアンの顔色は良くない、多分私も同様だろう。同盟はとんでもない野心家を敵にしている。ヴァレンシュタインの狙いは同盟の征服だろう。国内が安定すれば必ず戦争を仕掛けてくるはずだ。
「ビュコック老人に聞いたのだが捕虜交換の所為で軍と政府の関係もおかしくなってきているそうだ。頭を痛めているよ」
「どういう事だ?」
「軍だけが良い子になっている、そういう事だ」
「なるほど」
私の答えにホアンが顔を顰めて頷いた。
ヴァレンシュタインは政府を非難する一方で軍の対応を称賛した。その所為で政府側には軍が自分だけ良い子になっている、都合の悪い部分は全て政府に押し付けている、そんな感情が有るらしい。もっとも軍側にとっては早く捕虜交換をして貰いたかったのに交渉を決裂させたのは政府なのだから軍を恨むのは筋違いだという思いが有る。ヴァレンシュタインは両者の間に亀裂を生じさせたのだ。着々と手を打ってきている、そして同盟は彼の打つ手に翻弄されている。
「頭が痛い問題は他にも有る」
「……」
「帰還兵達は軍に復帰しようとしない。三百万人の将兵の補充を目論んでいたのに復帰したのはほんの僅かだ、一万人にも満たない」
私の言葉にホアンがまた溜息を吐いた。
「三百万人の帰還兵というより三百万の反政府分子を抱え込んだようなものだな」
「その通りだ、連中は彼方此方でデモを行っている。危険なのは自分達は政府に、同盟市民に捨てられたと恨んでいる事だ。世論に押される形で出兵した、捕虜交換を反故にした事で連中は同盟市民に強い反感を持っている。政府だけではなく同盟市民に対しても不信を抱いている……」
「憂国騎士団も有るな……」
「ああ、それも有るな」
憂国騎士団、主戦派の跳ね上がり共の集団、バックにはトリューニヒトが居るともっぱらの噂の集団だ。デモ隊を非難し彼方此方で衝突している。互いに武装して流血沙汰を起こしているのだ。そして警察はデモ隊を取り締まるのには熱心だが憂国騎士団の取り締まりには消極的だ。デモ隊は国家が、同盟市民が自分達を排斥しようとしているのではないかと疑っている……。
「帰還兵だけじゃない、軍内部の将兵にも政府への不満は高まっている」
「本当か?」
「本当だ」
捕虜を切り捨てる様な政府のために誰が戦えるだろう。兵士達はヴァレンシュタインと自分達の指導者を比較し不満を感じている。政府には付いていけないと感じているのだ。私がその事を言うとホアンが“どうにもならんな”と言って顔を顰めた。
「かなり酷いのか?」
ホアンが気遣わしげな表情をしている。
「ビュコック司令長官は非常に危険視している」
「……」
「彼は兵卒上がりだ、それだけに前線で戦う将兵の気持ちは誰よりも分かっている。今の政府のために戦えと言っても兵士達は納得できないだろうと言っていたよ。彼はクーデターが起きる危険性をも指摘した……」
「なんて事だ……」
政府、軍、同盟市民、帰還兵、……それらが入り混じって反発しあっている。劣勢にある同盟が一つになる事が出来ず分裂しているのだ。このままでは帝国と戦う前に同盟内部で内乱が起きかねない。その時帝国は、いやヴァレンシュタインは一体どう動くか……。
「厄介な事になったな、レベロ」
「ああ、全くだ」
帝国暦 489年 3月 15日 オーディン ゼーアドラー(海鷲) オスカー・フォン・ロイエンタール
「最近賑やかだな」
ミッターマイヤーが店内を見回した。 ゼーアドラー(海鷲)の中は大勢の客で溢れている。
「帰還兵だろう。何年ぶりかに再会して旧交を温めている、そんな連中が多いそうだ」
ミッターマイヤーが“なるほど”と言ってもう一度店内を見回した。
「一カ月の休暇が与えられているのだがその前に軍への復帰願いを出す兵士が多いらしい」
「あの放送の影響かな?」
「だろうな、これまでの帝国なら捕虜を労う等無かったはずだ。最高司令官の言葉で多くの兵士達が最高司令官の指揮下で戦いたい、そう思ったようだ。帰還兵だけじゃないぞ、一般の兵士達もだ。最高司令官は自分達の事を考えてくれている、皆がそう思っている」
ミッターマイヤーが“そうだろうな”と言って頷いた。
「そう言えばエヴァが言っていたな。税が軽減された所為で買い物を楽しむ主婦が増えたらしい。皆暮らしが楽になったと言っているそうだ、以前はそんな余裕は無かったのにな」
「なるほど、改革の成果か」
「うむ」
最高司令官は帝国宰相に就任すると開明派、改革派と呼ばれる人間を集め政治改革を行い始めた。直接税、間接税の軽減、貴族達の特権の剥奪と平民達の権利の拡大。そして辺境星域の開発。これまで常に貴族に、政府に虐げられてきた平民達、中央から見捨てられてきた辺境星域がようやく脅える事無く生活できるようになってきた。
帝国は明らかに良い方向に動いている。動かしているのはヴァレンシュタイン最高司令官だ。彼に対する将兵の信頼は厚い、そして将兵以外の平民達も最高司令官を支持している。“改革者ヴァレンシュタイン”、“解放者ヴァレンシュタイン”、平民達にとって最高司令官は自分達の代表者で有り、庇護者なのだ。平民達が最高司令官を讃えるのは当然とも言える。
帝国の平民達は最高司令官がこのままずっと帝国を統治する事を望んでいる。それこそが自分達の生活を、権利を、繁栄を守る事だと理解しているのだ。エルウィン・ヨーゼフ二世が成人して親政を望んだとしても誰もそれを支持するまい。徐々に、徐々にだが帝国は皇帝の物から最高司令官の物になりつつある……。
簒奪か……、あの時、リヒテンラーデ侯が“簒奪など許さん”と叫んでいた。だが最高司令官は何の反応も示さなかった。むしろ俺やミッターマイヤーの方がどう受け取って良いか分からずオドオドしていただろう。最高司令官はそんな俺達を見て微かに苦笑していた、そして溜息を吐いた……。
今でも良く覚えている。まるで事態に付いていけずにいる俺達を憐れんでいるようだった。平民から皇帝か、ゴールデンバウムの血を持たない皇帝、フォンの称号を持たない皇帝……。外見からはそうは見えないが彼は誰よりも力の信奉者なのかもしれない。五百年に亘って続いたゴールデンバウム王朝の血を完全に否定した冷徹な実力主義者。
“力有る者が上に立つのは当然の事、例え貴族といえど力無き者は滅ぶしかない”、その言葉は貴族だけではなく皇族にも当てはまるのだろう。最高司令官にとって簒奪は既定路線なのだ、彼はその路線を気負いも覇気も見せずに平然と歩んでいる、至極当然の様に……。
俺とは違うと思わざるを得ない。不条理を不満に思っても俺には行動出来なかった。自らが皇帝になる等考えられなかったのだ。俺がもしグリンメルスハウゼン老人に選ばれたならどうしただろう、皇帝への道を歩めただろうか? それとも……。分からない、何度考えても答えが出てこない。だがそれは俺だけの事だろうか……。目の前でミッターマイヤーがグラスを口に運んでいる。訊いてみたいと思ったが訊けずにいる。これまでも訊けなかった、そしてこれからも訊けないのだろう。
だが皆一度は俺と同じ想いを抱いた筈だ。そして最高司令官が皇帝への道を歩み始めた事を分かっている筈だ。だが誰もその事を口にしない、ただ黙って見ているだけだ。いや見ているのではない、その後に続いている。それは彼が皇帝に相応しいと認めたから、そして自分が皇帝の器ではないと認めたからだろう。つまり俺達は臣下の道を歩き始めたのだ。
だがそれも悪くない、少なくともなんの能力も無い馬鹿共に仕えるよりもはるかにましだ。最高司令官なら俺達を十二分に使いこなしてくれるだろう。彼と共に新しい帝国を創る。そして俺達は何時か彼を“閣下”では無く“陛下”と呼ぶのだ……。
ページ上へ戻る