悪霊と付き合って3年が経ったので結婚を考えてます
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1年目
冬
冬①~恩と音~
大きく息を吸い込み、心の中に抱えた物をすべて吐き出すかのように声を出す。
「あー、あー、あー」
あたしはこうして月3回ほどボイストレーニングの教室に通っている。最初の頃と比べるとなんだか最近は声の調子が悪い気がする。
「もっと重心を下に落として!」
おそらく40、50代前後であろう男性の声は、低くはっきりとした音であたしの体をビリビリと揺さぶる。それを聞き、あたしは拳を握り締めるともう一度声を振り絞った。
「はい、今日はここまで! お疲れ様!」
ありがとうございました、と軽くお辞儀をし、額に浮かんだ汗をタオルで拭き取る。窓はさながら物がぶつかるようにガタガタと音を立てていた。
「山咲さん、最近調子よくなさそうだね。何か悪いものでも食べたのかな?」
そう言いながら、ボイストレーニング教室の先生は背後から私の肩に手を置いてくる。その顔は、先ほどのレッスンの時の厳しいものとは違い、にやりとした表情を浮かべていた。口元にある大きなほくろが、どこか下心を強調しているかのようにも見える。教え方の腕だけは素晴らしいのだが、そういったセクハラ紛いなことをしてくるのでこの先生は教室に通う他の女生徒からの評判もあまり良くないでいた。
あたしはその手を振り払うため、くるりと体を先生の方へ向ける。
「いえ、最近学校が忙しくて少し疲れているだけだと思います。今日もありがとうございました」
あたしは床に置いてあったカバンを持つと教室の出口まで行き、もう一度軽くお辞儀をすると教室を後にした。
あたしは何のためにこの教室に通っているのだろう。
“大学を出たら医者になる”そう決めているのに。
“最後に悔いが残らないため”そう思っているのは嘘ではない。
でもどこか、まだ夢にすがりついているのは自分でもわかっていた。
いっそ家を出てしまおうか。
そんな考えすら頭をめぐり、首をぶんぶんと振ってそれをかき消す。
育ててくれた両親には当たり前ながら恩がある。“恩と音”どちらか選べと言われればそんなの考えるまでもなかった。
「拓海には本当、悪いことしたなぁ…」
そう呟きながら、冷たく吹きつける風と聖夜へ向けてにぎやかになっていく街の中に身を投げた。
「ただいまー」
その声に反応したのか、バタバタと足音が聞こえてきた。
そして、エプロン姿の我が家の家政婦さんが台所から駆け寄ってくる。
きっと料理でもしていたのだろう、その長い髪は邪魔にならないよう頭の高い位置で1つに結ばれていた。
高尾さんがうちで働き始めてからもう5年か…。そんな姿もあたしは昔から見慣れている。
「おかえりなさいませ、お嬢様。今日は遅かったですね」
ボイストレーニング教室に通っていることはだれにも話していない。言えばやめさせられるのは目に見えているからだ。
「バイトだったんだよ。それと、お嬢様はやめてくれ、って言ってんだろ、高尾さん。ガラじゃねぇって」
それはできませんわ、と高尾さんはおっとりとした表情で頬に手を当て、ふふっと微笑んでみせた。
高尾さんはいつもこんな調子だ。下手したら親父よりも強情なのかもな。
そんなことを考えながら、はぁ、とため息をつき、あたしは自分の部屋へ向かおうと階段へと足をかける。そこで、あることを思い出し振り返った。
「今日、親父は?」
「旦那様は本日病院での会合があるとお聞きしております。奥さまはご自身のお部屋にいらっしゃるようですが、お呼びいたしましょうか?」
「いや、いいよ…」
師走って言うほどだ。この時期病院が忙しいのはわかりきっていたじゃないか。
「……、お嬢様。何かあるのでしたら私でよければ相談に乗りますからね……?」
何かを察したかのように心配した表情を浮かべ、あたしを見つめる瞳に少しドキッとする。
「い、いや、大丈夫だよ。いつもありがとう、高尾さん」
そう言いながら体を再び階段の方へ向けると、ほの暗い2階へ向けて足を踏みしめた。
うちは格段家族の仲が悪いわけではない。むしろあたしはとても過保護に育ってきた。見た目通りに頑固なところはあるが、親父はあたしのために必要なものなら何でもそろえてくれるし、お袋は優しそうな垂れ目とは裏腹に、少しケチなとこがたまに傷なだけで、あたしの女性特有の悩みなどもいつも真剣に聞いてくれる。
たまに家政婦さんが来ない日、あたしが料理を作ると二人とも満面の笑みで“美味しい”と言いながら食べてくれ、あたしはその二人の笑顔を見るのが大好きだった。
そんな家族だからこそ、期待は裏切れない。
歌手になりたいなんて言い出せるはずがない。
もし言ってしまえばそんな二人の笑顔が見られなくなるのではないか、と怖くて仕方なかった。
そんなことを考えながら自分の部屋へ入るとそのままベッドへと倒れ込んだ。そして、ベッドの上に一つだけ置いてあるお気に入りの少し大きなペンギンのぬいぐるみを手に取り、両手で自分の体の上へと持ち上げる。
「なぁ、お前はどうしたらいいと思う…?」
そう言うとあたしはそのぬいぐるみを強く抱きかかえた。
―――愛華!!!
下から呼ぶ声にあたしは飛び起きた。ベッドに倒れ込んだままあたしは寝てしまっていたらしい。
今の声は、親父…?
親父からあたしを呼び出すなんて珍しいこともあるもんだ。
そう思いながら、すぐ行く、とだけ返事をし、あたしは明るかった部屋の電気を消し、再びほの暗い廊下へと足を踏み出した。
リビングに入ると最近白髪も増えてきた親父の頭が見えた。その隣にはお袋の姿もある。病院で何か良くないことでもあったのだろうか。そんなことを考えながらあたしは二人に向かい合うように座った。親父に目を向けると、“への字口”した頑固そうな顔がいつもより厳しく思えた。
「愛華、お前今日帰るの遅かったそうじゃないか。どこに行ってたんだ?」
その言葉にドキッとする。
「き、今日は、バイトだったんだよ。ほら、駅前の…」
そこまで言った途端、親父があたしの言葉を遮るように口を開いた。
「嘘をつくな。お前、ボイストレーニングの教室に通ってたそうだな?」
あたしの目の前は一気に暗転した。
教室に通っていることは誰にも言ってない。いつも相談に乗ってくれるお袋にも、家政婦の高尾さんにも、それどころか学校の友達にすらしゃべったことはない。でもその時一人の名前が頭に浮かんだ。
―――拓海
以前あいつにはボイストレーニング教室に行っていることをうっかり喋ってしまっていた。
うっかり者のあいつだ……。どこかで口を滑らせて親父の耳に入ったのかも知れない。
裏切られたかもしれない、という気持ちが渦巻き、話し続ける親父の言葉はあたしの耳には届いていなかった。
そんな思いから唇を強く噛みしめると少しだけ血の味がした。
「実はな、夜勤で入った看護士が、ボイストレーニング教室から出てくるお前の姿を見たと言っていたんだ」
やっとあたしの耳に届いた親父の言葉に我に返った。
……あいつがそんなことするわけがないよな。
小さなころから拓海はあたしに何かあるとすぐ駆けつけ、守ってくれた。
そんな存在を疑ってしまったことが悔しくて仕方がなかった。
「大学を出たらうちを継ぐと言ったのはお前だろう。だから今やっているバンドのことも学生の趣味の範囲ならば、と許してやっていた。だが、私たちに黙ってまで他のことに現を抜かしているとなれば話が違う。お前があの時言った言葉は嘘だったのか?」
親父の声に俯いたまま、あたしはしばらく何も言えられないでいた。それからどうにか口を開くと“嘘じゃないです”と一言振り絞って答えた。
「ならば、教室もバンドもやめてしまいなさい。今は学生にとって、いや、医者になるものにとって大事な時期だ。今、何をすべきなのかしっかり考えなさい。」
反論してしまおうか。
そんなことを考えたがあたしにはそこまで言う力は残っていなかった。
はい、とだけ答えるとあたしはソファーから立ちあがりふらふらとリビングを出た。
後ろからは、そこまで言わなくても、とお袋の心配した声が上がっていたのだが、その声も、自分でドアを閉める音にかき消され、あたしの耳には届かなかった。
次の日、あたしはバンドをやめた。
後書き
こんばんにちは。ぽんすです。
冬編突入しましたー!
今の季節が冬なだけあって表現がしやすいように思えます。
俺んちめっちゃ寒いねん←
はてさて、冬①にして物語が大きく動きました。
この後どういう展開となるのか、楽しみにしていただければ嬉しいです。
ではでは!
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