魔狼の咆哮
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第三章その三
第三章その三
広いルームの奥から声が聞こえてきた。賞賛の数人の声とそれを受ける一人の声だった。若い男の声である。
「今回も素晴らしい出来栄えですね」
「ええ、まあ」
「あのコンクールに出展なさると聞いていますが」
「今は考えていません」
そういった受け答えが繰り返されている。六人がそちらへ目をやるとそこには数人の評論家や着飾った貴婦人、そして絵の主と思われる黒髪の長髪の青年がいた。
黒く波がかった髪を長く伸ばしている。それを後ろで束ねている。白い顔は肌も細かく整っている。鳶色をした眼は切れ長で何処か中性的な印象を与える。
細くいささか華奢な感じながら引き締まった鞭の様な長身は芸術家というよりは何か特別な訓練を受けた者のようである。その身体を黒と赤の派手な絹の服で包んでいる。
「シャルル=ド=シリアーノ画伯か」
長身の男を見て本郷が皮肉混じりに言った。
その言葉が耳に入ったのであろうか。シャルル、いやアンリの方もこちらへ目を向けてきた。
一瞬であったがアンリの目に憤怒と憎悪の光が宿り爆発した。その整った顔も見る見る歪んでいくように感じられた。
だがそれは一瞬であった。一行から視線を外し評論家や貴婦人達の方へ向き直った。
「まあ俺達なんぞより綺麗な奥様方に囲まれている方がいいよな」
本郷が軽口を叩いたその時だった。何者かが六人の脳裏に直接語り掛けて来た。
“よく俺の招待に乗ってくれた”
アンリの声だった。おそらく魔術で語り掛けているのだろう。
“このベルサイユで貴様等を特別に宴に招いてやる”
見ればアンリの身体からドス黒い気が発せられている。眼が不気味に光っていた。
“そりゃあどうも。で、どんな宴なんだい?”
本郷が尋ねた。
“魔界の素晴らしい宴だ。貴様等全てを生贄とする最高の宴だ”
アンリの声がくぐもった。哄笑が含まれていた。
“特にそこの日本人二人とシラノ、貴様等は念入りにもてなしてやる。楽しみにしていろ”
“それは楽しみですな”
役が受け答えた。
“しかし”
“?”
役の言葉は続いた。
“カレーさんに斬られた腕の方は大丈夫なんですか?”
“・・・・・・!”
その言葉はアンリの逆鱗を激しく刺激するのに十分言葉だった。
“おや、気分を害されたようで”
役は悪びれることもなく続けた。
“不覚にも失われたその腕、どうやら再生為された様ですが完全に傷は癒えたのですか。そうでなければ宴の意味が無くなりますよ”
“貴様・・・・・・”
アンリの声が震えていた。怒りでわなわなと震えていた。
“おや、大丈夫ですか。気持ちが高ぶっておいでですよ”
役は更に挑発してみせる。
“覚えていろ、貴様には特別に惨たらしい死を与えてやる”
“おやおや”
心の中で肩をすくめてみせた。
“おっと、私を忘れてもらっては困るな”
ここでカレーが入ってきた。
“アンリ、私がここへ来た意味がわかるな”
“ふん、何を今更”
二人は心の中で激しく火花を散らし始めた。顔はお互い別の方向を向き異なる相手と話しているにもかかわらず。
“誇り高きカレー家、偉大なる祖先フェンリルの名を汚す者、それ相応の償いをしてもらうぞ”
“戯言を。人狼の身体を持たぬ貴様が俺を倒そうというのか”
その言葉に対しカレーは不敵に笑った。
“それでは屋根上での続きをするか”
カレーの身体から発せられるドス黒い気が怒りの赤く燃え上がる気に変わった。
“外見よりずっと気の短い奴だな”
それを見た本郷が独語した。
“面白い、今度こそ貴様を切り刻んでくれよう”
一旦燃え上がった気を鎮めアンリは言った。
“貴様に出来るかな”
凄むアンリに臆することなくカレーは返した。
“ふん、その言葉そのまま返してやる”
アンリも負けてはいなかった。
“そうか。それでは宴の日時と場所を教えて欲しい”
“明後日の深夜零時、ベルサイユ宮殿だ。盛大な催しを用意してある。遅れることの無い様にな”
“ふん、今から楽しみにしておくぜ”
本郷が言った。これが最後の挨拶となった。一行は絵画展を後にし宿舎へと向かった。ロココ調の外観と内装の豪奢なホテルだった。
「それにしてもえらく辛辣な御言葉でしたね」
宿舎に入りその一室でカレーは役に対し先程のアンリに対する言葉について言った。
「別にそれ程きつい言葉を言ったつもりはありませんが」
それに対する役の言葉は存外にしれっとしたものだった。
「おや、そうですか」
カレーは僅かに苦笑して言った。
「まあいつもあんなもんですしね。いや、普段より柔らかいかな」
横にいた本郷が悪戯っぽく言った。
「役さんはこう見えてえらく皮肉屋でしてね。いつも俺に対して色々と意見を述べてくれるんですよ」
「おい、それでは私がまるでいつも嫌味ばかり言っているように聞こえるじゃないか」
「あれ、そうじゃなかったんですか」
少しムキになる役に対して本郷はおどけた口調で返した。
「それは君がいつもいい加減なことばかりしているからだ。それに私は普段は君に対してもこれといって何も言っていないぞ」
「それは嘘でしょう」
「おい、それは聞き捨てならないぞ」
二人のやり取りを他の者達は面白そうに見ていた。やがて中尉が口を開いた。
「ところで二人共ベルサイユ宮殿のことはご存知ですか」
「ええ、ルイ十四世が建てた宮殿ですよね」
「何でも完成するまで二百年程かかったとか」
二人はちょっとした喧嘩を止め中尉の整った顔へ向き直った。
「それでしたら話が早い。あの宮殿は完成まで相当の歳月をかけただけありかなり広大な宮殿でして」
中尉はある書類を取り出した。それは宮殿の間取り図だった。
「これは・・・かなり広いですね」
「今は美術館として使われていますが元々は王の為に造られたものですからね。それもあのルイ十四世の」
ルイ十四世は『太陽王』と呼ばれ芸術を愛し派手好きなことで知られる王であった。
「今はトイレは有りますよね」
「当然ですよ」
本郷の言葉に思わず吹き出しそうになった。この宮殿は設計ミスかトイレが少なくおまるで代用していた。もっともそれで宮殿に出入りし住まわせている者達全てにそのおまるが行き渡る筈はなくカーテンの裏や中庭で用を足していた。その為宮殿の内外は極めて臭かったらしい。
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