季節の変わり目
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塔矢先生
それは本当に突然のことだった。二階の自室で、いつものようにネット碁にログインしたら、すぐに対局承諾の画面が出てきた。相手のユーザー名を見てすぐに目が丸くなった。
「toya koyo・・・?」
塔矢さんの、お父さん。名前は何度も聞いたことがある。元五冠の、囲碁界の重鎮。まさか、と思いながらも、どくどくと耳のあたりが疼くのを感じる。著名人の名前を自分のユーザーネームにすることはよくあることだ、と決め込もうとしても、好奇心がそれを上回った。そして、対局条件に思わず「え」と声に出して驚いてしまった。
「持ち時間、二時間・・・?」
最後まで使わないにしても、少し長すぎるのではないかと少し不満に感じた。これでつまらない対局だったらどうしてくれるんだろう。でも。相手のユーザーネームを再度確認した。
「・・・」
何だか馬鹿な占いのようなものに引っ掛かった気分だ。持ち時間、二時間。互先。私が黒。とうとう、マウスを承諾のボタンに合わせて「カチ」とクリックした。
始まって間もなく、本人だ、と感じた。塔矢先生の気迫が画面越しでも伝わってくるような気がする。私が確実に地を稼ごうとする間に中央に地を求めてくる。むきになって応じようとするほど力の差で捻じ伏せられていく。塔矢先生が本気なのは最初から分かっていた。結局、自分が必死になって形成しようとした隅の陣地にも侵入されて、もう投了するしかない状況になった。そして私は静かに投了ボタンを押した。
「これが、塔矢先生・・・」
ヒカルや緒方先生、和谷と打つのとはまた違う。何年も積み重ねられた碁の経験が塔矢先生の碁を作り出している、そう思う。ヒカルが言っていた。「塔矢先生の碁は古くもあるし、若くもあるんだ。」ヒカルの言葉を、今理解できた気がする。塔矢先生は引退してからも、台湾や中国に行って腕を磨き続けている。若い芽を育てたり、旧友と打ったり、いろんな碁を、塔矢先生は取り入れて。ぼーっと焦点の合わない目で壁を見ていたら、パソコンの画面に何かが浮かんできたのに気づいた。
toya koyo:ありがとう。君とは一度打ってみたかった。
「え・・・ええ!?」
塔矢先生が、チャットしてきた。しかも、私を知っている?震える手でキーボードに打ち込んだ。
hujiwara:私の対局を見たことがあるんですか?
40秒ほどして返事が返ってきた。私は塔矢先生がキーボードを打つのに慣れていないのではないかと考えた。
toya koyo:緒方君に君のユーザー名を教えてもらったんだよ。私が知っているのは芦原君との対局だけだ。
緒方先生が・・・。そういえば、和谷が緒方先生に教えたと言っていた。自分の知らないところで事が進んでいるのが何か奇妙だった。
hujiwara:何で私と対局したいと思っていたんですか?
一番聞きたい質問だった。何故私なのか。塔矢先生にそう思ってもらえるのは心底嬉しい。しかし理由を知りたかった。
toya koyo:君の対局を見て、知らない所に強い者が潜んでいる、ということを改めて実感したからだよ。
hujiwara:知らない所?
toya koyo:私は以前saiという見ず知らずのネット碁のユーザーに負けたんだ。彼はプロでも何でもない。それからずっと私はsaiとの再戦を望んでいるんだよ。
sai・・・。緒方先生がぼやいていた。ネット碁に棲んでいた、とても、強い人・・・。それに、私の夢に、その人の名前が出てきた・・・。
hujiwara:なぜ再戦が叶わないんです?
toya koyo:私との対局以来、彼がネット碁に姿を現さないからだ。
hujiwara:先生はネット碁でしかsaiを知らないのですか
toya koyo:私は知らんよ。ただ、想像したことはある。
hujiwara:誰だと思ったんです?
toya koyo:進藤君だ。
ヒカル?saiがヒカル?私はsaiの強さなんて知らないけれど、塔矢先生を負かしたこともある人が、ヒカル?どうにも納得がいかなくてまたキーボードを叩いた。
hujiwara:なぜヒカルだと思ったんですか?saiは先生をも負かしたことがあると
toya koyo:進藤君と新初段シリーズで対局した時と同じ空気をsaiに感じた。それだけだよ。
同じ空気を感じただけで?たった今、塔矢先生と対局して威圧感を私も感じた。しかし、囲碁の強さは対局内容にあるのではないか?確かにヒカルはとても強い。でもヒカルが塔矢先生を負かすなんていうことは想像すらできなかった。
toya koyo:君とはネット碁以外でも対局したい。
思いもよらぬ塔矢先生からのメッセージにすぐに返事を返した。
hujiwara:はい、是非。
打ち込んだ後、ふと考えた。どうやって?塔矢さんに間に入ってもらって?それともこれはただの挨拶なのだろうか。悶々考え込んでいると画面に新しいメッセージが表示された。
toya koyo:息子に頼んでみるよ。
ただの挨拶ではなかったことに喜びが湧いて「お願いします」と返した。チャット画面を閉じてログアウトして、一息ついた。塔矢先生と対局できたことを改めて実感して、畏怖から肌が栗だった。
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