「レナ姫様、お芝居が始まるまであと一時間程ですが――」
一国の姫と騎士ダニエルはオレリア城の書斎にいた。置いてある本はどれも小難しいもので、分厚く重たい本ばかりだ。城の教育係の学者などいるが、彼らは姫がいようと構わず、各々本棚に向かっていた。
(レナ様は一体このような場所で何をお探しなのでしょうか……)
「いいからあなたは静かにしていて」
姫は視線を本に向けたまま、簡潔に一言だけ返す。ダニエルは何か気まずいのか何も言えず、返事すらできないようだった。
学者たちが調べ物をしているなか、姫はテーブルの上に図鑑よりも大きな本を広げていた。折りたたむように納められていたページを地図のように開いたそれは、建築の図面のようだ。
「これは以前のオレリア城の図面ね……でも現在の物は載ってない……でもどこかにあるはずだわ」何やら呟いている。
「おお……これは、レナ姫様ではありませんが」白髭を少しばかり伸ばした、小柄な学者が訪ねてきた。姫の目の前に現れた学者は、分厚い丸眼鏡の奥で瞳を輝かせている。
「二コラ先生! いらして下さったのですね! ……一年ぶりですね」
どうやら面識があるようで、姫は思わぬ来客に歓迎といった様子。
「もう一年もご無沙汰しておりました。16歳になられた姫様を黒い目で見ることができて、感慨深いですな」
老紳士は、被っていた帽子を手に取る。一年間を振り返り、思い出に浸りそうになったが、コホンと咳払いをして自らを律する。
「そんな事より。姫様がこのような場所に、一体何をお探しですかな? ……見たところ、城の図面をお探しのようですな」
「ええ。先生、どうしても現在の城の図面が必要なのです――でも、その理由はいえません」
(あの部屋の事を他言すれば、あの子が罰せられる――キャスリンは死罪だと言っていたわ……)
姫はとてもこの学者を頼りにしているようだった。
「現在の城の図面ですか……ここにはないでしょうな。なにしろ、間取りや地図などは重要機密になっておりますからな」
藁にもすがるような先程の勢いに伴い、姫の表情は輝きを失う。
「先生だったら何かご存知かと思って……」
「隣の、資料保管庫なら。もしかしたらあるやもしれません」
学者の感と知識による重要な手がかり。それを聞くと姫はすぐさま立ち上がった。
「ダニエル・アンダーソン」静かな声で、騎士の名を呼ぶ。
「は……はい!」置いてけぼりをくらっていた騎士は慌てて返事をする。5、6名の学者から白い眼を向けられていた事は知らずに。
「私は資料保管庫へ行ってくるわ。あなたはこの本を片付けるのをお願いね」
颯爽とその場から去る。大きな本が2・3冊程――それに一瞬目をやった後、ダニエルは敬礼する。
静かな室内にカシャン、と鎧の音。各々研究に集中していた学者とっては、耳障りだったことだろう。
「ダニエル君。書斎では静かにお願いしますね」
若い騎士は、老人にたしなめられる。鎧の騎士が本を片付ける間、しばらく書斎はピリピリとした空気に包まれていた。
「さて、ダニエル・アンダーソン君。君は急いで姫を追わなければ。それから姫様に、おいぼれが申していたとお伝えください――」
(えっ?)自分の使命に気付き、慌てるダニエルは一瞬振り向くがそのまま背中で聞いた。「わがままに生きるというのも、一つの道かもしれませんぞ。と」
それは自分に対する言葉のようにも聞こえた。
――
「あの……資料保管庫に用があるのですが……」
資料保管庫前の扉は、いかにも頭の固そうな兵士によって守られていた。「姫様であろうと、ここに立ち入って頂くわけにはいきません」
姫は困り果てた様子でそこに立ち尽くす。
(どうしたらいいのだろう……こんな時)
後ろからカシャンと音を立て、騎士が追いついてきた。
「姫様。そろそろ劇場に向かわれた方がよいかと……」姫の姿が確認できて一安心だが、確実に傍で護衛をしたいダニエルは、観劇を勧める。
「えぇ……そうね。ここにいても、私にはどうしようもできないみたい」姫は、何もできないという無力感と、何をしたらいいかわからないという絶望感に襲われていた。
「……やはり姫様は何か、ご心配を抱えていらっしゃるのですね? それが何かは存じませんが。でも――」騎士は姫の手をとる。
「そんな時こそ、姫様の好きなお芝居を見ませんか? 姫様の安全は、このダニエル・アンダーソンがお守り致します。わがままに生きる、そんな姫様を全力で守りたいと存じます」
少しキザなセリフをこの男は、至って真剣に申し上げる。
「ダニエル……ありが、とう」
姫はそんなダニエルを大きく開いた瞳で見つめる。良い意味で、姫にとって意外だった。姫の想いとは少しずれてはいるが。
「わがままなレナ様だろうと、私は……いや、皆はレナ様を愛しております」
姫よりも年上の青年は、頬を赤らめながら付け加える。「えっと……その、二コラ先生方がそうおっしゃっていたので」
姫は柔らかく微笑み、白いグローブの手で鋼の指先を包み込んだ。
「そうね。あなたの言うとおりだわ――お芝居を見に行きましょう」
しかしその微笑みは、悪戯な微笑みに変わった。姫は、足に絡みついてくる邪魔なドレスの裾を持ち上げた。ダニエルが気づいた時は既に、ヒールの靴で走り出していた。
「あっ! あの……っ!?」走るには動きづらい、鎧をまとった体で慌てて姫の後に続いた。
ゆるやかなカーブを描いた階段を、上品なドレスを着た少女と鎧の音が駆け降りる。
「姫様! 何をそんなにお急ぎになっているのです!」
まるで子供の追いかけっこでもしているかのような光景だった。騎士は歩調を緩めるよう懇願する。「私のお傍をお離れになっては危険です! 賊が紛れ込んでいることが万が一あれば」
(――万が一)階段の途中で、姫はようやく立ち止った。「……あれば?」そこから振り返り、ほんのすこしの間見えた、柔らかな微笑み。その微笑みは時を止めた。
「あなたが助けてくれるのでしょう?」
騎士の視線は自分に向けられた表情に、全てを奪われた。
「は……はいっ!」姫に返事をした時、すでに時は動いていた。「姫様~!」
(……元気になられたご様子だな)
ふわりと身軽に降りてゆく姫。鎧の青年はその姿から、結局片時も目を離すことが出来なかった。
――
劇場は王宮の一部となっており、一階席は一般人。そして二階席には王族の席が独立して中心――つまり劇を正面から見られるように設計されており、そこから貴族と来賓の席が左右に分かれて設計されていた。
一国の姫は青年の騎士を侍らせ、王族の席から観劇している。どこか浮かない表情をしており、心は別の場所に置き忘れたかのように無機質だ。どんなに明るく気丈に振る舞おうとも、一抹の不安と罪悪感――無力感に苛まれ、観劇を心から楽しむような心持ちにはなれなかった。
-第十四幕へ-