豹頭王異伝
しおりを利用するにはログインしてください。会員登録がまだの場合はこちらから。
ページ下へ移動
潮流
マリウスの歌
低い音程で始まった吟遊詩人の歌声、重苦しい響きは聴衆に異様な息苦しさを感じさせた。
イェライシャの意を受け上級魔道師ギール、下級魔道師ディノンとコームは念波を統合。
先達の老師が発信する鮮明な映像、キタイの記憶を脳裏に再現させ懸命に増幅。
幻術《イリュージョン》の精緻な映像、音響が数万を数える人々の心に直接波及する。
トパーズ色の瞳が光り、パロの魔道師達が凝固し何事かを一心に念じる様子を一瞥。
イェライシャに問い掛ける様な視線を投げ、穏やかな微笑を一瞥し無言を貫く。
幼子の脳裏に刻まれた魔都、闇と恐怖に支配された旧都の光景が聴衆の心に映る。
響き渡る歌が鮮明な記憶を呼び覚まし、ユー・メイの体験が再現された。
聴衆の脳裏に異国の都を蹂躙する魑魅魍魎、怪異の跳梁跋扈する悪夢の光景が鮮明に映る。
竜王ヤンダル・ゾックの率いる奇怪な爬虫類戦士、竜の門と称する怪物の軍勢と虐殺。
様々な異次元の妖魔が解き放たれ、古都ホータンの夜を駆け抜ける悪夢の情景。
グインと共に望星教団の弟136中隊に護衛され、生き残った少年少女が通り抜けた幽霊通り。
キタイの民が竜の門に虐殺される阿鼻叫喚の地獄絵図が再現され、人々は声を喪った。
様々な怪異が跳梁跋扈する夜の闇、竜の門に虐殺される人々の絶叫と悲鳴。
固く閉ざした瞼の奥に蹂躙される男女の絶叫が轟き、心の底まで鳴り響く。
不安と恐怖と絶望に重苦しく打ちひしがれ、疲れ果てた心の内部に闇が広がる。
闇に産み出された盲目的な怒り、不安と恐怖の感情が心を隅々まで浸蝕するが
更に鮮明な脳内映像、心象《イメージ》が精神の視野を走馬灯の様に駈け抜けた。
血を分けた実の妹を捜し求める兄、黒い小竜シャオロンの体験した記憶の連鎖反応。
レー・レン・レンの指導力を頼りとする青鱶党、レンファーが統率する清花団の少年少女達。
闇と恐怖に覆われた魔都の夜を、力を合わせ懸命に生き抜いた記憶が聴衆の心へ投影される。
凄絶な恐怖が齎す感情の大波、精神の奥底まで打ちのめす絶望の光景。
共に笑い共に泣いた仲間達が次々に惨殺され、貪り喰われて行く。
恐怖と闇に覆われたキタイ最大の都、ホータンの夜に展開される悪夢の数々。
友を餌食とする黒鬼団や赤衣党の悪党達を凌ぎ、足許にも及ばぬ竜の門が齎す凄絶な恐怖。
冷酷非情に獲物を屠殺する抹殺者、奇怪な爬虫類の如き容貌を晒す非人間的な虐殺者。
海の如く押し寄せる人々の群れを情け容赦無く斬り棄て、完璧に阻止する異形の怪物達。
竜の門が支配する異国の凄惨な現状が暴露され、深甚な心理的衝撃が聴衆を震撼させた。
想像を絶する情景が総ての感情を粉砕、完膚無きまでに打ち砕く。
『この門を潜る者、総ての希みを捨てよ』
キタイを蹂躙する闇の力、暗黒の人竜族を統べる冷酷王の心話音声が響き渡った。
明日への希望を持つ事も許さぬ異世界の種族、精神集合体の宣告が心を凍らせる。
闇黒の波動が精神を塗り潰し、多彩に煌く豊かな感情を悉く凍結させ尽くす。
不安、恐怖、利己主義、怨嗟、憤怒、妬み。
未練、憎悪、妄執、悔恨、卑怯、嫉み。
己の内部に存在する事を隠さずにはいられない、醜い感情達の集積物。
心の闇の正体、己が産み出した事を認めず否定せずにはいられない負の感情。
目を背けたくなる醜い感情、暗い心波の渦が湧き上がった。
精神的怪物《イド》が心の奥底に生じ、自己増殖を繰り返して心を隅々まで浸蝕する。
自分自身から隠す為に、自ら創造する自己弁護の心理と総てを糊塗する暗幕《カーテン》。
心の暗幕が発生する過程、隠している《もの》の正体が明らかにされる。
見る事を拒否された感情達は、心の外に出る事も叶わずに凍り付く。
消滅するのではなく、心の内部に存在し続ける。
心が、重くなる。
存在を否定された感情達の重みで、心が動けなくなる。
心が、閉ざされて行く。
絶望に染まりかけていた心に、マリウスの優しい歌声が語り掛けた。
君は、1人じゃない。
僕が、傍に居る。
僕は決して、君を見捨てはしない。
何時でも君の傍に、寄り添っている。
歌が、浸透する。
暗幕《カーテン》を透過して、温もりが伝わる。
氷が、少し、溶けた。
暖かい、歌声に。
氷が、少し、融ける。
凍り付いていた感情が、解ける。
感情が、甦る。
マリウスの歌声に癒され、過去の感情が昇華する。
氷が熔けた分だけ、重さが減る。
心の重さが減り、暗幕《カーテン》が揺らぐ。
歌が、浸透する。
揺らいだ暗幕《カーテン》を透過し、更に温もりが伝わる。
氷が更に溶け、感情が昇華する。
心が少し、軽くなる。
暗幕《カーテン》が、揺らぐ。
温もりが、伝わる。
氷が溶け、感情が昇華する。
心の重量《バランス》が、変化する。
暗闇の幕に、隙間が生じる。
隙間から、光が差し込む。
優しい歌声が光となり、隠されていた感情達に届く。
解凍、溶融、昇華。
凍結されていた感情達が、溢れ出す。
外へと、流れて行く。
心が更に、軽くなる。
闇色の幕が、翻る。
心の変化に耐え切れず、闇が揺らぐ。
光が、更に流れ込む。
闇が塗り固めた漆黒の拘束衣、心の幕《カーテン》の陰に。
光と温もりが、届く。
解凍、溶融、昇華。
存在を認められた感情達が、光に変換される。
絶望に染まった心を優しく包み、希望を保ち続ける勇気と活力を注ぎ込む歌。
マリウスの歌声が光となり絶対零度の凍気、冷酷な波動に覆われ凍り付いた心に響く。
歌の波動が恐怖と絶望の闇を照らし、精神を浄化する透明化現象の過程を励起。
カルラアの戦士に秘められた秘蹟の力が、心を黒く染める感情を解凍する。
心の内部から迸る感情が、外へと溢れ出す。
闇が、薄れる。
光が更に、流れ込む。
暗幕の奥に、闇の中に。
心地良い風が吹き、闇の衣が翻る。
何処からか暁の光が射し、漆黒の衣に覆われ隠されていた影に届く。
光を浴びた影が異なる形態へと変貌を遂げ、多彩な想念と豊穣な感情達が実体化する。
暖かい温もりに包まれ、氷の世界が溶け出していく。
遙か彼方で暁の風が舞い、不可思議な声が響く。
『貴方には全ての光と、全ての闇とを共に組み込んであります。
光のみの解答も、闇のみの道も、共に誤りだと知りなさい。
地上の闇ではなく、貴方の内に在る見果てぬ闇をこそ恐れなさい。
貴方は不安と恐怖を煽る他者の声、侵入者を見破り心の王国を管理する調整者。
心の裡に育まれる数多の感情達を護り、鍵を開ける刻を待ちなさい。
暁の光は常に、貴方と共に在るでしょう』
心が軽くなり、心が少し透き通る。
硬直していた心が、柔軟さを取り戻す。
マリウスの歌声が、流れる。
徐々に、徐々に。
力強く、響く。
耳に、体に、心に。
心が感情を溶かして行くにつれ、闇が薄れていく。
歌と共鳴して、封じ込められていた感情達が歓喜の声を響き渡らせる。
心の暗幕《カーテン》が不要となり、心の闇が確実に薄れて行く。
マリウスの歌声が光となり、心に差し込む。
光が心を照らし出すと同時に、心の暗幕《カーテン》が消える。
闇が晴れ、光が溢れる。
嘗て魔都ホータンの夜明け、朝の訪れを予告した即興の歌。
マリウスの歌声、希望を伝える歌を初めて聴いた子供達の様に。
何時しか聴く者、全てが涙を流していた。
吟遊詩人の歌を聴いていたのは、ケイロニア軍だけではなかった。
マルガの魔道師達も念波を増幅、己の想いを乗せ能力に応じ届く限りの心へ送信。
相乗共鳴効果が生じ、近隣の住民達にも鮮明な映像を投影。
心象《イメージ》と歌声は、人々の心に響き渡った。
イェライシャが送信したシャオロン、リー・レン・レンの記憶は不可思議な作用を励起。
魔道の心得を持たぬ人々の心に灯された希望の光は、夜空に瞬く星と同様に力弱くはあったが。
1粒の水滴が集い海へと注ぎ込む大河となる様に、寄り集まり想定外の効果を発揮。
不安に脅える人々の心に吟遊詩人マリウス、カルラアの戦士が奏でる希望の歌が響いた。
「ディーン様」
アルド・ナリスの死去に深い喪失感を覚え、心を蝕む絶望の闇に苛まれ戦線を離脱した従者。
サラミスに向け深い森と山中を騎行中の聖騎士伯、リギアが呟く。
アルシス王家の守護者、ルナン聖騎士侯の息女も直感的に悟った。
幼い頃から兄妹の様に育ってきた《弟》、アル・ディーンの歌。
ナリスが再会を願い続ける唯一の実弟、イシュトヴァーンに面影を重ねた半身の歌である事を。
もう戻る事は無いと思っていた傷心の地、マルガを振り返る。
聖騎士伯リギアの分身、愛馬マリンカが走り出した。
ダネインへ向け南下中の剽悍な草原の民、グル族の戦士達にも歌は届いた。
太子様は、1人じゃない。
私が傍に居る、私は何時でも太子様と一緒。
愛する人の心に常に寄り添い、私は太子様を護り続ける。
草原を吹き渡る透明な風の声、運命の女が遺した《想い》を歌声が支援《フォロー》。
死者の残留思念が生者に届き、心の奥底に沁み込んだ。
(リー・ファ、其処に居たか)
草原の鷹、スカールの眼が霞む。
「石の都の民にも、素晴らしい歌い手がいるのだな。
草原の信義を踏み躙る輩など1人残らず、くたばってしまえと思っていたが。
気が変わった、今の歌に免じ今一度だけ助けてやる。
マルガに引き返す、夜が明けぬ内に離宮へ入るぞ!」
「ウラー!!」
一度は完全に決裂した義を弁えぬ男を援ける為、2度と足を踏み入れぬと誓った石の都へ。
スカールが馬首を返すと草原の戦士、グル族と愛馬達も一斉に疾風と化した。
後書き
マリウスの歌は、外伝『鬼面の塔』に描写されています。
投稿後、何度か書き直している内にイメージが膨らみました。
心話で歌が放送され、パロ全土に拡がるイメージは『レンズの子ら』参照。
両銀河系に散在する第1段階レンズマン全員と精神を同調させるアリシア人から連想しました。
ページ上へ戻る