至誠一貫
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第一部
第四章 ~魏郡太守篇~
四十 ~愛の狭間~
翌朝。
唇に触れる、柔らかな感触。
夢にしては妙に現実的なそれで、目が覚めた。
「ふふ、おはようございます」
「……愛紗か」
「はい。熟睡しておられたようですね」
優しく微笑む愛紗。
「疲れが出たか。私も若くはない、という事だろうな」
「そんな事はないかと。昨夜も……その、あんなに激しく愛していただきましたし」
相変わらず、愛紗の初々しさは変わらぬな。
愛おしくなり、そっと抱き寄せる。
「ご、ご主人様?」
「かなりの間、寂しい思いをさせた。改めて、相済まぬ」
「い、いえっ! ご主人様にはお考えあっての事。我らはご主人様を信じて……それから、お慕い申し上げておりますから」
「ああ。私も、皆を心から頼りにしている。……そして、大切に思っている」
「ご主人様……」
眼を閉じた愛紗に、顔を寄せる。
「ん……」
唇を重ね、舌を割り入れた。
互いに舌を絡め合い、唾液を交換し合う。
「ぷはっ!」
「ふう……」
二人の間を、銀色の細い糸が繋ぎ、そして切れた。
「ふっ、愛紗も積極的になってきたものだな」
「……ご主人様がいけないのです。私をこのようにしたのは、あなた様なのですから」
膨れてみせるが、まるで迫力がない。
美髯公ならぬ美髪公も、私の前ではこのように、素顔を晒してくれる。
このままこうしていたいが、そうもいくまい。
今の私は、この魏郡を預かる太守、それを忘れる訳にはいかぬからな。
執務室に出向くと、元皓(田豊)らが待っていた。
「太守様、おはようございます」
「おっす。今日はゆっくりだね、旦那」
「おはよう。待たせたようだな」
「い、いえ、そんな事はありません。嵐(沮授)、どうして君は一言多いんだ?」
「だって、おいら達、半刻は待ってるぞ?」
「でも、太守様に向かって……」
口論が始まりそうだ、その前に詫びておくか。
「済まぬ。元皓、待たせた私が悪いのだ。その辺にしておけ」
「全くだよ。いい、おいら達だって暇じゃないんだから、明日からしっかり頼むよ、旦那?」
「……善処しよう」
それから、内政面や人事面での打ち合わせとなる。
二人が様々な意見や提案を行い、私が疑問に思うところを挙げていく。
途中で稟と風、それに若手の文官数名が加わり、なかなか白熱したものとなった。
昼近く。
先ほどの議論を元に、施策の骨格作りを行っていた私は、一息入れようと筆を置いた。
局中法度を定めたのも確かに私だが……これではまるで、土佐の坂本だな。
「歳三殿、失礼します」
そこに、疾風(徐晃)が姿を見せた。
「ご報告申し上げます。宜しいですか?」
「構わぬ」
我らの情報収集は、全て疾風次第。
そして、その報告は一件たりとも誤りのない、正確なものばかりだ。
「はっ。袁紹殿の件、その後判明した事を持って参りました」
「そうか。皆を、集めた方が良いか?」
「いえ。まずは、歳三殿にお伝えしたいと思います。……お人払いを」
ふむ、余人には聞かれたくない話、という事か。
「良かろう。皆、外してくれ」
「はっ」
執務室にいた、数人の文官が一礼し、退出して行く。
「さて、これで良いか?」
「はい、ありがとうございます」
疾風は、それでも辺りを見回し、声を潜めた。
「……あまり、良からぬ知らせか?」
「……はい。まず、先の戦い、袁紹軍は行軍を隠そうともしなかった割には、黒山賊との戦いには加わりませんでした」
「……うむ」
やはり、何度思い返しても、あの行動は不自然である。
あの装備では存在を秘匿するのは困難……という事を差し引いても、全く意図がわからぬままである。
「一つは、我が軍の実力を確かめるという目的があったようです」
「ほう? それは、都で私が理不尽な要求を突っぱねたからか?」
「いえ、あれは計算ずくのものではなく、袁紹殿の思いつきに等しいものだったようです」
……思いつきで、他人の一生を左右されては困るのだがな。
「では、他に理由があった筈だ。それはどうなのだ?」
「……それなのですが」
と、疾風は顔を強張らせた。
「どうやら、袁紹殿は渤海郡太守で収まるつもりはなく、冀州牧を狙っている模様なのです」
「州牧?」
「そうです。刺史はご承知の通り、兵権を持ちません。ですが、黄巾党の終息後も、各地で反乱や賊の動きが沈静化する気配はありません。現状は、刺史も郡太守も、己の才覚で兵を集めるよりありません」
「うむ」
「ですが、それは現状に即しているとは言い難い有様です。そこで、兵権を併せ持つ地方長官として、新たに州牧を設けるという動きがあるようです」
朝廷も、漸く現実を見始めた、というところか。
恐らくは、華琳や睡蓮らにとっては、待ち望んでいた話であろう。
野心と実力を備えた者にとって、その地で更なる力を持つ切欠となる筈だ。
……だが、あの袁紹が冀州牧になれば、もはや対岸の火事では済まぬ。
「袁紹が、州牧を欲するのは何故か?」
「歳三様もご承知の通り、袁紹殿は名家としてのご自身を、人一倍誇示したがる御方です。宦官共と相容れぬのは当然ですが、外戚である何進殿とも折り合いが悪いようです」
「それは、何進殿が卑賤の出にも関わらず、要職の身にある故……そうだな?」
「その通りです。ただ、都にて今、袁紹殿が出世を遂げるのは、如何に名家とは申せ至難の業です」
「そこで、州牧に眼を付けた、か」
疾風は、小さく頷いた。
「冀州は、洛陽にも近く、土地も豊かです。渤海郡太守を切欠として、狙いを定めたのかと」
「そして、力を蓄えて、要職の座を伺う……そう言う筋書きだな」
「……それから、今一つ」
「む? まだあるのか?」
「はい。袁紹殿と曹操殿が、因縁の間柄、という事もあると見ています」
華琳は、エン州刺史に任ぜられた。
となれば、華琳に対抗意識を燃やす袁紹としては、同格ではなく、更に強大な権限を持つ州牧を、と考えても不思議はない。
「……だが、わからぬな。黒山賊の一件での奴らの態度、あれは、何と見る?」
「推測ですが、既に冀州に勢力を築いている事を見せつけ、我らを牽制するつもりだったのではないかと」
袁紹が、冀州牧を狙う理由はわかる。
……だが、その為の手回しの良さ、これが気がかりだ。
袁紹本人は無論だが、顔良や文醜には、このように策を講じる事は出来まい。
「疾風。袁紹か、若しくは袁紹の預かり知らぬ場所で、画策する者がいるな」
「ええ。それも、ただの策士ではないでしょう」
「その者を突き止めよ。袁紹が州牧の座を手にしてからでは、手の打ちようがなくなる」
「御意!」
兵権を持つ州牧となれば、刺史と郡太守のような、曖昧な関係ではなくなるだろう。
無論、郡太守は実質州牧に取り込まれる……そう見た方が良い。
いずれにせよ、早急に対策を講じる必要があるな。
「疾風、ご苦労だった。お前でなければ、これだけの事を調べ上げるのは不可能だ」
「い、いえ。私は武骨者、こんな事でしか歳三殿のお役には立てませぬ」
「何を言うか。私は、本心から感謝しているのだ」
「……ありがとうございます」
疾風が、ふと上目遣いになった。
「む? 如何致した?」
「……あの。歳三殿、先ほどのお言葉、嘘ではありませぬな?」
「何を言うのだ? このような事、偽りで言う私と思っているのか?」
「……いえ。ならば、お願いがございます」
珍しいな、疾風から願いとは。
だが、疾風の事だ、無理難題は申さぬだろう。
「良いだろう。言ってみるがいい」
「……で、では。今宵、お側に……」
「…………」
「は、はしたない女と、お思いですか……?」
よほど思い詰めていたのか、いつになく疾風は真剣な眼差しだ。
「いや。だが、唐突だな。何があった?」
ふう、と大きく息を吐いた。
「歳三殿は、皆の前で申されました。全員を等しく愛して下さる、と」
「確かに申したな。今も、その気持ちに変わりはない」
「……はい。ですが、私は不器用。本当に、歳三殿に想いを伝えきれているか。……不安なのです」
一笑に付す事も出来る。
少なくとも、私は疾風を受け入れたのは、その想いが真摯だったからだ。
誰一人として欠かせぬ仲間だが、見境なしに手を出すつもりもなく、また相手が望まぬ限り、男女の仲を強いるつもりもない。
疾風も、それはわかっている筈……そう、思っていた。
「私は、皆のように素直になったり、甘えたりも出来ませぬ。……今朝の、そ、その……」
見ていたか。
後ろめたき事は何一つないが、疾風なりに思い詰めてしまったようだ。
「疾風。思い違いを致すな」
「……え?」
「相手を求めるのに、決まりなどない。疾風の気持ちは、嘘偽りなどないのであろう?」
「無論です。……歳三殿にこの身を預けた事、後悔など、微塵もありませぬ。寧ろ、感謝の念ばかりです」
「ならば、その想い、自ら確かめてみるがいい。今宵は、共に過ごそうぞ」
「あ、ありがとうございます!」
しかし、疾風の事……理解していたつもりだったが。
ふ、私もまだまだだな。
昼過ぎ、星を伴い、市中を見回った。
「思いの外、混乱はないようだな」
「そうですな。主が、情報を早めに流したのが効いたようです」
「情報を如何に活用するか。その重要性に気づかぬ輩が、存外多い。正確な情報を間を置かずに入手出来れば、人は安心する。逆に隠蔽したり虚偽ばかりすれば、信用を失い不安を煽る。少なくとも、味方に対しては前者でありたいものだからな」
「はっ。それに、前途に絶望していた庶人が、希望を取り戻したという話も来ておりますぞ」
飢える者に対し、炊き出しを行うと共に、城壁や道路の修復事業を初め、働き口のない者に職を与える。
それを今朝から始めた結果、すぐさま効果が表れたらしい。
無論、これだけでは一時凌ぎに過ぎぬが、まずきっかけを与える事。
万が一、効果が期待ほど得られぬならば、次の手を打つ。
手をこまねいているよりは、まず行動。
……幕府の要職にあるご歴々を見ていて、痛感した事でもある。
「農地の様子も見ておかねばなるまいな。糧食の蓄えが無限にある訳ではなく、税の徴収を免除は出来ぬ以上、そこを再建しない限り、焼け石に水だ」
「酒も、畑が荒れていては飲めませぬからな。美味い酒に美味いメンマ……それも、食が不自由なければこそ、楽しめるものですからな」
「星の場合は、その二つだけあれば良いのではないのか?」
「……主。私を何だとお思いなので?」
事実を指摘しただけなのだが、星は不服そうだ。
「あの……」
不意に、声をかけられた。
歳の頃は、鈴々と同じぐらいであろうか。
亜麻色の髪を、短く切り揃えた少女が、私を見上げている。
「私に何か?」
「はい。……あの、太守さん、ですよね?」
「うむ。確かに私は土方だが?」
すると、少女は勢いよく、頭を下げた。
「ありがとうございました!」
「主。何かなさったのですかな?」
星にそう言われても、心当たりはない。
「済まぬが、礼を言われるような真似をした覚えがないのだが」
「あ……。ですよね……」
不意に、少女は落ち込む。
「主……。本当に、ご存じない、と?」
「何を怒っている。私が、そんな輩だと思っているのか?」
「そうではござらん。ですが、人違いでもありますまい」
「ならば、本人に確かめれば良いだけであろうが。ところで、名は?」
「あ、も、申し遅れました。わ、わたしは徐庶、字を元直と申しますっ!」
「徐庶……確かか?」
「ひっ!」
徐庶と名乗る少女は、ビクッと身を竦めた。
「怯えているではありませぬか」
「い、いえ……。そ、その、すみません……」
徐庶と言えば……あの徐庶しかおらぬであろう。
だが、どう見ても剣の遣い手には見えぬ。
……とは申せ、外見だけで判断がつかぬのがこの世界でもあるのだが。
「一つ、尋ねたい」
「は、はい! な、何でしょうか?」
「司馬徽門下の徐庶、で相違ないか?」
私の言葉に、徐庶の顔が驚愕に変わる。
「ど、どうしてそれをご存じなんですか?」
「……悪いが、それには答えられん。それよりも、礼の訳を知りたい」
「そ、そうですね。……太守さんに、助けていただきましたから」
何処の話か……。
この世界に来てより、救えた命も少なくはない。
……無論、そうでない命の方が、圧倒的に多いのだが。
「え、ええと……。先日、その……」
赤くなる徐庶。
「主……。一体、この娘に何をなさったので?」
「いい加減にせぬか、星。徐庶、言い辛いのであれば、無理にとは申さぬ」
「いえっ!……わたし、郭図の屋敷にいたんです」
「……では、郭図に拉致されていたのか」
「……はい。旅の道中、このギョウに立ち寄ったのですが……」
だが、妙だな。
「徐庶。お前は、撃剣の遣い手ではないのか?」
「ええっ! そんな事までご存じなのですか?」
「私の事は良い。それで、どうなのだ?」
「え、ええ。確かにわたしは、普段は剣を帯びています。……ただ、お風呂をいただいている最中に襲われてしまって」
「何と……。女の入浴時を狙うなど、卑劣にも程がある」
星が、珍しく憤怒を露わにする。
「それで、郭図に……か」
「はい……。ただ、わたし自身は、太守さんのお陰で穢されずに済みましたが……」
そう言って、徐庶は目を伏せる。
あの蔵の中では、夜な夜な郭図による陵辱が繰り広げられていたらしい。
拐かした女子《おなご》を鎖で繋ぎ、その眼前で別の女子を。
それを繰り返す事で諦めを覚えさせ、意のままに……という事だ。
「何処までも腐りきった奴ですな……あの男は」
「ああ。だが、奴はもう処罰を受けている。あのような目に遭う事は二度とあるまい」
「……そ、それと……」
「まだ何かあるのか?」
「このお礼もあります……」
耳まで真っ赤になりながら、徐庶が差し出したもの。
「これは……主の羽織ではありませぬか」
「……そうか。あの時の少女は、お前であったのか」
「……はい」
蔵に踏み込んだ時、何人もの少女が裸体のまま、囚われていた。
見かねて、手近にいた一人に、この羽織を着せた覚えがある。
「これ、きちんとお洗濯してありますから。……本当に、ありがとうございました」
「うむ。ところでお前は、これからどうする?」
「え?」
「旅の道中である事は聞いた。再び、旅に出るつもりか?」
「…………」
徐庶は、少し考えてから、
「……太守さん。お願いがあります」
「私に?」
「はい。わたしを、使って下さいませんか?」
そう言って、頭を下げる。
「仕官する、という事か?」
「はいっ!……わたしの事、ご存じみたいですけど……これでも、軍師として一通りの事は、学んできたつもりです。きっと、太守さんのお役に立てるかと」
徐庶の眼は、真剣そのものだ。
「司馬徽門下であれば、私ならずとももっと大身の許に仕官も適うであろう。それに旅とは、仕えるべき者を探すものではないのか?」
「仰る通り、旅をしながら、このわたしを役立てて貰える方を探していました。わたしは、自分の栄華は求めていません。既に身分のある方かどうかは関係なく、徳と、仁を備えた方にこそ、お仕えしたい、そう思っているんです。太守さんは、少なくともわたしが探し求めていた方、そう確信しています」
「本当に良いのか? 私が、お前の理想とする者かどうか、見定めるには性急に過ぎるやも知れぬぞ?」
「いいえ。太守さんの事、いろいろと調べさせていただきました。……不思議な方ですけど、わたしの求めていた方でもあるって。ただ、いきなり仕官を求めても断られるかも知れない……だから、今日はお礼だけのつもりだったんです」
その言葉に、嘘は感じられぬ。
「唐突で失礼なのは承知しています。でも、どうか。お願いします!」
ただ、必死である。
「ふむ。主、如何なさいますか?」
「星はどうなのだ?」
「主のお決めになる事、私はただ従うまでです。ですが、この者の言葉、真のものかと」
「……よし。いいだろう」
すると徐庶は、いきなり抱き付いてきた。
「ありがとうございます!」
「こ、これ。落ち着かぬか」
「……あ。す、すみません!」
慌てて飛び退き、何度も頭を下げた。
「ともあれ、城中に明日、参るが良い。皆にもそこで引き合わせる」
「はいっ! よろしくお願いしますっ!」
勢いよく駆けだしていく徐庶。
……しかし、あの徐庶までもが、私の許に集うとは……。
「……主。一つ、お尋ねしますが」
「何だ?」
「……その羽織、あの少女に着せたとか。一糸纏わぬ姿だったのですな?」
「そうだ。そのままにしてはおけまい?」
「……よもや、あの少女に懸想しただけではありますまいな? 他にも、拐かされた少女はいたと聞いておりますが」
「埒もない。偶さかの事だ」
「ならば。今宵、それを確かめさせていただきますぞ」
「……どういう意味か?」
「さて。では私は、準備があります故」
そう言って、星は駆けていく。
……何を言いたいのかわからぬつもりはないが、今宵は……。
そして。
部屋の前で、二人は見事に鉢合わせ。
「せ、星? 何故ここに?」
「おや、疾風ではないか。お主こそ、如何致したのだ?」
「こ、今宵は歳三殿と共に過ごすと。そう、約束をいただいたのだ」
と、二人がそのまま、部屋に入ってくる。
「ほう? 主、これはどういう事にござりますかな?」
ずい、と星が迫ってくる。
「どうもこうもあるまい。お前が話も聞かずに立ち去るからであろうが」
「では、今伺いましょう。主、どうなさるおつもりか?」
「…………」
星は、一歩も引くつもりはないようだ。
だが、疾風もまた、一大決心で言い出した事、今更後には引くまい。
「……仕方あるまい。二人とも、参れ」
「それは、どちらも選ばぬ、という理解で宜しいか?」
「歳三殿……」
「この状況で、一方を選べば一方が傷つこう。私には、そのような無粋な真似は出来ぬ」
「……はっはっは。主、私の負けですな」
「歳三殿。そ、その……」
そんな二人を、抱き締める。
交互に口づけし、そのまま臥所へと向かった。
「主……。お慕い申しておりますぞ……」
「歳三殿……。離れませぬ、ずっと……」
二人とも、寝顔は安らかであった。
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