ソードアート・オンライン ~無刀の冒険者~
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マザーズロザリオ編
episode4 曇天
現れたのは、俺とほぼ同じ背丈……つまりは百八十を超える長身の男。四角い眼鏡の似合う細面の顔をした白衣の医者は、蒼夜伯母さんに仕える十人を超える『神月』の中でもその筆頭を務める男……リュウさんだろう。俺も会うのは初めてだが、聞くところによるとなんと蒼夜さんに仕えることが決まって以来すぐさま猛勉強して、翌春この国最高峰の医学部に入るという荒業を成し遂げたという、当代『神月』きっての天才児。
「そーゆーことだから。私の名前で調べといて」
「畏まりました。一時間もすれば調べられますので、お待ちください」
一礼して、顔は伏せ気味にしたままこちらも……蒼夜伯母さんの方さえも一切見ることなく、リュウさんは去っていった。俺が到底調べられないだろう幾重にも保護のかかった個人情報の山を、一時間。なるほど天才児というのは誇張ではないらしい。
(……ちらりとも、見なかったな)
敢えて違和感を挙げるなら、牡丹さんや仔虎さんといった他の『神月』にはあったもの……ありていに言えば、「主人に対する敬意」の様なものが一切感じられなかった、くらいか。敬語もおざなりなもので、あたかも二人の関係が「主人と従者」ではなく、「パートナー」であるかのように。蒼夜伯母さんもそのことを気にする様子は一切ない。
(こういう、関係なんだろうな……)
蒼夜伯母さんらしいと言えば、とてもらしい。
言葉や物腰では無い、純粋な実力のみを評価する関係。
「……これで用は済んだんでしょ? さっさと仮眠室から出なさい。美しいお姉さまの寝顔を拝めるなんて思ってるならぶっ殺すわよ」
「……第三仮眠室を使うといい。調べあがったら持っていこう」
二人の言葉に、頷いて席をはずす。
蒼夜さんに背を向けて。
(……ッしっ!)
俺は心の中で、小さくガッツポーズをした。
それがパンドラの箱であることを、全く知りもしないで。
◆
深夜に病院を出た時、外は、曇天だった。
重く濁ったその暗い雲を、俺は好きでは無かった。
こんな天気の時は、決まって『よくないこと』が起きるからだ。
けれども。
「……大丈夫ですか?」
「……」
「……訂正いたします。……今は考えられない方が、よろしいかと」
まさか、ここまでとは。
手に握られた数枚の紙に書かれた、数人の入院患者。その一番上の紙に書かれた、赤丸のついた一人。名前や状況からみるに高確率で……いや、間違いなく、『絶剣』ユウキの、正体。そこに書かれていた、彼女の過酷な……過酷すぎる、現状。
俺なんかが行ったところで、何一つ出来ることのない、その世界。
「……っっ」
「……主人。手の力を抜いてください。爪が食い込んでいます…」
とうとうポツポツと雨の降り始めた空を仰いで、睨みつける。
神様ってやつがいるなら、俺は声の限りに非難したろう。不平等だと叫んだろう。
俺は殺されたっていいから、代わりに彼女を助けてくれと懇願しただろう。
だが、そんな都合のいい存在なんて、どこにもいやしなかった。
「……っ」
俯いて、雨を見もせずに一歩踏み出す。
出来過ぎた従者の牡丹さんが、俺が濡れないようにと傘をさす。彼女が寄り添うように、しかし俺を気遣って肩の触れない距離を保って歩む。俺の方ばかりに傘を寄せるせいで、彼女の逆の肩はもうびしょ濡れだった。
「……帰りましょう。今日はもう、休みましょう」
その気遣いにすら、苛立ちを覚える。
今更俺が休んだところで、ユウキの病状が安定する訳でもないし、ましてや彼女に笑顔が戻るわけでもない。むしろ俺が休むことは、勝ち目のない戦いを今も続ける彼女に対する酷い裏切りではないかとすら思えた。
「……牡丹さん。行くところがあるので、先に帰っていて貰えませんか?」
分かっている。この苛立ちが、単なる八つ当たりだということに。
それでも、こうでもしないと、俺は壊れてしまいそうだった。
「お送りいたします。どこに行かれるのでしょう?」
「……『四神守』の名において命ずる。我が従者、『神月』。先に、帰れ」
「畏まりました。我が主人の命ずるままに」
彼女の、例の『スイッチ』すら使っての、暴言。
その暴言に、彼女が頷く。
この「命令」をしてしまえば、彼女は逆らえない。
それは彼女の存在意義であり、存在証明なのだから。
その決定を覆すことは、彼女には不可能だ。
不可能、なのに。
「……」
……しかし、精一杯の抵抗なのか、傘を無理矢理に俺の手に押しつけてきた。
勿論、俺はここに来るのにもともと傘など持って来ていない。
牡丹さんの用意してくれたものだ。強くなり始める雨が、彼女を叩く。
「……」
俺は。
「……っ……」
その傘を、三歩も持ち続けることが出来ずに、取り落としてしまった。
拾うことすらせずに、そのままふらふらと歩いていく。
そんな俺を、牡丹さんは深く一礼して、濡れたまま見送ってくれていた。
◆
深夜の街を、俺は濡れながら歩いた。
こんな馬鹿なことをするなど俺には一生縁がないと思っていたが、そうでもなかったらしい。
当然、行くあてなど無かった。
ただただ、何も考えずに、自分の体を痛めつけていたかった。
少しでも、ユウキの苦しみを、肩替り出来ないかと。
――― ヴヴヴヴ、ヴヴヴヴ。
携帯が震えたのはそんな状況でどれほど歩いたか、もう分からなくなった頃だった。
停止した思考のまま、画面を見つめる。表示されているのは。
「……エ、ギル……?」
ただ、その音を止めるために、携帯を耳元に当てる。
そこまでして初めて、もう時間が深夜を回っていることを知った。
『シドか? こんな時間にスマン。お前は、雑誌の記者の仕事をしているんだよな? ちょっと聞きたいことがあっ、たん、だが……』
「…………」
『……どうした? なにか、あった、のか?』
「……いや、何でもない。どうした?」
えらく慌てた様子のエギルの声が、徐々に徐々に、落ち着いて……いや、重くなっていく。
「……どうした? 俺に、……用事が、あるんだろ?」
『今、何処にいる? 御徒町の近くか?』
「……あ、ああ? ……っと……」
言われて、あたりを見回して、自分が雨の中かなりの距離を歩いていた事に気付いた。
蒼夜伯母さんが院長を務める病院はもう影すら見えず、周りには見覚えのある建物がいくつか見える。そこから考えるに、俺がSAOから帰ってきてすぐに運動がわりに散歩していた道のようだ。ということは。
「……近いな」
『分かった。ダイシー・カフェに来い。すぐに、だ。必ず、来るんだぞ』
エギルはすぐさまそう言って、それで俺の返事を待たずに電話を切った。
いや、返事を待たなかった、というよりも、「返事をさせなかった」というのが正しいか。
「ダイシー・カフェ、か……」
とても俺は、行く様な気分にはならなかった。
けれども、「必ず来い」とまで言われてしまえば、行かないのも悪いか。
鈍りきった思考のまま、俺は放りだすように足を行きつけの店へと向けた。
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