剣の丘に花は咲く
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第九章 双月の舞踏会
第八話 タバサ
前書き
士郎VSタバサ
苦しみと悲しみから流れていた涙は、言葉にならない喜びを伝えるためのものへと変わり。
ぼろぼろと涙を零しながら微笑んでいたアンリエッタは、今はただ黙って士郎と寄り添いながら星を見上げていた。
士郎の腕を両手で包み込むように抱き、頬を寄せ、ただ月と星に満ちた空を見上げるだけ。
ホールの喧騒は遠く、二人の間に言葉はない。
交わされる言葉がなくとも二人に不満はいようで、空を見上げる二人の顔には柔らかなものが浮かんでいる。
空に満ちた星々から降り注ぐ光が降ってくる音さえ聞こえそうなほど静かな時。
だがそれは、唐突に崩れ去ることになった。
「……おかしい」
「どうかされ、え? あ、元に、戻っています」
不意に声を上げた士郎に、夢心地に目を閉じていたアンリエッタが、瞼を開くと、何時の間にか見慣れた自身の身体がそこにあった。
「まだ、時間ではない筈なのですが」
自分の身体を見下ろしながら、アンリエッタは訝しげな声を上げる。士郎は残念そうに自分の身体を見下ろすアンリエッタから視線を外すと、目を細め、鋭い視線をホールに向けた。ホールでも同じようなことが起きているのか、戸惑った声や驚愕の声が響いており騒がしい。
事前に聞いていた舞踏会の終了の時間にはまだ早すぎることに、士郎は言いようのない不安を感じた。
「確かにまだ早すぎる……。すまない、少し用事が出来た」
「え、あ、その」
直感が警鐘を鳴らすとともに、何処か空気が変わったのを敏感に感じ取った士郎は、アンリエッタの手を引くと早足でホールへと向かう。ホールの中に戻ると、そこは突然魔法が解けたことでちょっとした騒ぎになっていたが、ベランダから士郎に手を引かれたアンリエッタの姿が現れると、直ぐにそんなことも忘れてその周りを取り囲み始める。目の色を変えて大挙して向かってくる生徒たちの姿に、一度大きく溜め息をついた士郎は、群がってくる生徒たちに怯えるアンリエッタの身体を一息で抱き上げた。
「ふぇ、ぁ?」
雪崩の如く向かってくる生徒たちの姿に顔を強ばらせていたアンリエッタだが、士郎にお姫様抱っこされると、一瞬目を見開いた後、一気に顔を真っ赤に染め上げた。それを見た生徒たちの足が一瞬鈍る。
それを見逃す士郎ではない。
腕の中で真っ赤になって身悶えるアンリエッタに気付くことなく、士郎は襲い来る生徒たちが足を止めた一瞬で、その隙間を縫うように通り抜けると、遅れて駆け寄ってきた護衛の騎士たちの前でアンリエッタを下ろした。
「アンは護衛と一緒にいろ。絶対に一人になるなよ」
士郎の手から離れたアンリエッタを、護衛の騎士たちは直ぐに取り囲む。護衛に囲まれたアンリエッタに忠告した士郎は、ホールを見渡して目的の人物がいないことに気付くと、直ぐに駆け出していった。
護衛の騎士から押し寄せる生徒たち守られながら、幼い子供がそうするように、アンリエッタは頬を微かに膨らませ、
「もうちょっと名残惜しそうにしてくれても……いいではないですか」
あっと言う間に消えたいった背中に向けて不満気に呟いた。
「っ、くそっ。何処にいったんだルイズは」
舞踏会が行われていた本塔から出た士郎は、ホールで唯一姿が見えなかったルイズを探すため、可能性がある場所をしらみ潰しに当たってみるが、影も形も見えなかった。ホールから出る際、キュルケたちにルイズの居場所を聞いてみたが、全員知らないと言う。
「こういう時に使い魔の力が使えたらいいんだが……どうする」
ルイズの部屋を確認し終えた士郎は、学院の中庭を走りながら焦った様子で自問する。
使い魔の力―――それは、ガンダールヴの力ではなく、全ての使い魔が持つ力。
主人の目となり、耳となる力。
以前、アルビオンでルイズが危機に陥った時、自分の左目が別の景色を映したその力を士郎は欲していた。あの後、士郎はルイズの安全を守るために、その使い魔の力を自由に使えるようにしたいと言ったのだが、何故か強固に反対されてしまい、結局今もそんな力は使うことは出来ない。
こんな時のために覚えておきたかったんだが。
後悔が頭を過ぎるが、別の景色が見えないということは、ルイズに危険は及んでいないということではないかと思い直す士郎だったが、直ぐに既に気を失っている可能性もあると、更に焦りを強めてしまう。
士郎の焦りに同調するように、空に輝く星々も何処からともなく現れた雲により姿を隠してしまい、人通りの少ない中庭は完全に闇に満ち、伸ばした手も見えないほどの暗さとなっていた。
ルイズの名を呼びながら、士郎がヴェストリの広場に辿り着いた時、不意に強い風が吹き、上空の空を覆っていた雲の隙間から二つの月が姿を現し、辺りを照らし出す。
ヴェストリの広場に落ちてきた光りは、走る士郎を照らし出すと同時に―――士郎目掛け飛んでくる氷の矢を闇の中から暴き出した。
「―――ッ!」
地面が抉れる音に遅れて、地面を削る音が響く。
咄嗟に飛び離れた士郎が、地面の上を滑りながら氷の矢が飛んできた方向に顔を向ける。
顔を上げた士郎の視界に、無数の氷の矢が飛び込む。
「投影開始ッ」
地面を蹴った士郎は、飛んでくる無数の氷の矢に向かって駆け出し、両手に干将と莫耶を投影する。横殴りの雨のように襲い来る矢と矢の隙間を縫うように駆け抜け、傷一つ負うことなく一瞬で氷の矢と交差した士郎は、襲撃者の元へと走る速度を更に上げる。氷の矢が飛んできた方向は、ヴェストリの広場に設けられた林から。だが、士郎はそこに向かわず、何もない芝生の一角に向け駆け出していた。遮るものはなく、また隠れる場所もないが、建物の影となっているため、未だ雲の隙間から顔を覗かせる月の光から唯一逃れていた場所。
走る士郎の前に、唐突に氷の壁が生まれる。
一瞬で五メートルを超える高さとなった壁だが、その時には既に士郎の身体はその上、上空にあった。
地を蹴り軽く氷の壁を飛び越した士郎の耳に、風を切る音が響く。
氷の矢―――ではない。
建物の影になっているため、飛んでくるものの姿は見えない。だが、士郎は先ほどよりも多く、また、聞こえる風切り音が違うことから、飛んできているものが氷の矢ではなく、もっと小さいものだと判断する。
―――礫、かっ!?。
聞こえる風を切る音だけで、士郎はその正体を看破する。
士郎の想像通り、それは氷の礫であった。
拳ほどの大きさの礫が、先程の氷の矢に数倍する数と速度で士郎に襲いかかる。
矢よりも殺傷力は弱いが、それを補って余りある程の数と速度。更に空中にいるため、メイジでもない士郎は回避することは不可能であり、一発でも当たりバランスを崩せばそのまま地面に向け落下。最悪頭から落ちて死ぬ可能性もある。
―――だが、何よりも厄介なのは。
迫る氷の礫に対し、士郎の眉間に皺がより、頬を冷えた汗が伝う。
どれだけの数が襲いかかって来ようとも、一方向だけならば、両手に握る干将と莫耶を振るいくぐり抜けることは不可能ではない。
問題なのは、前後左右そして上下、全方位から氷の礫が襲いかかってきていることだ。
前方だけなら剣を振るいこれを叩き落とせばいいだけの話だが、後ろも、さらには上下左右から同時に襲い来る無数の礫全てに対処することは、いくら士郎であっても不可能。
王手。
脳裏にそんな言葉が過ぎる。
偶然ではなく、ここまでの流れは全て計算だと士郎は悟る。
雲から月が覗いた瞬間に、氷の矢を見せて攻撃を仕掛けることで、無意識下に氷の矢を警戒させるとともに、攻撃の際、わざと剣を振るわずに避けることが出来る程の速度と隙間を作った。次に、駆ける士郎の速度に合わせ、横に逃げられないように長く低い氷の壁を作り上げることで、上空に逃げさせる。氷の壁の高さと幅、そして出したタイミング。その全てが剣を振るよりも跳んで避けた方がいいと判断させる絶妙な瞬間に、氷の壁は生み出された。
そして最後に、上空に逃げたのではなく追い込まれた士郎に向け、全方位から闇に隠した氷の礫で放つ。手練であっても、このタイミングで闇の中から飛んでくるものを氷の矢と勘違いする者はいるだろう。士郎は風を切る音でそれを見破ったが、見破ったところで窮地は覆らない。
まるで詰将棋のようだと士郎は感じる。
―――いや、それよりも狩人か。
獲物を観察し、研究し、行動を調べ、罠に掛ける。
そこに、士郎は熟練した狩人の姿を見た気がした。
絶体絶命。
何とかこの礫から死なずに逃げることが出来たとしても、着地には絶対に失敗し、そしてそこを見逃すような相手ではない。必ず必殺の攻撃が襲いくるだろう。
今頃その呪文でも唱えているのかもしれない。
死を目前に、だが口元に浮かぶのは諦めではなく、不敵な笑み。
戦士の―――戦場を駆ける男の笑み。
地に向かう士郎に、流星のように襲い来る氷の礫。
最中、士郎は言葉を紡ぐ。
「投影開始」
紡がれるのは詠唱。
中空に、担い手のない剣が現れ。
「投影、待機」
重力に従い落ちる士郎は、空中に浮かぶ剣を蹴りつけた。
全方位から襲いかかる氷の礫を捌くのは不可能だが、一方向だけならば無理ではない。士郎は空中で固めた剣を足場に移動するとともに、前方から迫る礫を干将と莫耶で切り払う。
散弾のように襲い来る礫を、風を切る音だけを頼りに捌き終えた士郎の前には、遮るものは何もなく―――はなかった。
「―――容赦ないな」
鈍い音を混じらせ迫る音。士郎はそこから迫るもの巨大さを感じる。
闇に紛れた氷の槍の巨大さと凶悪さを見えずとも感じた士郎は、反射的に両手に持つ干将と莫耶を投げつけた。狙い違わず両刀は氷の槍に突き刺さり―――。
「壊れた幻想」
爆発を起こす。
氷混じりの粉煙とともに不可視の衝撃が発し。それに押されるように士郎と襲撃者が吹き飛ばされる。空中で体勢を整えた士郎は、地面に着地し顔を上げ、影の中から押し出された襲撃者に視線を向け。
「何故と―――理由を聞いてもいいか―――」
夜空に浮かぶ月は、影の中から押し出され、魔法が解け姿を現した襲撃者を照らし出す。
士郎はその小さな襲撃者―――
「―――タバサ」
―――タバサに問いかけた。
「……」
士郎の問いに、無言でタバサは杖を振るう。
微かに残る氷混じりの粉塵を切り裂き、氷の矢が士郎を襲いくる。
「……やめろ。お前にはもう、魔力が残っていない筈だ」
迫る氷の矢を身体を小さく動かすだけで全て避けた士郎は、静かにタバサに告げる。士郎の言葉の通り、杖を構えるタバサの全身からは汗が滲み息は荒い。限界は明らかだ。しかし、肩を上下させ、顔に疲労を色濃く出しながらも、士郎を見る目には未だ強る意志の光りが見える。
「…………」
「無駄だ。俺に勝てない事は、お前自身が一番分かっている筈だ」
士郎の断言に、タバサは無言で答え、杖を向ける。
杖を持つ力ももう無くなりかけているのか、士郎に向けられる杖の先は細かく震えていた。
それでもタバサは呪文を唱え続ける。
「……止めろ。もう終わりだ」
タバサとの距離を一瞬で詰め、士郎は杖を持つ手を封じるように自身の手で押さえつけた。タバサの小さな手が、士郎の手にすっぽりと包み込まれる。
杖ごと捕まえられたタバサの手は、士郎の想像以上に小さく、そのまま潰れてしまいそうなほど華奢であり、汗で濡れた肌は辺りに漂う冷気で冷え切ったのか氷のように冷たい。
「……違う」
士郎の宣言に、タバサは汗に濡れた美しい氷の彫像のような顔を上げる。
「終わったのは―――」
士郎の目を見つめるタバサの目には、
「―――あなた」
未だ諦めの色は―――ない。
「―――ッ!?」
士郎は背筋が粟立つような危機感に従い、タバサの手を離そうとする。
だが、
「これは―――」
手は凍りついたようにタバサの手から離れない。
いや―――違う。
凍りついたようにではなく、文字通り凍りついている。
士郎が握るタバサの手を中心に、分厚い氷が身体を覆っていく。咄嗟に離れようとした足も動くことがなく、視線を向けるとそこには凍りついた大地が広がっていた。地面につけた両足も同様に凍りついて全く動かない。氷が広がる速度は遅いが、その厚さは士郎が全力を込めなければ割ることは難しいほどに厚い。そしてこの氷は、タバサが持つ杖を中心に広がっていた。その証拠に、杖が触れている地面と手を中心に氷は広がっている。
「何の真似だ」
士郎はどんどんと凍りついていく身体に焦る様子を見せず、タバサに問いかける。常人ならばパニックになるような事態であっても、冷静な思考を保っていた士郎は、自身の身体を調べ肉体にはダメージを負っていないことに気付いていた。どうやら氷は動きを止めるためだけのものであり、例え全身が氷に覆われようとも直ぐに死に至るような魔法ではないようだ。
また、この魔法は範囲魔法なのか、氷に覆われつつあるのは、士郎だけでなく、タバサも同じように氷に覆われていく。
「これで、俺の動きを封じたつもりか」
身体の半分が氷ついても士郎は焦る様子はない。身体に力を込め、士郎は一気にその身を拘束する氷の檻を砕こうとする―――が、しかし。
「―――ごめんなさい」
ポツリと呟かれた言葉によりピタリとその動きが止まる。
タバサが謝ったからではない。
その言葉とともに感じた、先程の背筋が粟立つ感覚に倍する怖気により動きが止まったのだ。
「―――ッ!!? これが狙いかッ!!」
士郎は半ば氷ついた首を動かし空を見上げる。
月は雲に隠れかけており闇を照らす光は弱い。だが、士郎の目は空から降り注ぐ無数の氷の矢を捕らえていた。最初の攻撃に放たれた氷の矢は、まさに雨のような勢いと数であったが、今度はそれを超える数と速度、そして密度で文字通り豪雨のように降り注いできている。その速度と範囲の広さは、今から逃げ出しても逃げられるかどうか微妙なラインだ。重力により更に加速した氷の矢の力は、容易く士郎の肉を食い破るだろう。
氷の檻に覆われたタバサの手が動き、士郎の手を握り締める。
指先に感じたそれに、士郎は顔を下げる。士郎の目とタバサの目が合う。
常に感情を見せないタバサの瞳の中に、揺れ動くものを―――士郎は見た。
降り注ぐ氷の雨は間もなく地に降り注ぐ。
氷の檻を砕いて逃げたとしても、被弾は避けられない。
これだけの矢を迎撃できるだけの剣を投影するには時間が足りず、剣を振るったとしても、片手では全てを捌くことは不可能。
だから、士郎は―――。
刹那にも及ばない一瞬で浮かんだいくつもの案の内一つを選び。
躊躇うことなく―――。
ずっと……一人……だった。
父が殺され。
母の心が奪われ。
ただ一人……残された母の命を守るため……仇の命に従っていた。
一人で……ずっと一人で……。
時と共に削れていく心を守るように、次第に感情は鈍り、弱くなっていった。
弱みを見せないように、見られないように、心に雪という覆いをかぶせていく。
毎日毎日……何年も……何年も……。
やがて降り積もった雪は氷となり。
何にも動かされない心となった。
多くの人の亜人の獣の命を奪った。
しかし心は動かない。
微かに揺れることもない。
時が流れ、自分を友人と呼ぶ者が現れた。
その二つ名の通り、微熱でもってわたしの心を溶かそうとしてくれた優しい人。
共に歩む従者が出来た。
大きな身体に無邪気な心を持ったわたしを姉と呼ぶ可愛い子。
苦しみも、痛みも、悲しみも……絶望でさえ動かなくなったわたしの心が……微かに動いた。
だけど……それだけ……何年もかけて降り積もった雪で生まれた氷は決して溶けることはなく。
向けられる優しい眼差しも言葉も……降り注ぐ雪と吹き荒れる風で遮られる。
そんなわたしの心が、何故か酷く揺れ動く時があった。
落ちこぼれと蔑まれていた少女が呼び出した彼。
赤い……不思議な男。
全てを救う正義の味方になると、臆面なく口にした男。
出来もしないことを口にするいい加減な男。
そんな男の言葉の一つ一つに……何故かわたしの心は揺れ、氷ついた筈の感情が動いた。
何故……だろう。
理由なんて分からない。
気付けば、その姿を目で追っていた。
彼の行動を見つめていた。
優柔不断で、押しに弱く、そして何より―――甘い……男。
エミヤシロウを……。
ミョズニルトンと名乗る女からの命で、彼を殺せと言われた時、胸に痛みが走った。
……何故だろう。
彼は強く、わたしでは確実に勝てないことは分かっていた。
ずっと……見ていたから。
彼がどれだけ疾く、どれだけ強いのか。
だけど、母の心が取り戻せる可能性があるのなら、万が一に掛けるしかなかった。
練に練った作戦は想像以上に上手くいき、彼の手は、今、自分の手の中にある。
氷に覆われ冷え切った身体の何処かが……熱を持った気がした。
天と地ほど離れた実力差を埋めるため、彼の甘さを利用した。
魔力の使い過ぎのためか……胸が……苦しい。
気付けば言葉が口から漏れていた。
殺そうとする相手に……何故、謝ったりしたのだろう。
不意に向けられた視線が、わたしの視線と交わる。
彼の瞳には、絶望も、怒りも、悲しみも……なく。
ただ、わたしを気遣うような暖かい心が宿っていた。
何処かから、ナニカに……罅が入る音が聞こえた。
夜空から落ちてくる氷の矢は、もはや彼でも避けきれない距離に迫っていた。
降り注ぐ氷の矢の雨は、彼だけでなく、わたしの身体も易々と貫くだろう。
氷に覆われ冷え切った身体から、眠気が迫り、わたしは微睡みに抱かれる。
朧に滲む視界の中、最後に映ったのは……赤い、影だった。
残された魔力を全て使用した氷の矢の最大展開。
届く限りの高々度において放った氷の矢は、重力で更に加速し、如何なる者も防ぐことが不可避の死の雨となる。
しかし、それでも彼ならば、その死の雨さえくぐり抜けてしまう可能性があった。
だから、わたしは利用した……彼の弱点を……。
『全てを救う』と、夢物語を口にする彼の甘さを……利用した。
身体の周りを凍らせたぐらいで、彼の動きを止められるなんて最初から思ってもいない。
彼の動きを止めるための罠は―――わたし自身。
一瞬だけでもいい。
彼がわたしに意識を傾ければ、氷の矢はその身を貫く。
未だ彼の力は未知数なところはあるが、それでも確実に矢の一、二本はその身体に届く筈だ。
彼の性格からして、何とかわたしを助けようとするだろう。
しかし、それは不可能。
ほぼ同時に降り注ぐ氷の矢は、彼の処理能力を確実に超えている。
そして更に、わたし自身を罠としたこの作戦は、完全に彼の虚を突いていた。
いくら彼が歴戦の戦士であろうとも、未知数の力を持っていようとも、その力を振るう暇さえなければ無いも同じ。
氷の矢による死の雨は、確実に彼とわたしに降り注ぎ。
対処出来なかった氷の矢が彼と、そしてわたしに突き立つ。
だけど……それでも、きっと、この死の雨で彼を殺しきることは出来ない。
わたしを守ろうとすることで、何本かの氷の矢を受けるだろうが、ただそれだけ。
殺すまでには至らない。
精々が腕の一本を使えないようにするぐらいの筈。
わたしの命を代償に、腕一本。
大戦果だ。
だけど命令は彼の命。
これで、母の心を救えるかどうかは分からない。
なのに……何故……こんな方法を……。
命を代償にしても、殺すことが出来ないと分かっていながら……こんな方法をとるなんて……わたしは……どうしてしまったんだろう。
……もしかしたら……わたしは……死にたかったのだろうか……人形で……あることに疲れ……。
母の心が戻るその時まで……人形でいようと誓ったのに……。
……ごめんなさい……ジル……立派な狩人だと言ってくれたのに……わたしはやっぱり……逃げてばかりの……甘えた……親不孝者……。
……狩人なんかじゃ……なかった……。
だって……わたしは……獲物であるはずの彼を殺さなくて―――こんなにほっとしているのだから……。
「……全く……大した奴だ」
もう開くことはないと覚悟して閉じた瞼は、そんな、呆れ混じりの声に応えるように、ぴくりと動いた。
夢と現の狭間の中、悔恨とも懺悔とも違う何かを呟き続けていたわたしの意識が、ゆっくりと浮上していく。
最初に感じたのは熱。
全身を包み込む熱と、頬を流れる熱……。
次に味。
ぽたぽたと頬に降り注ぎ、涙のように伝い……それは口に触れる……。
苦い……鉄の味。
……これまで何度となく感じたそれは……血の味。
歪み滲む視界は、次第に焦点が合い始め。
瞳に映ったのは、
「ルイズもそうだが……貴族というのは、無茶をする奴のことを言うのか?」
流れる血により、真っ赤に染まった顔で笑いかけてくる。
「まあ、いい。それよりもどうだ……怪我はしてないか?」
衛宮士郎の顔だった。
……声が……出ない……。
いや、違う。
言葉が……ない。
視界に映る光景の意味が理解できず、タバサの思考が白に染まる。
どれだけ呆然としていたのか、目の前の光景を理解し始めて最初に浮かんだ言葉が、
「な……ぜ?」
浮かぶと同時に口から漏れていた。
何故?
何故―――彼はこんなにも血だらけになっている?
何故―――わたしは生きている?
何故―――彼は笑っている?
―――何故?
「何故と言われてもな」
士郎は、タバサの問いに困ったように首を傾げる。
「どう言ったものか」
何処か恥ずかしげに呟くと、士郎はタバサの身体に回した腕を動かし、その指先で頬に流れるものを拭いながら、
「泣いている女の子を助けるのに、理由はいるのか?」
困ったように苦笑を浮かべた。
「……あ」
その時になって初めて、タバサは自分の頬を流れるもう一つのものに気付いた。
言葉に導かれるように無意識に伸ばされた指先に、瞳から流れる涙が触れ、驚きの声が漏れる。
腕が自由に動くことに疑問を浮かべる余裕もない。
全身を包んでいた氷は、まるで抱きすくめる士郎の熱で溶かされたように既になく。代わりにと言うように、士郎の腕に身体を抱きすくめられていた。
「……え?」
そのことに気付くと、タバサの口から自然と戸惑いの声が漏れていた。
何が起きているのか、現実が信じられず混乱に陥ろうとしたタバサの思考が、
「っ!?」
士郎の背中に突き刺さった何本もの氷の矢を目にした瞬間凍り付いた。
「まさ……か」
氷の矢が突き刺さった背中から溢れ出した大量の血が、士郎の身体を朱に染めていた。
驚愕の声が、タバサの口から漏れる。
目にしたもので、何故自分が生きているのかその理由を知った。
彼は……衛宮士郎は……自分の身体を盾にしてタバサを守ったのだと。
意味が……分からなかった。
命を奪おうとした敵を助けたこともそうだが、その方法を選んだことも。
彼ならば、他にも方法はあった筈だ。
自分を盾にしなくとも、わたしを抱えて逃げることも、その場に留まり迫る氷の矢を剣で切り払うことも出来た筈。
にも関わらず、彼は自分を盾にすることを選んだ……意味が……分からない。
理由は……分からないわけではない。
彼は、わたしの命を最優先にしたのだろう。
他の方法では、降り注ぐ全ての氷の矢を防ぐことは不可能だから、自分を盾にすることを選んだのだ。
だけど、その意味が分からない。
何で?
どうして?
あなたはこうまでしてわたしを助けたの?
―――泣いている女の子を助けるのに理由がいるのか?―――。
本当に……あなたはそんなことでわたしを救ったの?
胸の奥……パキンと……ナニカが割れる音が―――聞こえた。
後書き
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