フィガロの結婚
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8部分:第一幕その八
第一幕その八
「あれは只の伝説だ」
「そうなのですか」
「ましてやあんなものは汚らわしく忌々しい話だ」
これは彼が本当にそう思って完全に否定したものである。
「忌まわしい伝説は否定されなければならぬ。だからこそそうしただけだ」
「では伯爵様。わし等も」
絶好のタイミングでフィガロが恭しく出て来た。
「これで完全に安心して結婚できますね」
「伯爵様、有り難うございます」
すかさずスザンナもフィガロの横から言う。
「これで私達は何の不安もなく」
「その通りだ」
(計ったな)
内心舌打ちするがそれでも表面上は理性的であった。
「私がその式の用意をしよう。フィガロもスザンナも諸君等も楽しみにしておくのだ」
「有り難うございます。それでは」
「楽しみにしております」
「いやあ、本当にいい御領主様だよ」
「全くだ」
フィガロとスザンナが明るく応える後ろで彼等は本心から伯爵を讃えていた。伯爵は彼等にとっては実にいい領主でもあるのだ。
「今日は盛大に祝わせてもらおう」
「フィガロとスザンナをな」
こんなことを言いながら彼等は消えた。その後はフィガロとスザンナが相変わらずここぞとばかりに伯爵を讃えてみせて既成事実化を狙っていた。
「有り難うございます」
「これで夫婦の純潔が完全に保たれます」
「夫婦の純潔はこの世で絶対のもの」
伯爵も強引に言わせられる。本心でないことを。
「それは護られなければならない」
「その通りです」
「しかしだ」
ここで伯爵はケルビーノに顔を向けた。見れば彼は椅子に座ったままでしょげかえっている。項垂れたままで話す素振りすらない。
「そなたはまだ沈んでいるのか」
「伯爵様がお屋敷から追い出すと仰るからです」
「それはまた」
フィガロはスザンナの説明を聞いて述べた。
「こんなめでたい日に可哀想に」
「私達の結婚式の日に」
「皆が伯爵様を讃えているのに」
「お許し下さい」
ケルビーノはあらためて伯爵に赦しを乞うがそっぽを向かれている。しかしフィガロがとりなす。
「まあそう仰らずに」
「ならん」
「まだ子供ではないですか。ですから」
「そなたが考えている以上に大人だぞ」
スザンナもとりなすが彼女にも同じであった。
「だからならん」
「そう仰らずに」
「許してあげて下さい」
「ふん。ならばだ」
元々優しいのか伯爵はこれでいささか折れた。だがいささかだったのでケルビーノに対してこう告げたのであった。
「では御前はこれから将校だ」
「将校!?」
「私の連隊の中に士官の欠員が一つあった」
そのことを言うのだった。
「御前はそれだ。今すぐ行くように」
こう言い捨てて足早に部屋を後にする。バジーリオは胡麻をするようにしてそのすぐ後について行った。残ったのはそのケルビーノとフィガロ、スザンナとなったがここでフィガロは内心思った。
(これはいい)
何と実は伯爵の今の処置に満足していたのだった。
(スザンナにも寄って来ているしな。いなくなって幸いだ)
彼には彼の思惑があった。しかし今はそれを隠してケルビーノに対して先輩の威厳を以って告げるのだった。
「行く前にだ」
「行く前にって・・・・・・」
フィガロにまで言われて泣きそうな顔になるケルビーノだった。
「フィガロまでそんなこと言うの?」
「残念だがな」
ここでも本心は隠している。
「しかしだ。出発する前に言おう」
「何を?」
「運命を左右する時だからな」
やたらと勿体をつけている。
「言おう。それは」
「それは?」
「この言葉だ。さて、言おう」
早速はじめてその言葉は。
「もう飛ぶまいこの蝶々。夜も昼も跳びまわり花の周り飛び回る罪作りなこの蝶々」
まずはケルビーノへの皮肉だった。
「可愛いナルシス、愛しのアドニス」
今度はケルビーノをこう例える。
「奇麗な羽毛も華やかな飾りの帽子も派手な服も長い髪ももうないのだ」
「どうしてなんだい?」
「軍人だからだ。軍人は化粧もない。大きな口髭生やし」
「髭・・・・・・」
ケルビーノは咄嗟に自分の鼻の下を触ってしまった。今は生える素振りすらない。この時代貴族達は髪を伸ばし化粧をして髭を剃っていたのである。
「大嚢背負い肩には銃に腰にはサーベル」
完全に軍人である。
「高い襟に大きな帽子。名誉は高く財布は軽い。ファンダンゴの代わりに泥の中や山や谷を行進する」
「な、何だよそれ」
ケルビーノはフィガロの話を聞いて思わず声をあげる。
「全然よくないじゃないか」
「雪や暑さもものとせずラッパの音に合わせて進む」
「うわ・・・・・・」
さらに嫌な気持ちになってきていた。
「臼砲や大砲の音が響き弾丸の音が耳をつんざく。さあケルビーノ」
「地獄じゃないか、それって」
「輝かしい栄光と勝利に向かうのだ。偉大なる軍人の栄光に向かって」
「最悪じゃないか、それって・・・・・・」
フィガロの囃しの言葉にこの上なく落胆するケルビーノだった。スザンナから前線には出ないと言われてもそれでもだった。彼の落胆は人生で最大のものだった。しかもフィガロは囃しながら楽しく足踏みのダンスまで踊っていた。
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