弱者の足掻き
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十三話 「依月」
紅い。
どうしようもなく紅い日のことだった。
夕焼けが窓から差し込む部屋の中で小さな子供は何をするでもなく、ぼぉっと、虚空を見上げていた。
本棚にある届かない高さの本を見上げていたのかもしれない。薄暗い部屋の中、紅い夕日が差し込む窓を見ていたのかもしれない。はたまた何か考え事をしていたのかもしれない。
子供は早熟だった。一月を越えるよりも早く拙いながらも言葉を発した。一年を越えるよりずっと早く歩き始めた。
子供は早熟だった。夜泣きは本当にたまにしかなく静かだった。自由に動ける頃になっても我が儘は少なく、親の言葉をよく聞いた。
夫婦喧嘩の元になると言われる乳児期のストレスも少なく、両親たちは仲睦まじいまま子育ては進んだ。手のかからない子で羨ましいと言われたこともあった。その度に夫婦は曖昧な笑顔で場を濁した。
確かに手がかからないのは嬉しかった。日々愚痴をこぼし、中には夫婦仲がこじれていく友人知人を見るのは辛く、自分たちがそうならないのは嬉しかった。けれど苦労を、子供を育てるというその行為を語る友人たちを見て、その辛さを羨ましく思いもした。育てているのだという実感が乏しかったのだ。
子供のいる暗い部屋に一人の女性が入ってきた。子供の母親だ。女性はいつの間にかいなくなっていた子供を探しに来ていた。子供の姿を見つけると呆れたように小さく一息つき、子供の名前を読んだ。けれど子供はぼぉっとしたまま何の反応も示さなかった。
まるで、その声が届いていないかのように。
まるで、呼ばれたのが自分だと気づかないように。
夫婦には一つの悩みがあった。早熟なはずの子供はたまに自分の名を理解していない時があるのだ。呼んでから一拍起き、ああ自分のことか、と反応することがあった。
その知性からすれば理解していないのはおかしいはずだった。そこだけは普通の子供と同じなのか、或いはなにか問題があるのか。
そのほんの些細な悩み。けれど夫婦にとってそれは嬉しくもあった。悩みがあるというその自体が嬉しかったのだ。だからどうすればいいのかと相談はすれど危機感など皆無だった。いずれ理解するだろう。そう思っていたから。
母親は子供に近づきもう一度名前を呼んだ。そこで初めて子供は振り返った。
さほど気にしていないといえば、名前を呼んで反応がないのは悲しいことだ。母親はやっと反応した子供に少し、ほんの少しだけ悲しい顔をしながらもう一度名前を呼び、夕飯が出来たよ、と告げ子供の手を取った。
子供の浮かべた、気づいてはならない差異に気づいた、呆けた表情に気づかずに。
子供は気づいた。自分が名前呼ばれても反応できなかったことに。
子供は気づいた。そんな自分に母親が悲しげな表情を浮かべたことに。
子供は気づいてしまった。自分がその名前を持つはずでなかったことに。
両親たちは気づかなかった。子供の癇癪だと。乳児期の行いだと。理解などできるはずがなかった。
その日から自分たちの子供が道化を演じていたことになど。
一つ、話をしよう。
死に、異世界に落ちた男の話だ。
男はその世界でとある夫婦の息子として名を与えられ生まれた。既に知識はあった身だ、身体的機能に問題がなければ言葉を話せたし、二本の足で歩くこともできた。男にとって歩けず喋ずという状態は酷く不便に感じ、出来る限り早くその機能を取り戻せるようにと努力もした。その甲斐あり、身体年齢を考えれば早くにその機能を取り戻せた。
自身の現状を考えれば親の世話に頼るのは普通なこと程度理解していた。けれど何から何までその手の世話になるというのは気恥ずかしく、苦労をかけることになる。男は最低限出来ることは自分でやるようにした。
夫婦は男に優しかった。息子なのだから当然といえば当然なのだろう。そんな夫婦に男は迷惑をかけたくなかった。夫婦間の不和に繋がる、妻側へのストレスとなる夜泣きなどは出来る限りしなかった。肉体に引きづられ堪えられなかった時もあるが、極力抑えるようにした。
一度忠告されたことは覚え、心配をかけるようなことも控えた。興味心を抑えられず行動したこともあったが、それでも限度は弁えた。
その世界には元の世界にはない不思議な力があった。それは「氣」や「魔法」と同等な超常的能力であり男の関心を酷く惹きつけた。
元々あった疑惑はそれに確信に変わる。この世界は男が知る世界だと。かつて読んだ漫画の世界だと。
何故この世界に来たのか。どうして自分なのか。その疑問はあったが、それでもやはりその力は魅力的で男は両親にせがんだ。それを教えてくれと。何故かひどく嬉しそうに夫婦は男に初歩の初歩を教えてくれた。
ある日、男は夕焼けに染まった紅い部屋で考え事をしていた。今日の夕飯は何だろうとか、今は一体いつなのだろうかとか、いつになれば力をちゃんと使えるようになるだろうとか。雑音に気を取られず、そんなことを特に意味もなく考えていた。
不意に男は自分の名前を呼ばれていることに気づいた。振り返った先には母親がいた。そして理解した。さきほど雑音だと感じたのは呼ばれていた自分の名だと。男ははそれを認識できなったのだ。
振り返った男はそれを見逃さなかった。一瞬、ほんの一瞬だが母親が酷く悲しげな顔をしたことに。自分が呼ぶ名に反応しなった息子を見て、悲しんでいることに。
ギシリ。
と。
その瞬間、男は自分の中でナニカがズレたのが分かった。
気づいたのはほん僅かな差異。感じたのは小さな違和感。
自分に与えられた名は何だっただろうか。何故自分は反応できなかった。何故母親は悲しんでいる。
そして思ってしまった。
「依月」とは彼らの息子だったはずだ。
何故自分がそこにのうのうと居るのだ。
男の存在は間違いなく異質なものだ。本来なら、普通なら存在するはずがないもの。
ならば“普通なら”いたはずの、生まれるはずだった「依月」はどこにいったのだ。
浮かんだ過程は二つ。
男は、生まれるはずだった「依月」の場所を奪いすり替わった。
男は、何の問題もなく、男が生まれるもの器としてその子供は作られた。
後者ならば問題はない。だが前者ならば男は「依月」を殺しその場所を奪い取ったことになる。
そして自分が生まれるための器があったなど、そんな都合のいい妄想を信じられるほど男の頭は都合よくできていなかった。
男は、生まれるはずだった「依月」を乗っ取り自分がいるのだと、そう気づいた。
もっとも残酷な行為は何か。
かつてなら殺人だとか、その辺りを答えただろう。だが今ならば「存在を奪う」ことだと男は確信を持って叫べる。
ただ殺されたのならば不幸だが、悲しんでもらえる。友人知人親族の心に残り、その人がいたのだと覚えてもらえる。今まで歩んできた、刻んできた痕が残る。
だが存在を奪われるのは違う。積み重ねてきた、培ってきた、築いてきた全てを奪われる。自分の人生が他人のものとされ、それを誰にも気づかれず認められず知られぬまま朽ち果てる。生きてきた全てを塵芥と無塵にされる。
生まれるはずだった誰かの場所を奪うというのはただ殺すだけではない。その人が得るはずだった、与えられるはずだった、「その人の為の物」を全て奪うということ。
夫婦がその愛を与えたかったのは、自分たちの愛で出来た無垢な赤ん坊だったはずだ。確かな自我を確立し、記憶を持って生まれた化物ではないはずなのだ。
夫婦は気づくことなどできないだろう。望んでいた子供は挿げ替えられたことを。その子供が過去の記憶から、夫婦のことを親だと思いきれていないことを。子供から親だと思われない、そんな事態が起きていることを。
子育ての機会を奪われ、子を奪われ、愛を奪われ、そして名を奪われ。それでも夫婦はそれに気づかず「依月」に注ぐはずだった愛を男に注いでくれた。
その事態に気づき、男は愕然とした。止めればよかったのにその思考は止まらなかった。自分が気づかぬうちにしていた罪を、奪っていたものに気づき、そして何も知らぬ夫婦から絶えず「愛」という名の凶器を突きつけられた。
考えすぎだと、そう誰かに笑って貰えれば良かったのだろう。お前のせいじゃないと、そう諫められればよかった。だが、それは不可能な望みだった。
話す相手はいない。相談できる相手などいない。悩みは、罪は、ただ背負うしかなかった。日々積もるそれは男の心を少しずつ圧迫していった。
いっそ全てがバレれば楽になれたのかもしれない。機会は何度もあった。けれどそっちの道を選ぶことはなかったし、ありえない仮定を思い浮かべても意味はない。転げないように改めて足を下ろすことなんて出来はしない。
我が儘を許されるなら、何も知らない世界で生まれたかった。そうすれば物語の主人公のように、輪廻転生を天に感謝し生を謳歌する事も出来た。けれどこの世界は男の知っているもので、自分が異物だと理解出来る場所だった。この世界の主人公は他にいる。確かな未来がある。自分などいるはずがないのだとそう確信できてしまった。
少しずつ、少しずつ。罪悪感がつのり心が悲鳴を上げるなか、男は決めた。騙し通すのだと。今更何ができるわけでもない。ならば「依月」になる、演じてみせる。そう決めた。今にも自分を押しつぶすような罪悪感を騙す方法がそれしかなかった。
男は夫婦にとっての理想の息子になれるよう、「依月」になれるよう自分を殺し始めた。
手がかからないことを嘆いていると知れば夜泣きをした。我が儘を言い、イタズラをして手を煩わせた。
力の鍛錬を嬉しがられていた。必死で望みに叶おうと死に物狂いで努力をした。
夫婦の趣味。それを真似ると「自分の子だ、趣味が似るのかもな」と嬉しがった。だから必死で絵を描き、草花を覚えた。
自分たちの望みに叶う様に動く。そんな息子を夫婦は時たま不思議そうな、変な目で見ることもあった。その度に男はどうすればいいのか分からず泣きそうになりながら、必死で誤魔化した。
知られれば全てが終わる。その恐怖に背を押され、強迫観念は止まらず手を抜くことはできなかった。
ただ一つ手を抜いたのは、出来なかったのは名を奪うこと。「イツキ」と。悲しそうな顔をされてもそこは貫いた。
だから、なのかも知れない。
夫婦が死んだとき、実感がわかなかったのは。
これからは「依月」を強く演じる必要はないって思ったのは。
親だなんて思えず、どこかほっとしてしまうところがあったのは。
夫婦の墓石の前に成長した男は立っていた。
目の前の墓に夫婦の遺骨が入っていないのは知っている。ただの空の柩が埋まっている。それでも、ここが夫婦の墓なのだ。
男は、自分が立派に「依月」になれていたのか知らない。夫婦が疑問を抱かず逝けたのか分からない。
酷い話だ。必死に「依月」を演じた傍ら、最後まで彼らを本当の親だなんて心からは思えなかった。演じるのに必死で、それが辛くて、思う余裕なんてなかった。最後まで男は親不孝ものだった。彼らから子供を永遠に奪ったままにしてしまった。
だから、決めた。「生きて欲しい」という願いは叶えると。死にたくない自分と彼らの願いの合致。誓ったのだ。その願いを全うしてみせようと。「依月」を生かすのだと。
何があろうと。誰を利用しようと――殺そうと。
絶対に生きるのだと。
そうしてあの日、男は自分の中に己の手で卵を植え付けてしまった。
「依月」という、ずっと昔からあった罪悪感の卵。その横に夫婦との誓いの卵を。
頭の中でキィキィとなく、蟲の卵を。
それは度々鳴いた。命を守るために使う原作。それに関わる度に。「依月」の度を越えるなと。
それは度々泣いた。「依月」はそんな事をしないと。誰かを傷つけ、殺すたびに。その名と体を汚してくれるなと。
音は痛みとなり声となった。男が勝手に抱いた、自業自得の幻聴にして幻痛。
自分のためじゃない。「依月」の為だと言い訳をして殺した。自分の意志でそれをするなんて、耐え切れなかったから。けれど自分の判断でそれをしているのだろうと絶えず蟲は責めた。
気づけば、そんな自分を俯瞰するような視点で見ることができていた。後で知ったが、幼少期からの精神的苦痛は人格の分裂を生んだり第三視点で見たりするようになるらしい。辛い現実を認められず、それは自分ではないのだと、痛みを押し付ける変わり身を作る精神的逃避だ。
現状を認めたくなく、まるでゲームのように捉えもした。自分の体を俯瞰し、ゲームのように。キャラクターをコントローラーで動かすように、感情を殺して、そんなもの感じる必要などないと思い込もうとして。
経験値だ、レベルアップだと、ゲームだと思おうとして。
騙して、騙して、騙して。
そして、とうとう倒れたのだ。
最初に見えたのは白く霞む視界。最初に感じたのは額に乗る冷たい感触。どうやら布団に寝かせられているらしい。
段々と鮮明になっていく視界と戻ってくる感覚。体は酷く熱く、怠く動ける気などしない。
鈍い頭を動かし、ああ、俺は夢を見ていたのかと気づく。始まって終わって、そしてもう一度始まった日の。気づかなければよかった、罪の意識を背負った日の夢を。
馬鹿な話だ。この世界に生まれ変わることを、夫婦の息子として生まれることを選んだのは自分の意志ではない。気づいたらいつの間にかその場に収まっていただけであり、抗える類のものでもない。自身に咎はなくそれは押し付けられたものでしかない。だというのに勝手に悩んで勝手に罪だと思ってしまった。それは自分が満足するための誰も救われない偽善で、どうしようもない自己満足だ。自分から進んで重荷を背負って悲鳴を上げているただのキチガイ、なのだろう。
二度目の生はとても甘美な誘いで、知らぬうちに死んだ身としてもう死にたくはなかった。けれど奪った身でそんな勝手なことを言えるのかと思い、夫婦の願いを利用した。彼らの願いがあるから自分は死ぬわけにはいかないのだ、と。自分の欲望を肯定するための材料にしたのだ。
自分の行いは夫婦の願いを叶える「依月」のためのものでありしょうがない。そう自分に言い聞かせて動いた。
おっさんの元にいるのは楽だった。「依月」を知らぬ相手であり適度に手を抜いて好きにできたからだ。相手に望まれる何かをする必要などなかった。軽んじていた、と言ってもいいだろう。
白は偶然の産物だ。死を遠ざけるために利用できると思った。全く見ず知らずの相手であり「依月」である必要が一片たりとてなかったのもあるだろう。
問題があったとすれば白が女性だったことだろう。原作との違いを突きつけられ、自分に従う白に確かにあった白の未来を捻じ曲げたことを目の当たりにさせられた。そこから目を逸らしながら、そんな白をも理由に仕立て上げた。自分が白の理由を奪い、自分を白の理由にさせてしまったのだその責任を取らないといけない。「依月」の為にという横に「白」の為という理由を作った。責任を押し付ける先を増やしたのだ。
責任を押し付けて、ずっと目をそらして。
だけど、初めて自分の意志で人を、二度目の殺人を犯した時に保っていた何かが崩れてしまった。それでも無理矢理に保っていた均衡は白が女性である事が目を逸らせない事実として目の当たりにさせられ壊れてしまった。
陳腐な言葉だが、全てがどうでもよくなってしまった。
言い訳が通じないこと。自分がしてきた事。それを俺は改めて理解してしまったんだ。
見えてきた視界の中、窓の外の暗さがあまり変わっていない事に気づく。どうやら倒れていたのはさほど長くはないらしい。窓と反対側に目を向ければおっさんの姿がすぐ横にいるのが視界に映った。状況を見るに倒れた自分を運び布団に入れてくれ、今も横にいてくれたのだろう。保護者として普通の事なのかもしれないが有り難いことだ。普段のことを思えば起きたことを伝えて礼を述べるべきだろう。
そう声を出そうとして、喉に冷たい感触が当たっていることに俺は気づく。
「おう、起きたか」
それが刃物の冷たさだと理解するよりも早く、おっさんは俺に声をかけた。
「先ぃ言っとくが変な真似したら殺すぞ。まぁ、言わなくとも動けないかそれじゃあよ」
何時もの下らない冗談を言うに軽い口調で、冗談にならない言葉が依月に降りかかる。
「なんの、冗談を……」
「スプーンでもフォークでもねぇ。今朝研いだばかりの俺が愛用してる業物の小刀だ。動かせばスパッといく」
何なら試してみるか? そういうおっさんの言葉に俺は何も言い返せない。頷けば冗談でなく、本当にその手が一文字に引かれそうに思えた。
未だ熱を帯びた頭は現状を理解するには役者不足で、明朗な解答を弾け出せなどしない。まるで未だ夢の中で霧に包まれているようにさえ思える。ほんの少し前まで共に暮らしていた相手に自分が殺されかけているなど、本当に現実なのだろうか。
だがそれでも脳に酸素を運ぶために呼吸をする度、喉に触れる冷たい刃の感触が否応なく現実を突きつけてくる。
「一体これはどういうことですか。冗談にしても、少し悪質だと」
「いや何、ここいらで色々はっきりしとこうと思ったんだよ。これ以上見過ごすのはオレの害になりそうだからなぁ。お前、一体何がしたい?」
一体何を言われているのか見当がつかない。害になりそうな事などしている覚えはないが、おっさんははっきりと確かな確信を持っているらしい。
はっきりさせることなど余りに曖昧だ。最近の自分は周りから見れば変に見えていたかもしれないが、それでもここまでさせるだけの誘発させる何かをした覚えはない。
この状態になっても白が現れない、ということはやはり倒れてから余り時間は経っていないのだろう。白はまだ帰ってきていないということだ。見覚えのない天井、それと地面から大きく一段上がった場所にある自分が寝ている床で一階の部屋だと場所がわかるのが関の山で、この状態から逃れる方法は無い。
答えなど出ず、開きかけた口から漏れるのは息だけで何も言えず俺はそのまま口を閉ざす。
「ぶっ倒れるような茹だった頭じゃ分からねぇか。なら分かりやすく教えてやるよ」
胸元に手を入れ、おっさんは小さな手帳を取り出す。少し古びた革の装丁のそれは前々からおっさんが使っているもので、何度かそれに書き込んでいる姿などを見たことがある。中を見たことはないが仕事に使っていると言われていた。その手帳が横になっている俺に見えるように開かれる。
「開いたところ読んでみろ」
日に焼け色あせた白い紙の上、お世辞にも綺麗と言えない読みづらい字だ。薄暗く、光が隣の部屋からの明かりだけの事もある。考えるのが億劫で、読みづらいそれに目を細めつつ俺はそのまま声に出して読んだ。頭がぼぉっとしていて、何を書いてあるのか理解しようとせずに。
だから何の疑問も持たずに、
「『ガトーカンパニーが波の国の海運、交通事業を強圧的に接収。それに歯向かった上記のカイザを公開処刑。それ以後国内は荒れたが詳細不明。大凡一~二年ほど後、橋を建設為の護衛、金銭的理由より表向きは野盗対策の任務が木ノ葉隠れにて―――」
そこまで読んで、
「――ナルトの班に』……え……あ、れ?」
やっと気づく。
それが、そこにあっていいはずの無い内容だということに。
読み上げたのと非常に良く似た、全く同じ内容の文章を俺は知っている。何せ自分で書いたのだ忘れるはずがない。
思い出すたびに、思い出すために、幾度も書いた原作の流れをしたためたそれが、何故目の前の男の手帳に書かれている?
おっさんは俺の手から手帳を取り返して胸元に戻し、改めて俺を見る。
「事態が理解できたかガキ。言っとくがこれの前も後もお前が知ってる物が書いてある。お前が何だとか、何でこんなことを知っているとか、そんな事はどうでもいい。これの内容と、お前が何をしたいのかについていくつか聞かせろ」
「何でこれ……ちゃんと俺……一体、いつ」
それを書いたものは厳重な注意を持って扱っていた。動く際は基本的に持ち運び、家に置く時は床板の下や屋根板の下に置いて埃に指で跡をつけズレも確認していた。白もいたことだから危険な仕掛けは出来なかったが、それでも動かされた形跡は一度もなかったはず。
技量不足で術で罠などを仕掛けることは不可能だったが、それでも十分に気をつけていた。
ありえないはずのそれを出され、俺の精神は一層普通ではなかった。何故? 何時? ただその言葉だけが頭の中を堂々巡りして思考が前に進まない。他にも考えるべきものがあるはずだと理解できても抑えられない。
「確かにここに来てからは色々と気ぃ付けてたよお前。だからまぁ、最初だ。お前に会ってすぐ、白に会う前後辺りだな」
「……っ」
本当に最初、「依月」を演じる事から解放され一番気が抜けていた時期だ。全く気が付かなかった。
今更ながらに自分が嫌になる。今更ながらに「依月」が嫌になる。
たった一時でさえ、気を抜くことが許されなかったのだ。
驚きに口を戦慄かせる俺をおっさんは馬鹿にしたように言う。
「おいおい、そう驚くことでもねぇだろ。宿で同じ部屋のガキが夜中に何かやってんだ、目が覚めてもおかしくねぇ。ガキが寝た後に興味本位でそれを見ることもな。ああ、こりゃ何かあると思ったよ」
月の光だけで書き写すのは辛かったなぁおい。そうおっさんが笑う。
「調べたらこの通りのことが起こってやがるしよ。書かれていた白にも実際に会いやがってビビったビビった。お前色々してたよなぁ。ああそうそう、こないだ見つかった野党の死体、あれお前達がやったろ。血の匂いさせやがって」
「……生憎ですがそれは知らな」
「嘘下手だな。というかやっぱお前らか。お前鋭いところあるけど変なところで鈍いよなぁ。何度も試したのに一回も気づかねぇ。馬鹿っていうより線引きしてたんだろうな。こっちも同じだがよ」
「試し……?」
まだ何かあるのか。気づけなかったことが続々と語られ心が軋んでいく。
自分が一体どれだけ目をそらしてきたのか。それが当然だと頭から決め付けて、賢しく妥協して逃げてきたのかを突きつけられる。
単に線を引いていただけなのだ。探られれば困るからと、こっち側に興味を持ってくれるなと線を引いた。そっちに踏み込まないかからこっちにも踏み込むなと、勝手にそう思った。
その加減を間違えたのだ。ただ目を背けていただけなのに線を引いた気になっていい気になってしまった。
「一度も疑問に思わなかったのか。常識で考えろクソガキ。ガキがガキ引き取るのを認めた時点でおかしいと思わなかったのかよ。仕事の真似させたことは? 子供二人残して家開けまくることは? 何度も何度も数日に渡る泊まり許したことは? それ全部当然だとでも思ってたのかよ。反応見てたんだよ馬鹿が。距離を取って見たらおかしい所がどんどん出てくる。知識判断行動、全部歪だ。親バカ夫婦は親バカで分からなかったかもしれんが、ただの化物だろうが」
年相応の行い、というものがある。周辺環境、教育、知識量、才能。多岐に渡り、絶対の基準となるものは存在しないが、それでも大体の目安というものがある。
子供ならば夢を語るだろう。スレたことを言うかもしれない。己の傲慢さを理解せず、世の中を馬鹿にするかもしれない。親が死ねば変に現実的で潔癖な人間に急変するかもしれない。だがそれでも理解できる範疇の事だ。
たまに正論を吐き、たまにスレ、理想を夢見ながら現実を語る。大人の言うことに歯向かうでもなく妥協し、自分との妥協点を図り、それを当然として行動する。それはある程度の社会に触れた後に形成されるべき人格だ。幼い子供が持っていいものではない。
目の前の男はそれを見咎めたのだ。そして試し、観察した。
自分の子供だという前提で見た夫婦と違い、あくまでも伝聞でしか知らなかった男は、少し離れた場所から見ることができた。
言われてみれば確かに馬鹿な話だ。白を連れて行くことを許された時、俺はおっさんを「意外と心が広いな。見直した」などと思っていたが逆だ。見方を見直されていたのは俺の方だった。
言われてから考えればひどく当たり前の事でしかない。
「最初に言ったようにお前の中身はどうでもいい。お前がどんな目的を持っていて、これから何をする予定なのか。それを教えろ」
「それを話して、何の意味があるんですか。目的は」
「ずっと前にお前に言ったはずだ。死ぬのは御免だってよぉ。何もなけりゃ見過ごすつもりだったがお前は外で殺しをするし、逆らう者は殺すらしいガトーカンパニーも関わってきやがる。はっきりさせなけりゃオレの身が危ないだろうが」
向けられた酷く独善的な言葉に、けれど俺はどこか安堵する。自分と同じ保身的な理由だからだ。理解できるからこそ現状の自分の身の危険も一層わかる。だけど同じ人間がいることで自分はおかしくないのだと保証された気がする。
病人に対するご丁寧な説明で自分の身の置かれた状況はわかった。混乱も収まり頭も多少は回るようになってきた。
「それでこれ、ですか」
「おうよ。変に口出せば相手は殺しやる奴だ、もしもがあっても困る。ガトーカンパニーが出て来て時間もねぇって時にお誂え向きにお前が倒れてくれたってわけだ。ワンころのいない今のお前ならオレでも十分御せるからなぁ」
犬扱いされた白に同情するが俺が白に望んでいるのも同じ役割だ。こんなことにならないようにと拾っていたのだが、世の中というのは上手くいかないらしい。努力が報われるのは創作の世界だけで育てたまま一度も日の目を見ずに終わる可能性などいくらだってある。
それにしても“もしも”何て、自分がどれだけ信用されてないのかあからさまに言われ、いっそ笑いがこみ上げてきそうだ。
「さて、倒れてよほど頭がバカになってでもない限り事情はわかったはずだ。これ以上時間をかける事もあるめぇ。ちゃっちゃと話せ。手が疲れて滑るぞ」
「……あなたと同じですよ。死にたくなかった。死ぬわけにはいかなかった。だからその為の準備をしたかったんです」
どんな風に言えば納得させられるだろう。どこまで言っていいのだろう。
そんな風に考えていたのに、一度口を開けば言葉は止まらなかった。次から次へと言葉が流れ出ていく。
「どうしても死ぬわけにはいかなかった。けど、知ってる未来は物騒なことばかりで自分の力だけじゃ無理だと思った。だから先回りを……何が起こるのか知っている場所で、陰に隠れようって。たとえそれが爆心地でも、被害がどこにまで及ぶかさえ知っていれば何も知らないよりいいって思ったんです」
「白を拾った理由は? 体のいい駒か」
「ええ……あれを読んだなら、白に才能があるのは分かりますよね。勿体無いですしどうせ数年後に死ぬなら別にいいじゃないですか」
「ゴロツキ殺した理由は何だ。隠れるつもりなら要らねぇんじゃねぇか」
「“もしかしたら”に備えるのは大事だと思いませんか。出来る限り目立たず静かにいたいけど、流れ弾がないとは言い切れない。知っている通りとも限らない。それに忍がいない波の国なら襲った相手が手強い可能性も低く、いい練習相手になりそうだったので。初戦が木の葉周辺とかなら怖くてできませんよ。バレる可能性も低そうでしたし」
単なるゴロツキ程度なら気にする必要はない。けれど忍の制度がある国となれば気をつける必要も出てくる。抜け忍や中途退役者、家族から教えられた者にアカデミーで足を終えた者。そういった相手がいる可能性も跳ね上がる。
真っ当な教育を受けて強くなれないのなら経験を積むしかない。ならば弱い相手から潰して段々と上げていく必要がある。もし最初から手強い相手に引っかかればそこで終わりだ。事実、最初の一回目には“準備を欠かさない”という少し面倒な相手もいた。
聞かれたことに淡々と答える俺におっさんは少し訝しんだ視線を向けてくる。
「お前、やけに素直だな。もう少し口篭ると思ってたが」
動かす意欲も起きない重い体を感じながら視線を上に、遠く感じる天井に向ける。
「何かもう、どうでもよくなりました」
それは酷く乾いた、力無い心からの言葉だった。
「生まれた時から押し付けられたものを何年も何年も。自業自得だとわかっていてもやめられなくて、捨てられたはずなのに勝手に背負って。そのくせ言い訳ばかりして目を背け続けて。変えちゃいけない流れを変えたのを今更突きつけられて痛がって。そんな自分も嫌になって、疲れたんですよもう」
きっと今なら喉元の刃を引かれたとしても抵抗なく受け入れるだろう。それほどまでに心は堕ちきっていた。
抵抗しなければいけないというのは頭では理解できている。けれど体が、心がそれを拒否している。
時間が経てばこんな自分を戒めるだろう。今この瞬間だけの、魔が差した、とさえ言えない安楽に身をゆだねた命の放棄。それは分かっているのにこの一瞬の腐甘の誘いを蹴ろうと思えない。
楽になりたい。それが一番近い感情だろう。
おっさんからしたらわけのわからない言葉の羅列だ。だけどそんな俺の気配は伝わったのか真意を探るような瞳が俺を向く。死ぬわけにはいかないと宣い動いてきた相手のその態度はおかしなものだろう。
力が掛かり、刃が喉に少し押し込まれる。圧迫され少し息苦しく、呼吸で微動した喉に小さな鋭い痛みが走る。少しして喉の皮膚の上をゆっくりとナニカが流れていく。
「お前何を――」
突如響いた小さな異音におっさんの言葉が止まる。少ししてそれがドアの鍵が開けられた音だと気づく。
今いるこの部屋はドアから少し中に入れば目に入る場所だ。家鳴りに似た木の擦れ軋む音、そして響く軽く小さな足音を聞きおっさんは俺の横から頭の側に素早く体を動かす。
動かせる限り動かした俺の眼球に白の姿が映る。白の瞳もこちらを向く。それはほんの一瞬で、正しく瞬き一回の時間。
見ているのにそれが白だと分からぬほどガラリと、テレビのコマが変わるように纏う空気が変わるのがわかった。“それ”を俺が認識した時には白の手はまるで何かを投げきったように振り抜かれ――
「動くなワンころ!!」
ドスの聞いた声が俺の上から聞こえる。喉元に掛かる力が一層増し、息を吸うことさえ躊躇いたくなる明確な死の気配が足音を立てる。
今にも地を蹴ろうとしてしていた白の動きは目の前のそれに抑えられ、勢いを殺すように一歩だけ足が前に出る。白の眉間に皺がより、それだけで人を殺せそうな視線がおっさんを捉える。
今になって俺は気づく。さきほどおっさんが動いたのは白と自分の間に俺を置くため――少しでも白から距離を取るため。白を牽制するためだと。
――ポタ、ポタ……ピチャリ。
上から滴り落ちてきた雫が霜月の顔に落ちる。それは錆びた鉄の匂いがした。
「おーおー、猟犬見たいな眼しやがって。今にも唸り声あげそうじゃねぇか。ご覧の通りお前が動けば飼い主はお陀仏だ。上手く無力化しよう、何て思うなよ。オレに気づかせずに、反動や反射でオレの手を一切動かさずに出来るなら別だがよ。
……にしても本気かよ。一瞬さえ躊躇わずに急所を狙われるとは思わなかったぞ糞が」
自らの首を庇う様に動かされたおっさんの腕に一本、そして胸元に一本、千本が刺さっていた。胸元のは服に阻まれ深く刺さっていないようだが庇っていなければもう一本は首を貫いていだろう。盾となった腕から流れたおっさんの血が下にある俺の顔に落ちる。
振り抜かれていた白の腕は隠し持っていた千本を投げていたのだ。それを気付けなかったことより俺は白の判断に驚嘆していた。
今日の朝まで何の変哲もなかった、ずっと同じ家にいて接していた相手を何の躊躇いもなく、息を吸うように当然の如く殺す判断をし行動に移せる。それは普通の倫理観なら有り得ない、狂っているとさえ言える道徳性だ。
原作の、記憶にある白は確かに異常な献身性を持つ存在だった。けれど好意的な面識のある相手を殺す際は躊躇っていた。けれど今、目の前にいる白はそれさえない。
献身捧げる相手に命の危険があったかどうかの条件の差はある。それは非常に大きな差だが、それでもここまでの違いを生み出せるのだろうか。記憶にあるままなら、相手を制する方向に動いたのではないか。
これも、俺のせいで変わったのだろうか。俺が弱かったから、肩代わりさせた結果なのだろうか。
そんな成れ果てた白から俺は視線が動かせない。
「イツキさんを離せ」
ああ、俺そんな名前だったな。ふと、そんなバカみたいな感想が浮かんだ。
「離したら殺されるだろが。バカ抜かせ。まずはその殺気と、武器に伸ばした手を隠してから言えよ」
「……お前がイツキさんを殺せば僕はお前を殺す。爪を剥ぎ指に釘を打ち、肉を焼いて四肢を切り落とし少しずつ殺していく」
「冗談じゃなさそうなのが怖いなおい。安心しろ、何もなけりゃ殺さねぇよ。それにこいつの事を考えるなら、どうであれお前がオレを殺せずはずないからな」
もし白がおっさんを殺したとして、それは色々な弊害がある。外に出て人に関わり仕事をしていた人間が一人消えるのだ、周りがいつまでも気づかないままでいるはずがない。死体も消えるわけではなく処理しなければならない。この場所では人目につく可能性が高い。
疑いの目が向く前に逃げる必要もある。だが後でバレたとして、疑惑の目は当然俺たちに向く。おっさんと一緒に住んでいるのはある程度の人間には知られている。悪目立ちしたくない身として現状おっさんを殺すというのは余程のことがない限りデメリットしかない。
余裕あるおっさんの様子を見るに、何らかの準備があるのだろう。知人に家を尋ねるよう言ってあるだとかそのへんかもしれない。
白もそれをおっさんの言葉で理解しているはず。出来れば何事もなく終わらせたいはずだ。
最初の動きでおっさんを排除できなかった以上、現状できることは無い。
おっさんが言うよりも早く、白は抜こうとしていた苦無や千本、持っていたポーチを地面に落とす。その衝撃で水風船か何かが破れでもしたのだろう、水が流れ白の足元を濡らす。何も持っていないことを示すように手も晒す。
白が武器を置き、少しだけ喉にかかっていた圧力が弱まる。逃れた喉の窮屈感から俺は深く息を吸う。そして何となくだが、おっさんに文句を込めた軽口を言いたくなって俺は口を開く。
「殺せないのはそっちもじゃないですか。ただの“フリ”だけでそんな度胸があるようには見えませんし」
「……実際に殺しする側としてはそう思うってか。確かにこれじゃそう思われても仕方ないかもなぁ」
「そもそも白に見つかった時点でミスでしょう。考えてなかったんですか」
「確かに話に時間かけすぎたが……最初から何とかなる算段はあった。お前の事情をある程度は予想してたしなぁ」
おっさんは胸元に刺さった千本を抜き、それを刃を持たぬ方の手で握る。
そしてそのまま、
「ま、タカをくくられて特攻でもされたら困る。ちょいと度胸見せとくか」
それを俺の手に突き刺した。
手の甲を貫き下の床まで刺さったそれに鋭い痛みが走る。手が焼けるような、異物が自分の体にある感覚。声にならない悲鳴を上げかけた俺の喉は触れたままの刃を思い出し声を押し殺す。
おっさんはそのまま千本をグリグリと、刺さった傷口を抉るように動かす。
「あ……ぐ……ぁ、っ」
殺しきれなかった声が漏れ、喉にピリリと皮膚が切れた痛みが走る。
「――――!!」
一層険しく、今にも下手人を殺してしまいそうな瞳を白は浮かべる。
どうでも良さそうに白を見ながら、抜いた千本を更にもう一度俺の手に突き刺してからおっさんはそれを抜き取る。
「本気の度合いは分かってくれたか。殺すわけにはいかないが……塩でも塗りこんでついでに指の一本でも弾いとくか」
「いえ、十分、ですよ……こういうのって、慣れが必要だと思ったんですがね」
自分のことを思い返しそう告げる。俺は今でこそ繰り返して慣れたが、最初の頃は凶器で人を傷つけるのを躊躇っていた。
前に俺も同じことを言われたことがある。凶器を向けたら相手が「そんな度胸あるものか」と。あの時は少し話を聞く必要もあったし『練習』のためにすぐ殺すわけには行かなかった。だから取り敢えず逃げられないよう足の指を切り落としたらすぐに相手は目の色を変え怯えた。
手の痛みにそこまで思い返し、俺よりはマシだなとそう気づく。おっさんの行動は俺も似たことをしたことがあった。
「慣れならとっくにあるぞ。お前らは知らないだろうがな。死体だのなんだのは慣れっこだ」
おっさんは手に持った千本を白へと投げ返し、白がそれを受け取る。
興味深そうな俺の視線をおっさんは見返す。
「人生投げ出しそうなガキに説教替わりに教えてやるよ。疑問に思わなかったのか知らんが、オレのこの歳で今後隠居するだけの金が普通にやってて貯まるわけねぇだろ。金回りのいいことやったんだよ。戦争中で物品商売で金回り良いって言ったら特需が出る武器やら毒やらそっち方面だ」
どうでもいい昔話をするようにおっさんは言う。
基本は安全なとこから裏で品流し。自分の家からちょろまかしたり値段釣り上げて偶に敵側にも。既に戦火がやんでいた所に行って使える物を漁りもした。当然其のせいで死人も出た。
戦争終わったほとぼりが付いてしていたことがバレる可能性もあった。だから稼いだ金持ってトンズラ決めようと思った。ちょうどいいことに知り合いは大概死んでいて動きやすい身の上だった。
そんな事をおっさんはつまらなそうに言った。
おっさんはその事を何とも思っていなかった。俺にはそれが不思議だった。
それが分かったのか、おっさんは尚更つまらそうに言った。
「時代だよ時代。戦えればガキでも繰り出されて敵を殺せば褒められる。法なんざ時代の統治基準だ。今とは違うんだよ。例え目の前で誰か死んでも知らない奴なら次の日には顔も忘れる。殺して悩んで自分の死を受け入れる、何て脳味噌お花畑の馬鹿だよ」
「……仕方ないじゃないですか。今は『そういう時代』何ですから。昔とは違います」
違いねぇ。そうおっさんは嗤う。
「それにそんな台詞、首に凶器突きつけてる相手が言う言葉じゃないと思いますよ。殺しかけてる相手に、遠まわしに気楽に生きろ何て」
「人質に命諦められたら困るだろうが」
「ああ、確かに」
そりゃそうだと納得。向こうからしたら大問題だ。
おっさんは白を牽制するように時たま俺の喉を撫でるように小刀を動かす。
「それにさっきの泣き言が気に食わん。流れを変えただのそれがいけなかっただの。上から目線で何様のつもりだクソだ」
「上からって……そんなつもりは」
「上からだろうが。流れってのはどうせ自分が知ってる未来、ってとこだろう。気味の悪い言い方すれば運命とか其の辺か? それを認めたらオレが生き残ってること自体否定される。殺すぞ」
グッと喉元にかかった力に冗談にならないと内心思う。
気に食わないといわれても俺には返す言葉がない。けれどそう思ってしまうのは仕方ないじゃないかと心の中で泣き言が漏れる。自分がいなければきっと「依月」は水の国に残っただろう。いや、そもそも両親も死ななかったかもしれない。
おっさんは正しく死んで、ガトーの影が出るのはもっと遅かっただろう。少なくとも白に至っては確実に俺が原因だ。
俺が変えた。変えてしまった。その思いの重責は無くならない。
どうすればよかったんだと、漏れかけた言葉が口から出る前に噛み殺して堪えた。
「自分が関わらなければ変わらなかった? 自分のせいで運命が変わった? テメェはいつ役者になった。自分は悲劇の主人公で関わった人の命運を決めてしまう――なんて、まるで自分が世界の中心の重要人物だと思い込んでるみたいだなぁおい。それが上から目線でなくて何だ言ってみろ。お前本気で自分が世界の中心だとでも思ってんのか?」
「そんな、ちが」
「自分を引き立てる舞台装置みたいに、オレはオレの命を軽く見た挙句偉そうにしてる奴が嫌いでぶっ殺したくなる。テメェごとき大したことねぇと思い知らせたくなる」
おっさんの手がオレの顔を鷲掴みにする。ギリギリと力を込められ頭が軋む。おっさんは上から覗き込むように自分の顔を俺の顔に近づけ、俺の瞳を覗き込む。
視線をずらせなかった。これから言われる言葉がどんなものか分かった。
そしてそれはきっと、俺が望んでいたものだ。
「変わるかクソボケ。テメェ如きが何かして変わるわけねぇだろ。隠れてちまちまやるしか能がないお前なんざ端役の小物だ。何したって運命何ざ変わらねぇよ。仮に変わったとしてもその時はオレが何度も死にかけたように、治す力みたいなものがある事になる。大筋は変わらねぇ、テメェの企みはそれに飲まれる程度だ」
グッと、喉に掛かる圧力が増す。ほんの少しだけおっさんが手を動かし、喉が切れたのが熱い感覚で分かった。
「オレがもう少し手を動かすだけで死ぬガキだよお前は。そんな換えの効く端役だ。だから生きるために足掻くのは何もおかしくねぇ。身を守る術を得ろうと人を殺し、臆病に狛犬を拾うのもな」
それは何故かわからなかった。
おっさんの話を聞き、何の根拠もないある考えが浮かんだのだ。そしてそれは妙な確信があった。
最初からどこか疑問があったのだ。何故こんなことをするのか。自分の身の安全ということならさっさと夜逃げでもすれば良かったはずであり、こんな真似をする必要はないのだ。何せ白が帰ってくる前に話が上手く終わったとしても、俺から白にその事は伝わるし、そうすればおっさんの身は危険に晒される。その程度のこと考えつかないはずがない。
その疑問が今、消えた。
おっさんはきっと、俺の事を思ってこの事態を起こした――なんて、そんな馬鹿な考えが浮かんでしまったのだ。
きっとこれは俺の馬鹿な妄想の類なのかもしれない。本人に聞いたところで鼻で笑われて話してもらえないに違いない。
距離を取ったといえどおっさんは――沚島庵は自分の親戚の遺児である俺を見ていた。いざとなれば切ろうと思いながらも目を最低限離さなかった。それは化物と評した中身を持つ子供が何をするのかを知り、切る機会を見計らっていたのもあるだろう。いずれその子供が段々と苦悩に歪み、辛そうにしている姿にも気づいた。
その子供が何をしたのかを知り、自らの身に及びかねない危険を知った。切る機会が来たのだ。けれど保護者として長い間共にいるうちに庵にはその子供に情が湧いた。ただ見捨てるのも忍びなくなっていた。だから自らの利益とすり合わせつつ、その子供の悩みも消せるだろう行動に移った――そんな、馬鹿な考え。
この考えが本当かどうかなんて俺にはわからない。
けれどきっと、次に言われる言葉は俺がずっと言われたかった言葉だって、分かった。
「だから、お前がしてきた事は何も間違っちゃいない。お前ごときじゃ何も変わらない。下らない考えやめてやりたいよう好きに生きりゃいいんだよクソガキ」
ずっと認められたかった。
ずっと否定されたかった。
間違っていないのだと糾弾されたかった。考えすぎだと言って貰いたかった。
だからその言葉が俺は凄く嬉しかったんだ。悪くないって言われて、心が楽になったのがわかった。
堪えてきたものが壊されて今にも泣きそうだったけど、俺は涙を流さなかった。見上げた天井に“それ”を見つけたから。
それは水だ。コップの半分にも満たないだろうほどの水が俺の頭上真上の天井にくっついていた。まるでどこからか這ってきたように、濡らした跡を残しながら。
雨漏りでもするかのようにひっそりと、水はそのまま俺に落ちてきた。そして首元に当てられた小刀へと落ち――触れると同時にその刃を覆い凍った。接着していた俺の首の皮膚の一部ごと凍り付く。
「――あ゛、あ゛!?」
驚きに揺れるように刃が動かされるが喉が切れることはない。簡単な物理講釈だが「切断」というのは加えられた力とそれを伝える接地面積の関係から起こる結果だ。極端な話、接地面積が大きければただの「圧迫」で小さければ「切断」される。
氷結した水により小刀の刃部分の接地面積は最初に比べ著しく増大していた。これでは切れるはずがない。
俺の顔を掴むおっさんの手の力が緩んだ瞬間、飛んできた千本が意趣返しのようにその手の甲に突き刺さる。俺の顔から手が離れ、小刀が無理に動かされて喉から剥がれる。
氷を砕く時間はない。切れぬのならば突き刺せばいいとばかりにおっさんは指で柄を弾いて回し、順手から逆手に持ち替えようと手の中で浮いた瞬間、飛び込んできた白がその手を蹴りぬく。音からして折れたのが分かった。飛ばされた小刀が近くの木の支柱に刺さる。
動きを制するようにもう片方の手を全力で踏みつけた白の膝がおっさん顔に突き刺さる。衝撃に倒れるように後ろに飛ばされたその姿を見ながら、白は支柱に刺さった小刀の柄をその踵で弾く。振り払った白の手が空中で回転するそれを掴む。白が掴んだ瞬間、氷の膜が砕けて剥がれる。
白はそのまま相手に対し踏み込もうとし、
「止めろ白。そこまででいい」
俺の言葉にその動きを止める。
ほんの僅かな間だけ逡巡したように静止。そして俺のすぐ横まで白が下がり姿勢を下げる。
「何の問題もなくヤれましたよ。後始末も恐らく何とかなるかと」
「殺るなよ。……いいんだよ別に。今だけはそれこそ『劇』を演じる『役者』みたいなもんだったんだから。気にしなくていい」
「ですが」
未だ重い体を俺は起こす。
見れば天井に続く濡れた痕は白が立っていた場所から伸びていた。水の形質変化の一種だろう。足に触れている水にチャクラを流し細く伸ばして動かし操作した。難易度は違えど手で触れた水が形を変えられるのだ、足で触れていても変えられるだろう。
地面と床の段差のせいで白の足元は見えづらかったのも気づかなかった原因だ。今思えばご丁寧に手を晒したのは視線を下に向けさせないためでもあったのだろう。
何よりも驚いたのは氷だ。どの程度まで出来ているのか知らないが、氷の形質変化に違いなかった。
「今のお前が持ってると危なっかしい。寄越せ」
「あ……」
白が握っている小刀をその手から奪う。
声を漏らし不満そうにしている白の頭に手を置き、よくやったと褒めてやる。事実、あの状況で大したものだ。
適当に白の頭を撫でつつ、俺はこちらを見ているおっさんに視線を向ける。
「形勢逆転、ってやつだなこりゃ」
「そうですね。口と鼻から血を流して酷い見た目ですよ」
おっさんの姿は酷いものだった。利き腕の指は何本かが変な方向に曲がり、逆の腕には千本が二本刺さって血を流している。顔は蹴られたせいで鼻は曲がり血が出ている。
服の袖で雑に顔を拭い、おっさんは口の中の血を床に吐き出す。
「そりゃお前の犬に言えよ。で、オレはどうされる。そっちの猟犬的には殺されてもおかしくなさそうだが」
「別にどうもしませんよ。目立つのは嫌ですからね。ただ、今まで通りってわけには行きません」
「当然すぎるほど当然の話だな。これからは針に触るような互いに無視に近い状態だ」
本心がどうであったとしても殺し殺されの関係に一時なった。既に一線は引かれ、取り返しのつくものではない。
「ずっとそのままってわけにもいかないでしょう。どうするつもりですか」
「夜逃げでもするよ。お前らを見捨ててこの国から出る。何日かで適当に用意して、準備が出来次第オレは雲隠れさせてもらうわ。忍里が縮小されたり侵略されるほどの旨みがない国ってのをいくつか目処つけてある。あんまりいてそっちのに殺す算段付けられても困るしな」
言われた白は下らないものを見るような目でおっさんを見る。
「イツキさん、僕は反対です。そいつとこのまま暮らすのは危険です」
「出てってどうする。誰かの家にでも泊めてもらうか? 俺の体調を考えれば受け入れられるはずがないし、追求も怖い。何かすれば今度こそ向こうだって死ぬってわかってる。目的も終わったんだからそんな事しないはずだ」
「目的ってそもそも何ですか?」
「後で話してやるよ」
適当に白を宥める。
立ち上がったおっさんは腕に刺さっている千本を抜く。血に濡れたそれをこちらに返すでもなく仕舞い、折れた指は無理矢理に形だけ整える。
「で、そっちはどうするつもりだ」
「木の葉に行きます」
「……へぇ」
面白そうにおっさんが俺を見る。何も言ってこないが白もどういうことなのかと俺を見る。
大したことじゃないと思いつつ、俺は続きを言う。
「おっさんと同じように準備して、準備が終わり次第ですかね。理由は必要ですか?」
「爆心地、だったっけか。それだろ。好きにしろ。そんな場所にオレは一切近寄らんがな」
「ええ、好きにします。これからも俺は好きに生きていきますよ」
開き直った言葉を言う俺に、それでいい、とばかりにおっさんは口端を曲げる。
実際のところ楽になっただけでそこまで開き直れたわけではない。まだ迷いはある。だがそれでも、間違いでと言われたこの行動を俺は貫くしかない。これ以上は俺が自分でケジメを付けるものだ。軽口を言うだけの余裕は出来たから十分だ。
おっさんが動く。反応した白を出来るだけ刺激させないようにゆっくりと動きながらおっさんは家の出口に向かう。
「警戒すんな、傷を見て貰ってくるだけだ。どうせ遅くなるからお前らは先に寝てろ」
「お前に言われる筋合いはない。さっさと行け」
「怖い怖い。ホント嫌われたなぉい。まぁどうでもいいか」
玄関の扉が締まって少しすると白の警戒は止まった。白は心配そうな顔を浮かべ俺の手と首の傷を見る。
大したことないと俺は言うが白は無視して手当をしていく。手当が終わり包帯が巻かれた手とガーゼを当てられた首の違和感に何度も首を撫でてしまう。
「余り触らないほうがいいですよ」
「ああ、すまん。つい」
ひんやりとした白の手が俺の額に触れる。
倒れた精神的原因はあらかた無くなっていたが、肉体的原因はそうすぐ消えるものではない。必要なのは休息と栄養だ。気が抜けた事もあるだろう。自覚すると改めて気だるさが襲ってくる。
「まだ熱が残っています。寝たほうがいいですよ」
「ああうん、そうだな」
「えと、平気ですか?」
「ああうん、そうだな」
「これ何本ですか?」
「ああうん、そうだ……三本だ。悪い、心がどっか飛んでた。そういえば白の方は体大丈夫か?」
「特に問題はありませんでしたよ。戻るのに時間がかかってすみません。……上に行きましょう。肩を貸しますので」
俺は支えられて立ち上がる。二階への階段をゆっくりと上っていく。
「一体何があったんですか? 後でと言われましたが」
「そうだな……お前には言っといた方がいいか。これからを考えるなら、言った方がいいことは全部」
隠す必要も無い。いずれ言うつもりだったのだ、ここがその機会だろう。
どこまでを言うべきかは決まっていた。問題はどこからを言うか。それを考えながら俺は足元の段差を見る。しっかりと踏みしめ、踏み外さないように足を乗せる。
「眠る前に話をしたい。骨董無形でバカみたいな話だが聞いてくれるか?」
「いくらだって聞きます。イツキさんが望むのなら」
その日、更けていく夜の中俺は白に話をした。
それは有り得ないはずの知識を持って生まれた過去の話。
そして誰も知らないはずの、未来の話だ。
白はそれを疑いもせず、静かに聞き続けた。
後書き
白の一瞬のスタイリッシュアクションを書きたかった。
頭の中で動かしたら結構無理ある動きだった。
けどスタイリッシュ優先でいいや。というお話
内容について細かいことは何時も通りつぶやきに
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