季節の変わり目
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緒方の作戦と戸惑い
「アキラ君、気持ち悪い」
「うわ、吐かないでくださいよ!?」
緒方は塔矢の首に腕を巻き付け、部屋の鍵が開けられるのをだらんとして待った。その間にでも服にゲロをかけられるのではないかと気が気でない塔矢は、さっさと靴を緒方の分まで脱がせて薄暗いダイニングルームへ入る。もはや引きずられている状態の緒方。塔矢は緒方のシャツの背中の部分を掴んでいて、フローリングの床と頬が擦れて嫌な音がしていた。
「全くっ、世話の焼ける・・・」
塔矢はダイニングルームのソファに緒方を無造作に下ろし、すぐに部屋から出て行こうとした。
「アキラ君・・・あの子は、saiじゃないのか」
呂律の回っていない緒方に塔矢は冷めた視線を向ける。緒方は手の甲を顔に当て、吐くのを必死に我慢しているようだった。
「何を馬鹿なことを」
「あれは、saiだ。なぜ・・・進藤が・・・あんなに構う」
苦しげに呟く緒方に塔矢は口を出さず、ダイニングテーブルを囲む椅子の一つに腰を下ろす。
「全くsaiの、棋力には、及ばない。・・・が、あの子しか、考えられないんだ。名前に、進藤との関わり、ネット碁」
「でも進藤と彼が出会ったのは今年の夏でしょう。saiが最後に対局したのは去年の4月だ」
これがとどめになったようで、緒方は黙り込む。塔矢は短くため息をつき席を立った。
「じゃあ、僕行きますね」
荷物を持ち玄関に向かう塔矢を緒方が朦朧とした様子で、しかしはっきりと引きとめた。
「待て・・・。俺はsaiが進藤に関わりがあると思ってきた。だが、あの子が進藤と今まで全く関わりがなく、それでいてネット碁を打っていたという考えはできないか」
棋力が違いすぎる、と塔矢は反論したくなったが、脳内に小学生の頃のヒカルとの対局が再生されて、何も言えなくなった。だが、saiは昔の進藤だ。彼じゃない。今日秀策のこすみにどきっとしたこともあったが、それ以外、彼は現代の定石に染まっていた。考え込んでいると、意地悪そうな笑みを向ける緒方と目が合った。
「進藤に負けた一局、見せてもらえないか」
「・・・・・・」
その質問に何も返さずにいると、緒方が調子に乗ってくる。
「・・・負けた一局は・・・見せたくないとでも?随分君は、プライドが高い、生粋のお坊ちゃまらしいなあ」
塔矢のこぶしに思わず力が入る。こんな人でも兄弟子だ、と言い聞かせるが、緒方に向ける鋭い視線は変わることがなかった。緒方はそれに構わず言葉を紡ぐ。
「君が見下していた進藤が・・・今に君を追い越す。小学生の頃に戻れて、良かったじゃないか。進藤を必死になって、追いかけていたあの頃の君に戻れて」
「そんなこと言っていられるもの今のうちですよ」
酒の力もあって、緒方はいつもより大きな声で笑いだす。ソファの上の体が跳ねた。そして舐めるような視線で塔矢を捉える。塔矢は不快極まりない様子で緒方を睨んだ。
「実際昔の進藤は、そんなに強かったのか?」
若干間を空けて、塔矢が嘲るような笑みを浮かべる。
「秀策並みだと言ったら、どうします?」
「秀策・・・?」
その言葉を最後に塔矢は踵を返し、玄関へと一直線に向かっていった。塔矢は嫌がらせに部屋の照明を一つ残らずつけていく。
「眩し・・・」
四方八方急に明るくなって緒方は瞬時に目を覆う。
ばたんっ。
ドアが勢いよく閉まる音がさらに緒方の神経を逆なでした。
「あの・・・やろう、ふざけやがって・・・。棋譜を並べてもらう作戦は・・・失敗したし。案外挑発には、簡単に乗る奴だと思っていたが」
目が眩んで緒方は今にも吐きそうだった。ソファから上半身を起こし、ガンガンする頭を支える。秀策並みの強さを進藤が持っていた?まさか。
「こう何人も秀策もどきが出てきたらたまったもんじゃない。いや、逆に嬉しいか」
しかしあの藤原という子、あの子がsaiに思えて仕方がない。こんなこと、馬鹿げているかもしれないが。
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