無明のささやき
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第七章
和子は、あの日以来、石原のマンションに身を寄せている。飯島は、躊躇することなく、離婚届に署名捺印し和子の元に送りつけた。そして、離婚の話し合いも全て電話ですませたのである。和子の衣類から家具に至るまで、その他思いつくもの全て発送した。
和子は慰謝料も財産分与も放棄するという。離婚の条件はいたってシンプルだった。石原が挨拶に伺いたいと言ってきたが断固拒絶した。あまりにも差がありすぎる。一方は弁護士、もう一方は地位も名誉も失ったサラリーマン。かたや、一発で妊娠させた実力派、かたや無精子なのにハッタリかましていた無能力者。
飯島は事件直後、精子を病院に送り検査してもらった。結果は思った通り無精子であった。飯島は最後の電話で和子に言った。
「そう、頑なになるな。せめて、預金通帳ぐらい持っていけよ。お前が稼いだ分も入っているんだから。」
「いいの、あなただって、これからどうなるかわからないでしょう。」
「俺ならどうにでもなる。この家を売っ払ってしまえば、食うには困らない。」
「だめ、それはだめよ。あなたのお父さんが、あんなに大事になさっていた家なんだから。」
「まあな、親父にはこの家が全てだった。家を残すことで、父親の威厳を保てると勘違いしていたんだ。」
しんみりした雰囲気から逃れようと、飯島は話題を変えた。
「そう言えば、奴等は、お前が802号室に来ることを、どうして知っていたんだろう。」
「電話が盗聴されていたの。警察が調べてくれたわ。私が連れ込まれた部屋が702号室。石原は真上の部屋で私を待っていたわけよ。」
「用意周到ってわけだ。佐久間さんらしい。」
「佐久間さんね、うーん、あの写真が送られてきた直後でしょう。やっぱり何か関係がありそうな気がする。」
「ああ、とにかく、会えるかどうか分からないけど、会えれば佐久間に確認するつもりだ。」
そこで話題が途切れた。飯島は、そろそろ終わりにしようと思った。
「お前には本当に感謝しているよ。頑固親父によく尽くしてくれた。この家を手放さずに済んだのだって、お前のおかげだ。あの頃、30代そこそこの俺の経済力では返済なんて無理だった。」
「そうじゃないわ、私達二人の力よ。」
「いや、君のおかげだ。親父も感謝していたと思う。」
「実はね、あの無口なお父さん、今際の際に、私にこうおっしゃったの。この家で死ねるなんて思わなかった。有難うってね。その言葉だけで、私の苦労は報われたわ。」
一瞬、飯島は、涙ぐんだ。意地っ張りで、人一倍プライドの高かった親父の微笑む顔が浮かんだ。名古屋にいたため死に目には会えなかったが、そういえば死に顔がやけに穏やかだったのを思い出した。
親父のそんな一面を引き出した優しさ、そして、そんなエピソードを今まで一言も言わなかった控えめさ、そんな和子の人間性に目を伏せ、プライドだけを必死に守ろうとしていた自分の卑小さが悔しかった。
結局、飯島は軽蔑していた父親と全く同じ資質を持ち合わせていたのだ。だからこそ二人は互いを深く理解することなく13年と言う歳月を無為に過ごしてきてしまったのかもしれない。
今、そのプライドは粉々に粉砕されてしまった。和子に首にされたように、会社からそう言い渡されるのも時間の問題である。搾り出そうにも、飯島にはプライドの残滓さえ残っていない。
せめて、最後の言葉だけは、飯島のプライドに見合う流儀で締め括ろう。そう思った。
「和子、幸せにな。子供が出来たら、知らせくれ。必ずプレゼントを贈る。それから、石原さんとのこと、少しも恨んではいない。そう伝えてくれ。それじゃあ、石原さんに、宜しく。」
きっぱりとここで電話を切った。
飯島は、体から魂が遊離したかのように空しく日々を過ごした。しかたなく、和子が置いていった貯金通帳から30万円下ろし、パチンコに通った。三日間、朝から晩まで座り続け、ようやく無一文になった。
事件から何日かで、会社は正月休みに入ったはずだ。今、街は正月一色に染まって、ただ一人、飯島だけが世間から取残されていた。飯島は会社に残る意味を失った。妻に対するプライドから、すっかり開放されてしまったからだ。外にも出ず、だだっ広い家にぽつんと座って時間を過ごした。正月休も終わり、二日が過ぎている。
思えば、人がいるからこそ、空間に意味がある。和子とこの家に入った時は、親父をふくめ三人の家族が、それぞれの空間を占めていた。それが、一人きりになってみれば、なんと空しく無駄な空間だろう。つくづく孤独が身に沁みた。
その日の夕刻、斎藤副所長から電話が入った。彼は資材物流センターの情報源として石倉から重宝されていることを唯一の心の支にしていた。或いは、石倉から次期所長とおだてられているのか、最近、飯島に限らず、誰にたいしても態度が横柄である。
竹内の腰巾着だっただけに、弱い立場の者に対して更に強気に出る。
「飯島所長、まったく、こんな肝心な時に会社にいないんだから。事件は無事片付いたんでしょう?それに、もう休みは終わってますよ。この二日間どこで何をしていたんです?大変ですよ、本社では大騒ぎです。」
「いったい、何があった。どうしたんだ?」
「どうしたんだなんて、あんた。悠長なこと言っている場合じゃないですよ。」
ここで、飯島が切れた。
「前置きは、いい。何があったか、さっさと話せ。」
飯島の怒鳴り声に、斎藤は息を呑むと、息せき切って話し出した。
「車両部の坂本がじ、じ、自殺したんです。しかも、本社の車庫で。マスコミも嗅ぎ付けて本社の前をうろちょろしてるようです。石倉部長は飯島所長の管理不行き届きだと仰っています。」
「坂本さんが、自殺しただと。それで、いつ?」
「一昨日の朝、本社の裏の車庫で首を吊っているのが発見されました。」
飯島は、言葉を失った。責任の一端は飯島にもある。しかし、坂本に対しては出来るだけのことはやった。坂本の奥さんの丸い顔がぼんやりと浮かんだ。
「もしもし、もしもし。」
飯島には、斎藤の呼ぶ声がしばらく聞こえていなかった。ようやく飯島が答えた。
「何だ。」
「それから、所長が、出社したら知らせろと言っていた佐久間が、今日、出て来ています。さっき電算室で佐藤室長と話していました。」
「えっ、佐久間が来ているって。分かった。いいか、佐久間を足止めしろ。これからすぐ行く。いいな。」
「所長、勘弁してくださいよ。もうすぐ5時だし、まして今日は子供と約束してるんです。」
「ふざけるな、てめえ、今がどんな時なのか分かっているのか。ほのぼの家族をやっている場合かよ。いいか、良く聞け。今月末、お前には辞令が交付されることになっている。その辞令を俺は石倉から預かってきているんだ。」
「えっ、そんな馬鹿な。冗談でしょう。」
飯島は黙っていた。どう反応するか見えすぎていたからだ。斎藤は緊張していることを秘密にしておくことなど出来ない。言葉にすぐ現れる。沈黙に耐えられず、斎藤が再び口を開いた。
「ちょ、ちょ、ちょっと、所長。じょ、じょ、冗談でしょう。そんなこと・・・。だって、石倉さんには、わ、わ、私は、かなり評価されているんですよ。その、じ、じ、辞令って内容はなんですか。ま、まさか、関東物流への転籍じゃないんでしょう?」
「いいか、もし、待っているなら、その辞令を見せてやるよ。」
「えっ、き、き、今日、見せてくれるのですか?あ、あ、後、20日以上もあるのに・・」
斎藤が今度は押し黙った。
「とにかく、すぐ行く。佐久間さんを確保しておくんだ。いいな。」
「はい。」
受話器から小さな沈んだ声が聞こえた。
飯島が、資材物流センターに着いたのは、7時を少し過ぎた頃だ。通用門でコートの襟を立て足早に歩く男と擦れ違った。ふと気になって振り返ると、ずんぐりとしたその後姿は明らかに佐藤室長である。飯島は佐藤の名前を呼んだ。
佐藤は数歩進んで立ち止まった。なかなか振り返らない。飯島が近付いてゆくと、ようやく方向を変え、視線を合わせた。目が座っている。飯島が先に声を掛けた。
「佐久間さんと会っていたそうですね。何を話していたんです。」
「奴は会社を去るそうだ。奴とは同期だから、別れを惜しんでいたのさ。」
「そうですか。」
「そうだよ、今生の別れになるかもしれないからな。それに何を話そうと、お前にとやかく言われる筋合いではない。」
と言うと、踵を返し、すたすたと歩き出した。飯島はただ呆然とその後姿を見送るしかなかった。いったい、佐藤は何を怒っているのか。混乱は増すばかりである。
飯島が所長室に駆けつけると、佐久間の薄くなった後頭部が目に入った。飯島の大きな机の前に椅子を置いて腰掛けている。振り返ろうともしない。斎藤はといえば、うな垂れて、ティッシュを丸めて鼻の穴に押し込んでいる。何があったかすぐに分かった。飯島は自分の席に着くと、口を開いた。
「おいおい、斎藤副所長。言ってなかったか?佐久間さんは、俺の先輩だってことを。」
「ええ、大学の先輩だって、」
「大学だけじゃない。日本拳法部の先輩でもある。俺もそうだが、佐久間さんも大学選手権のチャンピョンだった。」
斎藤は、ティッシュの位置を右手で直しながら、言った。
「チャンピョンだかなんだか知りませんが、片足引きずった老いぼれなんか殴る気にはなりませんよ。我慢してあげたんです。」
野太い声が響いた。かつて、佐久間が総務部長だった頃の自信に満ちた声だ。
「俺を、ここまで、猫の首根っこをつかむように連れてきた。さすがに、俺も切れたよ。」
飯島は、にやりととして言った。
「佐久間さん、ようやく昔の佐久間さんが蘇りましたね。以前のように率直に話しあおうじゃありませんか。」
佐久間は飯島の言葉を無視するように煙草に火を点けた。飯島は抽斗を開け、石倉から預かった書類から、斉藤の辞令を抜き取り、斎藤に手渡した。そして外に出るよう指示した。斎藤は歩きながら辞令に見入っている。そして大きな背中をわなわなと震わせた。
斎藤が振り返り、今にも泣き出しそうな顔で、懇願するような視線を飯島に向けた。飯島は、それには応えず、もう一度人差し指で外を指し示した。斎藤はうな垂れて、外に出ていった。
飯島と佐久間は互いに睨らみ合った。飯島は開口一番聞いた。
「一体、あの写真の女は誰なんです。」
「あれは、南の女房だ。俺の一物にむしゃぶりついてきやがった。」
「どうかな、どの写真を見ても意識なんてないみたいだった。睡眠薬でも飲ましたんでしょう。」
佐久間は、舌なめずりして、腰を前後に動かしながら答えた。
「南の女だと思うと興奮したよ。確かに薬は飲ませたが、女は俺の腰に動きを合わせてひーひー喜んでいた。」
どうやら、佐久間は、精神的にまともではない。飯島は核心に触れた。
「何故、私の女房まで襲ったんです。」
佐久間の顔がしだいに崩れていった。涙顔とも怒り顔ともとれる。立ちあがると、怒鳴り始めた。
「当たり前だろう、自分のやったことを考えてみろ。俺の女房と寝ておきながら、後輩面下げて、俺に擦り寄ってきやがって。先月だって家に来るように誘った。でも、お前はとうとう来なかった。愛子は、本当はお前の子なんだろう。そうじゃ、ないのか。」
佐久間は過去をさ迷っている。飯島は自分自身の怒りを押さえ込んだ。まともに喧嘩する相手ではない。少しだけ嘘を言うことにした。
「いいかい、佐久間さん。俺には種がないんだ。それは、ずっと前からわかっていたことだ。」
佐久間が絶叫した。
「嘘言うんじゃない。」
佐久間の叫び声に驚いて、斎藤が入り口のドアから顔を覗かせた。飯島は手先を前後に振って、出て行くよう指示した。
「佐久間さん、聞いてくれ。襲われた時、和子は妊娠してた。」
「それみたことか、お前は、たった今、自分で言ったことも忘れたのか。お前には種がなかったんじゃないのか。語るに落ちたな、飯島。は、は、は、は、」
満足そうに高笑いだ。いつまでも笑っている。飯島はじっと待った。急に黙った。じろりと飯島を睨みすえ、怒鳴った。
「やっぱり、愛子は貴様の子供なんだろう。えっ、そうじゃないのか?」
「違う。愛子ちゃんは佐久間さん、あんたの子供だ。いいか、和子を妊娠させたのは俺じゃない。和子が勤めていた弁護士事務所の先生だ。あの日、和子が襲われた日に分かったことだ。今では離婚して飯島和子ではなく石原和子になっている。」
佐久間が笑い出した。狂ったように笑い転げた。
「ざまみろ、分かったか、これがお前に対する神様の罰なんだ。そうそう章子とお前の企みも、事前に神様が教えてくれたんだ。あの時、ばれていなければ、二人で俺が死ぬのを楽しみに待っていれば良かった。残念だったな。」
「おい、佐久間さん、何を言っているんだ。俺が何を企んだって言うんだ。」
相手が狂っていることを忘れ、飯島はまともに反応してしまった。佐久間は満足そうに笑みを浮かべ、飯島を睨み付けながら言い放った。
「章子とお前の悪巧みだ。その罰が当たったんだ。俺が死ねば入ってくると思っていた金を、お前は手にすることなど出来ない。そんな汚いことを考える奴だから、女房に裏切られ、捨てられた。和子さんは、お前の本質を見抜いていたんだ。ざま見ろ。」
佐久間の言葉を無視して飯島が叫んだ。
「佐久間さん、何度でも言うが、愛子ちゃんは俺の子供でもないし、あんた等の離婚前に章子さんとは会ったことさえない。いいか、俺はあんたの後輩なんだぜ、裏切るわけがない。」
一瞬、佐久間の動きが止まった。飯島を凝視している。飯島はこの期を逃さなかった。
「佐久間さん、和子は妊娠していた。もし襲われていたら、子供は流産していただろう。その子供は俺の子供じゃない。だけど、和子が生まれて始めて神様から授かった大切な子供なんだ。いいか、和子はもう俺の女房じゃない。二度と手を出すな。今度、何かあったら、本当にあんたを殺すぞ、分かったか。」
佐久間は尚も飯島を凝視している。そして、ふっとため息をつくと、踵を返しドアに向かった。飯島が叫んだ。
「おい、分かったのか。和子はもう俺の女房じゃない。二度と手をだすな。やるなら、俺をやれ。おい、分かったのか。」
佐久間は立ち止まり、振り向こうともせず言葉を発した。
「ああ、そうするよ、我後輩、飯島よ。びくびくしながら生きろ。小包だって何が入っているか分からん。最近はやりの小包爆弾ってこともある。兎に角、用心することだ。」
飯島は、足を引きずる佐久間の後姿を見つめた。そして心の中で罵声を浴びせた。「狂人野郎。貴様などにやられてたまるか。」と。
佐久間が部屋を出ると同時に、斎藤が恐る恐る顔を覗かせた。飯島は、斎藤の相手をするほど心の余裕はなかった。
「斎藤さん、そのことは、いずれ相談にのるよ。でも、今日のところは勘弁してくれ。」
斎藤の情けなそうな顔が、ゆっくりとドアの後ろに隠れた。
飯島は、佐久間が和子襲撃に関わっていたことがショックだった。もしかしたらと思って、かまを掛けたてみたのだが、佐久間はあっさりとそれを認めた。一体何がどうなっているのか。
最初に二人で飲んだ時、佐久間は昔と変わらぬ友誼を示してくれた。最後には手を握らんばかりに、愛子ちゃんのことを「後を頼んだよ。」と言っていたではないか。それが、どう転んであんな態度に変わってしまったのか。
飯島が何かを企んでいたと言っていたが、察するところ、章子が佐久間に高額な保険でも掛けたとか、その類の話であろう。それを飯島の企みと勘違いした可能性はある。女房が旦那の死期を悟れば、保険の掛け金を増やすことぐらい十分考えられるからだ。
いずれにせよ、和子を襲ったと認めたのだから、放置するのは危険すぎる。警察に通報するしかないのかもしれない。飯島は受話器を取り、病院で会った刑事に電話を入れた。
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