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無明のささやき

作者:ミジンコ
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第四章

 柱の鏡に映る自分の顔をじっと見ていた。憂鬱そうな顔は、まるで生まれてこのかた、そこにへばりついたかのようだ。飯島は、目の前で俯いている男に気付かれぬよう、笑みを浮かべようとしたのだが、鏡に映る顔はただ歪んだだけだ。既に笑顔も忘れている。               
 赴任から三ヶ月、夏もいよいよ本番だというのにクーラーが故障ときている。額の汗を掌で拭い、坂本を呆れ顔で見詰めた。もう言葉もない。飯島が声を荒げた。
「坂本さん、もう、断崖絶壁に立っているんですよ。これ以上、私に言わせないで下さい。年率30%近い金利を払って、どうしてやっていけるんですか。坂本さん、ここで、終止符を打たなければ家族全員野垂れ死にですよ。分かっているんでしょう。」
こう非難されても、坂本はただうな垂れて、溜息をつくばかりである。飯島は思った。こんなふうにして、人間は常軌を逸して行くのだ。坂本の首がゆらゆらと揺れている。かつて坂本は飯島の上司で、有能な管理者であった。
 坂本は、どんな場面においても冷徹な営業手法を的確に指示した。そんな時、その目には長年の経験からくる自信に漲っていた。人の心を感じ取る能力が営業には求められる。坂本は学歴こそなかったが、その能力は抜群であった。
 人間には二つの能力がある。一つは右脳の感性、今一つは左脳の論理である。学歴は左脳の論理力と記憶力とを示す目安に過ぎない。坂本はどちらかと言えば右脳の直感力、或いは営業的感性を磨き上げ、名古屋支店長まで登り詰めたのだ。
 その坂本が、今、自分の置かれている状況を全く理解していない。その原因を正せば、執着である。物に対する執着こそ、人を狂わせる元凶なのだ。その執着の中でも、最も大きな元凶は家、マイホームなのだ。
 坂本は名古屋支店長時代、バブルの最盛期に支店から程遠くない町に自宅を購入した。飯島が名古屋支店営業部長になって2年目の夏である。「転勤は営業の宿命。自宅は持たない。」これが坂本の言い草だった。
 そんな信条を、坂本は、いつしか捨てていた。単身赴任していた飯島も坂本の家に何度か寄せてもらった。その時の、坂本の満足げな顔が思い出される。飯島は意を決して言った。
「坂本さん、自宅を手放しなさいよ。それしかない。息子さんには奨学金を取らせて、学費はアルバイトさせれば何とかなる。奨学金は月に最高10万円くらい貰えるそうです。その案内資料をとりよせておきました、これです。」
資料をテーブルに置いたが、坂本は手に取ろうともしない。沈黙が互いに噛み合わぬ二人を包んでいる。ぽつりと坂本が言った。
「飯島さんは、自分の元部下ばかり、面倒をみてるって、皆言っている。元上司には、いい就職口を紹介出来ないってわけだ。」
「坂本さん、そうじゃないですよ。56才という歳を考えてください。このあいだ決まった福島や宮木はまだ40代初めですよ。まして今時この月給に、更に20万円上乗せする企業なんて、日本中捜したってありませんって。」
その時、デスクの電話が鳴った。飯島はほっとして立ち上がり受話器を取った。坂本を振り返ると、とぼとぼと部屋を出て行こうとしている。飯島は受話器を押さえ、怒鳴った。
「坂本さん。それじゃ、この就職口、誰かに譲ってもいいんですね?」
坂本は、返事もしないで、ドアを出ていこうとしていた。手には奨学金の案内を握っている。飯島は溜息をついて電話に出た。
「もしもし、飯島です。」
「ああ、飯島君。石倉です。」
石倉も飯島を君付けで呼ぶことに慣れてきて、ぎこちなさが消えた。飯島がセンターに赴任して二ヶ月後、石倉は企画部長に出世した。その日を境に、きっぱりと君付けに変えた。支店長であれば同格だが、資材物流センター長は本社の部長より格は下がるからだ。
「どうも、」
「飯島君、どうも、はないでしょう。一月目は15人、二月目が17人、それなりに努力していると評価していたが、今月は一人も辞めてない。今月はあと一週間だが、いったい何人なんだ。」
最後の言葉がきつく、冷たい。
「そうですね、時代が時代だけに、5人くらいですかね。」
「おい、おい、ふざけんな。それじゃあ、お前は、遊んでいるのと同じじゃないか。いいか。言っておくぞ。今月のノルマも15人だ。なんとかしろ。泣き落としでも、あんたの得意な説得でも、なんでもいい。もし出来なければ、お前の首だってどうなるか分からん。」
飯島は押し黙った。顔が引きつって行くのが分かる。返事をしようとするのだが、口がわなわなと振るえているだけだ。しばらくあって、ようやく口を開いた。
「ええ、努力します。」
ガチャンという音とともに、電話は切れた。
 飯島は受話器を握り締め、くそっと呟いた。理不尽に囲まれて、そこから一歩も抜け出せない自分自身のふがいなさが悔しかった。悔しさがバネになるのは、その屈辱から抜け出す算段があってのことだ。この会社にいる限り、そんな可能性はゼロに近い。
 実を言えば、飯島は、東京支店長時代に競業他社からヘッドハンティングされており、その答えを保留にしていた。収入はかなりアップするが、当初の役職は支店長ではなく埼玉営業所長で、会社の格も下がる。それが気に入らなかった。
 それに、自分と同じように絶望に瀕した仲間を見捨てられないという事情もあった。少しでも、自分に出来ることをやってから、じっくりと再就職のことを考えようと思っていたのだ。第二の人生のスタートは、納得出来るものにしたかったからだ。
 坂本同様、年下の飯島でさえ、プライドと収入を同時に満足させてくれる就職先があるわけはない。まして、飯島のプライドは、妻、和子に対するプライドでもあった。これが飯島の転職の問題を更に複雑にしていたのである。
 飯島の妻、和子は、弁護士事務所に勤めている。収入もまあまあである。飯島にとって問題なのは、かつて和子がその収入の大半を飯島の父親の借金返済に当てていたことであった。かつて、高校教師だった飯島の父親は、50代半ばに何を思ったのか、家を担保に借金し、教育資材販売の事業を起こした。そしてあっけなく失敗した。飯島が30代始めの頃である。
 その借金は80坪ほどの土地を売れば返済でき、しかも、かなりのお金が残る。しかし、父親はそれを手放したくなかった。和子は父親の窮状と落胆を見かねて、同居を申し出るとともに、借金返済のために働きに出たのだ。
 そして和子は10年掛けてその借金を返済してしまった。飯島はそのことで女房に頭が上がらなくなったのである。飯島が出世に執着したのは、和子に対するプライドを保つためであった。せめて会社で出世すれば、和子に対して気後れしないですむ。それによってかろうじてプライドを保っていたのである。しかし、今は、ぎりぎりのボーダーラインに立っている。
 東京支店長は年齢からいっても出来過ぎであったが、降格されて、しかも資材物流センター長では如何ともし難い。和子には、いずれ本社営業部長に就くことを匂わせているのだが、その可能性は最初からないのだ。
 救いようのない孤独と絶望が飯島を襲った。焦燥が脳を駆け巡る。言葉なのか、それとも科学雑誌で読んだことのある神経パルスなのか、電気のような流れが脳の神経回路をずたずたに寸断しながら暴れまくった。誰か助けてくれ、飯島は心の中で叫んだ。
 両肘を机に着き、頭を抱え、深く息を吐いた。誰も助けてなどくれない。そんなことは最初から分かっていた。同期入社の仲間達も、飯島と似たり寄ったりか、或いは自分のことで精一杯で、他人のことなどかまってはおれないだろう。飯島を支持してくれる役員もいることはいるが、老人と銀行の出向者ばかりだ。南に対抗するなど無理な話だ。

章子に会いたい、つくづくそう思った。

 飯島は、古い手帳の住所録を取り出し、その名前を探した。章子の住所は、この古ぼけた住所録の初めの方に載っているはずだ。そして、とうとう手塚という苗字を探し出した。手塚章子、その文字から懐かしい匂いが漂う。実家に戻っているかもしれない。
 携帯の番号を押そうするが、その指先は寸前で止まった。しばらく考えていたが、結局、受話器を元に戻し、深いため息を漏らした。気持ちにやましさがあり、それが飯島を躊躇させていた。妻、和子の顔が眼前でちらついている。
 飯島は自問自答した。以前のお前は、据え膳だって食わなかったではないか。出世のためとはいえ、自分を押し殺していた。今、お前は自暴自棄になって、抑圧されていた本当の自分を開放しようというのか。
 いや、違う。据え膳を食わなかったのは出世のためではない。女房を傷付けたくなかっただけだ。そして今、救いようのない孤独から逃れたい。誰でもいい。自分を分かってくれる人に会って話したいのだ。章子なら自分を分かってくれる。
 そう自分に言い聞かせるしかなかった。深呼吸をし、意を決っしてその番号を押した。呼び出し音が響くたびに、胸が締め付けられた。章子の実家は練馬にあり、昔酔った勢いで何度か泊めてもらったことがある。いつも南と一緒だった。受話器の向こうから声が響いた。
「もしもし、手塚です。どなたさまですか。もしもし、もしもし。」
飯島は懐かしい声を耳にし、思わず心が和んだ。
「もしもし、飯島です。ご無沙汰しております。お元気ですか。」
一瞬の沈黙の後、ため息が漏れた。そして章子の母が答えた。
「懐かしいわね、飯島さん。最後に会ってから何年になるかしら。私ももうおばあちゃんになってしまったわ。月日の経つのは本当にあっと言う間ね。」
「本当です。僕もすっかり老け込んでしまいました。」
「まあ、どうかしら、いつ頃だったかしら、章子に会社のパンフレットを見せてもらったけど、あれ飯島さん載ってたでしょう。昔とちっとも変わらなくっていい男だと思ったわ。」
「よく言いますよ。ところで、」
と言って言葉が詰まった。受話器の向こうで再び深いため息が聞こえたからだ。章子に会わせたくないという雰囲気が感じられた。
「いや、何ていうか、ちょっと声が聞きたいとおもいまして。」
と言うと同時に脇から冷や汗が滲んだ。
「章子はここにはおりませんの。」
「そうなんですか。先日たまたま佐久間さんと会って、離婚のことを聞いたものですから。ちょっと心配で。」
一瞬間をあけて、章子の母が、ぽつりと言った。
「まあ、親なんて、生きている限り、子供の心配から開放されることはないってことね。まったく厭になってしまうわ。」
 どうでもよい会話がだらだらと続いたが、どうやら章子の新しい連絡先は教えたくないらしい。途絶えがちな会話は飯島の気持ちを萎えさせた。気まずく長い沈黙の後、飯島は章子に宜しくという伝言を残し電話を切った。
 滲み出た額の汗をハンカチで拭い、ふとドアの方に視線を向けると、丸みをおびた顔が覗いている。佐藤電算室長がにやにやしながら入ってきた。佐藤は本社産廃プロジェクトチームのプログラム開発のリーダーだったが、箕輪の異動と同時にここに移ってきた。
 佐藤に言わせれば南と箕輪が争った会議で、箕輪を支持する発言をしたことが異動の原因と言うのだが、箕輪は飯島からその話を聞くと鼻先で笑った。その真相を聞きだそうとしたが、箕輪はいろいろあったと言うだけで言葉を濁した。
 佐藤は、この資材配送センターに来ても、そのコンピュータの才能を発揮し在庫管理システムや配送管理システムなどを開発し、ここではいなくてはならない存在になっている。佐藤の薄い唇が動いた。
「随分と険しい顔をしてるね。天が落ちてきそうなのか?」
いつもの惚けた言葉に、飯島は思わず相好を崩して答えた。
「天などぶっ壊れてしまえばいい、なんて思うことがあります。本当に自分が情け無いですよ。」
「全くだ。その前に奴等に仕返しする機会さえ頂ければ、どうなっても構わない。たとえ天が落ちて来ようとね。」
その思いは飯島も同感であったが、あえて話題を変えた。
「システムの故障は直ったみたいですね。」
「ああ、在庫管理システムは、自分の子供みたいなものだから、何処が悪いかなんて、すぐに分かる。それより、坂本の就職、何とかならないのか。だいぶ落ち込んでいたよ。」
飯島は押し黙った。佐藤は飯島に一瞥を与え、
「まあ、年も年だし、奴みたいに高望みしていたんじゃ、どうしようもないな。俺の方は、子供も巣立ったし何とかなる。兎に角、佐藤を含め他の奴のことを頼むよ。」
と言うと、頭を下げた。
「ええ、分かりました。でも、中高年にとって状況は厳しくなるばかりです。世の中景気が良いなんていうけど、どこが良いのかって言いたくなります。」
佐藤は大きく頷きながら言った。
「そうだな、再就職したからって、中途採用者には厳しい現実が待ち構えている。世間は冷たいからな。去るも地獄、残るも地獄ってわけだ。」
二人は視線を合わさず互いに頷き合った。

 章子から連絡があったのは、実家に電話してから一週間後のことである。しっとりとした声は飯島の心を動揺させた。昔を取り戻せず、飯島の言葉はうわずった。しかし何とか会う約束だけは取り付けた。
 受話器を置くと、言い知れぬ不安とともに淡い期待がゆっくりと心の深みから浮き上がってくる。章子の面影が浮かんでは消えた。その薄茶色の瞳で見つめられると、誰もが視線を絡めとられてしまう。抜けるように白い肌を思いだし、ぶるっと体を震わせた。
 章子の言葉が、脳裏でこだまする。「三日後の金曜」、「六本木のバー」、「よく三人で行った店」。結局あいつ、南が付きまとう。飯島はため息をついた。

その当日、飯島は早引きした。6時の待ち合わせに間に合わないからだ。飯島はひさびさの活気在る都会の雰囲気に心時めかせた。六本木の街を散策しながら昔通ったバーに近付いて行った。そしてそのバーは昔の名前のまま、そこにあった。
 店に通じる螺旋状の階段を降り、重厚なドアを開けると、カウンターに肘を着く章子のけだるそうな姿を認めた。昔と変わっていない、そう思った。
 章子は飯島をちらりと一瞥し、グラスを置くと、ぎこちない表情で近着く飯島に妖艶な笑みを浮かべた。すらりと長く伸びた剥き出しの脚が、飯島の目に眩しく映った。章子は少し酔っているらしい。飯島が隣に腰を下すと、章子はすかさず口を開いた。
「しばらく、飯島さん、お元気。私は、今、最高。離婚して正解。」
「ほう、最高か、それはよかった。心配して損したかな。まあ、それはいいけど、僕の方は最悪だ。」
「会社のこと、聞いてるわ。まったく、西野のボンボン社長は人を見る目が無いんだから。飯島さんみたいに優秀な人材をあんな仕事に就けるなんて。」
「まあ、優秀かどうかは別にして、僕には不向きだ。あの連中の中には会社の躍進に貢献した人も、優秀な人材も沢山いる。それの首を切れって言うんだから、まいったよ。」
「で、実績は上がっているの。」
「いや、ぜんぜん。仕事見付けて辞めて行く奴はいるけど、俺は一人も首にするつもりはない。御役御免になるのは覚悟の上さ。後は、お上の御沙汰を待つ。会社がどれほど忍耐強いか眺めている。」
飯島は、今の立場を率直に語った。
「気楽なのね。」
「ああ、気楽なもんさ。借金ゼロ。子供ゼロ。女房働き者。」
くすくすと笑う章子の声に、飯島の心は和み、ようやく昔の人間関係を取り戻せたような気がした。飯島が聞いた。
「ところで、さっき最高って言っていたけど、佐久間さんとはうまくいってなかったの。」
「ええ、最悪だったわ。愛子のこと、自分の子供かどうか怪しいなんて言い出したの。昔、二人目作ろうと思って頑張ったけど駄目だったでしょう、そのことを思い出したみたい。最近になって、あの人、医者に行って調べたらしいの。そしたら種が薄いって言われて・・・。でも、よく聞いてみれば妊娠出来ないほど薄くはないのよ。」
飯島は、章子に会ったら聞いてみようと思っていたことを、あっさりと口にした。
「ところで愛子ちゃんは僕の子供じゃないよね?」
章子は、深刻ぶった顔を急に和らげ、にやりとして答えた。
「もし、そうだったとしたら、飯島さんと結婚しているわ。私は飯島さんが好きだったし。でも、どう考えても佐久間としか思えなかったから、佐久間に責任とってって、言ったの。」
飯島は、ふーっと吐息を漏らした。すると、急に肩の力が抜けた。章子は、
「いやだ、そんなこと心配していたの。馬鹿みたい。だから、一度も家に遊びにこなかったんだ。」
と言うと、お腹を抱えて笑い出した。その時、章子の心に若かりし頃の苦い思いが蘇った。飯島とは、一番危険な日、祈るような気持ちで肉体を重ねたのだ。しかし神様は章子の望みを叶えてくれなかったのだ。
笑い続ける章子をちらりと見て、飯島は困惑気味に言った。
「笑うなよ。なんだか、馬鹿にされてるみたいだ。でも、出産は結婚して8ケ月目だったはずだけど。」
章子はひとしきり笑うと、ハンカチで涙を拭いながら答えた。
「ええ、そう。早産だったの。でも、本当は飯島さんの子供が欲しかったなあ。でもだめだった、頑張ったけど。」
少し間をあけ、
「実を言うと、ずっと営業やっててほとほと疲れちゃったの。男供は私の足を引っ張ることしか考えていなかったし。だから子供生んで、家庭に引きこもりたかったの。三食昼寝付きが夢だったわ。」
と言うと、章子は悪戯っぽい笑みを浮かべた。その横顔をちらりと見て、飯島は少々ふて腐れぎみに言った。
「それに、南には捨てられたしね。」
ちらりと視線を向けると、章子はウイスキーを一気に喉に流し込んだ。飲み終えると、グラスの底をカウンターに叩きつけた。カンという乾いた音が響いた。章子の目が座っている。
「全く、あの野郎、頭にくるわ。二股をかけていたんだから。でも社長の娘じゃあ、かないっこないもの。」
「それを言うなら、君だってそうじゃないか。君も、佐久間さんと僕と二股をかけていた。当時、僕は本気で和子と別れようかと悩んでいたんだ。女房はそのことを未だに根にもっている。」
章子が舌を出し、笑いながら言った。
「ごめん。佐久間は入社以来の相談相手だったの。でも、これだけは信じて。飯島さんが一番好きだった。南よりも。でも、飯島さんには最初から恋人がいたしね。綺麗な人だったな。一緒に飲みにいったことがあったわ。覚えている。」
「いや。」
飯島は、和子の話題に触れたくなかった。会って話をするだけというのは言い訳に過ぎず、何かを期待する自分を意識していたからだ。やましさが心の片隅でじくじくと疼く。
視線を落とし黙っていると、章子の熱い視線を感じた。ゆっくりと顔を向けると、神秘的な薄茶色の瞳が飯島を捉え、そして優しく包んだ。飯島も微笑んだ。章子が口を開いた。
「こんな日が来るなんて思ってもみなかった。こうして二人だけで会えるなんて。嬉しい。本当に嬉しい。」
「ああ、僕もだ。」
と答えてまた押し黙った。妻、和子の顔が浮かんでは消えた。そんな飯島のうしろめたさを感じたのだろうか、章子は明るい調子で言った。
「今日は独身に戻ったつもりで、楽しみましょう。昔みたいに。いい?」
飯島は複雑な思いを吹っ切るように、
「ああ、今日は飲もう。その前に腹がへった。飯でも食いに行こう。寿司なんかどうだ。」
と言うと、立ちあがった。
「いいわよ、でも、それで終わり、ふ、ふ、ふ。」
飯島は章子の含み笑いに動揺した。まるで飯島を誘っているように思えたからだ。
「さあ、どうするか、昔みたいに歌でも歌いに行くか。」
飯島は、全てを成り行きに任せようと腹を括り、伝票を取り上げるとレジに向かった。後から声が響いた。
「まって、まだお化粧も直していないわ。ねえ、ちょっと待って。」
その甘ったるい声で、章子もその気であることを了解するとともに、ざわざわと心が震えているのを意識した。
 
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