ラ=トスカ
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第五幕その一
第五幕その一
第五幕 サン=タンジェロ城屋上
夜の闇がその暗き天幕を空から外しはじめ朝の光が世を眩しく照さんとする時であった。死刑囚が最後の一夜を過ごす礼拝堂に一人の男がランタンを持って入って来た。
制服を着ているがスカルピアの手の者達の黒いそれではない。白系統の制服である。元々サン=タンジェロ城に勤めている看守達の制服である。
看守は眠そうに目を擦っている。そして廊下の灯を一つずつ息を吹いて消しながら進んでいる。
城の中に鐘の音が入ってくる。朝の祈祷の鐘の音だ。
鐘の音とは別の音も響いてくる。これは鈴の音だ。羊達の喉に着けられている鈴の優しい音色である。
羊達を追う少年達の歌声も聞こえてくる。清らかな子供の声で歌われている。
風が動かす木の葉程多くの溜息を僕は貴女に送ろう
だが貴女はそんな僕を意に介さず僕はそれを悲しむ
ああ、そんな僕を慰める金のランプよ、御前の優しい灯も僕の心を癒せない
その歌声に城を警備する兵達も聞き惚れていた。夜の厳しい勤めを終えようとしている彼等にとってこの鐘と鈴の音、そして少年達の声は他の何にも替え難い心の癒しであった。
ランタンを左手に持ち替え右手で礼拝堂の扉を開けた。その中の一つにマリオ=カヴァラドゥッシは座っていた。
見れば自身の青い上着を身体に掛け眠っている。前の机には何か細長く薄いものが二つ置かれている。
「子爵、起きて下さい」
看守は声を掛けた。カヴァラドゥッシはその声に応じゆっくりと瞼を開けた。
「貴方の番ですよ」
「ん、少し早いんじゃないかい?」
辺りを見回しまだ暗いのを確認して言った。
「一時間あります。司祭様が貴方の最後のお祈りをお待ちです」
「それは要らないって言ったのに。律儀だね、全く」
カヴァラドゥッシはそう言って苦笑した。
「規則ですので」
「そうか。けどね、悪いけどいらないよ」
「そうですか」
「あ、ちょっと待って」
立ち去ろうとする看守を引き留めた。
「何ですか?」
「一つ聞きたいんだけど。兄は今どうしてる?」
「伯爵ですか?停戦協定を結ばれにあらためてマレンゴへ向かわれました」
「そうか、じゃあ心おきなくこれを渡せるな」
そう言って机の前のもののうち一つを看守に手渡した。
「これは?」
「兄への最後の手紙さ。こんな事もあろうかと前々から考えていたんだ。今その時になったけれどね。もう一つあるよ」
そしてもう片方の手紙も看守に手渡した。
「こちらはフローリアへ」
「トスカさんですね」
「そう。これも別れの手紙だよ。悪いけれど二人に届けてくれるね」
「はい、子爵の御願いとあらば」
「有り難う、これはお礼だよ」
指から何か外した。大きなルビーの指輪だ。
「えっ、よろしいのですか?」
「もう僕は死を待つ身、それなのに持っていても無意味だろう?気にしないでいいからチップだと思って受け取ってよ」
「・・・はい」
看守はそれを受け取った。
「じゃあ手紙の事、くれぐれも頼んだよ」
「解かりました」
二通の手紙とルビーの指輪を受け取った後看守は礼拝堂を後にした。カヴァラドゥッシ一人が残った。
「もう一時間か・・・。一眠りするか」
上着を掛けまた眠りはじめた。すぐにまどろみだした。
意識が遠のいていく。その中でカヴァラドゥッシは夢の世界へと入っていった。
夜空に無数の星々が瞬いている。その光は星の数だけ多様である。そして庭には色彩り彩りの花々と若い草木が芳わかしい香りを発している。その中に彼はいた。彼女もいた。共に楽しみ愛の言葉を交わし合うーーー。かっての素晴らしき日々の思い出だった。
「まだこの世に未練があるのかな」
カヴァラドゥッシはふと目が覚め苦笑交じりに呟いた。
「絵とアンジェロッティが気懸りだが・・・。絵は何時の日か誰かが僕の志を受け継いで完成させてくれるよう祈るしかない。アンジェロッティは・・・生きていてくれ、友よ」
再び目を閉じた。そして再び眠りへと入っていく。
「子爵、子爵」
誰かがカヴァラドゥッシの右肩に手を掛け静かに揺り動かした。ふと目を覚まし声のした方へ顔を向けた。
「ああ警部、貴方でしたか。眠っていたのですが。私に更に深い眠りを知らせる為に来られたのですか?」
「いえ」
スポレッタは静かに右手と顔を振ってそれを否定した。
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