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ラ=トスカ

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第三幕その八


第三幕その八

 椅子の正面には拷問係と記録官がいた。拷問係は暗灰色の服を、記録官は白い服を着ている。彼等の前のその椅子にカヴァラドゥッシは座らされていた。
 椅子は肘掛け椅子だった。そこに両手と身体を括り付けられている。そして三つのきっ先が付いた鉄の爪が頭に
被せられている。きっ先は赤黒い血に濡れカヴァラドゥッシに向けられていた。一つは首に、一つは右のこめかみに、そして最後の一つは左のこめかみにーーー。その三つからカヴァラドゥッシは血を流している。
「マリオ!」
 蒼白の顔でトスカは呼び掛けた。
「フローリア」
 血を流し失神さえ経ていながらもカヴァラドゥッシの態度は毅然としていた。しっかりとした表情でトスカの方へ振り向いた。
「心配する必要は無いよ。例え胸を弾丸で貫かれようが僕は死なないよ」
 微笑さえ浮かべ恋人に言った。トスカを落ち着かせ心配を取り除く為だった。トスカの気の強さと気丈さを知っていたからこそだった。彼は知らなかった。彼女の気の強さも気丈さも上辺だけのものだという事を。そしてその二つの鎧で護られた彼女の心がどれだけ脆くて弱いものであるかを。
 恋人の言葉でトスカは何とか心を持ち直した。だが恋人の姿を見てしまったのは命取りだった。スカルピアの言葉が心の隅々まで打ち続ける。これ以上自分の愛する者が苦しむのを見たくも聞きたくもなかった。限界だった。カヴァラドゥッシが倒れるより先にトスカの心が割れて砕けてしまったのだ。
「マリオ、私、もう駄目・・・・・・・・・」
 血の気なぞ微塵も感じられない死人の様な顔でトスカは恋人に言った。
「フローリア・・・・・・」
 カヴァラドゥッシは言葉を失ってしまった。今まで自分が見た事のない、想像した事もないトスカが目の前にいたからだ。
「私、もう耐えられない・・・・・・・・・」
 振り絞る様に言葉を出した。黒い瞳から涙が零れ落ちる。
「何を言っているんだ、君が何を知っているというんだ」
 幼な子の様に泣きつつ言うトスカに驚いているが必死に彼女を抑えようとする。この時彼は過ちを犯してしまった。トスカに対し『君が何を知っている』と言ってしまった。確実にトスカは何もかも知っている。そしてその何かも。
 それまでトスカといた部屋で事の成り行きを見守っていたスカルピアが動いた。まずスポレッタを顎でしゃくった。
 スポレッタが動いた。トスカの下へ走り彼女の腕を掴んだ。嫌がる彼女を恋人の前から引き剥がし元いた部屋へと連れて行った。
 そこにはやはりスカルピアがいた。部屋めでトスカを入れると扉を閉めその前に立った。
 トスカは震えていた。まるで血に飢えた獣の前に立たされた子供の様だった。
 スカルピアは半歩踏み出した。それだけで総毛立つ様だった。王手詰み。
「井戸・・・庭の・・・・・・井戸の中です・・・・・・・・・」
 震える指で窓の向こうを指し示した。スカルピアはそれに対し頷いた。
「スポレッタ」
 素早く敬礼し部屋を出る。扉を出る瞬間彼は指で十字を切ったがそれは誰にも見えなかった。
 やがて責め苦から解放されたカヴァラドゥッシが二人の警官に連れられ入って来た。頭から血を流し足取りはふらついている。しかし心はしかとしていた。
「何も言わなかっただろうね」
 強い視線でトスカを見つめる。それに対しトスカは伏し目がちで言った。
「え、ええ・・・・・・」
 その声は弱い。それを見てカヴァラドゥッシは大体の事を察した。
「井戸だ、行け!」
 あえて二人によく聞こえるように命令を出した。警官達が一斉に動く。
「フローリア・・・・・・」
 弱々しい。そこには怒りは無かった。哀しみだけがあった。
「御免なさい、私・・・・・・・・・」
 それ以上は言えなかった。涙と嗚咽に埋もれてしまったからだ。
「いやいい、いいんだ」
 責められなかった。この女は自分の為に、自分を苦しみから解き放つ為にしたのだ。そうまで自分を想ってくれる女をどうして責められようか。
(アンジェロッティ、生きていてくれ・・・・・・・・・)
 今はもう願うしかなかった。友が逃げ延びてくれるのを願うばかりであった。
 スポレッタが戻って来た。扉を閉めスカルピアに敬礼する。
「井戸はどうなっている?」
「はっ、途中に横穴があります。おそらくそこから逃亡したものかと」
「そうか。スキャルオーネとコロメッティに伝えよ。ここにいる警官の四分の三を連れて逃亡者を追え、とな。場合によってはその場で殺しても構わん」
「解かりました」
 スポレッタは退室した。扉が閉められるのを確かめるとスカルピアは二人へ視線を移した。
「さて、と。次は・・・」
 その時一人の警官が駆け込んで来た。
「何事だ、騒々しい」
 肩で息をしている。よく見ればファルネーゼ宮に残してきた警官の一人だ。
「長官、一大事です」
「何だ?王妃からの御命令か?」
 それはそれで厄介である。またあの公爵夫人が有る事無い事王妃の耳にいれたのだろうか。
「いえ、マレンゴの事です」
「勝ったではないか」
 少し安堵した。またぞろ無理難題を押し付けられるのではないかと内心気にかけたのだ。
「敗戦です」
「あの小男が、どろう」
「いえ、我が軍がです」
「何っ!?」
「やったぞ!」
 その報せにカヴァラドゥッシは飛び上がった。余りの喜びに我を忘れている。
「勝ったぞ、勝利だ。自由の旗がこのローマに再び立てられる日が来たのだ」
「くっ・・・・・・・・・」
 スカルピアは悔しさで顔をしかめた。それを見てカヴァラドゥッシは続けた。
「苦しみを受けたがその後にこの様な喜びが訪れようとはな。これでアンジェロッティも助かる。長官、貴方も王妃に睨まれぬうちにシチリアへ帰るんだな」
「ぐぐっ・・・・・・」
 顔を紅潮させるがすぐに気を収めた。そしてトスカに視線を一瞬向けた後冷静な口調で言った。
「その続きは場所を変えて聞かせて頂きましょうか。絞首台でね」
 指を鳴らす。警官が二人近寄りカヴァラドゥッシの両腕を押さえようとする。カヴァラドゥッシはそれを振り払い自分で歩いて行く。
「さあ貴女も」
 呆然とするトスカを有無も言わさぬ態度で連れて行く。後には誰も残らなかった。
 従僕達は何処へ行ってしまったのだろうか。邸には人の気配が全く無かった。静寂が時を支配しようとしていた。
 窓が大きく開いた。バタンと音がする。
 風が吹いた。ゆらゆらと照っていた蝋燭の炎を消し去ってしまった。
 数台の馬車が遠ざかる音がする。そして全ては暗闇の中に消えた。


 裁きを下すべき方が席に着かれる時
 隠されていた事柄は全て露となり
 誰もがその報いを避けられぬ
 
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