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ラ=トスカ

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第二幕その六


第二幕その六

「フローリア、貴女も」
 王妃に誘われトスカもバルコニーへ進んだ。そして王妃にやや遅れてバルコニーへ姿を現わした。
「王妃様万歳!王妃様万歳!」
 バルコニーに王妃が姿を見せたのを認めるとローマの市民達は更に声を大きくして叫ぶ。王妃は喜び手を振っている。
「トスカ!トスカ!」
 トスカにも声が送られる。トスカも恥ずかしそうに手を振る。
 声は続く。やがて別の声も混ざってきた。
「フランスを倒せ!共和主義者を倒せ!アンジェロッティを倒せ!」
 最早市民達の中にもアンジェロッティを快く思わない者がいた。多くの者にとってフランスと同じく共和主義者もまた歓迎されざる者達だったのである。
「聞きましたか男爵。ローマの者達はアンジェロッティの首を求めていますよ」
 王妃がすぐ後ろに控えていたスカルピアに声をかけた。広場の民衆はスカルピアの姿を認めると言葉を変えた。
「スカルピアを倒せ!スカルピアを倒せ!」
 スカルピアの評判は共和主義者達のそれよりも悪かった。シチリア出身の成り上がり者でその上得体の知れぬ柄の悪い者達の主であるからそれは至極当然であった。
「今度はそなたの首」
 王妃の言葉に広間にいた者も広場にいた者も皆笑った。スカルピアは苦虫を噛み潰した様な顔になった。
 王妃がバルコニーから去るとトスカもスカルピアも広間へ戻った。トスカは先程フランスの司教が後ろ姿だけ見た紅衣の男に声をかけられた。
 茶がかった金の髪に猫の様な緑の瞳を持っている。知的だが何処か悪戯っぽさを含んだ顔立ちをしている。左手には何やら不思議な色の指輪がある。紅の衣は一見絹に見えるが絹ではなかった。この様な衣は今まで見た事が無かった。何の生地で出来ているのだろうかと考えた。
「この衣ですか?牛の乳から作ったのですよ」
 男はトスカの思っている事を読んだかのように言った。
(何でこの人私の考えている事が分かったのかしら?)
 トスカはそう思ったが別に不思議だとも考えなかった。純真な彼女は自分の考えている事をよく当てられたりしたからだ。それよりも牛の乳から服が作られた方がより不思議であった。
「牛の乳、からですか?」
「はい。少しコツがありましてね。まあいずれ皆が着るようになりますよ」
「はあ」
 男の悪戯っぽい笑みとその言葉に狐につままれた様な気になった。牛乳とは飲むものであり加工して食べるものなのにどうやって。どうしても理解出来なかった。からかわれているのかと思った。
「おっとっと、からかいに来たのではありませんよ」
「はい」
 また読まれた。それ程表情は出していない筈なのに。
「実は貴女にお渡ししたい物が一つありましてね」
「何でしょうか」
「これです」
 懐からある物を取り出した。それは銀色に輝く大きな十字架であった。
「十字架、ですか」
「はい。貴女にはよく似合うと思いまして。きっと貴女を御護り下さる筈です」
「よろしいのですか?私なぞに」
「貴女だけではありません。貴女の愛しい人も御護り下さいます」
「そうでしょうか。あの人はあまりこういった事は・・・・・・」
 少し苦笑した。だが男は自信を湛えた満面の笑みで答えた。
「そんな事はありませんよ。この十字架に貴女と彼はきっと感謝する筈です」
「そうでしょうか。でしたらあの人が私にだけ振り向いてくれますように」
 そう言って十字架を受け取り十字架に対して祈った。そして男に対し礼を言った。男はそれに返礼をすると人ごみの中へ入っていった。
 スカルピアは広間の端の方で思案に耽っていた。今自分の置かれている状況とそれに対する対策である。
(アンジェロッティに逃げられた事は痛いな。オルロニア公爵夫人はここぞとばかりに陛下に讒言してくる。今この場でも)
 オルロニア公爵夫人の方を見る。こちらをチラリ、チラリと見ながら王妃に何やら囁いている。
(公爵夫人だけではない。この広間にいる奴等も下の広場にいる連中も皆このわしを地獄に叩き落そうとしている。糞っ、あのイギリス女が妙な事を言わなければこの様な事にはならなかったというのに)
 忌々しげに飲みかけの杯を置く。長く溜息を吐いた。高ぶりだしていた気が落ち着いてきた。
(落ち着け。だとすれば逃げた男を捕まえれば良い。おそらくマリオ=カヴァラドゥッシが匿っている筈だ。あの男を探し出せばそこにアンジェロッティもいる。だが用心深い奴の事だ。姿を現わす頃にはアンジェロッティは高飛びしている。奴は無理にしても奴の妹ならこの扇を証拠にして捕まえられる)
 懐から扇を取り出し手に取る。
(とにかくカヴァラドゥッシの居場所を突き止めなければならない。知っているとすれば・・・・・・・・・。使用人共は誰も知らん。おそらく秘密の隠れ場所にいるな。だとすれば兄のアルトゥーロ=カヴァラドゥッシ伯爵、は無理だな。もうマレンゴへ向かった。それに伯爵に感づかれてはまずい)
 もう一つ厄介な事に気付いた。カヴァラドゥッシの兄に気付かれては全てが終わるのだ。
(オーストリア軍きっての将だ。こちらからは手出しが出来ぬ。唯でさえわしが弟をマークしている事に不快を示しているというのに。アンジェロッティに逃げられぬうちに伯爵に気付かれぬ様に。わしの首が飛ぶより速く、か。さてどうしたものか)
 扇から目を離し考え込んだ。ふとトスカが目に入った。何やら多くの淑女達と話し込んでいる。
(トスカはあの男の恋人だ。だとすれば奴の隠れ家も知っているやも知れぬ。だがどうすれば)
 その時ある考えが脳裏に閃いた。
(そうだ、トスカは情熱的で直情的な女だ。奴が女にもてるのみいつも焼き餅を焼いていたという。それを使おう。それに・・・)
 先程の歌を唄った時のトスカの姿が思い出された。トスカに対し邪な欲望が首をもたげはじめていた。
(あの男が消えればわしのものに出来るかも知れぬ。獲物が多くなるかもな)
 顔がドス黒くなる。鉄仮面の様に表情に乏しい顔だがそれが変色していく。
(だがどうするかだ。待てよ)
 手にする扇に気付いた。そしてある劇を思い出した。
(この前見た『オセロー』とかいうイギリスの劇でイヤーゴという男はハンカチを使って事を運んでいたな。それではわしは扇を使うとするか)
 再びトスカに目をやる。何も知らずに楽しくお喋りに興じている。
(あの女が嫉妬深ければおそらく一直線にカヴァラドゥッシの下へ行くだろう。嫉妬に狂った女鷹に比べれば警官なぞものの数ではないわ)
 笑みを仮面の下に隠しながらトスカに近付いていく。スカルピアを見て淑女達は潮の様に引いていく。
 手を取った。あえてわざとらしく親しそうに言った。
「トスカさん、貴女のこの美しい手に冷たい手錠を架けるのも、あのサン=タンジェロ城へ送るのも全て私の一存でどうとでもなるという事を御存知ですかな」
 露骨に脅しをかける。普段は陰に陽に仕掛けるがあえて露骨に仕掛けた。その言葉を聞いた者は思わず顔を顰めた。スカルピアはこういった言葉を出す時必ず罠を張っているからだ。そして当のスカルピアは周りの視線を無視した。
 
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