アンドレア=シェニエ
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第一幕その四
第一幕その四
「おい、それは酷いぞ」
フィオフネルリはそれを聞き少し怒ったように見せた。勿論本気ではない。声もやはりかん高くユーモラスである。
「ははは、これは失敬。この通り明るくてユーモアのわかる人物です」
「このような底意地の悪い男と付き合っているとそうもなります」
彼はフレヴィルに嫌味を言いながら自己紹介をした。やはり彼はユーモラスな人物である。
「続きましては若き外交官にして詩人」
フレヴィルは続けてもう一人の男を紹介した。
「アンドレア=シェニエです」
「はじめまして」
シェニエと呼ばれたその男は軽く会釈をした。銀の髪に黒い瞳を持つ細面で端正な顔立ちの男である。その彫のある瞳は優しいが強い光を放っている。あまり背は高くないが姿勢がいいのだろう、堂々としている。そして青いイタリア風の服を着ている。そのタイは赤くそこから白いシャツが見えている。
「・・・・・・・・・」
マッダレーナはその姿を見て暫し呆然とした。まるで何かに魅入られたかのようであった。
「マッダレーナ」
伯爵夫人はそんな彼女に声をかけた。
「あ、はい」
彼女はそれに気付き不意に言葉を返した。
「挨拶をなさい」
「はい、申し訳ありません」
彼女は慌ててシェニエに挨拶をした。
「申し訳ありません、無作法な娘でして」
「いえいえ、決してそうは思いません」
シェニエはそれに対し微笑んで返した。
「見たところしっかりした方でいらっしゃる」
「そうでしょうか」
伯爵夫人はシェニエの言葉に苦笑した。
「世間知らずというのなら同意いたしますけれど」
「そんなことはありませんよ。芯は非常に強いと見受けられます」
「またそんなご冗談を」
「奥様、私は冗談は申しません。こう見えてもかっては軍人でありましたから」
「そうなのですか?」
「はい、海軍におりました」
実は彼の生い立ちは複雑であった。フランスの外交官である父とスペイン系ギリシア人である母との間に生まれた。場所は当時父が赴任していたオスマン=トルコの首都コンスタンチノープルであった。フランスとはかなり異なった場所、そして状況で生まれ育ってきた。
海軍には幼年学校に在籍していた。だが後に陸軍の連隊に士官候補生として入隊している。そして今は外交官をしている。当時のフランスの貴族社会がそうであったように落ち着かずその才をいささかもてあましていた。そしてその才を詩に向けるようになったのである。
「といっても陸軍にもおりましたが」
彼は微笑んでその経歴を話した。
「あら、それは」
伯爵夫人はそれを聞いて笑った。
「面白い経歴ですわね」
「はい、私自身はつまらない人間ですが」
彼はここでジョークを言った。そこで一人の法衣に身を包んだ男が入って来た。
「おお、修道院長!」
マッダレーナの父である伯爵がその法衣を着た男の姿を認めて声をあげた。
「伯爵、呼ばれに応じ参りました」
修道院長は伯爵に笑顔で答えた。実は彼はマッダレーナとは縁者である。
「パリから来られたのですね」
「はい」
彼は伯爵夫人に答えた。
「如何でしたか、ベルサイユの様子は」
「それですが」
彼はここで表情を暗くした。
「何かあったのですか?」
「それが・・・・・・」
明らかに何かがあった。その証拠に修道院長の顔はどんどん暗くなっていく。
この時フランスの置かれている状況は厳しいものであった。財政は破綻し国王ルイ十六世には国政を舵取りする能力はなかった。そして貧富の差は隔絶たるものがあった。
ここで問題となrのはフランスの土地である。欧州の土地は痩せている。欧州第一の農業国であるフランスですら常に餓死者を出していた。我が国はこの時江戸時代であったが三回大きな飢饉を経験している。宝暦、天明、天保の三回である。特に天明の時の東北の事情は悲惨としか言いようがない。だが一説には人口は殆ど減らなかったらしい。それだけの力が東北にもあったのである。
だがフランスは違う。パリは東北よりも北にある。冬には豪雪が襲いセーヌ河は凍りつく時もある。それ程までの気候差があるのだ。東北には凍る河はない。雪はあっても全てを凍らせるものではない。
フランスの豊作の時の餓死者はその天明の時の餓死者より多いのである。フランスの豊作とは当時の我が国では大飢饉であった。
そうした状況でも貴族達は優雅に宴を開いている。今テーブルの上にある極上の葡萄酒や豪華な鴨や鹿の料理などとても庶民の口には入らない。
こうした問題が何故放っておかれたか。誰も問題とは思っていなかったからである。その為ルイ十四世もベルサイユに宮殿を建てた。彼は別に国民から搾取しようともその生活を苦しめる為にそのような宮殿を建てたり優雅な生活を楽しんだわけではない。彼は自分自身を国家だと言った。国家は常に輝いていなくてはならない。彼も彼なりに国民を深く愛していた。そしてその期待に応えなければならないと常に思っていたのだ。
それは貴族達も同じであった。彼等も自分の領地の民を愛してはいた。中には暴虐な人物もいたかも知れない。だがそのような輩は常にほんの一部である。そうした者ばかりなら歴史は実に単純に話が進む。もう読まなくてもよい程だ。だが歴史は悪意よりも善意や理想で動くものだ。それが現実にどのようにして変わるかは別として。
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