アンドレア=シェニエ
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第三幕その四
第三幕その四
「同志ジェラール、アンドレア=シェニエへの告発状です」
その手にある書類をジェラールに手渡した。
「先程捕まったという話が出た詩人だな」
「はい。同志ロベスピエールはすぐに彼の処断を貴方とフーキエ=タンヴィルに任されました」
「タンヴィルか」
タンヴィルは革命裁判所の検察官である。大地主の家に生まれ最初は裁判所の検事だった。だが今では革命裁判所にいる。同じ検事といってもこの裁判所の検事は通常のそれとは違っている。
彼は革命の敵をギロチンに送る死の宣告人であったのだ。実際に彼によって多くの者がギロチンに送られた。
それは王党派やジロンド派だけではない。仲間である筈のジャコバン派も。彼の手により多くの者がギロチン台の露と消えているのだ。
人々は彼をこう呼んでいた。
『死の水先案内人』
『ロベスピエールの鎌』
と。その名は将に死そのものであった。
「同志タンヴィルは既にサインを済まされています」
「そうか」
それは死刑のサイン以外なかった。タンヴィルの書く言葉は全て死を意味するものだからだ。
「ではあとは私がサインをするだけだな」
「はい、これでまた革命の敵が一人この世から消え去ります」
若い党員は純粋な笑みを浮かべてそう言った。
「そうだな」
ジェラールはそれを見て言った。
(君にはまだわからないか)
そして心の中でそう呟いた。
「少し時間をくれないか」
そして彼に対してそう頼んだ。
「何故でしょうか」
「演説をして帰ってきたばかりだ。休ませてくれ。サインはすぐにするから」
「わかりました」
若い党員はそう言って頭を垂れた。そして部屋を後にした。
「ではこれで」
「うん」
党員は去った。部屋にはジェラールだけとなった。
「サインか」
彼はその書類に目をやった。封筒に入れてある。
封筒を開けた。そして中を取り出した。
そこには確かにシェニエについて書かれていた。彼の死刑に同意するかどうか。告発状とはいうがその実は死刑を承認するサインであった。それがジャコバンの告発であり裁判であった。
告発状をさらに見る。下の方にサインがあった。
「タンヴィルの字だ。間違いない」
そこには確かに彼のサインがあった。死刑に同意するかどうか、ロベスピエールの名で問われている。タンヴィルはそれに同意のサインを書いていた。
「やはりな」
彼はそれを見て言った。椅子に腰を下ろしふう、と溜息をついた。
「俺がサインをすれば全てが決まる。そう、彼はすぐに断頭台行きだ」
そして書類を手に取った。
「この書類一枚で彼の命が決まるのだ。あとは形式だけの裁判が行われそれまでの多くの者と同じ運命を歩む。いつもと変わることなく」
いつもと変わらない、それがジャコバンのやり方であった。彼等は自分達に逆らう者は誰であれ許さないのだ。
毎日多くの者が断頭台に送られる。タンヴィルは狂った様にその書類にサインをする。そして次にサインをする者の一人が彼でもあったのだ。
「何時やっても嫌な仕事だ」
彼はこの仕事が回ってきた時常に心の中でそう呟いた。彼は血を好まなかったのだ。
「今日か明日には決まる。俺のサインで」
ペンを手にする。そして呟いた。
「祖国の敵、実にいい言葉だ。誰もが納得する」
書類にペンをつけた。
「コンスタンティノープル出身、士官学校にいた。格好の経歴だ。しかもジロンドに共感している。いつものパターンか。そのうえ」
ペンを走らせる。
「詩人だ。言葉で扇動し人々を惑わせる。実にいい。ここまであって死刑にならない方がおかしい。今の時代ではな」
ここでペンを止めた。そしてさらに呟いた。
「俺は何をやっているのだ。俺があの時屋敷を飛び出て理想を目指したのは何だったのだ」
五年前のあの日が甦る。最早全てが懐かしい。
「父を連れて屋敷を飛び出した。そして革命に身を投じた。俺は新しい時代を切り開く自由と平等の戦士の筈だった。そう、俺は革命の子だったのだ」
目の前に今までの光景が思い浮かぶ。ロベスピエールとの出会い、テニスコートの誓い、三部会。その全ての場面に彼はいた。そして理想を胸に戦っていた。
だがその理想の行き着く先は何であったか。
「しかし俺はここでも下僕だった。革命に仕える下僕だ。そして革命の名の下に罪なき者を殺す。何故だ!何故こうなった!」
彼は叫んでいた。
「殺しながらも俺は泣いている。罪なき者の血でこの手は濡れている。もう消えることはない血に濡れている」
その手を見る。ペンも書類ももう目に入らない。
「理想とは何だったのだ。俺は自由と平等、そして博愛が支配する世界を望んでいた。だがそれは血に塗られた恐怖の世界だった。かっての王の時代よりも遥かに陰惨で血生臭い世界だった」
多くの者が死んだ。彼は常にそれを見てきた。
「全ての人が幸福に暮らせる世界、それを目指していたというのに。俺が今いるのは悪夢と恐怖と絶望が支配する暗黒の世界だ。俺は理想とは全く逆の世界にいるのだ」
彼は泣いていた。涙は流してはいない。だが心で血の涙を流していた。
「俺は間違えてしまった。だが後戻りは許されない。俺にはやらなければならないことがある」
そして書類を見た。
「それは死の鎌を振り下ろすことだ。最後に俺の首に振り下ろされるその日までな」
自分の運命を悟っていた。ジャコバン派は仲間であろうが容赦はしない。疑わしい者はすぐに消える運命なのだ。
サインを終えた。その時だった。
「同志ジェラール」
また扉をノックする音が聞こえてきた。
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