アンドレア=シェニエ
しおりを利用するにはログインしてください。会員登録がまだの場合はこちらから。
ページ下へ移動
第一幕その一
第一幕その一
第一幕 伯爵家の居城
革命による血の帳がフランスを支配する前である。貴族達は今日も何時まで続くかわからぬ宴を楽しんでいた。
よく搾取だ、収奪だの言われる。だが当時のフランスではそれが普通だったのである。貴族達は確かに贅沢の中に身を浸してはいたがそれが彼等を悪と断罪する根拠にはならない。
それが当時のフランスの社会だったのである。こう言ってしまえば責任逃れになるが社会そのものに矛盾があった。
しかしその矛盾は徐々に正していかなくてはならないものである。一挙に多くの者を悪と決めつけ断罪したならば人はそれで地獄の裁判官達と同じになってしまう。
だが今未来の血の世界を誰も知らなかった。そして今は宴の用意が行なわれている。
みらびやかなサンルームである。黄金色の日の光が差し込み大理石の壁と床、金や銀、様々な宝玉で飾られた部屋を照らしている。その中を綺麗な服を着た男達が動き回っている。
「そう、それはそこに」
その中央に一際立派な服を着た男がいて他の者に指示を出している。この家の家令だろうか。
皆彼の指示に従い家具や植木鉢を動かしている。どうやら今夜の宴の準備のようだ。
「植木鉢は何処に置きますか?」
制服の男の一人が彼に問うた。
「そうだなあ」
彼はそれを聞いて考えた。
「あっちに置いて」
そして部屋の隅を指差して指示を出した。
「気をつけてな。割っても大変だし御前さんの身体も傷つけてしまう」
「わかりました」
思ったより優しい家令のようである。他の者のことも気遣っている。
「あ、ジェラール」
家令は側にいる長身の男に声をかけた。
「はい」
ジェラールと呼ばれたその男は答えた。黒く豊かな髪に彫りの深い精悍な顔立ちをしている。身体つきもいい。
だが特に彼の外見で印象的なのはその黒い青がかった瞳である。知性をたたえ情熱が溢れ出るようである。この場ににつかわしぬ程の強い光をたたえた瞳である。
「君はこのソファーを向こうに置いてくれ」
そう言って側にあるソファーをポンと叩いた。
「わかりました」
彼は頷いてそのソファーを手にとった。
「あとは・・・・・・」
家令は色々と考え指示を出した。そして準備はすぐに終わった。
「これで大体終わったかな。よし皆、休憩といこう」
「わかりました」
使用人達は笑顔で答えた。
「奥方がおやつを用意してくれている。それでもいただこう」
「お菓子ですか?」
使用人達はそれを聞いて目を輝かせた。
「ああ、何でもとびきり上等のものらしいぞ。我々に特別に差し上げてくださったんだ」
「有り難いなあ、本当に優しい奥方様だ」
この家の主人もその妻も心優しい主として知られている。報酬は弾むし何かと親身になってくれる。だから使用人達には評判がいい。
「そう思うだろう。わし等が今こうしていられるのも御主人様や奥方様のおかげだ」
家令は笑顔で言った。皆その言葉に頷く。
だが一人だけ別だった。ジェラールだけはその言葉に背を向けていた。
「じゃあ行こう。甘いお茶と美味しいお菓子がわし等を待っているぞ」
「はい」
彼等は部屋を出ようとする。だがジェラールだけは出ようとはしない。
「おや」
家令がそれに気付いた。
「ジェラール、君も来いよ。折角の奥方様からのご好意だぞ」
「いえ、甘いものは苦手ですので」
彼はそう言って断った。
「そうか、なら仕方ないな」
家令はそれを聞いて言った。
「じゃあ一人でゆっくり休んでいてくれ。わし等は向こうにいるから」
「はい」
ジェラールは彼等を見送った。
「本ばかり読んでないでたまにはわし等と一緒にくつろぐのもいいぞ」
彼はそう言ってサンルームをあとにした。そしてその場を他の者達を連れてあとにした。
「さてと」
彼は空いている場所に腰掛けようとした。だが側にあるソファーを見下ろした。
「御前は気楽なものだな。そうやってそこで貴族共の相手をしていればいいのだからな」
彼のその声は嫌悪に満ちたものだった。
「あのキザで鼻持ちならない連中の相手はさぞ楽しいことだろう。昨日もあの若い嫌味な修道僧が付けボクロをした男爵夫人に声をかけるのを楽しそうに見ているだけだった」
彼は貴族達を心の奥底から嫌悪していた。いや、それは憎悪であった。
「厚化粧をして滑稽な髪形をしたあの忌々しい女達。あの連中の情事を受けていればいいだけだしな」
当時のフランス貴族達はロココの中に溺れていた。酒と飽食、そして荒淫の世界に住んでいたのだ。
それに対して民衆の生活は質素なものであった。ジェラールはそれが許せなかったのだ。
「神がそれを許すというのか!?だったらそんな神なぞいらない。俺は俺の信念のままに生きたい」
正義感の強い男であった。そして生真面目であった。
そこに一人の年老いた男が入って来た。ジェラールと同じ服を着た白髪で皺だらけの顔をした小柄な老人だ。
「お父さん」
彼はその老人に声をかけた。
「おおジェラールか。皆はどうした」
「向こうで休憩をとっています。何でも奥方様からいただいたお菓子があるとか」
「そうか、それは有り難いのう」
彼はそう言うと歯の殆ど残っていない口を開けて笑った。
「いつもあの方にはよくしていただいている。それに報いなければのう」
彼の父は善良な男であった。ジェラールは幼い時に母を亡くし以後男手一つで育てられてきたのだ。
「庭の方は終わったぞ。御主人様も奥方様もわしが手入れした庭が一番じゃと言って下さる。有り難いことじゃ」
「そうですね」
ジェラールの返答は何処か空虚だった。
「ではわしも休ませてもらうとしよう。この身体も時には休みが必要じゃ」
彼はそう言うと家令達が入っていった扉を開けた。そしてその中にゆっくりと入った。
「そうして六十年もこの城にいるのですね」
ジェラールは父の後ろ姿を見送って言った。
「あの高慢な連中の為に汗を流し何もかもを捧げてきた。自分の妻の死に目にも遭えなかったというのに不平一つ言わなかった」
そんな父だからこそ彼は尊敬することができた。愛することができたのだ。
「それをあの連中は当然のように考えている。我々は仕え、跪くのが当然だと思っている」
彼はここでサンルームを見渡した。
「虚構と偽善に満ちた部屋だ。所詮は幻影に過ぎない」
その黒い瞳には怒りが浮かんでいた。
「絹やレースで着飾ったあの愚かな連中が笑い合い踊るこの場に一体何があるというのだ、何もないではないか」
呟いているだけで怒りが満ちていく。
「そして楽しい音楽にうつつを抜かしているがいい。そのうちに貴様等は自らの下僕に裁かれるのだ。そして行く先は処刑台だ」
もし誰かに聞かれたらただではすまないだろう。しかし彼は自身の怒りを抑えることができなかったのだ。
そこへ何人かやって来た。三人いる。
ページ上へ戻る