アンドレア=シェニエ
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第二幕その四
第二幕その四
「僕は嘘は言わない、これは神に誓おう」
彼もまた正直な男であった。
「この手紙の出所はある小さなサロンだ。何か退廃的な匂いがする。そしてその裏に僕は火薬の匂いを感じたんだ」
「それは君の杞憂だ」
「いや、僕はそうは思わない」
彼はそう言うと首を横に振った。
「君の運命は今虎の牙の中にある。すぐにそこから逃げ出すんだ。さあ、この通行証を手にとって」
そして再びその通行証を手渡そうとする。
「いや、私はそんなことは信じない」
しかしシェニエはそれを受け取ろうとしなかった。
「君が信じる、信じないの問題じゃないんだ、僕は君を救いたいんだ」
ルーシェは無理にでもその通行証を渡そうとする。しかしシェニエはそれを受け取らなかった。
「このパリがどんな街か君も知っているだろう」
ルーシェは言った。
「昔から酒と淫らな宴が支配してきた街だ。浮気な女がそいじょそこらにたむろしている」
「だが彼女は違う」
シェニエはその言葉を否定した。
「違わないさ、だが僕はそれを君に見せようとは思わない」
そして言葉を続けた。
「君にこの通行証を受け取ってもらうだけだからね」
「だからそれは受け取れないと・・・・・・」
「頼む、これは僕の命なんだ」
ルーシェは自らの命のことまで出した。
「これを手に入れる為にどれだけ苦労したか・・・・・・。僕はまずこれを手に入れたんだ。自分のものになぞ目もくれず」
「ルーシェ・・・・・・」
シェニエはここでようやく友の気持ちを理解した。彼は自分が助かることよりまず友を救うことを優先させたのだ。
「受け取ってくれるね」
「うん」
シェニエはようやくその通行証を受け取った。その時だった。
「ん!?」
そこでペロネ橋の方から騒ぎ声が聞こえてきた。12
「何だいあれは」
「有り難いな」
ルーシェはそれを見て微笑んだ。
「シェニエ、天の配剤だ。どうやらジャコバンの奴等が来るらしい」
「奴等が」
シェニエはそれを聞いて顔を顰めさせた。
「彼等は何故あんなに熱狂的に処刑台を迎え入れることができるのだろう」
彼は群集を見た後首を悲しそうに横に振って言った。
「かっての貴族達に仕え今は処刑台に仕えている。これでは何も変わらない。いや、さらに悪いじゃないか」
「シェニエ」
ルーシェは言葉を出す彼を心配そうに見ている。
「そんなことを言っている時じゃない。すぐにここから立ち去るんだ。皆の気があちらに向いている間に。さあ」
「いや」
だがシェニエはまた首を横に振った。
「私はあの者達を見ておきたい」
「何故だい!?」
「私の敵がどの様な連中かをね。いいかい」
「馬鹿なことを言う」
今度はルーシェが首を横に振った。
「彼等に見つかったら大変だぞ」
「その時はその場で立ち向かうさ。そして堂々と言ってやる。私の主張が間違ってはいないと。そう」
彼はここで顔を上げた。
「彼等が正しければ私を殺す理由はない。私を疎ましく思い排除しようとするのは彼等の心にやましいことがあるからだ」
「そうか、そこまで覚悟があるのなら」
ルーシェも腹をくくった。
「僕も付き合おう。こうなったら乗りかかった船だ」
「有り難う」
シェニエは友に対し礼を述べた。
「いいさ。僕も奴等にとっては邪魔な存在だしね。どうせなら最後まで見てやるさ」
そして二人は橋の近くの森の陰に入った。それを遠くから見る影もいた。
「万歳!フランス万歳!」
群集達の熱狂的な声がする。向こうから質素な身なりの一団がやって来る。
質素といっても群集達と比べればかなりの差がある。それはかっての貴族達と比べてかなり質素だという意味だ。見れば青い上着に白いシャツに赤いタイ。黒いズボンと同じ色のブーツを履いている。所謂サン=キュロットだ。
そして多くの者は顎鬚を生やしている。髪は前後で短く切っている。化粧もせず当然カツラも付け毛もしていない。
これが彼等の服装であった。ジャコバン派はそれまでの貴族的な風俗を徹底的に排除していたのだ。
彼等は歩いている。何故なら彼等も民衆と同じだからだ。
「歩いているな」
「ああ」
ルーシェとシェニエはそれを見ながら囁き合っていた。
「ジャコバンの連中が質素で贅沢を嫌っているというのは本当らしいな」
「そうらしいな。彼等に腐敗はない。だが」
「だが!?」
ルーシェはシェニエの言葉に問うた。
「だからといって彼等が正しいかというとそうではない。貴族達の贅沢とはまた違った意味での悪だ」
「悪か、彼等が」
「そうだ。それはすぐにわかる。いや」
シェニエはここで言葉を変えた。
「私も君も既にわかっている筈だ」
「確かに」
ルーシェも愚かな男ではない。学生時代より啓蒙思想に親しんできた。そして革命の一部始終をその目で見てきているのだ。
だからこそ今橋の上にやって来た彼等の正体がわかっていた。彼等は自分達が言う様な存在では決してないのである。
「神と司祭達だ。姿形を変えた」
シェニエが言った。
「確かに」
ルーシェもそれに頷いた。見れば一団は中央にいる男を取り囲んでいた。
「万歳!ロベスピエール万歳!」
群集は彼の姿を認めるとさらに声を大きくさせた。そこには白い髪に青い目をした男がいた。髭はない。背はやや小柄だ。見たところ政治家というより学者の様な顔をしている。鼻は高く顔は小さい。
「何かあまり悪辣な顔立ちではないな」
「確かにな。その生活は生真面目なものだと聞いている」
シェニエの言葉は真実であった。ロベスピエールは自分にも他人にも厳しく清廉潔白な人物であった。しかしだからといって彼の思想が正しいとは限らないのだ。
「だが彼の命令一つで多くの者が死ぬ」
ルーシェはそれを聞くとゴクリ、と喉を鳴らした。
「そしてフランスはギロチンにより支配される」
革命委員会、公安委員会、革命裁判所。軍の目付け役。ジャコバン派が設けたものだ。これ等に逆らうことはそれだけで『革命の敵』とされた。ジャコバン派に異を唱えるのも『革命の敵』である。敵はギロチンに送られる。そして多くの貴族やジロンド派の後を追うことになるのだ。
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