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鋼殻のレギオス IFの物語

作者:七織
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十九話

 
前書き
いままで見たこともない光景に男の子達は驚きます。
 綺麗な川が流れている草原ではその緑をゆっくりと眺めました。
 闇の中、光る城大きな城には感嘆の溜息を零しました。
 女の子が男の子にその光景をどう思うのか聞きます。通して見るのではなく、実際にその場で、その目で見た意見も聞きたいと。
 思うがままに、聞く相手が楽しめるよう、思い浮かべられるよう知恵を絞って男の子は語ります。聞く相手が笑えるようにと。
 色んな場所を、色んな光景を語りながら男の子達は進んで行きました。

 夜になると歩くのは御終いです。
 辺り一面真っ暗なのは変わりませんが、夜は眠る時間なのです。
 眠っている間に進むのはずるいと、行く先々の世界は一緒に見るのだと言われ、男の子は歩みを止めるよう言われました。
 その通りだと納得し、男の子は歩くのを止めると約束しました。

 けれどそれは嘘でした。
 眠りきったのを確認したあと、男の子は歩き始めます。
 いくら先の光景が楽しみでも、暗闇なのは変わりません。相手も大変なのです。早く出られるに越したことはありません。
 自分が話さなければいいのです。いざとなれば場所の少し前で止まっていればいいのです。
 目が覚めた時に少しでも進んでいるように、声の相手が少しでも早く暗闇から出られるように。
 男の子は眠っているあいだも歩みを進めました。
 誰にも気づかれぬよう、静かに歩みを進めていきました。 

 
「久しぶりだな坊主。結局戻ってきちまったのか」
「おじさんまだいたんですね。お久しぶりです」

 物を受け取りながら久しぶりにあった見覚えのある男性に返事を返す。
 あれから一年と数ヶ月経っているというのにまたあの時と同じように会えたことに驚く。
 だが、思い返せば始めたばかりの時からいた様な気もする。ならば、前に出て行ったときの時点で既に一年以上はいたのだ。それから考えればおかしい話でもない。不思議に感じるのは、自分が長い間離れていたからだろうかとレイフォンは思った。
 
「随分ご挨拶だな。これでもあの時よりかは昇進して上の立場になったぜ」
「おめでとうございます。もっと上に行けるといいですね」

 一年半ぶりほどの場だ。聞こえてくる騒音にも近い声に懐かしさを感じる。
 表情が抜けていくのを理解しながら、感じる懐かしさで不敵に笑った男性に祝いの言葉をレイフォンは笑顔で言う。
 だがそれを受け、男性は口を歪ませ奇怪な物を見るような視線をレイフォンに向ける。

「坊主……お前変わったな。こんな糞みたいな場所での昇級を褒め奨励する奴じゃなかった気がしたが」
「そうですか?」
「ああ。前ならそうだな……何言えばいいかわからない曖昧な顔で「……ええと、おめでとうございます」って言うか、無表情で「良かったですね」って言うような感じだ」

 自分では変わったかなど分からないがそうなのだろうか?
 そう思いながらレイフォンは渡された物を顔に付ける。視界自体は変わらないのに、これを付けると不思議と世界が狭く感じてしまうのは何故なのだろう。身と心の重力が軽く、重りがつけられたような不思議な感じになるのが奇妙だ。
 そんなレイフォンに、男は頭を掻きながら自嘲気味に小さく笑った。

「わざわざ理由が気になるほど親しい仲でもねぇな。……しっかり稼がせてくれればそれで十分だ」

 その言葉を背に受けレイフォンは進んでいく。
 その先には頑丈に作られたステージと武器を構えた大人が一人。
 罵声に似た歓声の届く中、レイフォンは剣を復元。自分と同じく仮面をつけた相手に相対する。
 レイフォンの登場を告げる声が響き渡る。

『約一年半ぶりの復帰! 今まで何処に行っていた——ッ!! 未だ十代前半、元チャンプの少年登場だ!!! ———姿を見せぬ間に何があった? 強さは健在か? さあ、その力を見せてくれ!!!』

 やたらと強調するマイクの声に苦笑する。
 男性が言っていたが、印象づけて自分を売りたいのだろう。一年半前は用済みでも、時間が経って自分の価値が出てきたらしい。
 強すぎた性でかつてはリストラされたが、それも大丈夫だと言われた。何でも、いなくなっていた間に新しくチャンピオンの位置についた人がいるらしい。手脚甲を使う流派の人らしいが、その人が、つまり“上”の階位に人がいる間は少なくとも大丈夫だとか。
 まあ、そんなことはどうでもいい。そう思い剣を構える。
 さあ—————

『———試合開始!!』

 ———お金を稼ごうか。






 今だ日が落ちず空が明るい昼過ぎ。レイフォンは自宅である孤児院の中でテーブルに突っ伏していた。
 冷たい表面が頬にあたり気持ちいい。このまま力を抜いてのんびりとしていたい。

「久しぶりだったけど問題なかったなぁ」
「見ない間に弱くなってないか心配だったけど、大丈夫だったわね」

 突っ伏したままのレイフォンにリーリンが温めたミルクを渡す。
 ありがとー、と間延びした声を返すレイフォンにどことなく呆れた表情だが、しょうがないとリーリンは小さく笑った。
 そんなリーリンの視線を受けながら、レイフォンは砂糖入りのそれをちびちびと飲んでいく。ロクに疲れてはいないが、動いた後なので糖分補給は一応大切なのだ。

 グレンダンでは他都市から比べれば比較的頻繁に大会や試合が行われる。
 その成績によっては汚染獣戦に出ることを許されたり、より上位の大会に出ることを許可されたりもする。ある種都市内での自分の実力の位置を図る目安にもなるものだ。今日レイフォンはそれに出、今は終わって帰ってきたところだ。
 それに、というかレイフォンとしたはこちらの方が大事なのだが、大会に出て優勝すれば賞金も貰える。

 また出稼ぎの為レイフォンはここ一年半ほどの間の公式での戦績がゼロだ。
 試合や大会が多く、汚染獣の襲来も多いグレンダンにおいて一年半近く戦績がゼロ、というのは珍しい。道場や弟子を持っているわけでもなく命令で遠出があったわけでもなく、ましてや天剣でもない只の一般武芸者であるレイフォンは個人としての戦績がある種白紙に近くなっていた事でもある。
 流石に汚染獣戦参加が拒否されるとまではいかないが、数年前に出たような天剣授受者を決めるような大会に出るには再び数をこなして結果を出すしかない状態だ。
 そんな状況のレイフォンにとって、今日の試合は出稼ぎから帰ってきて一回目の試合。その為多少の緊張が(リーリンには)あったが、特に何も問題はなくレイフォンは優勝して帰ってきた。
 そうして今、レイフォンは全力でだらけながら砂糖入りミルクを飲んでいる。

 ぐでっと伸びたままレイフォンは辺りを見る。
 弟たちは思い思いに動いていて子供特有の賑やかさを感じさせる。
 慌ただしいようでゆっくりとした空間。レイフォンが試合、ないしは戦闘を終え何でもないような時間が流れるのは昔からのことで、こういった時間に身を浸すと、ああ、帰ってきたんだなと実感が湧いてくる。
 その中で、前と違った存在が視界に入る。

「………」

 その存在、アイシャは古ぼけたソファーに座り本に目を落としている。
 無表情で感情は読めないがいつもそうであるし、彼女の性格上真面目に読んでいるのだろう。レイフォンからすればかなりの速さでページを捲っている。
 賑やかな空間で静かに佇み本を読むそこは、まるで違う世界が開かれているような印象を受ける。表情を変えず動くものといえばページを捲る手だけ。まるで時が止まっている様にさえ思える。
 アイシャが読んでいるのは学習の為のものだ。それは自身の知恵と見地を広めるためのものだが、よくそんなものを読もうと思えるとレイフォンは不思議に思う。
 娯楽を目的とした本を除けば、レイフォンが読むものなど武芸に関するものでしかない。それも読むというよりは図に目を通す、というレベルに近い。養父もある程度の数本を所有しているが、興味から昔読んだ際、文字しかないそれにレイフォンは頭が痛くなりかけたこともあった。

 グレンダンにおいては最低限の知識があれば後は武芸だけで生きていける。そしてレイフォンにはその才があり、頭を使うよりはずっと効率的に、大量にお金を稼げる。
 だからこそ勉強が苦手でもはや諦め、武芸一本に考えているレイフォンにとって自分から勉強するアイシャは不思議な存在だ。もっとも、幼馴染であるリーリンも勉強家なのでそんな人間もいる事を理解している。自分と違って凄いなと思う対象であるというだけだ。

 斜めで見えづらいが一体何の本なのだろう。疑問に思いタイトルを読むためにレイフォンは視線を強める。すると視線に気づいたのかアイシャがこちらに視線を向ける。
 
「……何?」
「何読んでるか気になってさ?」
「ここの試合の本。天剣についてとか、今日見た技が何かとかね。気になったからさ」

 こちらに見えるように傾けられた表紙を見てレイフォンは納得する。大会があればその度に優勝者は誰かとか、どこの部門の者か等が乗った冊子や雑誌が出ることもある。それのバックナンバーの様だ。
 それを見て、そういえば、と思い出す。

「今日の試合どうだった? 確か、余り見たことないんだよね」

 今日の試合はリーリンや兄弟と養父だけでなくアイシャも来ていた。
 話を聞いたところアイシャはベリツェンで余り試合を見たことがないらしい。年の性なのかも知らないが一回か二回くらいしか見た事がないと聞きグレンダンとの違いに驚いたものだ。
 だからこそ少し気になりどうだったかとレイフォンはアイシャに聞く。

「凄かったよ。姿見づらかったけど」
「まあ、それはそうだよね」

 動体視力の違う一般人相手にこの質問は間違ったかな、とレイフォンは思う。

「レイフォン直ぐに勝ったし、強いよね。助けてくれた時も一撃だった。この都市の人って皆レイフォンみたいに強いの?」
「自慢みたいになっちゃうけど僕は強いほうだと思うよ。でも、僕より強い人も結構いる。都市全体としてはどうなんだろ……平均は強いと思うけど、シュナイバルみたいな事もあるしなぁ」

 ジルドレイの事を思い出しそう言う。
 背後からリーリンがそれに対し言う。

「それって、手紙に書いてあったお爺さんの事よね。確かレイフォンが負けたっていう」
「うん」

 リーリンの言葉に頷く。その言葉を受けアイシャは驚いたように軽く目を見開いているが事実なのだからしょうがない。
 少し、あの時のことを思い出す。
 明からさまに手を抜かれた挙句惨敗した。後から思えばあれはこちらの力を見ていたようにも思える。
 向こうから積極的に仕掛けることはせずこちらの仕掛けを真っ向から潰したり、迷いを見抜いて助言をしたりもしてくれた。
 力を見定めるように、かつて養父が自分を鍛えた時のような雰囲気に近かった気もする。
 まだいくつか奥の手があり実力を出し切っていないようにも思えたし、少なくとも天剣級かそれ以上の力があった。グレンダンの天剣より上を知らなかった自分にとって、他の都市にもそれに比肩するだけの力があるのだと知れた。

(まあ、考えてみれば天剣には他都市出身の人もいるから当然だったけど)

得たものもあったし、思えばいい経験だった。

「どんな話か聞いていい? それ」
「ん? ああ、そういえばアイシャは知らなかったけ」

 思い返せば言った覚えがない。
 なので簡単に説明するとアイシャは軽く考えるように虚空を見上げ、呟く。

「どこにも強い人はいる、か」
「うん。そう思うよ」
「ベリツェンにもいたのかな?」
「うん、多分いたと——」
「……いたら、皆死ななかったのかな」
(……重い、重いよ!)

 小さく呟いたアイシャに何を言えば良いのかわからなくなる。
 助けてリーリン! とばかりにそちらを向けば視線を逸らす幼馴染が。他の兄弟たちは知らないがデルクとリーリンにはアイシャの事情を言ってあるのだ。

「いや、でも強くても汚染獣は一体倒すのにも時間かかるものだよ? たくさんいただろうし、運が悪かっただけだと」
「一撃で倒したよね、レイフォン。覚えてる。あれくらいならたくさんいても平気だって聞いた」
「……あ、うん」
「ここの今までの汚染獣の記録とかある程度見たけど、危なくなったことなかった。天剣っていう人一人でなんとかなるって」
「……そうだね」
「私の都市、弱かったのか。……まあ、別にいいかな。……………」
 
 感情を込めず事実を詠うように告げるアイシャにレイフォンも目を逸らす。幼馴染どうし、する行動は一緒である。
何か小さく呟いたようだが活剄をしていなくてよかった。反応に困る。
 
「近所にいたのがお兄さんなんかじゃなくてレイフォンだったらよかったな。あんな人じゃなくてレイフォン凄く強い。カッコいいしさ」
「そうだろー!」

 やや楽しそうなアイシャの言葉に賛同の声が元気に上がる。
 トビエだ。
 事情を知らないトビエは半お通夜状態な事など気にせず元気にアイシャに話しかける。
 レイフォンに憧れているトビエはレイフォンが強い、というところに反応したのだろう。得意げな顔で言う。

「レイフォン兄すげー強くてかっこいいんだぜ。それ以上にヘタレだけどな! アイねえもそう思うよな?」
「カッコいいね。でもヘタレ、なのか?」
「ヘタレだって! だってアイねえとリーリン姉の事とか気づいてないんだぜ! それにあとでバレるって知ってるのにいつも俺たちに言いくるめられてお菓子作ってくれるし。押しにも弱いんだ。な、お前らもそう思うよな?」

 聞かれたアンリとラニエッタが答えづらそうな顔をする。
 そもそもまだアイシャが来てから日が浅く、この二人はアイシャとそこまで気軽に話せる様にはなっていないのだ。
 
「レイフォン兄さん、いい人だよ」
「僕もレイ兄かっこいいと思う……」
「でもヘタレだよな?」
「……お菓子美味しいよね」
「……うん」

 二人は目をそらす。嘘をつけない良い子達なのだ。リーリンまでこっちから目をそらしている。
 それを見てレイフォンは悲しい気持ちになった。

「ヘタレ、には思えないけど。今日カッコよかったよ」
「それはまだレイフォン兄の事知らないからだって。それより何かして遊ぼうぜー」
「……いいよ」

 少し考えた後アイシャは頷き本を閉じる。

「よっしゃ。じゃ、二人も行こう。リーリン姉は負けずに頑張れよー!」
「トビエ、何変なこと言って……!」

 焦ったようなリーリンの言葉を無視しアンリとラニエッタも連れトビエは奥の部屋に行った。
 ヘタレヘタレと言われ、レイフォンはそんなにかなと思うが多分事実なのだろう。だが、少なくともこの一年半で押しには強くなったはずだと思う。だてに(物理的にも)押しに押してくる金髪の少女とか、屁理屈を捏ねまくる人と一緒にいたわけではないのだ。
 そんな事を思いながらミルクを飲み干し、もう一つ、違うことを思う。

「やっぱり、話しづらいのかな」

 アイシャへの弟たちの態度を思い返して言う。現在の院で最年長であるレイフォンとリーリンを除けば真っ向から気兼ねなく話しているのはトビエくらいなものだ。他の弟たちはどこかまだ尻込みしているような所がある気がする。
 リーリンもそれについて思うことがあるのか小さく頷く。

「年下ならまだしも、年上だからね。相手の仕方が違うんじゃないの? 話してみると思ったより話しやすいし良い子だけど、雰囲気的に静かで話しかけづらく感じちゃうのかもね」
「そう、なのかな」

 出稼ぎではほとんど歳上に囲まれて過ごしていたのでレイフォンにはその感覚がよくわからないが否定はできない。
 子供というのは異物に敏感だ。大人と違い取り繕うということも出来ない。
 ほとんどの子供たちは院に連れて来られた時点で歳上がいたが、それも同じ孤児でありいわば先輩のようなものだ。かつて同じような経験をしたものとして年上の方から近寄ってきてくれるという面があったことは否めない。自分とて今は院を出たルシャ等に面倒を見てもらった記憶がある。

 だが、アイシャはその点が違う。それに雰囲気も静かなもので、他の子供たちに積極的に絡んでいったり、逆に子供たちが絡んでいったりしやすいとは余り思えない。話してみれば違うのだが、そもそも話してみなければそんな事は分からない。
 それに、とリーリンが続ける。

「トビエたちは大丈夫だけれど、下の子は目の傷が……」

 その言葉にレイフォンは無言で同意する。
 未だアイシャの右目周辺の部分には傷跡が残っている。
 単純な切り傷だけならばそうでもないが火傷の痕は酷く、変色し固まった皮膚は右の瞳を閉ざし、真っ向から見据えるのには堪える。
 戦場で様々な死傷者を見てきたレイフォンならばそこまででもないが、そういった経験のない一般人の、それも小さな子供にとっては恐怖の対象にもなるのだろう。アイシャ自身分かっているのか前髪を垂らして右目の部分を隠すようにしているが完璧ではない。

 弟たちの中には痣や切り傷などの怪我を持って来た者もいたが次第に打ち解け合っていった。だからこそ慣れて欲しいと思う反面、無理なのではと考えてしまう所もある。どちらにせよ、まだ時間が短い。

「後で傷跡を治さないかもう一度聞いてみるよ。それにまだ来てそんな経ってないし、一緒にいれば話せるようになってくると思う」
「……アイシャさんはちゃんと話してくれるし遠ざかろうとするわけじゃないから、傷に慣れれば早いかもしれないわね。皆だって、最初は馴染むまで時間がかかったものね」

 まだ一週間くらいだものね。私も最初は色々と驚いたわ。
 そう続けたリーリンにレイフォンはその時のことを思い出す。


 あれはおおよそ一週間前だ。
 いつ帰るか正確な時間など伝えられない以上、向こうからしたら突然帰ってきたようなものだっただろう。
 前もって手紙を送ったとしてもどっちが先につくのか分からない。それでも帰ってきた自分に孤児院の皆は驚きと喜びで沸き、続いて入ってきたアイシャに時間が止まった。
 驚いていたリーリンはジト目に、弟たちは興味津々に、ロミナは親指を立てた。
 
「……どちら様?」

 リーリンの第一声は一緒にいた少女に向けてのもののはずだが、どちらに向けられたものかレイフォンは一瞬間違えそうなほどだった。
 一通りの事情を説明しレイフォンとアイシャは養父の元に行った。
 出迎えの言葉を簡潔に述べたデルクはレイフォンの説明を黙って聞き、静かに言った。

「引き受ける分には構わん、ここはそういう場所だ。だがレイフォン、お前は数ある選択肢の中から彼女を引き取るという選択をした。その意味を忘れてはならん」

 それに黙ってレイフォンは頷いた。
ヨルテムで感じた過去への思いを捨てるつもりはない。それは自分の願いでもある。
 レイフォンの意思を見たデルクは口元を緩ませた。そしてアイシャへと無骨ながら優しい視線を向けた。

「今日から君はここの一員だ。“家族”として宜しく頼む」
「ありがとうございます」
「……まずはその他人行儀な喋り方を何とかせんとな」

 そう言ってデルクは苦笑した。


 あれから一週間。いまだ微妙に他人行儀な喋り方は治っていない。
 段々と周りと馴染んでいけばその喋り方も治るかもしれない。もっとも、砕けた話し方をするアイシャの姿などレイフォンには想像できないが。
 時間をかければいいのだ。それにトビエが既にアイシャに馴染んでいるのだ、時間もそうかからない可能性が高い。
 それにしてもいつのまにトビエは仲良くなったのかレイフォンには不思議だ。

 ちなみにレイフォンは知らないがトビエはレイフォンに弟たちの中で人一倍憧れており、レイフォンに憧憬の思いを持つアイシャとその面で意気投合。トビエは過去のことから傷の事に理解に近い思いがあった為、他の弟たちよりもアイシャの火傷を気にしなかったのでレイフォン話に花を咲かせ仲良くなったのだ。
 当然ながらそんなことは梅雨とも知らないレイフォンはミルクのおかわりを申し立ててリーリンに無視された。
 項垂れているとレイフォンは人の気配を感じた。
 誰だろうか? そう考えた瞬間レイフォンはだらけていた体が跳ね、一瞬で体勢を整える。ほとんど条件反射に近い。
 玄関が開き、声が聞こえてくる。

「こんにちわー、レイフォンいますかー?」
「お邪魔しますよ。そう言えばここから入るの久しぶりですね」

 聞こえてくる二人の、というか二人目の声に体が止まる。
 今すぐ窓から飛び出ようか? そう考えてしまうがもう遅いだろう。変に逃げれば無理にでも追ってきて周りに迷惑がかかりかねない。そう思いレイフォンは大人しく待つことにする。
 何故だか気配が殺気立っているというか、自己主張が強い気がするが少なくとも孤児院の中なら大人しいはずだ。それと、二人目の人はいつも普通に入ってきて欲しい。
 ……ついでに、いつの間に彼は此処に来るようになっていたのだろうかとレイフォンに戦慄が走った。
 数秒し、件の二人の姿が視界に映る。

「あ、やっぱりいましたね」
「久しぶりですねえ。帰っていたのなら教えて下さいよ」
「全力でお断りします」
 
 サヴァリスに向け笑顔で返す。
 クラリーベルならいい。なんだかんだで常識で考えてくれるし話も結構通じる。出稼ぎ前、最後の言葉もあるのだろう。レイフォンの中で彼女に対しては好意も大きい。ランダムエンカウントの好敵手の様なイメージに近い。
 だがサヴァリスは話が通じるが常識を知った上で無視してくるので苦手だ。嫌いではないしどちらかといえば好きな方に分類される。悪い人ではないが良い人では絶対にないという認識だ。強制エンカウントのボスの様なイメージだ。かなり遠慮したい。
 
 レイフォンの返事を受けサヴァリスは小さく嗤う。

「くく。そんなにはっきり言われると悲しいですね」
「その割には全然悲しそうではないのですけど……」
「これは失敬。それにしても少し変わりましたね。そんなにはっきり言うとは驚きましたよ。ああいえ、そっちの方が僕としてはイイですけど」

 にこやかに言われレイフォンは言葉につまる。拒絶しても一切気にしないのだからタチが悪い。
 だがそれは最初に会った時から分かっていたことだ。今更思ってもしょうがない。
 そもそも何のために来たのだろうか? 血気だった雰囲気も気になる。
 そう思って聞こうとすると、クラリーベルの視線は別のところに向いていた。

「そう言えば、彼女は誰なんですか?」

 視線をたどるとそこには別の部屋に行っていたはずの四人が。声を聞いて見にでも来たのだろう。クラリーベルの視線はその中の一人、アイシャへと向いている。また、アイシャの視線もクラリーベルを見ている。

「……そういえば、この前いましたね。忘れてました」

 半ば睨むような視線をクラリーベルはアイシャに向ける。先程まで纏っていた気配はいつの間にか収まり、一転して静かになっている。
 その変化が気になるのか一切気配に変化のないサヴァリスもアイシャに興味を向ける。
 この前というのは帰ってきたばかりの時のことだろうとレイフォンは思う。いきなり勝負を仕掛け、そして負けると直ぐに帰っていくという通り魔のような犯行をした時だ。確かにクラリーベルは気づいた様子がなかった。というよりはレイフォンとの試合で目に入らなかったというべきか。
 
「“面白そう”な子ですね。紹介してくれますかレイフォン?」
「いいですよ」

 矛先がずれるのならば歓迎だ。
 そう思いアイシャを呼ぶ。やはり武芸者だからか目の傷を気にした様子もない。
 どう説明したものかと思い、とりあえず新入りだと答える。
 だが説明が足りなかったのかクラリーベルが疑問を言う。

「帰ってきたばかりの時一緒にいましたよね。どうしてですか?」

 そう聞かれ返答に困る。
 言っていいものだろうかと思い視線を向けるとアイシャは軽く頷く。良いということだろうか。
 傷を気にした様子もないし、まあ二人なら大丈夫だろうとレイフォンは思う。
 帰ってくる途中で廃都市に訪れたこと。そこにいた生き残りであること。そして引き取った事。それを簡潔に話す。

「質の低い武芸者しかいなかったのでしょう。本分を全うできない半端物ばかりだったとは嘆かわしいことです」

 聞いてすぐ、何か考えているクラリーベルの横でサヴァリスは言い放った。

「未熟者たちのせいで市民が犠牲になるとはいやはや……惨めですねぇ」
「サヴァリスさん!」
「おっと、これは失礼。彼女には何の落ち度もありませんでしたね。申し訳ない」
 
 辛辣な言葉を言うサヴァリスを咎めるがどこ吹く風だ。サヴァリスとしては思ったことを言ったまでであり、本心からの言葉であるだけタチが悪い。

「気にしてません、別に。好きに言えばいい」

 心配になってアイシャを見るが特に何も思ったことはなさそうなのでレイフォンは安心する。流石に本人を前にして今の言葉はきつい。
 そう思っているとクラリーベルが口を開く。

「……ふむふむ。なるほど、そういうことでしたか」

 納得がいきました。
 そう言い、クラリーベルはアイシャに向かい手を伸ばす。既に表情は戻り面白げな顔を浮かべている。

「クラリーベル・ロンスマイアと言います。名前を聞いてもよろしいですか?」
「アイシャ。アイシャ・ミューネス。あなたは、レイフォンの何」
「今のところは好敵手……だと思ってくれていたら嬉しいですね。まあ、宜しくお願いします」
「僕にとっては良いエモ……」
「あなたには聞いていない」

 サヴァリスの言葉を遮り二人が握手する。よろしく……、とアイシャがクラリーベルに返す。
 不意にレイフォンは冷静な自分に気づく。
 グレンダンで育った民にとって天剣とは敬意の対象であり、その相手に今の様な言葉を言うようならば周りから諌められたりすることもある。
 だが、サヴァリス相手の今は何もない。これがデルボネやティグリスだったらと軽く想像してみるが、緊張で若干背中が冷たくなった。恐らく自分は慌てていただろう。
 それなのに何故だと思い、一瞬で、ああサヴァリスだからかと結論が出る。そしてそれをレイフォンは疑問にも思わない。レイフォン自身は特に気づかないが、レイフォンの中で天剣授受者とサヴァリス本人がかなり乖離しているのだ。

「……何?」

 手を握ったまま離さず、顔を覗き込むように見ていたクラリーベルにアイシャが言う。
 近いそれにアイシャが顔の右側を手で覆う。

「ああいえ、これは申し訳ありません」
 
 クラリーベルが手を離し身を引く。
 ついでに僕も、とサヴァリスもアイシャの手を握る。まあよろしくお願いします、と適当そうに告げる。
 
「あの、二人とも何のために来たんですか?」

 非常に今更ながらな質問をレイフォンはぶつける。
 既に最初に有った気配など消えている。最初は何か血気だったことでもありそうだったがこの様子なら特にめんどくさい事にはならなさそうだ。だからこそ今の内にと疑問をぶつける。
 そう思っていると、まさしくその予想を裏付けるかのような答えがクラリーベルから返ってくる。

「いえ、今日の試合を見ていましてね。久しぶりにレイフォンの試合を見たもので少々昂ってしまいまして」
「ですので二人でこの昂ぶりをレイフォンにぶつけようという事になりました。僕としてもいなかった間に君がどの程度成長したのかも見たかったので」

 二人の答えに何と言えばいいのか分からず言葉が出てこない。つまり二人は今日の試合を見て闘争欲求に火がつき、それをぶつける為に、つまり一勝負しに来たというのだ。
 
「ですが私は気が削がれたので止めておきます。あいにく今はそんな気分ではありません」
「僕としては別に変わってないんですがねぇ……」

 そう言いながらサヴァリスは特に何もしない。一緒に来たクラリーベルの意見の変化にまあ今日は別にいいかと気まぐれに思ったのだ。別に今日でなければというものでもない。
 今日この二人は話すためでもなく遊びに来たのでもなくレイフォンと戦いに来た。それを知らずの内に止めていたことにレイフォンは驚く。この二人のそれが止まる事などそうそう多くはない。大抵は昂れば衝動のままに動くのだ。それを知っているからこそ偶然だと知りつつもレイフォンは内心アイシャに感謝する。

「まあ、そういう訳なので今日はもう帰ります」
「もう帰るのー?」

 クラリーベルの言葉に弟たちが声を挙げる。
 彼らとしてはクラリーベルと遊びたいのだ。

「ええ、遊ぶのはまた次で。その時はトビエやビィナたちが好きなお菓子でも持ってきますね」
「本当クララ? ならさ、ならさ、次は端っこのお菓子屋で売ってる一番人気の……」
「こら、やめなさい」

 弟たちを諌める。だがクラリーベルは別に良いですよと要望を聞く。
 自分やリーリンならまだしも、家族でなく、その上自分と同年代の少女に頼んでいるということが彼らの兄として申し訳ない。
 次は、と言ったが自分がいなかった間にどれほど仲良くなったのかレイフォンには疑問だ。
 
「ああ、そう言えば」

弟たちの要望を聞いたクラリーベルがアイシャに近づく。

「色々とあって大変だったと思います。大丈夫だとは思いますが何か、特にその右目など何か異常でも起きたら言って下さい。医者でも紹介しますよ」
「分かった、ありがとう。でも平気だから」
「ええ。そう願います」

 アイシャの髪をクラリーベルが触る。

「綺麗な髪ですね。……では、今日はこれで。リーリンに一言言って帰ります」

 そう言い、クラリーベルは部屋から出て行った。
 一体何なのだろうかとレイフォンは思うが、きっと自分にはわからない女性的な何かがあったのだろうと結論づける。
 クラリーベルがアイシャと仲良くしようとしてくれるのはありがたい。クラリーベルは孤児院の子供達に馴染んでいる。だから仲良くしてくれればアイシャが馴染むのも早くなるはずだ。物怖じしない彼女のこと、火傷のことなど一切気にしないだろから有難い。

 特に心配するようなことはなかったなとレイフォンは思う。戦いがなく終わったことはありがたい。後で何かアイシャに好きなものでも聞いて作ろうと決める。
 ああ、本当に何もなくてよかった。



「僕はどうしましょうかね。やっぱり一勝負やりません?」
「早く帰って下さい」

 残っていた一人にレイフォンは言い放った。










 夜は静かだ。
 日中の活気が消え光は落ち闇が辺り一面に蔓延る動く者の減る時間。
 他都市から見れば異端な所の多々あるグレンダンでも一般的な生活自体は他都市とさほど変わるところはない。夜になれば道を歩く人は減るし賑やかさもなりをひそめる。窓を開けば暗い世界の中で街灯や店の明かりがポツリポツリとその光を放っている。今この時間でも賑やかな場所があるとすれば飲み屋やアウトローな場所だろう。
 日中の暖かさも既にその余熱は過ぎ去り通り抜ける風が肌に僅かな冷えを訴える。
 そんな真夜夜の時間、リーリンは起きて台所にいた。

 子供の多い孤児院において就寝時間は比較的早い。夜更かしすることはあっても基本十二時を回る前には殆どの子供たちは自発的に、あるいは自然と眠りにつく。院長のデルクは武芸者で有りある程度規範だった生活を送っている。その為十二時を過ぎた今頃は孤児院の中は静まり返る。
 そんな中リーリンが起きていた理由は大したことではない。今月の家計簿を纏めていたら計算が合わず、それが気になって調べていたら予定よりずっと遅くなったのだ。結局は領収書が一枚なかったというだけであり、既にそれも見つけ要件は終わっている。
 
 せっかくだからとリーリンは寝付きをよくするために温めたミルクを入れる。砂糖を入れるか迷うが、夜遅くに糖分は……と思い止める。乙女にとって脂肪は大敵だ。
 温まるのを待っていると、ふと暗闇の中に誰かがいるのに気づく。
 誰だろうかと思っていると相手はこちらに気づいたらしく一瞬止まった後に歩いてくる。
 見えた顔にリーリンは相手の名前を呼ぶ。

「どうしたのアイシャさん? こんな遅くに」

 パジャマを着たアイシャだ。
 普段なら彼女はもうすでに寝ている時間だ。眠い時にやるように目を抑えている彼女にどうしたのかと聞く。

「眠れなくて、喉も乾いた。何か飲もうと思って」
「私と同じね。ミルクでも入れる?」
「お願いする、リーリン」
 
 了承を受けもう一つミルクを温める。
 砂糖はどうしようか。用意したほうがいいか聞こうと思い、不意に今のやり取りが気にかかる。
 リーリン、とアイシャは自分のことを呼んだ。それに対し自分はさん付けだ。苦手意識こそ余り無いものの未だ自分も彼女との間に距離を感じているということだ。下の子供たちの事を言える立場などではないなと反省する。
 そこまで社交性のある性格ではないレイフォンでさえ既に呼び捨てしているがそれは仕方ないのだろう。

 レイフォンから聞かされたアイシャの話。汚染獣に滅ぼされた都市で死体に囲まれ生き残った少女。
 見つけるのが後少し遅ければ汚染獣に喰い殺されていたらしい。見つけた部屋も酷かったという。レイフォンは余り語らなかったが言い淀んだ様子からその酷さを理解した。今でさえ儚さを覚えるような細身だが当時はそれにもまして病的に体が細かったと聞いた。

 眼を爪で刻まれ、死体に囲まれた中汚染獣が迫りその牙で喰らわれるという恐怖。そしてそこから助けられたという奇跡。
 グレンダンという世界。天剣授受者、女王という存在がいる環境で生きてきたリーリンにとってその恐怖は想像が出来ない。
 天剣がいる以上自分たちの身の安全は保証されており、汚染獣の来訪も民にとっては一種のイベントの様なものだ。孤児院の下の子供たちですらそう思っている。身を案じる事があればそれは自分ではなく幼馴染が怪我をしないかということだけ。それでさえ周りからは心配のしすぎだと言われてしまうほど。
 だからきっと、彼女が置かれた現状はそんな程度ではなく、想像し共感しようと思うことすらおこがましいのだろう。だからこそ、助けられたときはどれほどだったのか。

 それを思えばアイシャの性格も理解出来る。そんな奇跡的な出会いをしたら惹かれるのは当然だし、した側のレイフォンも距離が近いのは納得できる。仕方ないか、と思え、自分の思いに敵対するかもしれないというのに逆にリーリンは仲良くなりたいと思えてしまう。端的な話し方に、真っ直ぐに思いを隠さずに話す所など整った印象も含め同年代なのに可愛いなとさえ思ってしまう。
 仲良くなりたいとリーリンは思う。出来るなら自分だけでなく院のみんなとも、クラリーベルとも仲良くなって欲しいと願う。そう言えば彼女は今日アイシャの目の事などを安じてくれていた事を思い出す。帰る間際のことだ。

 そんなことを思っているとミルクが温まった事を告げる音が鳴る。取り出し、一つ渡そうとしてアイシャが目をしきりに撫でていることに気づく。
 ミルクを近くの台の上に置き尋ねる。

「目がどうかしたの?」
「昼過ぎからチクチク痺れている。その性で眠れなかった」
「傷が痛むのかしら。昨日までもそうだったの?」

 撫でているのは右目だ。もしそうだったら同室の自分が気づかなかったことになる。
 リーリンは内心申し訳ない気持ちになるがアイシャがそれを否定する。

「昨日まではなかった。堪に痒いだけ、一瞬で止まる。今みたいに痛くない」
「どんな感じなの?」
「内側が膨れて、チクチクする感じかな」
「ちょっと見てもいい? 何かゴミでも入ってるかも」

 ヨルテムで医者に行った際時間の関係でちゃんとした対処は出来なかったが簡単な塗り薬をアイシャは貰ってある。本人はそれを使わずともたいして痛みや痒みを訴えていないが何かるかもしれないし、単純にゴミが入っただけかもしれない。
 近づいてアイシャの目を覆う髪をかき分ける。特に何も言わないということはそういうことなのだろう。
 アイシャの背はリーリンよりも少し低い。だからアイシャは顔をやや上に向け、それを見やすいようにリーリンは頬に手を当てて目を見る。

 見るたびに痛ましい。右目を中心に肌色と茶色が混ざった様な色の荒れて固まったケロイド状の皮膚。そしてその中でも分かる右目上を走る一本の溝。固まった皮膚の性で右目はほとんど開けない状態だ。仮に開けたとしても一目で深いと分かる溝を刻む爪痕が眼球自体に傷をつけている以上物を見ることは絶望的だ。
 痛ましい惨状。無事な部分の顔から見る分に整った造形の綺麗な顔であることが余計にそれを思わせる。火傷の範囲がそれほど広くなく、あえて伸ばした前髪を垂らせば何とか隠せる程度の大きさであることがせめてもの救いだろう。
 
 リーリンはアイシャの右目の辺りを見るが特に何も見当たらない。ろくな知識のない自分だから何も分からないだけかもしれないが、少なくとも何かゴミが入ったり化膿が進んだりしているというわけではないようだ。
 弟たちが怖がる傷跡。確かに近くで見ていて気持ちの良いものではない。だけど、だからといってそんな思いは持ちたくない。
 
 そんな思いが無意識にさせでもさせたのかリーリンは指でその傷跡に触れる。近づくように、近づけられるように。
 まるでアイシャの痛みが移ったかのようにチクリと右目が痛む。
 思いを込め優しく撫でる。
 ————どうか安らかに、と。

「ん……何、リーリン」
「え? あ、ごめんなさい」

 アイシャの声にリーリンは自分のしていた行動に驚き手を離す。ほとんど無意識の内での行動だったのだ。
 自分の行動を不思議に思いつつもアイシャに見た結果を言う。

「特にゴミとかはないみたいね」

 そう告げられたアイシャは何かに気づいたように目をパチパチさせる。

「どうしたの?」
「んー……」

 不思議そうにしていたアイシャは軽く目に触れ、言った。

「治ってる」
「え?」
「痺れがなくなったかな。楽になった気がする。膨らみが、小さくなったみたい」

 どうやら本当に治ったらしい。
 不思議そうにしているアイシャがリーリンを見る。

「撫でてくれたから? リーリン、ありがとう」
「それは違うと思うけど……」

 流石にその程度で治ったら世話はない。単純に時間で引いたのだろう。
 だがわざわざ否定するのもアレだ。感謝されて悪い気もしない。治ったのならそれでいいのだろう。
 そう思い、台の上のミルクを渡す。

「はい、どうぞ。砂糖は入れる?」
「ありがとう」

 アイシャが受け取る。
 まだ器も熱くこわごわと持ち、息をかけて冷ましている。

「ねえ、やっぱり病院で治さない? またあっても大変だと思うし、女の子なんだから顔は大事にしたほうが良いわよ」
「傷あると迷惑? お金かかると思うけど」
「……どの位かかるか分からないけど取り敢えず聞いてみない? クラリーベルが紹介してくれるって。今日アイシャさんともあった子よ。レイフォンだって気にしてる。後、別に迷惑じゃないわ」


 アイシャは一口ミルクを飲み砂糖に手を伸ばす。
 蓋に手をかけながらリーリンの目を見返して口を開く。

「分かった。今度行ってみる」
「そう、良かったわ」

 嘘を言うような人物ではないからこれで行くだろう。一緒に過ごしてみてわかったことだが自分のことに無頓着なところがアイシャにはある。きっと何も言われなければ行かなかったはずだ。言ってみて良かったと思う。もしかしたらレイフォンの名前を出したからもしれないが行ってくれるのならどっちでもいい。
 消しきることはしなくても傷が小さくなるだけで子供たちからの印象は変わるはずだ。そうすれば馴染むのも早くなる。

「これからも仲良くしてねアイシャさん」

 そして自分も仲良くなりたいと思う。
 言われたアイシャは唐突な言葉に少し首をひねったが直ぐに答えを返す。

「よろしく、リーリン」

 好きになれそうだと、そうリーリンは思った。





「……砂糖、そんなに入れて大丈夫? 寝る前だから気をつけたほうが……」
「私、太りづらいから平気なんだ。細いからもっと、肉付いたほうが良いって言われた」
「……ああ、そう」

 リーリンは一瞬前の気持ちをかなぐり捨てそうになった。









 
 頭上から迫る殺気に隣の屋根に飛ぶ。
 避けた地面が爆ぜるのを横目に見つつその場に剄を放つ。

———外力系衝剄変化・渦剄

 渦巻く剄が壁の役割を果たし背後からの襲撃者、クラリーベルの邪魔をする。その隙に前進し地に向かい体を落とす。
 頭上を過ぎた拳の音を聞き、重心を据え腰を捻り足を地に付け踏み込みの姿勢を形成。傾いた体を起こす勢いを利用し高速の裏切上を目の前の相手に放つ。
 地に這うかの様な姿勢からの高速の剣。その低さ故無用に沈めば切られ、引かば踏み込みが深く追う。だがその相手、サヴァリスは向かう剣の腹を横から殴りつけるという妙技にて剣を払う。鈍い音と共に剣が狙いからズレその体のすぐ傍を空振りする。

 笑顔を浮かべながらサヴァリスはそのまま蹴りをレイフォンに向け放つ。レイフォンは向かってくる蹴りに踏み込み足を強化。全力で地を蹴ると同時にそこから衝剄を下に放つ。宙に浮いたレイフォンをサヴァリスのケリが打ち抜く。が、衝剄によって足場である屋根を揺らされたその蹴りは勢いが僅かに殺され、その間にギリギリレイフォンは剄を練り蹴りの衝撃を和らげる。

 蹴りの勢いに二つ先の建物の屋根まで体が飛ばされたままレイフォンは全力で逃げようと足に込めた剄を爆発、旋剄で逃げようとするがクラリーベルの剣がその行く手を遮る。
嬉々として向かう刃にレイフォンは自分の刃をぶつける。
 一合、二合、三合……狭い屋根の上を駆け、刃ぶつかり合う圧力に飛ばされ足場が次々に代わる。
 
 十を数える前に自分も混ぜろとばかりに近づいていたサヴァリスが剄を放つ。
 サヴァリスの蹴りと共に真空の刃がレイフォンはおろか共にいるクラリーベルをも巻き込むように繰り出される。
 その刃に対しレイフォンが選ぶ選択は迎撃ではなく回避。何故ならサヴァリスが放つは技でなく武にして舞。その名を疾風迅雷の型。型の動きに合わせ振るわれる足から真空の刃を放ち続ける舞。後になるにつれ剄の練が上がり刃の機動の複雑さ、速さが上がる。故にその場に足を止めるという選択を二対一の現状で行うわけには行かない。

 クラリーベルの刃を弾き向かってきた真空の刃を躱す。見ればクラリーベルはその場に留まり抜き打ちにて真空の刃を切り払っているが気にしている余裕はない。
 このまま逃げようか? そう考えるがまるでそれを見越したかのように刃の数が増えていく。いくつもの屋根の上を動き必死に交わす。右に、左に、回り込んで斜め上からと不規則に不可視の刃が向かう。逃げたい、が、近くで体育座りをした不満気なクラリーベルが視界に入る。レイフォンの周りにある真空の刃の性で参戦できない為おあずけ状態なのだろうが、逃げようと距離を取れば彼女が嬉しそうに混じってくるのは考えるまでもない。

 このまま避け続けていてもサヴァリスの刃は数が増え威力が上がっていく。最後まで避けられるか心配だ。鎌首を擡げ首筋を狙ってきた刃を剣で受け流しながら考える。少しずつ距離をとって人のいる方に逃げようか? 流石に二人も一般人を巻き込むような事はしない。戦闘は止めるだろう。だが、次からが怖い。凄く怖い。
 思わず腰の青石錬金鋼に手が伸びかける。未だ使ったことはないが既に鋼糸は実戦で使えるだろうレベルにまで達している。これを使えば逃げられる可能性は非常に高い。だが、まだこの二人相手に自分は鋼糸を使ったことがない。使えば喜ばせるだけということを嫌というほど学んでいるので使うわけには行かない。そんな情報を与えるわけにはいかないのだ。内心泣く泣く伸びていた手を戻す。

 腰を落とし、踏み込み、飛び、下がり、時には衝剄を放ち真空の刃を躱していく。上手く避けきれずピリッとした痛みが頬に走る。掠ったのだろう。血が流れる前に活剄で傷を塞ぐ。息が荒い。蹴りを放つたびにサヴァリスは嬉しそうな顔をするがレイフォンは全然嬉しくない。疲れと憎しみが溜まっていく。今にもサヴァリスを殴りたいくらいだ。
 何とか避け切り、サヴァリスが最後の一撃を放つ。同時にレイフォンも一つの剄技を放つ。

———ルッケンス流・風烈剄

 凄まじい程の剄が込められた不可視の高速の風がレイフォンを襲う。だが、

———ルッケンス秘奧・千人衝

 剄による実体のレイフォンが肉の壁のようにそれを遮る。文字通り肉の壁として消えていったレイフォンが目くらましとなり、その横から本物のレイフォンが抜け出す。積もり積もった憎しみを込め全力の閃断をサヴァリスに向けて放つ。

「死ねぇぇーっ!!」

 殺意全開である。
 まるで空間さえ切り裂くような密度の剄の刃。ここが屋根の上という空間でなければ周囲に大きな爪痕を残していただろうというほどのそれがサヴァリスに向かう。
 通り過ぎた空間の風を分かち、一瞬遅れ風の壁を破壊する音を出しながら進むそれは生半可の武芸者なら起きたことを理解できず切り裂き、汚染獣なら一刀の元にその命を奪うだろう。もはや閃断でなく別の技にまで昇華しそうなほどの剄の刃。
 だがその刃を前にサヴァリスは満面の笑みを浮かべ、両の手に凄まじい密度で剄を巡らす。そしてあろうことか刃の前から動かず手を構え————刃を手で挟み込んだ。

「えぇ!?」

 レイフォンが驚きの声を上げる。
 挟み込まれた刃は手に込められた剄とぶつかり合い、衝剄となって周囲の空気をかき乱す。その余波を受けサヴァリスの髪が狂ったように波打つ。刃は手に作られた剄の壁に止められ左右から押されその勢いをなくしていく。ついには消え去る。
 言うならば、秘技・真剣白刃取り。
 まるで何事もなかったかのようにサヴァリスはくっつけていた手のひらを離しパンパンと叩く。

「意外と出来るものですね」
「いやいやいやいやいや」

 つい突っ込んでしまう。そんな言葉で片付けるものではない。一歩間違えなくても普通に死んでいる。
 そんなレイフォンにサヴァリスは満面の笑みを返す。

「いや、実に良かったですよ今のは。殺意が載っていましたしいつもアレくらいで来て欲しいですね。もう少しギアを上げても良さそうです」
「いえ、流石にそれは……」
「それに疾風迅雷の型も久しぶりに打てました。汚染獣相手だと打ち切る前に大抵相手が死にますし、老性体だと動きが早くて有効範囲外に行かれる可能性がありますからね。門下生相手では手加減しても殺してしまうかもしれません」
「僕にもそれぐらい手加減して欲しいです」
「そうですよサヴァリス様!」

 お預けをくらっていたクラリーベルが文句を言う。

「私がいることも考えてください。最初の一撃は私も巻き込んでいたじゃないです!」
「クラリーベル様ならアレくらい大丈夫だと思っていましたので。これは申し訳ない」
「二人は楽しそうにしている間、横で見ているだけの私のことも考えてください!!」
(僕は楽しくなんかないんだけど……)

 そう思うが、意味のないことなのだろうきっと。
 そんな事よりも、と思う。一旦戦闘が止まり、二人は言い争っている。絶好の機会だ。
 元々今日は動いた後なのだ。いつもより疲れていた……というほどではないが何回も戦う気になれないのは確かだ。
 だから……

「いつもあなたは……って、レイフォン!?」

 レイフォンは全力で逃げ出した。





「おー、やってるやってる」

 映し出された映像を見ながらアルシェイラは呟いた。
 逃げ出したレイフォンは追ってくる二人に武器を持ち替えたようだ。剣ではなく弓だ。距離がある故、その間を詰められないようにする為の遠距離武器。だが、本領を発揮できないそれがどれだけ通用するか。
 そんなことを思いながらアルシェイラは映像から目を離し一枚の紙を見る。そこに書かれた数字と結果に目を通し、んっ、と伸びをする。
 ここは彼女お気に入りの庭園で今はチェアに腰掛けた状態だ。伸びに合わせ、ギシッ、と小さく揺れる。

「そろそろ時期かな。十分なだけの結果は出たし」

 彼女が手にしている紙に書かれているのはレイフォンの公式試合や大会での成績だ。軒並み優勝と書かれ、一番下に今日の日付と共に同じ結果が記されている。
 今日は公式試合がありそこでもレイフォンは優勝した。サヴァリスとクラリーベルがレイフォンを襲ったのもなんてことはない、その試合を観戦して体が滾っただけだ。
 まあ、そんな事はどうでもいい。問題はこの結果だ。これなら、もう条件は十分だろう。

「天剣、決めちゃいますか。大会開かないとねー」

 天剣授受者を決める大会。一定以上の戦績を収めなければ参加資格が無いものだが、これだけあればレイフォンを呼ぶのは十分だ。レイフォンが帰ってきてから数ヶ月。十分すぎるだけの時間が経った。もういいだろう。
 色々と問題はあるが、まあ無視すればいい。流石にまた直ぐに出稼ぎ、という事にはならないだろうが遅くするのもアレだ。

「とりあえず、あの子に伝言頼もっと」
 
 そう呟き、アルシェイラは再び映像の方に視線を戻す。そこではどうしてだか知らないがレイフォンとクラルーベルが抜き打ちをする様な格好で向かい合っており、一瞬で距離が縮む。
 クラリーベルが抜こうとした瞬間、半身になっていたレイフォンの左手が全く別の動きをする様に一直線に突き出される。その左手には鉄鞭がある。抜き打ちと見せかけてのフェイントだったのだ。凄まじい勢いで突き出された鉄鞭を受け、隙を突かれたクラリーベルの体が真後ろに吹き飛ばされた。その間にレイフォンは逃げ出す。もう、これは追いつけないだろう。

「大変ねー。……そういえばもう一人気にしなきゃいけない子がいたわね」

 脳裏に浮かぶのは一人の少女。目に傷のある彼女の事を思い出す。
 クラリーベル経由で聞いた話だがどうしたものか。息のかかった病院で色々と調べた後傷を治す手術をしたとか。調べた結果は聞いたが、正直乗り気になれない。色々あったらしいがぶっちゃけ興味がない。ましてや一般人だ。

「レイフォンで埋まるしどうでもいいわね。そもそもそこまで興味ないし。いーらない」

 それにきっと、あれはどこか心がオカシイ。そんなものに関わるのはめんどくさい。

 人ごとのように呟きながらアルシェイラは目を閉じた。ただ、一度くらい興味本位で見に行こうとは思う。
 大会を開くには書類仕事などが必要だが、今は目先の眠気だ。
 起きたら本気出す。そう思いながらアルシェイラの意識は微睡んでいった。









「四週間後、ですか?」
「はい」

 クラリーベルの返答を受けながらレイフォンはどうしたものかと渡された紙に視線を移す。
 前に見たことがある内容の文面、天剣授受者を決める大会への参加の用紙だ。
 正直な話そこまで乗り気になれない。だからと言って参加を拒否する理由もない。困ったものだ。

「レイフォン兄ちゃん天剣になるのー?」
「今度こそレイフォン兄さんなら成れるよ。出てみようよ」
「レイフォン兄出ようぜ!」

 と思っていたら外堀がほぼ埋まりかけていた。
 見ればクラリーベルは暗い笑いを浮かべている。完全に狙ってやられたようだ。
 悩むレイフォンの背中をクラリーベルが押す。

「天剣になれば給付金も増えます。天剣を輩出した武門になれば入門者も増えるでしょうしある程度の保護も受けられるようになります。孤児院という事を踏まえ、多少なら多く出しても良いと女王は言っていました」
「本当ですか?」
「ええ。最低でもその家族は保証すると」

 魅力的な条件にレイフォンの考えが揺れる。
 実際問題、出稼ぎで稼いだ金が結構まだある。それだけで考えるならアレだが闇試合のもある上、ある意味定期的に入る収入を考えれば決して少ないわけではない。天剣は高給取りでもあり、過度な贅沢をしなければ普通に生活していく分にはあるはずだ。
 それでも……と思うところはある。可能な限りたくさんの金額を手に入れたい。だが、家族の分が保証されるというのならまずはそれで良いのではないだろうか。

 一度に多くを望みすぎるのは良くないと出稼ぎに出て学んだ。それに闇試合のこともある。天剣という名声があれば、今度はずっと居続けられるかもしれない。グレンダンを離れずに済むかもしれない。
 自分がいない間弟たちが寂しがっていたとリーリンから聞いた。可能ならもうそんな思いをさせたくはない。なら、これはいい話なのではないだろうか。
 
「……分かりました。参加したいと思います」
「それは良かった」

 クラリーベルが笑顔を浮かべる。子供たちは微妙に違えど彼女としてもレイフォンが天剣になるというのは嬉しいのだ。
 では、とクラリーベルは帰っていく。クラリーベルは今日この連絡の為だけに来たのだ。

「今度は隠さなくていいのかな……」

 前のことを思い出しレイフォンは呟く。天剣になるのが目的ならば出し惜しみする理由もない。立ち向かう相手を全力で屠ればいいだけだ。
 騒ぐ弟たちを適当に宥め隣の部屋に行く。養父には夕食の時にでも伝えればいいだろう。レイフォンはデーブルの上に用紙を起きソファに座る。
 すると反対側に座っていたアイシャが読んでいた本から顔を上げ用紙に目を移す。

「天剣になるの? レイフォン」
「うん。まあ、まだ決まったわけじゃないけど」
「大会でもずっと優勝してる。成れると思うよ、レイフォンなら」

 真っ直ぐにレイフォンを見てアイシャが言う。
 レイフォンが見返すその顔に火傷の痕はなく、右目は開いている。
 クラリーベルに紹介された病院で検査を受け手術を受けたのだ。詳しいことは知らないが、なんでも体細胞を分化させ養培して作った眼球を入れたとか。皮膚の方も火傷はそこまで酷くなく培養した皮膚を移植したらしい。その御蔭で元々の綺麗な容姿はほとんど戻り、まるで人形を思わせるような整った顔が戻っている。

 ほとんど、と言うのは完璧に治ったわけではないからだ。最初から比べれば多少薄く、細くなったがまだ右目の上を走る一本の爪痕は残っている。爪跡は火傷よりも傷がかなり深く表面だけの移植では済まず治すには別途で金が必要であり、負担になるから別にそれくらいはいいとアイシャが断ったのだ。
 それと……とレイフォンはアイシャの右目を見る。琥珀色の左目とは違う“紫紺”の瞳。何故なのかは分からないが色が変わったらしい。視力の面では問題がないという。
 火傷がなくなったため髪で隠すという事はしていない。まっすぐに下ろされた前髪の隙間から覗くその二つの要素でどこか不思議な雰囲気が一層強くなったとも言えるだろう。

「頑張ってね」
「ありがとう」

 アイシャが再び本に視線を戻し続きを読んでいく。よくそんなに勉強をする気になれるなとレイフォンは思う。
 まあ、そこは人それぞれなのだろうけど。

(四週間後か……)

 先のことを思いレイフォンはため息をついた。








 レイフォンが通達を受けてから暫く。

 振るわれる拳を受け止め相手の足を払う。
 頭を狙い放たれた蹴りを腕でいなし懐に潜り込み腹に一撃を入れる。
 腕を構え、そこめがけて放たれる剄の塊を一つ一つ最小の剄でもって相殺する。
 相手の隙を狙い、虚を払い、未熟さを技巧で受け止める。
 一通りの型を追え、息も絶え絶えになった相手が立ち上がり礼をする。

「ありがとうございました、師範代!」
「ああ。お前はまだ伸びる。気を抜かず一つ一つ高めていけばいい。焦る必要はない」
「はい!」

 ルッケンス流師範代———ガハルド・バレーンの言葉を受けた門下生は尊敬する兄弟子の言葉に喜びの色を浮かべながら体を崩さない。
 そんな弟弟子の姿にガハルドは引き締めた表情は変えないながら内心笑みを溢し———唐突に現れた背後の気配に体を強ばらせた。

「———ッ!!」
「久しぶりに見たけれどちゃんとしているようだね」

 強ばった体も一瞬。聞こえてきた声に振り向き、思わず声を上げてしまう。

「若先生!」
「サヴァリス様!?」

 弟弟子のジャルードが驚きの声を上げるがそんな事に気を払えない。
 何故? と思ったのも一瞬。今までの稽古が見られていたとつい恥ずかしくなる。自分はこの人の前で無様を晒していたのではないか、と。
 そんなガハルドの思いを知ってか知らずかサヴァリスは小さく嗤う。

「師範代ですらない身で先生、か。奇妙なものだね」
「いえ、そんな事はありません! 若先生はここの皆の憧れです!!」

 そして勿論自分にとっても。

「それにしても、今日はどうしてここに? 前もって言ってくだされば出迎えしたものを」
「ああ、気まぐれだから気にしなくていいよ。……そうだな、気まぐれついでによければ稽古をつけてあげよう」

 いらないならば別にいいが、とサヴァリスは続ける。だが、そんなはずはない。嬉しさにガハルドの身が震える。
 考えるまでもなくガハルドは答えていた。

「お願いします!!」
「うん。じゃ、始めようか」

 ジャルードが慌てたように声を出す。

「で、では、自分はこれで失礼します!!」

 ジャルードが道場を去っていくのを合図にしたようにサヴァリスが口を開く。

「そう言えば君と稽古をつけたことは一度もなかったね」

 その通りだ。サヴァリスはガハルドの兄弟子ということになっているが、一度として世話をされたことがない。遠めに見ることができただけだ。だがそんな事は気にならなかった。

「あいにく僕は人に教えるというのが苦手でね。好きに打ち込んでくるといい」

 そう言いサヴァリスが手を下ろす。一件何の構えもしていないように見えるがそれで十分なのだろう。
 言われた通りにガハルドは自分の全力を込め打ち込んでいく。
 だが、その全てが防がれる。
 ガハルドは力を尽くし打ち込んでいるというのに、サヴァリスは表情を変えずその全てを受け止め、相殺し、弾く。

「今思い出したけれど、確か君は弟の兄弟子でもあったね」
「はい。不肖の身なれど稽古をつけさせていただきました」

 よく自分を慕ってくれた無骨なれど気のいい少年だった。確か今はどこかの学園都市に行っているはずだ。

「いずれ自分も抜かされるのではと筋の良さを実感しました。流石は若先生の弟です」
「弟、ね……」

 どうでも良さそうにサヴァリスが呟く。その間もガハルドは攻め続けるが、その全てが捌かれる。
 不意にガハルドは気になったことを口にする。

「今日はどうしたのですか? 何といいますか、気分が良さそうな気がしますが」

 いつものサヴァリスなら道場に来ること自体が希で、稽古をつけるなどそれ以上希だ。そもそもサヴァリスが誰かに稽古をつけるなど、彼の弟であるゴルネオ以外にガハルドは知らない。
 そんな疑問にサヴァリスが答える。その心を抉るように。

「レイフォンが天剣決定戦に出るということを知りましてね。つい気が昂りましてね。ああ、レイフォンと言っても分かりませんか」
「いえ……」

 言葉を濁すようにガハルドは言う。
 そんなガハルドを無視しサヴァリスが続ける。

「今度は乗り気の様ですし決まるでしょうね。同僚になるわけです。昔は違いましたが、今なら戦える土壌もある。いや、待ち遠しい限りです」
「……」

 ガハルドは無言で攻め続けていく。口を開けば何か言ってしまいそうだ。
 僅かに乱れたガハルドの拳を弾き、サヴァリスが初めて攻勢に出る。只一撃、ガハルドが腕を払われたと気づいたときには腹に衝撃が走っていた。
 
「これで終りとしましょう。レイフォンほどではありませんが、まあそこそこには楽しかったですよ」
「……ありがとう、ございました」

 腹に残る痛みをこらえながら立ち上がりガハルドは礼をする。

「では僕はこれで。ああそう、なかなかに筋は良かったですよ。一通りの型は見事に収めています。門下生の中では一番だと思いますよ。もっとも、他全員を見たことがあるわけではありませんが」

 そう言ってサヴァリスは去っていった。ガハルドは汗を滴らせるほどだというのに、息一つ切らずに。
 無人になった道場の中、ガハルドの中には二つの思いが渦巻く。
 サヴァリスからの言葉に対する喜びと、一人の武芸者に対する嫉妬と憎しみ。

「レイフォン・アルセイフ———ッ!!」

 ガハルドはその名を呟いた。










「今日何かあったんですか?」

 いつもとは違う周囲の雰囲気に顔なじみの男性に話しかける。

「今日チャンプの試合があったんだが急にキャンセルになってな。その性で苛立ってるやつらが多いんだよ」
「ああなるほど」

 妙に殺気立っているような気がしたのはそのせいか。自分に向かう殺気もその性だろう。

「明日の午後大会あるだろ。ほら、天剣決めるやつ」
「はい」
「その前夜祭を狙って今日は開いたし、チャンプの試合やって盛り上げて売上狙ったんだがそれが狂っちまったよ。だからまあ、我慢してくれや坊主」

 そういうことなら自分に出来ることはない。まあ、何時も通りにやればいいだろう。
 それと一つ、今の話にも関係がある事で確認したいことをレイフォンは男性に聞く。

「前、僕は一年半で出禁になりましたよね」
「ああ」

 だから? という風に見てくる男性にレイフォンは言う。

「なら、その時よりも上の地位に、もっと凄い名誉とか持ってたら、今度はずっとここで稼げますか?」

 レイフォン言葉に男性は頭を掻き、なるほどね、と呟く。

「ああ稼げるさ。こっちを稼がせてくれるなら断る理由はねえ。金づる離すかよ。情でやってんじゃねぇんだ。邪魔になるなら速攻切るし、使えるなら残す」
「分かりました」
 
 それさえ聞ければ十分だ。
 今日は一試合だけ。さっさと終わらせて明日に備え帰るとしよう。
 レイフォンは場に進んでいった。





「レイフォン・アルセイフだな」

 暗い帰り道。レイフォンは呼びかけられた声に振り向く。
 ローブを被った一人の……声から見るに男性がいた。
 纏った雰囲気からして明らかに普通の要件ではない。手が錬金鋼に伸びる。

「生憎、今日は荒事をするつもりはない」
「信用しろと? 顔を隠した相手に言われても困る」
「顔なら見せる。とりあえずその伸ばした手を下げろ」

 男がフードを取る。どこかで見てような気がすると思いながらレイフォンは錬金鋼から手を離す。

「明日お前は天剣を決める大会に出る。だが実力が一歩及ばず決勝で善戦をした後負けるだろう。哀れなことだ」
「いきなり出てきてワケの分からない予言ですか? 生憎占いを頼んだ覚えはない」
 
 レイフォンは辛辣に言う。
 男は一枚の紙を懐から出しレイフォンに向け飛ばす。風に乗ったようにまっすぐにレイフォンの足元にそれが運ばれてくる。
 どうやら写真のようだ。拾ったそれを見てレイフォンは眉を顰めた。

「これは……そういうことですか」

 写真に写っているのは仮面で顔を隠した少年、レイフォンの姿だ。闇試合の物だろう。それも今日では無い。端に写った相手を見るに何ヶ月か前の物。
 すぐさま手が錬金鋼に伸びかけるがそれを男の声が遮る。

「今おれを降せば写真はばらまかれる。ついでにこれも見せてやる」

 そう言ってもう一枚レイフォンの元に写真が運ばれる。写っているのは先ほどと同じ自分の姿。だが、一つ違う。小さいのだ。恐らくこれは自分が出稼ぎに出る前の物だろう。
 今更ながらに思い出す。目の前の男はいくつかの大会で見た。確か名前はガハルドといったか。

「バラされたくなければ自分がどうするか分かるな?」
「……」

 明日の試合、レイフォンとガハルドは決勝でぶつかる。そして戦いの末、自分はガハルドに下される。そう演じろというのだ。平たく言えば天剣を譲れ、と。
 どうすればいい。その言葉がレイフォンの頭の中を巡る。
 
 バラされるわけにはいかない。孤児院の皆は勿論だが、そうされれば金を稼ぐ機会が減る。闇試合の男性は言った。「邪魔になれば速攻切る」と。ならば自分がいられる理由すら危なくなる。出来るだけ離れないと決めたのに家族と離れるかもしれない。
 ここで倒すことは出来る。だがそうすればばらされるという。何らかの手を講じてきたのだろう。昔の写真も使い脅す相手だ、念が入っているだろう。
 ばらされない為にはここで話を受けるしかない。だが、天剣になる機会を失うわけにもいかない。
 家族を守れるのだ。そう保証すると言われたのだ。
 
 ———この男はそれを奪うというのか。
 
 そして不意に、一つの考えがレイフォンの脳裏に過る。同時に、かつて言われた一つの言葉も。
 だから、

「分かりました。明日、僕の剣は不調になると思います」

 レイフォンは承諾した。クソ下らない予言師気取りの男の言葉に頷く。
 承諾の言葉を聞き、ガハルドは口元を歪ませる。

「賢い判断だ」
「凄い予言ですね、占い師にでも転職したらどうですか?」
「これはこれは……だが、こちらよりも自分の身の振り方を考えたほうが賢明じゃないかね」

 そう言ってガハルドは小さく嗤う。

「では明日、試合の場にて会おう」

 そう言いガハルドは歩を進める。
 レイフォンの横を通る際ガハルドが言う。

「ああ、その写真はくれてやる。自らの愚かさを噛み締めるといい」

 ガハルドが去っていくまでレイフォンはそこに立っていた。
 そして不意にレイフォンは写真を宙に放り投げる。瞬間、写真は無数の紙片と化す。

「「騙すことへの第一歩は自分を信頼させること」「迷いや躊躇いは無くして確実な事を」か」

 復元できないほど無数に散る紙片を浴びながらかつて言われた言葉を繰り返す。どんな意図があったかは知らないが、確かにそうだと思う。もっとも、今ではどちらに向けてなのだろうか。
 歩き出しながらレイフォンは呟く。

「ええ、本当に僕の剣は”不調”になると思いますよ。明日会いましょうガハルドさん————」

 凍った様に表情を無くし、感情を込めない声で。
















————死合の場で


 
 

 
後書き
「まあ、別にいいか。……レイフォンに会えたからさ」 byアイシャ



黒い、黒いぜ。書いててテンション上がるね黒いのは。
戦闘描写は前に言った様に少しだけ書き方変えました。ほんとに少しです。


PS 最後の言い回し少しだけ変えました。 
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