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愛しのヤクザ

作者:ミジンコ
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第十八章 エピローグ

 彼方の峰峰は既に雪に覆われ、澄み切った晩秋の空にくっきりとその雄姿を見せている。まるで天上の神々が下界の人間の営みを優しく見詰めているかのようだ。かつて毎日通った国道を、相沢は車を走らせている。
 銀杏の樹が右手に見え、すぐに後ろに走り去る。それは黄色に色づき秋の深まりを感じさせた。そこは5年前、相沢が久美子と初めて出会った場所なのだ。そう、ここからあのモスグリーンのジャガーを追ったのだ。その同じ道を、今日、彼女の弔いのために走る。

 吉野久美子。享年35歳。吉野組組長。久美子は夫である吉野林蔵が急死したため組の跡目を継いだ。翌年10月、甲州街道において、愛車ジャガーが中央分離帯に激突して即死。彼女の血液から多量のアルコールが検出されている。それは夫の死から1年後のできごとであった。
 相沢の目から涙が一滴流れた。この不幸な女の一生を哀れんだわけではない。彼女に最も似つかわしくない人生を選ばせた運命を思えば、確かに哀れな人生である。しかし、幸不幸の総量は本人にしか分からない。他人がとやかく言うべきではないのだから。
 相沢の涙は大切な人を失った哀惜の涙なのだ。胸が押し潰されそうな痛みを感じていた。生きていればこそ、久美子とのおとぎ話、人と人とを結ぶ糸によって久美子と繋がっていると感じることができたのだ。その糸がぷっつりと切れてしまった。
 今度こそ、久美子は本当に別の世界に行ってしまった。それは単に相沢一人の感傷に過ぎないことも分かっていた。5年という歳月は相沢との出来事など思い出されることもなく風化されてしまっていただろう。

 相沢が香港から帰国したのは1年前で、古巣の企画部次長に返り咲いた。結婚は3年前のことだ。あの石井京子と結ばれた。京子は安藤常務の姪だった。健康産業事業部に飛ばされて態度が急変したことも頷ける。常務に諭されたのだ。相沢はやめておけと。
 常務が辞めさせられた直後、京子は辞職したのだが、送別会があり、相沢も出席して事情を知った。京子が正直に常務の姪だと打ち明けたのだ。あの内村の入れ墨の件で本社に呼ばれた日、にっこりと微笑んでくれた理由も分かった。相沢が窮地に立たされていると
聞いていたからだ。相沢は京子の携帯のナンバーを聞いて、翌日デートに誘った。
 
 林田から電話があったのは昨日のことだ。林田は2年前健康ランドを辞め、地元で事務機屋を始めた。健康ランドの営業を通じて企業の総務関係者とのコネクションを培っていたのだ。林田は相沢の送別会の翌日みたいな雰囲気で話しかけてきた。
「課長ですか、おっと次長さんか。実は今月の16日、久美子が死んじゃったんです。自動車事故で。それで明日、八王子で告別式です。もし、時間があったら一緒に行こうと思って…」
あまりの衝撃に相沢は言葉を失った。長い沈黙に林田が苛立った。
「課長、久美子の告別式どうします?用事でもあるんですか?」
相沢がようやく答えた。
「勿論、行くよ。ごめん、ちょっとショック受けちゃって」
「良かった、久美子も喜ぶよ。でも驚いたねー、やっぱり二人は仲良かったから、旦那があの世から呼んだんだと思う。だって、旦那が死んでからちょうど1年目だもの」
「二人は仲良かったの?」
「ああ、いつまで経っても、まあ、子供がいなかったせいもあるけど、まるで恋人同士みてえだった。その旦那が心臓病で死んじまって可哀想だった。だいぶ前から心臓の発作に苦しんでいたらしいんだけど、誰にも言わずに病院にも行かなかったらしい」
 久美子は旦那の死後、伸ばしていた髪を切り、かつてのショートカットに戻したと言う。
まるで旦那に操を立てたみてえだと林田は言った。その時、相沢は久美子の幻影を見ていた。様々な場面で表情を変えながら目の前で微笑んでいる。涙が溢れた。

 健康ランドに着くと林田と清水が待っていた。清水は照れながらマネージャーという名刺を差し出した。物腰が客商売のそれになっており、紳士然として元暴走族だったという雰囲気は微塵もない。
 本社の次長に挨拶とばかりと現れた支配人は相沢の知らない人間だった。向井は相沢の代わりに新天地名古屋でその経験を存分に発揮しているはずだ。石塚調理長は浅草の高級料亭の調理長に納まっている。
 ひとしきり懐かしい昔話に花をさかせ、頃合いをみて腰をあげた。3人は相沢の車で告別式に向かう。相沢は運転しながら二人の会話に耳を傾け、割って入っては声を上げて笑い、そして一人物思いに耽った。

 八王子の泉岳寺に着いて、3人は声をあげ、その異常さに驚いた。そこはまさにヤクザの世界だ。それははじめから分かっていたはずなのに、その規模は想像を遙かに越えていた。寺の駐車場は警官とヤクザがごった煮みたいになって車の整理に追われている。
 ヤクザの親分とおぼしき人物とそれを取り巻く子分達。黒の喪服の群れが艶やかに微笑む女組長、久美子の面影を偲び、そしてそれぞれの思いに耽る。数奇な運命に翻弄された女に対する思いは一つであろう。
 愛した旦那の後を追うように、ただ一人、夜を疾走し、そして死んだ。愛車、ジャガーとともに。マスコミが飛びつかないはずはない。それ以前から、久美子はマスコミの餌食にされていた。美人でインテリの女組長として。
 カメラの放列が相沢達を迎えた。たまたま相沢達と並んで歩く恰幅の良い紳士に向かってシャッターの音が一斉にしかも数秒続いた。清水がかっとなってカメラマン達を怒鳴りつけた。
「てめえら、誰に断って写真撮っているんだ」
この声とともに、またしてもシャッターの音が鳴り響いた。数週間後の写真雑誌にその親分の身内として紹介されようとは、清水は思いもしなかった。

 久美子の遺影を遠くから眺めた。読経の響く境内に一般参列者用のお焼香台が5台置かれている。長い列の最後尾から見ると髪を長く伸ばした、見覚えのない久美子が微笑んでいる。その写真は結婚直後のものらしい。
 相沢は心の中で話しかけた。久美子、久しぶりだな。林田から聞いたよ。旦那と愛し合っていたそうじゃないか。よかったな。また好きだった旦那に会えるじゃないか。でも、もう一度、この世で会いたかった。
 二人とも結婚していて、街でばったり会ったらいいな、なんて想像していたんだ。立ち話して別れるだけだとは思うけど、そんなふうにして会いたかった。もし、あの世があるって言うなら、そこで会おう。微笑み合って握手しよう。
 焼香を済ませると、相沢達は足早に境内を抜け、裏の出口に向かった。マスコミに写真を撮られるなんてまっぴらだったからだ。3人は黙り込み俯いて歩いた。しばらくして林田が口を開いた。
「旦那が死んでから、あいつと飲んだことあるんだ。夜中だけど。そん時、相沢さんの話題がでたよ」
「へー、どんな?」
何でもないふうに装っていたが、胸の動悸が激しく息苦しいほどだった。
「いや、久美子が聞いたんだ、相沢さんどうしてるって?だから結婚して、香港から戻って、そんでもって出世したって言ったんだ。ただ、それだけ」
「彼女は、何か言ってた?」
「いや、ただ黙ってお酒飲んでいたよ。今度、相沢さんを呼ぶから一緒に飲もうかって言ったけど、返事しなかった。きっと、そうしてって言いたかったんじゃねえか、今から思うと」
相沢もそう思いたかった。林田に誘われれば相沢は飛んできただろう。それをしなかった林田を恨んだ。ふと、あの時の情景が浮かんだ。林田の叫ぶ姿がバックミラーに映されていた。相沢は振り向いてじっとその姿を見詰めたのだ。
「林田君、3人でデートした帰り、最初に林田君を降ろした。その時、僕と久美子が乗った車に向かって何か叫んでいただろう。いったい何を叫んでいたんだ?」
「そんなことあったけ?忘れちまったなあ。まあ、今更しらばくれてもしょうがねえか。今日は久美子の告別式だし、ばらしちまうか」
というとにやりとして言った。
「俺は久美子の心が手に取るように分かるんだ。だから、あの日、久美子が何を期待して
いたか分かっていた。最初はそれを何とか阻止しようと思っていた。だけど、なんだか久美子が哀れに思えて、最後には応援したくなっちまった。だから二人の乗った車に向かってさけんだんだ。久美子、やってもらえよーて」
 これを聞いて相沢は何故か涙が滲んだ。林田が何か言おうとして言いよどんだ。しかし、もう一度、意を決したように口を開いた。
「こんな日に、こんなこと聞くのは不謹慎だけど、あの日、俺、眠れなくて苛々して女房に当たっちまった。まったく情けねえ人間だ。でも、今でも気になっているんだけど……、結局あの日、やったん?」
涙に潤ませた目を拭い、相沢は笑顔をむけて答えた。
「いや、やらなかった。やろうとしたけど、拒否された」
黙って聞いていた清水がすっとんきょうな声をあげた。
「えー、やってなかったの。あの日、久美子さんが、あの喫茶店で『抱いてくれてありがとう』って言ったから、てっきりやったとばかり思って、林田さんにそう言ったんだ、ねえ先輩」
林田が清水の頭をひっぱたいた。
「馬鹿野郎、全然ちがうじゃねえか、お前の言ったこと。この5年間思い違いして過ごし
てきたってことだ」
清水が小さくなってバツが悪そうな顔で相沢をちらりと見た。林田が続ける。
「やっぱりなー、あいつらしい。でも、思い切って聞いて良かった。本当に良かった。心が晴れた。全くあいつは意気地のねえ奴だったから」

 相沢ははたと歩みを止めた。遠くに見覚えのある顔を見つけたのだ。寺の境内の裏に臨時駐車場が用意されていた。そこに相沢は堤の姿を見いだしたのだ。あの長髪と彫りの深い顔はよく覚えていた。健康ランドに乗り込んできたヤクザだ。
 堤は車の横に立っていたが、一方のドアからサングラスをかけた女が降り立つと、先に歩き出した。女は少し急いで堤に追いつくと、並んで歩く。相沢はその女をじっと見詰めた。サングラスをしているが、その女は間違いなく鵜飼則子だった。
 林田も気付いたようだ。立ち止まって見詰める相沢を振り返り、声をかけてきた。
「相沢さんも気付いたか。あの二人、俺の睨んだ通り、やっぱり関係していたってわけだ。
則子の奴、惚けやがって。でも、則子にも会えるなんて、嬉しいね、ねえ、相沢さん。きっと久美子の取り計らいだ」
 相沢はこの偶然が偶然とは思えなかった。やはり久美子の言っていた糸は存在するのだ。そして縁のある人々はその糸によって引き寄せられる。こうして則子と会えるなんてこれほどの喜びはない。たとえ、その別れがぎくしゃくしていたとしても。

 堤と則子が相沢達に気付いたのはだいぶ近づいてきてからだ。始めに則子が相沢を認め、小声で堤に囁いた。堤は顔をしかめて三人を睨みすえ、そしてそっぽを向いた。則子は俯き、ゆっくりと歩いてくる。
 相沢も歩みを緩めた。話をしたかったのだ。俯いていた則子が顔を上げて背筋を伸ばした。サングラスに隠された瞳は二人を捉えているはずだ。黒のドレスはやはり素人とは思えず、水商売が身に染みついている。
 則子がサングラスをはずした。すれ違う寸前だ。林田が歩みを止め微笑む。則子も立ち止まった。その目は林田にのみ向けられている。相沢をまったく無視していた。則子がにやりと笑い、堤に話しかけた。
「あんた、何かと縁のあった方達なんだから、挨拶したら」
堤は二人を睨み付け、すこしだけ頭を下げて言った。
「どうも、その節は…」
林田がにこやかに答える。
「いえ、いえ、こちらこそ…不調法で」
堤は、先に行っていると言い残し歩き出した。後ろ姿を見やりながら則子が言う。
「鯨井が組を解散して、今、あの人右翼やってるの、ほら、バスに乗って、がなっているやつ。そっちの方がヤクザより向いていたみたい」
林田がへーと言って話題を変えた。
「それはそうと、またべっぴんさんになったね。ところで、今、どこにいるんだ」
「立川に店を出してるの。小料理屋、安くしとくから飲みに来て。これ、名刺。そこに住所が書いてあるから」
「ああ、行く」
則子が何か思い出したような表情を浮かべた。
「そうそう、堤のことで嘘言っちゃたけど、ごめんね。別に隠すつもりはなかったけど、何であんた達が知っているのか不思議で、つい本当のこと言えなかった」
「そんな昔のことで謝られたって、もうそんなこと覚えていねえよ。それよっか、今度、本当に飲みにゆくよ」
「そうして」
 則子は最後まで相沢を無視し、林田に別れを告げた。じっと見詰める相沢の横を通り過ぎて行く。相沢は振り返りその後ろ姿に見入った。林田が則子に声をかけた。
「こんど、3人で行くから。俺と林と、それから課長さんと」
 則子の歩みが止まった。すこしたって、ゆっくりと振り向いた。その視線は相沢に注がれている。そして笑みを浮かべた。相沢もそれに応えた。その微笑みは二人の心のわだかまりを溶かしていった。則子が踵を返し歩き始める。

 3人は遠ざかる則子の後ろ姿をじっと見ていた。清水が口を開いた。
「いいな、二人は。俺なんて、久美子さんは、後ろ向いてて声しか聞かなかったし、則子さんは噂でしか知らない。もうちょっと早く健康ランドに就職していたら、二人と知り合えたのに」
林田が言った。
「清水、縁っていうやつがあってな、縁のある人どうし糸で結ばれているんだってさ。そいつが引き合うのさ。清水が俺たちと縁があるってことは、久美子や則子とも縁があるってことだ。来世では恋人になってるかもしれねえ」
「先輩、来世まで待てません。今度その店に行く時、俺も連れてってください、お願いします」
相沢は林田が自分と同じ考えを持っているのに驚いた。来世も本当にあるような気がして
きた。縁といえば、もう一人、林がこの場にいないことが寂しかった。
「ところで、林はどうしてるの?」
「元気でやってるよ。赤ちゃん本舗に就職して今じゃ店長だ。そうだ、おい、清水、3人じゃなくてお前を入れて4人で飲みに行こう。林には、あの日のひったくりの話はまだしてねえんだ。その話をしてやってくれ」
「例のはなしですね。山本が泣いていたことや、金をやる、金をやるから、これだけは勘弁してくれって叫んだことでしょう」
相沢が二人に声を掛けた。
「それじゃあ、とりあえず、今日は3人だけで飲みますか。まだ早いけど」
「相沢さん、車でしょ、車どうするの」
「今日は健康ランドに泊まる。車置いて、近場の飲み屋にくりだせばいい」
3人は互いの顔を見合わせて頷きあった。
 今日は思い出に乾杯しよう。そして、忘れていた大切な人々に乾杯しよう。心優しき人々、人の痛みを我がことのように感じる人々。またいつか会える。生きている限り何処かで会える。いや、あの世だってあって、そこで会えるかも知れない。相沢は夕焼けに染まる黄金色に輝く峰峰を眺めながらそう思った。




 
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