愛しのヤクザ
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第十六章 逆転
相沢と石塚が総務部のフロアに入ってゆくと、山田課長が立ち上がり、急ぎ近づいて来る。応接室の前に立ち二人の方を見て「相沢課長、調理長、どうぞこちらへ」と声を掛けてきた。山田は相沢より年上なので、その慇懃な態度に不審を覚えた。
相沢は既に来ているはずの鎌田の姿をフロアーに探したがどこにも見あたらない。応接
に入ってソファーに座るが、山田は一礼して部屋を去った。どうも様子がおかしい。山田は本来であれば冷徹な死刑執行人に徹していなくてはならないはずなのに終始穏やかな顔
を崩さなかった。
相沢は応接室を出て、総務部の奥を覗いた。山田課長は電話をする部長の前に立って、その話を聞いている。部長の声は遠くて聞こえないが、誰かを怒鳴りつけている様子だ。
一体全体、何が起きたのか。まさか罠が露見したのか?応接に帰って石塚に話しかける。
「様子が変です。今、総務部長が誰かを怒鳴りつけていましたが、あんな風な総務部長を見たのは初めてです。もしかして相手が山本統括事業本部長だったりして」
「山田総務課長はどうしてる?」
「怒鳴っている部長の前に佇んでいました」
「ってことは、その可能性大だ。山本と鎌田副支配人が総務部に来なくては話しにならない。だから、総務部長が呼び出しをかけているんじゃないか。それが来ないってことは、どうやらばれたみたいだな」
「やはりそうお思いになりますか。でも、どうしてばれたんでしょう?」
「分からん、いずれにせよ、こっちはどう転んでも傷がつくことはない。成り行きにまかせよう」
そこへ山田が困惑顔で入ってきた。二人は山田の口が開くのをじっと待った。
「相沢君、困ったと言うべきなのか、それとも君の主張が正しかったと言うべきか。実は、山本統括事業本部長が今朝、謝りの電話を僕にしてきた。内村さんの話は勘違いだったと言うんです。今更遅いと思います、こうしてお二人に来てもらったのですから」
「なんですって。全くひどいは話だ。で、山本統括事業本部長は、どのようにおっしゃっていたんですか?」
「それが、念のためと思って鎌田さんにもう一度話を聞いたんだそうです。すると以前の話と少し食い違う。不審に思って厳しく問いつめたところ、嘘だと白状したと言っていました。でも眉唾ものですよ、どう考えても」
「さきほど総務部長が怒鳴ってましたけど、あれ、相手は誰ですか、もしかしたら山本さんですか?」
「ええ、私は山本さんに、直接お二方に説明してくださいと何度もお願いしていたのですが、らちが明きません。ですから部長にお願いして電話してもらったのです。それでも、急用が出来たとかなんとか言って来ようとはしません。いくらなんでも、そんな失礼な話はありませんよ。いったいどういうことなんでしょう」
調理長が口を挟む。
「まったく人を馬鹿にした話だ。入れ墨がどうのこうのと言ってるとは聞いていたが、こっちはとんと心当たりがない。今日はその証拠をみせてやろうと、内村も連れてきた。外で待たせてある。店は忙しいっていうのに、いったい何を考えているんだ」
「ええ、おっしゃる通りです。まことに申し訳ございません」
「まあ、あんたに謝れなんて言ってないけど」
と言って、相沢にウインクする。山田がしてやったりといった顔で相沢に言う。
「先ほど安藤常務にも電話を入れて事情を話しておきましたが、かんかんに怒っていました。常務も山本さんの話を信じて役員会であんな発言をしわけです。大恥をかかされたことになりますから、山本さんもただでは済まされません」
相沢は山田にお礼を言って、フロアーを後にした。まずは山本をつかまえて話をしたかった。相沢は歩きながら石塚に話しかけた。
「僕は山本をつかまえて言いたいことを言ってやります。そうしなければ気持ちがおさまりませんから。調理長は内村さんのいる喫茶店に先に行って待っていてください。言いたいこと言ったらすぐに行きますから」
「分かった、内村もじりじりして待っているはずだ。行ってあげないと。でも、ちょっとがっかりだな、内村の背中を見せてやりたかったよ。山本が目を剥いて驚く顔がみたかった、残念」
「そうそう、厨房に電話を入れてみてください。みんな僕らに協力して演技してくれていましたが、今日、調理長と内村さんが出掛けて、ほっとして、ついぽろっとしゃべったということも考えられるでしょう。それを誰かに聞かれて、その誰かが山本に電話した」
「うん、あり得る。みんな今日で終わりだと言って喜んでた。俺たちのでかい声の会話に気付かない振りするのも大変だったみたいだ」
「本当、調理長はセリフ棒読みだし」
「馬鹿言え、課長こそ、時々噛んでたくせに」
エレベータが8階に止まった。外に出ると隣のエレベーターの前に安藤常務が立っていた。いつもなら大きな声で話しかけてくるのだが、ちらりと一瞥しただけで全く無視の態度だ。恐らく山本と何かしら打ち合わせをしたのだ。
相沢も挨拶もせず統括事業本部の部屋に向かった。部屋に入ってゆくと秘書の部下の桜庭が立ち上がり、声を掛けてきた。
「あれ、課長、いらしてたんですか。今日は、部長室は千客万来です。今、部長室に鎌田副支配人が入ってます。その前は安藤常務。課長も入りますか?」
「ああ、その予定だ。秘書の内田さんに都合を聞いてくれ」
桜庭はすぐに内線を入れ、しばらくして受話器を置くと言った。
「副支配人が出てきたら、中に入って下さい」
ふと、レストラン事業部の石田京子がこちらを見ているのに気付いた。相沢が視線をむけると、一瞬、はっとして下を向いてしまったが、しばらくしてまた相沢に視線を向けてにっこりと微笑んだ。相沢も微笑み返した。勇気凛々、やったるぞーと心の中で思った。
10分を過ぎた頃、ドアが開き鎌田が出てきた。ドアを開けたまま深く腰を折って挨拶している。相沢が近づいてゆくと下を向いたまま、ちょこっと頭を下げてすれちがった。
ドアを開け「失礼します」と声を掛けて中に入った。山本は相沢に一瞥を与えたが、忙しく出掛ける準備に余念がない。大きな鞄に書類を詰め込み、抽出を開けて中をがさごそと探っている。相沢のことは全く無視である。
ようやく準備が整うと、どっかりと椅子に腰掛けた。そして初めて相沢に気付いたような顔をして口を開いた。
「おやまあ、相沢課長さまのお出ましかい。風呂の掃除でもしてりゃあいいのに、本部に何の用かね」
「用事を作ったのはそっちではありませんか。石塚調理長に同行して来たんです。それなのに肝心な方がお二人とも来ていない。どうしたんですか、首を宣告する手はずは整っていたんでしょう?」
「まったく、お主も役者やのう。てっきり本当のことかとおもったよ。あやうくお前の罠に嵌るところだった。かつてヤクザだっただと、若気のいたりで入れ墨をしただと、ふざけやがって、ぜんぶ嘘じゃないか」
「えっ、何のことですか?さっぱり分かりませんが」
山本は顔を一瞬のうちに充血させた。そして怒鳴った。
「ふざけるな、お前のおかげで俺は大恥をかいた。安藤常務もだ。これで終わると思うな。いいか、良く聞け。常務が俺の上司である限り、これからも俺はお前の上司だ。いいか、覚えておけよ、この仇は絶対にとる」
「部長、部長はいつも本質を見誤るタイプの人間ですよね。内村さんのことも、家庭用のシンクであの大量の食器を処理できると思ったことも、20メートルある厨房と宴会場に中継点がいらないと言ったこともみんな見誤っていました」
山本は白目が飛び出すのではと思えるほど目を剥きだして怒りに燃える。
「だから、部長って、お笑いぐさですよ、みんなの。最後まで、内村さんが入れ墨していると頑張ってくれたら、山本部長らしくて、お笑いぐさでよかったのに、残念です」
山本は怒鳴る寸前だった。しかし、しばらく下を向いて何かぶつぶつと呟いていた。そして顔を上げたときには薄笑いを浮かべ、相沢に哀れむような眼差しを向けた。
「とうとう牙を剥きだしたってわけだ。それがお前の本性だってことは常務も俺もとっくに分かっていた。常務に逆らったキャンペーン会議の後だ、常務が言った。相沢を新事業の課長にすると。そして潰せと指示した。さっきも、常務はお前を力でねじ伏せてやるとおっしゃっていた。覚悟しろよ」
こう言って立ち上がると、相沢を指さし睨み付けながらその手を上下にゆする。相沢も負
けじと睨み返し、一歩前に出る。思った通り、山本は後じさりして、ふんと鼻を鳴らして、歩き出した。小さな背に大きなバッグを肩から提げて歩いてゆく。
部屋を出ると、桜庭が緊張した面もちで相沢を見ている。どうやら怒鳴り声が聞こえたようだ。鎌田は隅の応接セットに腰掛け、両手で顔を覆っている。相沢はその前に腰掛け話しかけた。
「鎌田さん、これからも山本さんに付いて行くつもりですか。もう、あいつは終わってますよ。総務部長に怒鳴られていました。総務部長は社長の最も信任の厚い人です。この会社を背負ってゆく人と言われてます」
鎌田はしばらくじっとしていたが、両手を顔から離し、相沢を見詰めた。
「山本さんは、村田が見たのに、僕が見たって証言させようとしたんですよ。納得できませんでした。今日は本当に心臓が破裂しそうだったんです。いまさら課長や支配人に顔向けできませんが、本当に申し訳ございませんでした。」
「支配人は寛容な方ですよ。恨みを翌日まで持ち越さないことが施設運営の鍵だって言っ
てました。今みたいに素直に謝れば、許してくれます。僕がそう断言します」
「そう言って頂けると、少しは気持ちが軽くなりました。分かりました、そうします。課長からもお口添え願います」
「ええ、勿論させていただきます。それから、この後、このビルの前にあるブルボンという喫茶店に行って、調理長にも頭を下げてください。それと、今日のことはどうしてばれたんですか?」
「そのことですけど、実は今日、厨房の若い二人がトイレで内村さんのこと話していたそうです。それを個室に入っていたウエイターが聞いて、村田にご注進したんです。山本さんがそのことを常務に連絡すると、すぐ駆けつけてきて、部長と先ほどまで怒鳴合いです」
「何か特別なことは言っていませんでしたか?」
「課長のことを散々に言っていました。あいつは何をしでかすか分かったもんじゃない。だから証拠を隠滅しろって指示していました」
「何ですって、証拠を隠滅するですって?」
「ええ、出来るだけ早く処分しろと言っていました。だから今日山本さんは八王子に出掛けたんです」
相沢はすぐに思いついた。あの個室だ。あの個室にある何かを処分しようと言うのだ。相沢は山本の後を追うことにした。何としても阻止する。鞄を奪うしかない。そこまで思い詰めた。相沢が廊下を曲がった時、小倉企画部長にばったり会ってしまった。
「相沢君聞いたよ、山田君から。良かったじゃないか、今、専務にお話申し上げてきたところだ。専務が、相沢君を連れてきなさいというので、探していたところだ。ちょうどよかった」
ウワーンと泣きたくなった。しかし、断ると角が立つ。山本が証拠を隠滅しようとしていることを話したとしても、鞄を奪う計画を二人が承認するはずもない。10分やそこらの遅れは高速で飛ばせばなんとかなる。そう思い専務室に同行した。
しかし、予想外に岡安専務は機嫌が良く、だらだらと話が続き、専務室を出たときは既に40分を過ぎていた。しかたなく喫茶店に急いだ。店に入ってゆくと、鎌田副支配人が調理長の前で首をうなだれている。相沢を見ると、調理長が声を掛けてきた。
「課長、今、こいつが謝ってきたんだ。内村は許さんと言っているが、俺はもういいと思っている。こうして謝ってきたんだから」
相沢はぜいぜい言いながら答えた。
「ええ、そうして下さい。向井さんもきっとそう言うと思います。それより大変なことになりました。山本はやっぱりあの個室で何かやっていたみたいです。きっと不正です。それを処分しに健康ランドに行きました。どうしましょう?」
「向井さんに電話しろ、それが一番早い。そこで押さえるしかない」
「でもどうやって押さえるんですか」
二人見つめ合い、それぞれ思考を巡らせていたが、最後は首を傾げた。相沢は向井が山本の行く手を遮り、鞄を渡せと怒鳴っている図を思い浮かべたが、そんなこと出来るはずな
どない。それでも、電話だけはしなくてはならない。
携帯を取り出し、ボタンをプッシュする。携帯に出たのは林田の声だ。息せき切って事情を話すと、林田はしばしの沈黙の後、きっぱりと「何とかします」と答えて電話を切った。相沢は携帯を見詰めて考えた。林田はいやにあっさりと、自信ありげに答えた。何とかすると。じっと見詰める三人に視線を向けた。
「林田君が何とかしますって言っていました。だけど、いったい、何を、どう、何とかするつもりなんだろう」
三人は一様に首を傾げた。
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