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愛しのヤクザ

作者:ミジンコ
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第十五章 悲しき性(さが)

 通された部屋は十畳ほどあり、隣の湯殿は本物かどうか分からないが、大理石らしき床板が敷き詰められ、ピンク色のジャグジー風呂は二人で入るには大きすぎるほどで、相沢にとっては初めての高級感溢れる店だった。
 ベッドは真新しいシーツに変えられているとはいえ、先ほどまで別の男がいたことは確かで、商売用とはいえ則子の喘ぎ声がこの空間に響いていたはずである。健康ランドにいた則子と目の前の則子の落差に、相沢は戸惑いを感じて、以前の関係をとりもどせずにいる。
 則子はベッド近くに置かれたソファーに脚を組んで座り、そっぽを向いたままタバコをくゆらせている。薄い眉毛、色濃く引かれたアイシャドウ、妙に照明を反射する口紅、どれも相沢にとって初めて見る則子だった。
 はーとため息をつく。気詰まりは如何ともしがたく、かつての上司である自分が、元部下を金で買うなんて許されることではないなどと、屁理屈が頭の中を駆けめぐる。林田の教えを思い出したが、こんな場面でどう応用したものかさっぱり分からない。
 そして林田が個室に消えてゆく刹那、相沢に見せた笑みの意味をようやく悟った。最初から計画していたのだ。相沢の相手に則子を選んだのは林田だった。何故そんなことをしたのか、後で問いただしてやると息巻いてみたものの、緊迫した空気を変えるほどの元気も勇気も沸いてこない。
 よし、いっそのこと、今日は諦めようと思った。そして言った。
「招かれざる客みたいだな。やはり元上司が…」
と言って言葉に詰まった。何を言おうとしているのだ?元部下を買う訳にはいかない、なんて言えるわけがなかった。軽口の癖は治りそうもない。せめてきっぱりと立ち去ろうと思った。そして立ち上がったその時、
「それ…」
と言って則子が指差した。指の先、自分の下の方を見ると夏用のスラックスの前がぱんぱんに張って山のようになっている。咄嗟に横を向いて隠したが、今更遅い。意志とは裏腹な肉体が恨めしい。
 恐る恐る則子を見た。ふん、とばかりに鼻を鳴らし、またしてもそっぽを向いた。プライドがずたずたになった。軽蔑されたまま立ち去るわけにはいかない。どうしたらいいか逡巡した。そして則子がちらりと相沢に挑むような視線を向けたのだ。二人の視線は絡み合い、時に火花を散らした。
 そして蔑むような視線が再び下半身に向けられた時、理性がぶっ飛んだ。その刹那、相沢は我を忘れて則子に襲いかかった。欲望をむき出しにして覆い被さった。両手首を押さえ、勃起したそれを柔らかな腹に押しつける。怒りがその欲望の底にあった。
 「客に向かって、その態度はないだろう」一瞬、心に浮かんだ罵声がこれである。接客業の悲しい性だろうか?

 則子は則子で必死に抵抗する。手首を振り解こうとめちゃくちゃに動かした。そして、
「やめて、課長、お願い、やめて」
と、悲しげな声を上げたのだ。則子は自分のその台詞に唖然とした。まるで生娘ではないか。毎日何人もの男をくわえ込んでいるというのに。どうしよう。しかし、始めてしまったからには続けるしかない。演技を、である。
 相沢は抵抗する則子のなまめかしさに欲情をがそそられた。ブラジャーをはずし、その乳首に吸い付いた。則子は尚も抵抗を続けた、でも、そろそろ・・・、うーん、もういいかと思った。だから「あっ…」と切なそうな声をあげ抵抗をゆるめてゆく。そして、
「か、課長…駄目、駄目…ああ・・・」
と次第に喘ぎ声を上げ始める。欲望がじわじわと沸き上がる。演技がかえって欲望を誘ったのである。終いには相沢の首に手をまわし、自ら唇を求めた。
 
 ことが終わり、相沢は虚脱したようにベッドに横たわっている。則子は鏡台の前に座り、ほつれた髪を整えていた。則子は相沢に惹かれてはいたが、これまでの自分の人生を思えば最初から別の世界の人間だと感じていた。だから相沢の誘いをやり過ごしたのだ。
 でも、体が一つになった時に感じた喜びはひとしおで、自ら張り巡らせた垣根を飛び越えられたと感じた。なのに、ことが終わって相沢が吐いた一言が則子に冷水を浴びせることになる。「ご免、つい、かっとなっちゃって」と言ったのだ。
 拒む素振りはしたが、本心ではない。抱いて欲しかった。それが「つい、かっとなって」襲ったということか。むかっ腹が立った。愛おしくて抱いたのではないと言っているようなものだ。その怒りの感情が単なる言いがかりに過ぎないのは分かっていたが、則子は臭い芝居をしてしまった自分がやはり許せなかったのだ。

 相沢は無理矢理犯したと思いこんで、自責の念にかられているらしい。ふと、林田とのやり取りを思い出した。一ヶ月ほど前のことだ。今日と同じように驚きの対面となった。でも、則子はふて腐れたりはしなかった。
 そして、林田も緊張していた。だから、林田らしからぬことを言ったのだ。
「則子、だめだよ、こんな商売してちゃー」
則子は笑いながら答えた。
「そんなこと言うなら、やらしてあげない」
林田がにーっと笑った。その顔が可愛かった。
「ごめん、ごめん、つい緊張しちまって、おためごかしなこと言っちまった」
「しょうがないよ、突然の再会だし」
「まったく、思いもしない突然の再会だ。でも、会いたかったー、本当に会いたかったんだ。則子が消えちまってからというもの、気張っても気張っても、元気のゲの字も出なかった」
と言うと、則子の手をとった。暖かくて柔らかな手だった。そしてすっと引き寄せられ、抱きしめられた。「会いたかった」と何度もくりかえし、そのたびにぎゅっと力を込めるのだった。
 則子の心も体も次第に溶けてゆく。林田のぬくもりが胸から体全体へと広がって行き、今日の疲れを癒してくれる。ずっと、そうしていたかったが、時間も気になった。林田は値段の安いショートのお客だ。でもサービスしてやろうと思った。
 体を少し離し、指先で林田の顎を上に向け、唇を近づけた。林田が驚いて言った。
「キスは大事な人に取って置くんじゃ・・」
体はゆるしても、キスは恋人のために取っておくという商売女の唯一のプライドのことを言っている。ふふっと笑って、則子は林田の唇を塞いだ。

 その後、林田は豹変し、もう一回、もう一回とねだり、最後には土下座して頼んだ。それでも時間内に終わったのだ。ふっふ、と思い出し笑いを漏らした。それなのに何故、今日はこんなことになったのか?やはり相沢にこんな姿を見られたくなかったのか?
 相沢はのそのそと立ち上がり、着替え始めた。その姿を鏡ごしに則子がじっと見詰める。どう対応したものか迷っていた。互いの欲情が果てるまで絡み合ったのだから、気心が通じてもよさそうなのに、二人の心は離れたままだ。
 相沢が着替え終わり、立ったまま何か言おうとしている。則子の心は揺れた。「外で会いたい」という言葉を期待する自分に舌打ちした。一瞬、食事したり、ドライブしたりするシーンを思い浮かべた。普通の恋人みたいに。しかし、そんな思いとは別なところから言葉が出たのである。
「相沢さん……、もう来ないで」
相沢がじっと見詰める。則子の心情を推し量るように。則子も毅然とした表情を保持している。「分かった」と呟くように言って、(きびす)を返した。ドアに手を掛け、一瞬、動きを止めた。則子の鼓動が動きを早めた。しかし、相沢は後ろも振り向かずドアから消えたのだった。
 則子は短くため息をついた。相沢とはもう二度と会うことはない。一抹の寂しさはあったものの、これで何もかも、ふっ切れたと思った。

 林田と清水が待合室で待っていた。林田が相沢の顔を見て言った。
「だいぶ抵抗されたみたいですね」
「えっ、ど、どうして分かったの?」
「だって、顔、引っかかれてますよ」
相沢が慌てて顔に手をやって血の滲んだ傷を探し当てる。そう言われればひりひりしていた。急に林田に腹がたってきた。
「林田君、ひどいじゃないか、何もかも知っていて、ここに連れてきたな」
林田がにこにこして、
「何を怒ったふりしてるんですか、良かったくせに、おい、清水行くぞ」
と軽く受け流し、出口に向かう。
 外に出ると林田は清水の肩を抱き、なにやら話している。追いつくと、林田の声が聞こえてきた。
「俺も、愛の真理に気づいたのは、つい最近なんだ。動物王国って知ってるだろう、ムツゴロウさんがやっているやつ?」
「ええ、何度か見たことがあります」
「面白かったのは、ムツゴロウさんが、犬のチンポコをイタズラしたんだ。すると、犬はどうなったと思う?」
「さあ、どうなったんです?」
「それが、人間様と一緒で、ムツゴロウさんに必死ですがりついたり、顔を舐めたり、しっぽを振り続けるんだ。見ていて身につまされるほど、やりたい一心の男とそっくりだった」
「そして?」
「ムツゴロウさんは、その犬を行かせてあげたんだ、つまり、抜いてやった。その後、ことを終えたその犬の態度が面白いんだ」
「いったい?」
「人間様と一緒さ。背中を向けて、ムツゴロウさんが少しでも触ろうものなら、うるさそうに邪険にして、逃げ回っていやがった。掌を返すってのは、ああいうことだろうな」
「つまり人間も同じということですか?」
「そういうこと。何発やった後でも、愛おしいと思えれば、それは愛、それほどでもねえと思えば、欲情ってことだ。おい、今日は何発やったんだよ?」
 二人は肩を組んで、押し問答を繰り返している。相沢はぼんやり則子のことを思った。今、自分は則子をどう思っているだろう。やはり、愛おしい。でも、愛とは違うような気がする。

 今日、相沢は則子と会えたことが嬉しかった。帰り際、則子が何故あんな風な態度にでたのか理解に苦しんだが、二人は狂おしいほどに燃えたのは確かなのだ。

「何故、僕の前から消えた?」
「何も言わないで、この一瞬一瞬を大切にしましょう」
喘ぎながらの一言が蘇る。相沢にとって忘れられない一時だったのだ。突然、大きな笑い声が響いた。林田が振り返って怒鳴った。
「課長、こいつ3発しかやってねえのに、やっぱり君子のことは勘違いでしただって。まったく若いのにだらしがねえ。俺だったら5発はやらねえと、本当の愛かどうかなんて、分かんねえけどな。とにかく、君子のことは諦めるそうです。あんな女、ろくでもねえからな」
相沢は素直な気持ちでこれに答えた。
「そうかな、いい子だと思うけど」
「そんなこと言って、まさか、やらしてもらったんじゃねえんでしょうね」
清水が顔を引きつらせ笑いながら言う。
「それが、課長ったら、笑っちゃいますよ。あんなにがんがんやって、俺なんか出る幕ないくらいだったのに、課長、酒飲みすぎてて、やった記憶をなくしちゃっているんだもだから、やったことにならないって、嘆いていいるんですもん、ガッハッハ」
もう辛抱たまらず歩きながら笑い転げている。憮然とした相沢と、呆然とした林田が、互いに顔を見合わせた。目をまん丸にして林田がぼそっと言った。
「今、な、何て言った。課長と清水と君子の3人でやったみたいなこと言わなかったか?俺の聞き違いじゃなければ、そう聞こえたけど」
清水がこともなげに答えた。
「ええ、宿直室で大乱交しちゃいました、3人で」
林田が叫ぶ。
「何てこった!あの女、佐々木ともやってるし、今井とも…、その上…」
動揺して言葉が続かない。ようやく口を開いた。
「課長ー、何でそんないいことやるのに俺を呼んでくれなかったん?俺は則子を諦めて、金髪のスエーデン女で我慢したっていうのに、随分と冷てえじゃねえか」
「林田君は、その晩、いなかったんだから誘えるわけがないよ。それより、もしかして、林田君は君子に振られたんじゃないの?」
清水がそうだそうだと合いの手をいれる。憮然として林田が答えた。
「振られてなんかいねえよ、ケツ触ったら、バシって頬を張られただけだ」
相沢と清水は腹を抱えて笑った。清水が笑いながら言った。
「偉そうに誰とでもやる女は女房にも恋人にも向かないなんて言ってて、結局、自分もやりたかったんじゃないですか、先輩こそ旦那にも恋人にも向かないですよ」
二人は笑い続けた。何とも言えぬ爽快な笑いだった。林田もつられて笑っている。目的を達した男達の満足感がそこにあった。

ようやく笑い終えると相沢が聞いた。
「そういえば、則子はあの鯨井組の堤と知り合いだったのかな?」
「いや、俺も気になって聞いたけど、否定してた。だけど、則子の言うことなんて分かったもんじゃねえ。俺は知り合いだったと睨んでいる」
「そいつに言われて、あんな所で働かされいるんだろうか?」
「いや、それはない。あいつは目標を持ってる。小さくてもいいから自分の店が持ちたいなんて抜かしてたけど、あれは本心だと思う。もう二千万貯めたって言ってたから」
ふーんと頷いた。確かに則子は強い意志の持っている。もう一つ気になることを聞いた。
「でも、やっぱり俺とは会いたくなかったんじゃないかな?」
「ええ、だと思ったから、会わせたんですよ。則子は目標を持ってる。でも心の何処かに疚しさを持ってた。疚しさを取り除くにはきっつい現実に直面するのが一番」
「俺と会うことか?」
「ええ、そうです。疚しさをもっている限り、成功なんておぼつかない。そんな疚しさなんて捨ててしまえばいいんです」
「そういうものかな」
「ええ、そういうものです」
林田の横顔をちらりと見た。その顔にどこか哲学的な雰囲気を漂わせていた。

 翌日、出勤して事務所のドアを開けると、向井支配人が立ち上がって相沢を迎え、ちらりと視線を石田の方に動かし、注意を促す。そして口をこわばらせ、決められた台詞を話し出す。
「相沢課長、先ほど石塚調理長が来て、いよいよ最後通告らしいってこぼしていた。総務部に呼び出されたらしい」
相沢もちらちら石田を盗み見て答える。
「本当ですか、呼び出されたって、いつですか?」
「明日の午後一番で来るよう言われたとのことだ。とうとうその時がきたか」
二人して深刻そうに額を寄せ、考え込んでいる。
石田はパソコンに向かい、ようやく覚えたエクセルの表作りに余念がないという素振りで聞き耳を立てていた。明日の呼び出しのことは、山本からとうに耳打ちされている。そしてこうも言われたのだ。「いいか、正念場だ。どんなことでもいい、あいつ等の動きを逐一知らせろ」と。あと一歩である。鎌田が支配人、そして石田が副支配人になる日まで。紺のブレザーに身を包み、颯爽と館内を闊歩する自分を想像して、にたついた。

 相沢が厨房にあがると、石塚調理長が手を挙げ、折り畳み椅子を用意して自分も座る。既に注文が入り始め、内村が大声で指示を出し始めた。オーダー係りの鎌田副支配人が二人をちらちら見ているものだから、石塚は完全にあがっている。
 大枠のセリフは決められていた。でも石塚調理長は最初の出だしはアドリブでやると言っていたのに、そのアドリブが出てこない。緊張しまくっている。石塚がようやく最初の一言を思いついた。
「あれだねー、なんと言うか、天高く馬肥ゆる秋っていうけど、本当に空が高いって感じだねー」
なんだよ、散々考えて天気の話かよ、と思ったが、合わせるしかない。
「本当です。春もいいけど、この季節も何とも言えず気持ちいいですよね」
どうも話がぎくしゃくして不自然だ。これからが肝心なのだ。声の音量を上げた。
「でも、とうとう呼び出しがかかったみたいじゃないですか」
どぎまぎしながらも石塚が大声で答える。
「そうなんだ、明日の午後1時半。本社に呼ばれている。向井さんが言ってたけど、課長も一緒に行ってくれるそうじゃないか。助かるよ」
「ええ、入れ墨のことは謝るしかと思います。僕も一緒に謝ります。誰にだって若気の至りってこともありますし、可愛い弟子のことですから、黙認したと言うしかありません」
「そうだな、謝るしかないか」
聞こえたのか聞こえなかったのか分からないが、鎌田がオーダーを読み上げる。もし、聞こえていたのなら、相当な役者だ。相沢は、決められたセリフを終え、話もいつものように弾まないものだから、しかたなく厨房を後にした。

 厨房がごった返す昼すぎ、次のオーダー係りに代わったら、向井支配人が同じようなセリフを繰り返す。夜は林田の担当だ。明日に備えて万全の体制が整えられていた。まさに相沢たちにとっても、明日が正念場なのだ。





 
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