愛しのヤクザ
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第十三章 罠
降って沸いたチャンスを最大限に活かそうと、相沢は社長をはじめとする役員を前に熱弁を振るった。相沢は蓄積したアンケートデータをもとに、現在の成功の要因が宴会場における幅広い品揃えと安価に設定した会席料理であり、ひいては陰の存在であるの厨房の果たした役割がいかに大きいかを強調した。
この会議は、社長がどういうわけか現場の社員の意見を聞きたいということで、今日の運びとなった。社長は頷
いたりしながら熱心に聞いてくれたが、他の役員達はどこか上の空で、安藤常務などは目をつむり、腕を組んだまま微動だにしない。
山本統括事業本部長は苦虫をかみ殺したような顔で、時々、相沢に睨むような視線を浴びせている。頼みの岡安専務は最初にちらりと一瞥しただけで、あとは正面を向いたままだ。かつての親密さなどお首にもださない。
今、相沢が話している内容は、山本事業本部長が社内で宣伝してきたこととまるっきり正反対のはずだ。「さて」と間合いを取り、まずいと評判だった蕎麦にも触れ、8割蕎麦に対する認識のなさを詫び、今後はそれを宣伝材料とする旨述べた。
1時間近い現況説明が終わり、最初に口を開いたのは安藤常務だ。相沢は緊張して身構えた。
「まあ、相沢君の意見は十分に拝聴した。確かに相沢君の言うとおり、健康ランドの常識を破った高級料理という山本統括事業本部長の発想はすばらしかったと思う。相沢君のレポートは、今後の参考にさせてもらおう。総務部の方へ提出しておいてくれたまえ」
こう言うと、社長を振り仰ぎ続けた。
「さて、次の出店計画について、山本統括事業本部長から報告があります。さあ、相沢君、もう下がっていいよ」
山本統括事業本部長の発想という言葉に思わず絶句した。そもそも山本は事業計画には参画していない。それは相沢を中心とした出店準備室がとりまとめたのだ。山本はそれを承認したに過ぎない。やられたという思いが相沢をぶちのめした。レポートを鞄に詰め込み、晴れ舞台を惨めな思いで退出した。
とぼとぼと歩いて古巣の企画部に向かった。惨めな思いを誰かにぶつけたかった。このままでは帰れない。今日のレポートは、相沢が枝葉末節に拘泥しているという印象を与えたに違いない。山本の嘘に反論することを主眼にしたからだ。しかし、常務は、山本が1号店を軌道に乗せ、既に次の目標に突き進んでいると締めくくったのだ。
今朝、林田にレポートを見せた。読み進むに従い目を輝かせた。興奮して相沢を激励した。よく決意したと。安藤常務と山本統括事業本部長に逆らうことがサラリーマンにとって危険な試みであることを知っていたからだ。しかし、全ては徒労に終わってしまった。
企画部に入ってゆくと元上司の小倉企画部長が笑顔で迎えた。そして応接室にさそったのだ。はじめてのことである。いつもなら、部長席の前の応接セットに座るのが常であったのだ。席に着くなり小倉が問う。
「どうだった、会議のほうは?」
「あんまり芳しくありませんでした」
「まあ、あの会議のことはあまり気にすることはない。それより、だいぶ落ち着いてきたみたいじゃないか」
「ええ、ようやく変お客が少なくなってきました。勿論皆無というわけにはいきませんが、最初に比べたら天国みたいなものです」
「そうか、それは良かった。しかし、厨房の腕が悪いって噂は本当なのか」
この言葉を聞いて相沢はぷっつんしてしまった。全てはそこから始まっているのだ。その噂にどれほど心を痛めたであろう。会議での鬱憤を晴らすかのように、言葉が奔流のように流れて止まらなくなった。
林の退職の経緯、石田の仕事ぶりや山本とのあやしい関係、瀬戸物混入事件、そして山本が厨房に押し付けようとした鮮魚と肉の業者が、会社の仕入れ業者でなかったこと。そして肝心なこと、山本が何にもやっていないことをぶちまけた。
小倉は苦笑いを浮かべながら言った。
「分かった分かった、そう興奮するな。正義感の強い相沢君が怒るのは無理はない。その林君には気の毒なことをした。でも、その石田課長と統括事業本部長が日に2回も銀行回りに出掛けるというのは本当の話なのかい」
「ええ、本当です。午前中は1時間、午後は2時間かかってます」
ふーんと考え込んでいたが、にこりと笑顔をつくると、こう言った。
「まあ、そうかりかりせず、冷静になることだ。何かが見えてくるかもしれん。まあ、僕達は君に期待しているよ。頑張ってくれたまえ」
東京から快速に乗った。相沢は小倉部長の言葉を繰り返し反芻していた。小倉は言った。
「僕達は期待している」と「僕達」とは小倉と誰のことなのか?単に会社の仲間?いや、もしかしたら専務ではないか。
「何かが見えてくる」という言葉も気になる。山本の身辺を探れという意味かも知れない。甘い期待が相沢の心をうきうきさせたが、敢えてそれを否定した。何故なら、期待した分、落胆も大きいからだ。
しかし、会社の仕入れ業者でない鮮魚と肉の業者を厨房に薦めたことに何の反応がないのはどういう訳だ。などと思案している間に、深い眠りに陥っていた。
事務所に戻ると隣接するスーパーの片桐店長が向井と話していた。片桐は「よっ」と挨拶し、相沢に席を返し、隣に移った。そして言った。
「今日の晴れの舞台、上手くやったか?」
相沢は両肩をちょこっと持ち上げて惚けてみせた。向井がにこにこしながら言う。
「しかし思い切ったね、課長。最初に読んだときは思わずどきどきしちゃったよ。それで上の方の反応は?」
「全く無視されました。期待した専務はただ聞いていただけ。終わったら、常務が次の議題があるからもういいよという調子で会議室を追い出されました」
「山本さんはどうだった?」
「それこそこんな顔してましたよ」
山本がよくやる下から睨め付けるような顔を真似た。片桐は笑いながら言った。
「その顔よく似てるよ。山本さんの表情見ているとヤクザ映画の見すぎじゃないかと思うことがある。ところで、今も向井さんと話していたんだけど、山本さんは銀行回りが好きみたいだね」
相沢はおやっと思った。小倉部長も同じことに興味を持った。
「誰に聞きました?」
「勿論、向井さんからだよ」
向井が反論する。
「よく言うよ、片桐さんが山本の銀行回りは本当か?って聞いたんじゃないか」
相沢は心の中でにんまりと頷いた。どうやら小倉部長から片桐に電話が入った。銀行回りのことを確かめろと。何かある。そう確信した
厨房へ上がってゆくと、林田と石塚調理長が何やら話し込んでいる。相沢に気付くと、二人は目配せして座敷に誘った。3人は憂鬱な顔で額を寄せ合った。今日の結果は電話で林田に話してあったのだ。石塚が言う。
「課長、よくやった。でも、自分の立場も考えろ。今後は、何もなかったように山本に話しかけろ。それがサラリーマンってもんだ。いいな、そうしろ。ただ、どうしても我慢出来ないというなら、就職は俺に任せてくれ。こう見えても人脈には自信がある」
「有り難うございます。ご心配かけます。でもご安心下さい。僕は負けません。あいつ等に何としても一矢報いてやります。辞めるとしてもそれが成就できてからです。それまでは何としても、どこに飛ばされようと居残ります」
「偉い、課長、それが肝心だ。サラリーマンなんて浮き沈みあってこそ成長する。復讐心を賞賛するわけではないけど、いつか見返してやるという思いは大切だ」
林田も嬉しそうに同調する。
「課長は、この世の終わりみてえな声だすもんで、ちょっと心配しちゃったよ。でも今の言葉聞いて安心した。俺も手伝うから、何とかしましょう」
「ああ、分かってますって、今日は初戦を開いたと思っている。まずは、あいつ等の鼻先にカウンターパンチを食らわせてやった。よし、やるぞ、エイエイオー」
相沢は最後の言葉を、拳を突き上げながら言ったのだ。二人は顔を見合わせ笑った。林田が言う。
「なんですか、いきなり。こっちは心配していたっていうのに」
石塚は別の反応を示した。
「いいんだ、いいんだ。から元気でも、しょげているより、ずっとましだ。それより、ここのところいろんな噂が飛び交ってる。もうすぐ厨房が代わるとか、鎌田が近い内に支配人昇格だとか、敵は本部だけじゃなく、店でも山本色を作るのに必死だ。いよいよ決戦が近づいてきているってことだ」
林田がうーんと唸った。
「敵は鉄砲も大砲も持っているってえのに、こっちは厨房の包丁だけってな案配ですね。手も足もでねえ。なにか対抗手段はないですかね?」
調理長が笑いながら言う。
「肉弾戦なら包丁持ってる方が強い。でも情報戦では包丁は何の役にも立たない。奴らはやりたい放題だ。うちの連中もそうとうかりかり来ている」
「そりゃそうでしょう。今度の厨房へのオーダー係り、鎌田副支配人がやってるでしょう。あの人も管理職だってのに何考えているんだ。いや、いや、そんなことどうでもいいけど、鎌田の嫌みは相当ひどいって話ですね?」
「ああ、俺がいるときは普通にオーダーを入れてるけど、いない時なんか、ひどいらしい」
相沢が頷きながら言った。
「辞めるのを待っているんです。みんなが怒って辞表を叩きつけるのを期待しているんですよ。調理長、絶対に挑発にのっては駄目ですよ」
「ああ、俺は腹を括ってる。問題は若い連中だ。特に三番手の荒井がいつ爆発するか心配なんだ。よく言って聞かせてるけど、あいつは怒ると怖い」
「あのおとなしい荒井さんが爆発する?」
相沢がすっとんきょうな声をあげた。調理長がにやにやしながら答えた。
「あいつは本来であれば二番手でもおかしくない腕を持っているし、それなりの修行も積んでる、でも、あいつは一度抜けているんだ。5年ほど、遊んだ」
林田が聞く。
「遊んだって、何して遊んでたんです?」
石塚は二人を見ながらにやにやしている。言っていいものか迷っている。凝視する二人に促され、まあいいかといった具合で口を開いた。
「君たちの嫌いなヤクザ。組に入っていたんだ。奴だけ長髪を許してるのは、当時、髪も眉毛も剃ってたから人相を変えさせている。組から逃げてきた。頼られたら、昔の可愛い弟子だ、断る訳にはいかない」
二人は意外な話に顔を見合わせ、あの荒井さんが…と絶句した。石塚が慌てて付け足した。
「そうそう、君たちがもう一つ嫌ってる入れ墨はしてないから安心して」
その言葉を聞いた瞬間、相沢の脳裏に閃きが走った。口を開け、じっと一点を見つめる。林田が怪訝そうに聞く。
「課長、何、思いついたん?その顔は何か閃いて、それを、どうやらかすか考えているって顔だ」
罠だった。罠を思いついたのだ。敵が乗ってくれば一挙に挽回できるかもしれない。憎々しげな眼差しを送ってきた山本の鼻を明かすことが出来る。実に良いアイデアだった。石塚と林田を交互に見て、相沢が口を開いた。
「情報戦に勝てるアイデアを思いつきました。ちょっと聞いてくれますか。汚い手だけど、相手はもっと汚い。それだったら、おあいこだと思うんです」
二人の目が輝いた。林田が答える。
「汚いって、結構じゃないですか。やられる前にやる。男同士の争いに汚いも糞もあるもんですか」
相沢が声を低めて二人に説明する。
「実はですね、荒井さんより、内村さんの方がよっぽどヤクザっぽいでしょう。だったら内村さんを元ヤクザにしたらいいじゃないですか。内村さん、この間聞いたら、いつも長袖なのは冷房が駄目っていうでしょう。調理服も七分袖だし、いかにも入れ墨を隠しているみたいじゃないですか」
石塚が付け加える。
「あいつは潔癖性だから、商売女は駄目だし、他人が入った風呂には絶対入らない。つまり、あいつは自分の背中を誰にも見せたことがないってことだ」
林田が意地悪そうに言う。
「奴らと同じように噂を流す。それを山本が鬼の首でも取ったみてえに本部で問題にする。見物ですねえ。そして、山本に引導を渡すのは課長」
頷きながら相沢が答える。
「ああ、山本は絶対に乗ってくる。鎌田の嫌みにじっと堪えている厨房に対して苛々しているはずだ。絶対に乗ってくる。それと、もう一つ、林田さんにお願いがあります」
相沢は本部長と石田の関係の決定的な証拠が欲しかった。そのことを言うと、林田は二つ返事で引き受けた。小倉部長が最もほしがっている情報だ。それには証拠写真がなくてはならない。それも含めて頼んだ。汚いと思うが仕方がない。
三人は残忍な笑みを浮かべ、低く笑った。そしてその笑い声は次第に大きくなっていった。悪巧みほど、男達を魅了するものはない。善悪より勝ち負けである。
噂は瞬く間に広がった。フロント嬢と付き合っている厨房の若手が寝物語にうっかり秘密をしゃべってしまった。組から追われている人間が厨房にいることを。ウエイトレスとき合っているもう一人の若手はその元ヤクザが入れ墨までしていることを漏らしてしまったのだ。噂が広まらないなずがない。
誰でも、人には言えない秘密を心許せる友人に話したくなるものなのだ。問題はその友人にも心許せる友人がいると言うことだ。或いは、根っから秘密を保てない性格の者もいる。噂とはこうして広まるのである。
あれ以来、内村は外股で肩を揺すって歩いている。むっつりはそのままだが、東映ヤクザ路線の俳優よろしく、顔に凄みが増した。最初の変化は、オーダー係りに徹している管理職、副支配人の鎌田に現れた。
あれほど厨房を苛立たせた副支配人の嫌みが皆無となり、おもねるような声音に変わったという。村田はお礼参りが怖いのか敵意を含んだ視線を厨房に向けなくなった。しかし、この二人の様子は一時を堪え忍ぶ仮の姿だ。その巻き返しには余程自信があるらしい。
そんなある日、山本が相沢をその個室に呼んだ。部屋に入ってゆくと、山本はソファーに腰掛け、最近始めたパイプの煙をくゆらせている。座れとは言わない。立ったまま待っていると、口をへの字に曲げたまま口を開いた。
「相沢君は、ここのところ変な噂がたっているのを聞いているかね?」
「いいえ、噂というと、どんな噂ですか?」
山本は大げさに驚いて見せて、この実情に疎い現場の管理者を見下した。
「おい、おい、君は何のためにわざわざ現場に来ているんだ。何のための管理者なんだ。料理が旨いかどうか味見するためだなんて思っているんじゃないだろうな」
この嫌味にはかちんときたが、ぐっと堪える。山本が勝ち誇ったよう顔を満足げに歪めた。片桐が言っていた、東映ヤクザ路線の顔とはこのことかと合点がゆく。
「いいか、驚くな、厨房の二番手の内村は入れ墨をしている」
こう言うとじっと相沢の目を覗き込む。相沢は驚愕の表情を浮かべるとともに、次に苦渋に満ちた顔を作る。それを知っていながら、今まで隠していたという表情なのだが、どこまで山本がそれを読みとったのかさっぱり分からない。
山本が引導をわたすような表情で言った。
「君の役目は内村の入れ墨を確認することだ。確認出来たら、苦渋の選択だが、厨房を全員入れ替える必要がある。いいか、俺たちはオープン以来、入れ墨対策にやっきになってきた。ところが、その内部に入れ墨者がいたとなればどうなる。責任は重大だ、分かるな?相沢」
「はい、分かりました」
うなだれて個室をでると、ぺろりと舌をだした。小躍りして向井の机の前まで行った。向井は目配せして石田の存在に気付かせる。相沢はすぐに気付いて、がくっとうな垂れる姿勢に戻した。石田は銀行回りに出掛ける準備に余念がなく、小躍りした相沢には気付いていない。
個室が開かれ、山本が事務所にいる石田に目配せしている。山本は余程機嫌が良いと見えて、珍しく事務所に声を掛けた。
「ちょっと銀行回りしてくる」
向井と相沢が複雑な顔をして、もう参りましたとばかりに声を掛ける。
「いってらっしゃいませ」
石田がぷりぷり尻を振って出ていくと、ようやく安心して相沢が話し始める。
「いよいよ、引っかかってきました。あと一押しです。次の段階に移りましょう」
次の段階とは、村田に内村の入れ墨をちらりと見せるのだ。勿論入れ墨はシート状になった貼るタイプのものだ。村田がそれを目撃し、山本にご注進に及べば嘘はすっかり真実に変貌する。
そして、翌日、昼過ぎ、午後2時、村田は厨房の奥で休む内村のちょっとまくし上げた右腕から現れた紛れもない濃い青色をした文様を目撃する。そしてあたふたと、その場を後にした。その後ろ姿を見て、内村がにやりと笑った。
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