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愛しのヤクザ

作者:ミジンコ
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第十二章 陰謀

 出会いと別れ、喜びと悲しみ、それらが交互にやってきて、そして去ってゆく。人生とはそんなもんだと分かっていても、失恋の悲しみの深さはそれなりに深く、やるせない思いは如何ともしがたい。そう、日々の忙しさだけが救いだった。
 街でショーットカットの女を見かけるたびに心が高鳴り、久美子でないと分かってはいても、確認しないではいられない。林田はある程度事情を知っているのか、明るく話しかけてくる。気の抜けたように微笑む相沢の背中をきつく叩き「しっかりしてくださいよ、課長」と励ます。
 赤城君子はあれ以来、顔を合わすたびにウインクで挨拶し、意味深な表情をするのだが、あの時に見たおっぱいしか思い出せず、肌を許しあったという感情は沸いてこない。まして久美子との鮮烈な別れと、その後の切なさが、口説こういう意欲を削ぐ。
 清水はすぐに就職し、あっというまに先輩でチーフでもある岩井を子分にしてしまった。すっかりその気になって、先日も入れ墨客と一悶着起こした。今、林田が相手の心を傷つけずにお引き取り頂く接客法を特訓中だが、敬語が駄目で苦労しているらしい。

 相沢は鎌田副支配人や村田のきな臭い動きを牽制しつつ、面倒な事態の到来を予感していた。とはいえ、事前に災いの芽は摘んで置かなくてはならない。蕎麦の問題である。林田が先ほどから思案していたが、諦めて言う。
「課長、悩んだって妙案なんて出ねえよ。結局、どんな言い方したって、それってまずいってこと?って聞かれるに決まってるもの。何をおっしゃる調理長、なんておべんちゃら言ったところで、後が続かねえ」
「うん、評判が今一とか、肌触りが云々とか、歯ごたえがどうのとか、どんな言い方したって蕎麦がまずいからってことになるからなー。そのまんまぶつけるか。よし、その線で行こう。林田君、一緒に厨房に来てくれ」
 そう決意し二人は立ち上がった。山本統括事業本部長は蕎麦の評判が悪いことを以て全ての料理がまずいという方向へもってゆこうとしている。まずはそこを改善しなければ山本の思う壺に嵌ってしまう。そのことを言えば石塚調理長も山本に対して反発するだろうから、蕎麦に関する二人の意見に耳を傾けてくれるはずである。

 石塚調理長の専門は会席料理で、関東でも大きな調理人組合の役員をしており、その世界では重鎮なのだ。従ってその料理にケチをつけるのはそれなりに勇気のいることなのである。しかし、相沢も林田も石塚の心意気に何度も接してきており、きっと分かってくれるはずだと思っている。
 厨房に上がると、ちょうど昼飯の真っ最中で、みんな立ったままカレーをかけた丼飯にトンカツの切れ端を載せてかっ込んでいる。調理長が一番の早飯で、いかにも誇らしげな顔をして丼を置いた。二人に笑顔を見せると、
「おや、お二人さん、どうした、そんな神妙な顔をして」
と言って、折り畳み椅子を用意する。相沢が答えて言う。
「調理長に、お話がありまして…」
と言うと、いきなり動悸が相沢の胸を襲う。一瞬にして口の中がからからに乾いたような気がした。心やすく接しているが、一つの道を究めた人に対し、その道のことについて口を出すということ自体が恐れ多いのではないかという不安が鎌首をもたげた。
 ちらりと林田を見て、肘でつついた。困惑顔で林田が口を開いた。
「いやー、調理長、そんなまじまじと見ないでください。こっちだって言いづらいことも言わなければならないことだってありますしー。そのー、何と言うか……」
 どうも林田も極度の緊張に陥っているらしい。ふだん使い慣れていない丁寧語がそれを物語っている。相沢は課長としての責務を果たさなければならないという義務感に駆られ、林田と石塚の人間関係におんぶしようとしていた自分を恥じた。
「調理長、ちょっとお話があります。怒らないで聞いてください。どうか気を落ち着けてください」

 そこまで言うと、石塚は手で相沢を制し、隣の座敷に二人を誘った。さっと立ちあがり、内村に何か耳打ちし、先に座敷に入って行った。二人して雁首揃えてその後に続く。二人が座ると石塚が厳かに口を開いた。
「さあ、話を伺おう。覚悟はできている。この日がいつか来ることは分かっていた。山本が考えていることは手に取るように分かる。俺を追い出し、自分の自由になる奴を入れたいんだ。そういう手合いと随分争ってきた。自分がやっているんだから、厨房だってやっているはずと思いこんでいる。だけど、俺はそんな不正などするような調理人じゃない」
 そこまで一気に言うと二人をじっと見詰める。二人だけは分かっているはずだと言いたいのだ。二人は顔を見合わせ焦って同時に反論しようとした。またしても手で制し続ける。
「どこに行っても繰り返されるイタチごっこだ。味と経営は別物だとつくづく思う。味だけで勝負ができないものかといつも考えてきた。でも、最近、人間社会に生きていれば、そんなことは高望みだと思うようになった。俺もようやく大人になりかけているのかもしれない」
 林田が息急き切って言葉を挟もうとする。
「調理長、調理長…」
「失礼します」
 二番手の内村がお盆にお茶を載せて入ってきた。林田も押し黙るしかない。来るべき時を期待する内村は、威儀を正そうとするのだが、その嬉しさを隠しきれない。お茶をそれぞれの前に置くと、調理長の傍らに正座した。石塚が続ける。
「これだけは言い残して置きたかった。人の悪口になると思ってこれまで誰にも話さなかった。しかし、首になるのだから言わせてもらう」
 林田が焦って言う。
「調理長、そうじゃなくって・・」
「黙って聞きなさい」
調理長の強い語調に林が圧倒され、調理長が続けた。
「山本は、最初、ある鮮魚と肉の業者を使うように言ってきた。勿論断った。何故なら品質に問題があったからだ。だが問題はどちらの業者もおたくの仕入れ業者リストに名前が載っていないことだ」
 こう言うと、石塚はどうだ参ったかとばかり二人を見詰める。確かに臭い話だ。しかし、今は、そんなことより、調理長の誤解を解くことの方が優先された。相沢が叫んだ。
「調理長、そうじゃないんです。今日、話したかったのは蕎麦のことです。あの緑色した…」
言葉が出ず、横にいる林田を促す。
「茶そば、茶そば」
林田の合いの手に答えて、相沢が続ける。
「そう、あの茶そばの件なんです」
 石塚はぽかんと口を開いて、細い目をまん丸にしている。冷静な内村は、来るべき時が来たわけでないことに気付き、心の中で舌打ちしている様子だ。調理長が聞く。
「蕎麦だって。蕎麦がどうした?今度は、まさか蕎麦にミミズが入っていたなんて言うんじゃないだろうな?」

 林田が顔色を窺いながら、恐る恐る言葉を選んで言う。
「実は…、私はそうは思わないのですけど、一部の客の中には、蕎麦がまずいと言う人がいるのです。その何て言うか、歯ごたえっていうか、どうもぱさぱさしてて、しっとりとした蕎麦の肌触りがないって言うんです」
 怪訝な顔をして二人を見詰めていた調理長が、がくんと肩を落とし大きなため息をつく。そして一言。
「なんだ、そんなことか…」
急に力が抜けて、もう何も言いたくないといった案配だ。力なく笑って、内村に話しかける。
「おい、内村、俺たちの蕎麦が旨くないってよ。どうする、もっと安い蕎麦に変えるか?味の分からない奴に何を出しても同じだ。どうする?」
 うんざりしたように内村が答える。
「だから言ったじゃありませんか。この辺で本格的な8割蕎麦なんて出してもしょうがないって。あれは懐石で腹八分目のお客にちょこっと食べてもらうから美味しいんですよ。まして高いのに課長に言われたからって分量を増やしたりするから赤字もいいとこです」
 相沢も思いだした。お客からもっと大盛りにして欲しいという要望があり、調理長にその旨伝えたのだ。調理長は困惑顔でこう答えたものだ「これってちょっと高いんだ。でも、まあ、いっか」
 林田が目を輝かせ聞いた。
「その8割蕎麦って、どういうもんなんです?」
 内村が調理長に代わって答える。
「あんたらがふだん食べてるのは、蕎麦粉3割、うどん粉7割の蕎麦だ。あんたら、蕎麦の歯ごたえだ、肌触りだと言うけど、俺に言わせれば、あんなのうどん粉の歯ごたえ、肌触りにすぎない」
 林田の目の輝きが増した。まったく分かり易い人間だ。内村が続ける。
「8割蕎麦は、歯ごたえ、肌触りが、江戸っ子の心意気にぴったりだった。でも8割蕎麦麦なんて庶民には高値の華で幻の蕎麦って言われていた。だから、うどん粉に慣れたこの辺のお客にはもったいないって思っていたんだ」
 うんうんと聞いていた林田は、さっきまでうな垂れていたことなどすっかり忘れている。
「そうじゃないかと思っていましたよ。あんなに旨くて綺麗な料理を作る人達がまずい蕎麦を出すはずがないって。やっぱりだよ。よし、これで行こう。江戸庶民には高値の華、それが今じゃ八王子健康ランドの名物蕎麦、どうです、このコピー。電通だって思いつかない絶妙なヒーリング。いいなこれ。早速作んねえと」
 相沢が何と言おうと、勝手にポスターを作り壁にべたべたと貼っている林田のことだ、もうすっかり頭の中にデザインが浮かんでいるのだろう。相沢はほっと肩の荷を降ろしたのだが、石塚の態度に不安を感じた。明らかに最後通告を待ち望んでいる。

 相沢はいつもふて腐れたような態度の内村と話がしたいと思った。その機会はその日のうちに訪れた。帰りしな、石塚が事務所に降りてきて、相沢を酒にさそったのだ。今日のことは水に流そうという配慮だ。林田は夜勤明けで帰った後だった。
 厨房のメンバーは15人だが、その日一緒に飲んだのは調理長を含めて7人で、残りは遅番のため22時までの勤務だ。みな羽目をはずして騒いでいるようでも、やはり親方の目を意識しているのがわかる。師と弟子達なのである。
 内村は調理長の傍らを離れず、ウイスキーをちびちびとやりながらも、調理長がタバコを取り出すとさっとライターで火を点ける。カラオケに興じる若手の歌に手拍子するわけでも、合いの手をいれるわけでもない。
 二軒目のカラオケボックスで、石塚調理長はだいぶ機嫌がよかったのかピッチも早かった。ソファーに寄りかかり船を漕ぎだした。しまいには本格的な眠りに入り、鼾をかいている。内村がぽつんと言った。
「おやっさんは疲れているんです。料理屋なんて忙しい時間帯は決まってますから、それ以外はけっこう暇で休めるんですよ。でも、ここは違う。おやっさんがもう十年若けりゃと思います。もう45歳ですから」
「ええ、分かります。無理をしているのは」
「それに家族と離れてアパート暮らしでしょう。疲れなんて取れるわけないですよ」
しみじみとした口調に親方を思いやる心を感じた。相沢は気になることをずばり聞いてみた。
「内村さんや三番手の荒井さんを含め、メンバー全員がここにいることは反対みたいですねえ」
「ええ、おやっさんが1年だけ我慢してくれって言うから、我慢しているだけです。まして次が決まってますから。新装開店の店です」
 相沢はがくっと肩を落とした。契約更新はしないと言うのは本心だった。何とかなると考えていたのは甘かったのだ。
「それじゃあ、また腕のいい調理長を探さないと」
「その点は安心してください。私の兄弟子に当たる方が一家を構えてます。おやっさんはその方に話を繋いでいますから。その方も腕はいいですから、私より3歳年上です」
 ほっとしたものの、一抹の寂しさが相沢を襲う。その寂しさを吹っ切るように内村のグラスにどぼどぼっとウイスキーを注いだ。
「相沢さん、俺、そんなに飲んじゃまずいっすから」
と言ったものの、すぐにグラスに手を伸ばし口に運んだ。若手がちらちらと内村をみている。
 一人が「やばー」と言うのが聞こえた。内村を見ると既に飲み干して、自分でグラスにどぼどぼと注いでいる。厭な予感がした。
 やはり大虎だった。調理長が寝込んでいる隙に羽目をはずしたいのだ。首に腕を回され、さっきから相沢は内村の愚痴を聞かされ続けている。
「あのアマ、石田だ、石田。あいつ、何とかならないのかー、えー。忙しいときに来て、冷蔵庫を開けさせて、伝票をひらひらさせて、何処にあるなんて聞きやがる。見せてやるよ、そんなに信用できないのなら。でも、暇な時間、夜9時以降とか、朝8時半前とかにやってくれって申し入れたら、私には家族がいますから、そんな時間には無理ですって言いやがる。課長だろうー、石田のアマは…」

 石田から山本に行ったり来たりしながら悪態は続く。その間「こらー、歌え」などと若手を怒鳴り、「それでよー、どこまで話したっけか?」などとうっぷんを吐き出すのに余念がない。相沢もしこたま飲まされて半分眠りながら話を聞く。
「あのアマ何か企んでいる。副支配人や村田とひそひそやりやがって、気分が悪くてしょうがねえ。そうそう、相沢さんに言っておくけど、相沢さんも標的になってるよ」
「標的?」
「そう標的。大広間の厨房寄りのウエイトレスから聞いた話だ。山本は相沢さんを地方のスーパーに飛ばしてやるって息巻いていたそうだよ。そのウエイトレスは山本のおごりで村田や石田と一緒に飲んだって言ってた」

 一挙に酔いが冷め、ひやりとする感覚が背筋を降りてゆく。山本はそれだけの影響力を持っている。ここでの成功はこれまで以上に安藤常務と山本事業本部長の立場を強くした。山本は現在名古屋で候補地を物色中で、鼻息が荒い。
「クソー」と歯がみして目の前を睨み付けた。睨み付けられた若手が声を掛ける。
「課長、どうしたんっすか、そんな般若みたいな顔して」
「般若、どれどれ…」
内村が首に回していた腕を解き、相沢の頬を両手で挟んで顔を自分に向けさせた。
「本当だ、般若だ、般若。そう、時には、そんな顔でことに立ち向かうことも必要だ。なー、課長。よーし、飲むぞー、今日はとことん飲むぞー」
 困惑顔の若手を尻目に、備え付けの受話器を取り、何本目か分からないがウイスキーのボトルを注文している。その目がちらりと横になって鼾をかく調理長に注がれた。

 その日、相沢は宿直室に泊まった。ふらつく足で部屋に入り、布団も放り投げるように敷いて、ばたんと横になった。一瞬にして深い眠りへと入った。
 翌朝早く、外の食堂に二人の男女が入ってきた。清水と君子だった。誰もいないことをいいことに、最初はじゃれ合う程度だったのだが、二人は次第に本気になっていった。清水が君子の首筋に唇を這わせ、その手で乳房をまさぐると、君子は堪えきれず呻くような声を発した。
 喘ぎながら清水の手を取ると下へ導き、椅子から腰を浮かせて前につきだした。スカートの下で清水の手がうごめく。それを眼下に見ているだけで、じっとりと湿っていくのが分かる。二人は時間がないことが気になっていた。
 早めに済ませればいいと、ようやく決意し、宿直室にもつれるように歩いていった。襖を開けると、二人ははっと息を飲んだ。相沢が鼾をかいて眠っている。清水が困ったように聞いた。
「どうする、また三人で…」
とは言ったものの、君子を独り占めしたいという気持ちの方が強かった。君子は君子で、なかなか二回目を言ってこない相沢に腹を立てており、まして、もう時間がないことで焦っていた。
「いいわよ、相沢さん疲れているみたい。ここんとこ、いつもそう。そっとしておきましょう。ここが駄目なら、更衣室しかないわ。うわー、みんなが来るまであと30分しかない」
と言うと、君子は清水の手を引いてその場から駆けだしていた。
 こうして相沢は二度目のチャンスを、そしてあのめくるめくような官能の世界、最初で最後となった乱交の記憶を思い出すきっかけさえ、失ったのである。





 
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