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愛しのヤクザ

作者:ミジンコ
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第九章 嵐の前

 ようやく訪れた平安の日々。入れ墨を入れた人々も噂を聞いたのか殆ど来なくなった。入り口に置かれた2枚の大きな看板を見て、がっくりと肩を落とす子供連れがいた。うなだれる父親を不思議そうに見上げる子供には申し訳ないと思ったが、致し方ないことと心を鬼にする。
 ヤクザさん達も久美子の父親の通達が効を奏したのか、ここ一月ほど姿を現さない。久美子はその後、ドライブの帰りに何度か泊まっていった。家は目と鼻の先なのだから泊まる必要などないのだ。
 相沢は久美子が館内にいると思っただけで、苦しくやるせない思いに(さいな)まれ、仕事も手に付かなくなる。相沢の熱い視線に気付くとそれをさらりとかわし、相沢がため息と共に諦めようと思えば、涼しげな眼差しを向け微笑む。
 真綿で首を絞められるとはこのことかを思わず合点がゆく。久美子は相沢がそんな関係に慣れることを望んでいるようだ。何もなかったかのような昔に戻れと言いたいのか?相沢は深いため息とともに切なさを吐き出す日々が続く。

 久美子はこの近辺では初めてというミストサウナが気に入っている。花の香りの熱い霧が降り注ぎ、長椅子に横たえられた男を知らぬと言う肉体がそぼ濡れる。相沢はその姿を想像するだけで下半身がぱんぱんに張っていた。
 いくら修行を積んでも、煩悩から解放されず、思わず下半身を切り取ろうとした高僧の話を思い出す。男というものは死ぬまでその煩悩が付いて回るという。相沢はその煩悩が脳の半分以上占めていた10代はとうに過ぎているが、まだまだ男盛りである。
 一度火がつけばそれなりの満足を得なければ治まらない。薄れゆく記憶をまさぐり、その滑らかな肌、唯一久美子と繋がりを持った唇の感覚を呼び覚ます。愛おしいという思いと突き上げるような欲望をもてあましていた。

 あの日の帰り、久美子は林田を先に降ろした。道順からいってそれが当然なのだが、林田はどこか不満げに二人を見送った。走り出し、バックミラーに林田が写っている。振り返って見ると、林田が何やら叫んでいた。何を叫んでいるのか聞こえるわけもない。
 八王子の街を見下ろす高台にジャガーは止まった。二人は車を降り、眼下に広がる夜景の美しさに感嘆の声を上げた。「ねー、綺麗でしょう」という久美子の言葉に頷きながら、相沢は大きく夜気を吸った。高まる気持ちにブレーキをかけるためである。
「あそこに野球場のライトが見えるだろう。その後ろ辺りに僕の家がある」
どの家もマッチ箱のように小さく、そこから灯りが漏れている。相沢が指さす方向を見詰めながら、
「何か、うらやましいなー、家族だけで、こじんまりとした家。でも、そこには普通の幸せがある」
とぽつんと言った久美子の言葉に相沢の心が揺れた。あの悲恋物語にしゃくりあげながら涙を流す乙女。そして普通の家庭に憧れながら、それでも因習に従おうと決心した健気な女。風の中を疾走し、死と隣り合わせの恍惚を友とする。男のように髪を刈り上げ、いったい何を表現しようとしているのか。

 相沢は愛おしいという思いが急激に膨らんでゆくのを感じた。その感情を抑制しようとするのだが、それは膨らむばかりで如何ともしがたい。じっと久美子の横顔を見詰めた。
 どれほどそうしていただろう。久美子はその相沢の熱い視線に耐えている。震える瞼が久美子の恐れと期待を物語っていた。
 そしてついに乙女の心が勝った。伏し目がちに首を徐々に相沢に向ける。視線は落としたままだ。その震える瞼が徐々に開かれ、視線は相沢の目を捉えた。その刹那、相沢はその身体を強く引き寄せた。

 暖かなぬくもりと、ドックンドックンという心臓の鼓動が相沢の胸に伝わってくる。唇を重ねる。相沢が久美子の下唇に舌を這わせた。「あっ」という声が漏れる。唇が僅かに開かれ、相沢を受け入れた。二人だけの恍惚の時間だけが流れた。
 背中に回した掌で柔らかな脂肪をまさぐり、相沢の唇は柔らかな頬を、首筋を濡らした。次第に興奮が二人を包み、久美子の荒い息が相沢を刺激していた。右手がティーシャツの裾から差し込まれ、ブラジャーに覆われた豊かな乳房に触れた。

 拒絶は唐突だった。久美子が相沢のその手を瞬間的に押さえたのだ。強い力だった。相沢もその刹那現実を思い出し、乳房を握った手を引いたのだ。重い現実だった。それを思い出したのだ。相沢が言った。
「ごめん、あまりに君が愛おしくて、耐えきれなくなった。婚約していることを忘れてしまった」
 久美子は黙って言葉を探していた。一歩身を引くと相沢を見た。
「そんな風に言ってくれて有り難う。私がデートに誘って、ましてこの高台に車を停めたのも私。何も期待なんかしていないなんて言っておきながら、考えてみたら逆に誘っていたみたい。馬鹿だった、私…」
「いや、違うんだ。僕が我を忘れてしまった、僕が馬鹿だったんだ。昨日、君が映画を見て涙をながしているのを見た。本当に可愛いと思った。抱きしめたいと思った。君の横顔を見ていたら自分が押さえられなくなってしまったんだ。今日、君が言ったこと、確かに聞いのに、すっかり忘れてしまった」
久美子はじっと相沢を見詰めながら言った。
「だったら今の私を忘れないで。一生、覚えていて」
と言うと、車に乗り込みドアを開け、相沢に乗るよう促す。相沢が車に身体を入れると、久美子はまっすぐ前を向き、ハンドルを握っていた。相沢がシートベルトを装着し、シートに背を着ける。アクセルが踏み込まれた。


 何か言わなければと思うのだが相沢の頭の中は真っ白だった。己の気持ちに正直に従っただけなのだが、久美子はそこまで期待していなかったのではないか?あの夜景を、二人だけの空間で、目に焼き付けておきたかっただけなのではないか?そんな不安が己を萎縮させていた。

 林田以上に惨めな思いで車を見送った。とぼとぼと家に帰り、部屋で考えた。もしかしたら、これが最後かも知れない。もう会えないのではないかという思いは相沢を激しく責め(さいな)み、一線を越えたことを後悔させた。
 でも、何処が一線なのか?そんな一線などあるものか。でも、と考える。もしかしたら乳房を触らなかったら良かったのか?キスには迷いながらも応じたのだから。そこで止めておけば今まで通り会えたかもしれない。
 どうどう巡りの思いは、突然の闖入者によって遮断された。妹の和美が突っ立っている。
「おい、驚かすなよ。部屋に入る時はノックぐらいしろよ」
「ちゃんとノックはしたわよ。それより、お兄ちゃん…それ何よ?はっはっはっは」
 和美が相沢を指さし笑い出した。鏡を見ろと言う。手鏡を取り出し覗き込むと、口の周りが真っ赤になっている。久美子の口紅だった。
 そう言えば、車を降りる段になっても、久美子は相沢を見ようとはしなかった。まっすぐ前を睨むように見ていた。なかなか降りようとしない相沢に業を煮やし、ドアロックを解除して降りるよう促したのだ。はやし立てる和美の言葉が相沢の心を更に暗くした。

 久美子はしばらく姿を見せなかったが、一週間ほど前泊まりにきたのだ。何もなかったうに相沢に会釈し、ほほえみを送ってくれた。その時、喜びで胸が一杯になった。涙がにじんだ。また会えたことが嬉しくて飛び上がらんばかりだった。
 その時、諦めようと決意した。あの温もりに接することは出来なくても、それでいいと思った。なのに、それから一月が過ぎ、相沢はその決意のことなど忘れてしまった。愛執が相沢の心に住み着いたのだ。それを断ち切らねば、苦しみがいつまでも続くことは分かっていた。

 林田はそんな相沢の様子を見て、何度もあの晩の出来事を聞きただそうとする。何もなかったと言えば安心するのだが、疑惑を払拭できないようだった。しかたなく、久美子が婚約したことを打ち明けた。婚約した組長の娘に手出しするほど勇気はないと。
 これを聞いて林田はようやく納得したのだが、婚約相手に焼き餅を焼くかと思えば、そうでもなく、婚約相手をよく知っているようで、「若頭なら大丈夫。良かった、良かった」と呟きながら何度も頷いていた。

 人には根ほり葉ほり聞くくせに、あの時、二人を乗せた車に向かって何を叫んでいたかについては口をつぐんでにやにやするばかりだ。恐らく口には出来ないことを叫んでいたに相違なく、二度と聞くことはなかったが、どこか引っかかるものがあった。
 いずれにせよ、相沢は苦く切ない思いを抱きながらも、仕事は毎日あるわけで、日々の仕事をこなしてゆくしかなかった。元々統括事業本部健康産業事業部の課長であり、ヤクザ対策がなければこれと言った仕事があるわけではないのだが、何かと忙しい。

 林田は宴会誘致の営業だけでなく、宴会場の催し物に力を入れ始め、売れない歌手を呼んだり、カラオケ大会を企画し司会業にまで手をひろげている。深夜喫茶の担当は応募が全くなく、心苦しいとは思いながらも林に甘える日々が続いている。
 林は深夜勤務明けの午前中にコンピューターの処理を終えて帰るが、その日の零時には出勤という激務が続いていた。林を休ませるために相沢、林田、昼間担当のハルさんが深夜喫茶担当を申し出て、何とかやりくりしているが、そろそろ限界が近づきつつあった。

 そんなタイトな勤務ローテーションなど何処吹く風、9時5時勤務、日曜祝日休みの石田経理課長を、向井支配人が、林からコンピューターの仕事を引き継げ、と怒鳴りつけたのはつい先々週のことだ。。
 その石田経理課長と厨房との関係が険悪になっている。石田は伝票を、厨房は仕入れを取り仕切る。両者の関係は信頼関係がまず前提になるのだが、その信頼関係が皆無なのだ。
 その対立の裏でうごめく山本統括本部長の影。うんざりすることばかりだ。
 鎌田副支配人は山本統括事業本部長に取り入り、向井支配人を出し抜こうと躍起になっている。山本の個室の鍵が替えられたのは鎌田副支配人の密告に違いなく、寝る場を失った相沢は二階の休憩室で仮眠する羽目に陥っている。
 こうしてパートのおばさん達を巻き込む大騒動の下準備がゆっくりと入念に用意されていた。オープン当初の入れ墨、ヤクザ対策に忙殺され、それのみに神経を集中している間に、それに一切関わらなかった勢力が背後でうごめいていたのだ。

 ぼんやり頬杖をつく相沢の肩を誰かが突っつく。居眠りしていたらしく、辺りを見回すと、隣の石田が個室の方を指さしている。その方向を見ると、個室から鎌田副支配人が顔を出し、相沢を見ていた。鎌田は振り返り最敬礼して個室を出ると、相沢に声を掛けた。
「事業本部長がお呼びです」 
 頷いて立ち上がり、すれ違いざま心の中で「クソッタレ」と呟く。鎌田副支配人はヤクザとの一件以来、相沢に敵意を抱いている。何故なら弱みを握られたと思っているからだ。相沢は鎌田の手が震えていたことなど誰にも話していない。
 誰だってあんな場面で、しかもあんな風にコーヒーカップを持てば手先は震えるに決まっている。しかし、鎌谷は武道家としてのプライドがあるのだ。身勝手なプライドだ。自分は許せても、それを目撃した人間は許せないのだ。

 個室に入ってゆくと山本統括事業本部長はソファにゆったりと腰を落として待っていた。顎で座れと指示する。山本は相沢が座るとおもむろに口を開いた。
「今、本部の方でも問題になっているんだが、どうも厨房の評判が思わしくないんだ。まあ、一部の意見を大げさにとらえているという批判もあるのだが、料理がまずくて食えないという人もいる。相沢君はどう思う?」
「私も料理の評判は気になって当初からアンケート用紙に目を通していますが、そういう反応はごく少数で、殆どのお客は大満足のところに丸をつけてます。特に、今度出したカツ重は好評で、売り上げ第一ですし絶賛されています」
「おいおい、別に、そんな単品をもって良し悪しなんて言ってるわけじゃない。まずくて食えないといっているお客がいることが問題なんだ。これを放っていれば、こうした施設では後々禍根を残すことになるのは目に見えている」
相沢は山本を睨みすえ言い放った。
「勿論、私もその少数を無視するわけではありません。何度も言わせてもらいますが、アンケートの統計によりますと大多数の人が料理には満足と答えています。要はその少数意見の原因を究明し、そして改善することだと思うのです、違いますか?」

 相沢は自分自身をつくづく可愛げない部下だと思う。しかし、そう仕向けたのは山本自身だと思っている。山本も反論を食らって頬が紅潮してきた。それでも年の功を見せつける。
「分かった、分かった。その問題はとりあえず君に任す。まあ、そのことはいい。それより、俺はこうした客商売のプロをもって自認している。その点、君より経験を積んでいるつもりだ。だから、ああゆう職人の狡さも汚さもよく知っている。そして今回の厨房は最悪だ」
こう言うと、タバコを取り出して火を点けた。いよいよ反撃に出ようというわけだ。
「奴らの関心事は、仕入れでどれだけ浮かすかだ。バックマージンなんて当たり前の世界だ。奴らは確実にそれをやってる。伝票をチェックするだけじゃ足りん。仕入れ商品のチェックが管理者の重要な仕事になる。君はそれをやったことがあるのか?」
自信をもって答えた。
「いいえ、ありません」
「だったら明日からでもそれをやりなさい。あいつらが何をやっているか、その目で確かめなさい。それがあんたの仕事だというのも忘れて、石田課長におんぶにだっこじゃしょうがないだろう」
じっと相沢を睨みすえる。
「ふっ、まあ、そんなレベルだから風呂屋にまわされたんだろうがな」
挑発するようなその言葉に思わず頭に血が上ったがじっと耐えた。分かりましたと答え、惨めな気持ちで個室を出た。まだ辞めるわけにはいかないのだ。それならじっと耐えるしかない。しかし、恐れていた事実にいよいよ直面することになった。

 その事実とは蕎麦がまずいという事実だった。「どうだ?」とにこにこしながら問う調理長に思わず「旨いです」と答えたが、正直言うと違和感があった。さすがにアンケートにまずくて食えないとは書いていないが、その種の意見があったことは事実なのだ。しかし、あの調理長の笑顔を思い出すと何も言えなくなる。
 相沢は調理場へ裏階段から上がっていった。そこは宴会が二件重なっており、戦争でも始まったかのような慌ただしさが繰り広げられている。調理長が怒鳴り、二番手が更に細かな指示を出す。下っ端は調理長の指示に「おーい」と声を揃え、位置を変え、手際よく料理を仕上げてゆく。その統制の取れた動きは見るものにある種の感動を与える。
 その指示系統、指示直後に下準備に入る担当、次にそれが入れ替わる手順、そしてオーダー通りの順番に料理を仕上げてゆく記憶方法等々をじっと眺めていた。料理長に何遍聞いてもそれは相沢の理解の範囲を超えていた。

 先ほどから石塚調理長は相沢の存在を気にかけており、一連の指示が終わる頃合いを見計らっている。二番手の内村がその様子に気付き、全面的に指示を出し始める。石塚は「手を緩めるな」と叫ぶと、相沢を振り返り相好を崩した。近づいて来るのを見て、相沢は慌てて言った。
「いや、いや、用事があるわけではないし、お忙しいのだったら仕事続けてください」
「いいんだ、もう何回もやっているメニューだからみんな身体で覚えている。二番手がいれば十分だ。ところで、向井さんは?」
「夜勤明けで、さっき帰りました。明日は休むよう、言っておきましたから」
「そうそう、たまには休ませないと。あの人はまじめ過ぎる」
そう言うと折り畳み椅子を二脚だしてきて、どっかりと座り込む。相沢が座るとタバコを取り出し勧める。喧噪の中、二人して煙をふーっと吹き出し、一息ついた。ふと、石塚の薄くなった頭が赤らんでいるのに気付いた。
「頭、どうしたんですか」
「ちょっとかぶれちゃって」
「大丈夫ですか?火傷ですか?」
「いやいやちょっと、叩きすぎたんだ」
「叩きすぎた?」
「養毛剤にブラシがついてて、それで頭を叩くと毛が生えるというから、必死で叩いていたら、かぶれちゃった。何でもやり過ぎはいかん」
吹き出しそうになるのを堪え、薄くなりかけた髪をちらりと見た。
石塚はため息混じりに話し始めた。
「あの石田課長さんは、俺たちが不正をやっていると疑ってかかっている。肉の仕入れ先を誰が決めたんだとか、どこにしまってあるのか見せろとか。課長、いいかい、俺は関東でも一応名の通った板前だ。だから仕入れは俺が納得のいくものじゃないと駄目なんだ。課長はそれでいいと言ったよね?」
「はい、料理に関しては全て調理長の納得がいくようにやって下さいとお願いしました」
「この世界に入って30年。食材の良し悪しを見る目がなければ旨い料理は作れない。親方にそうやって仕込まれてきた。勿論、仕入れ先との人間関係もある。でも、一度でも物で裏切れば、その業者との関係は成り立たない。鮮魚と肉はおたくの仕入れ業者じゃ駄目なんだ。俺たちは魚も肉もを触っただけでその鮮度が分かる。包丁を入れれば更にはっきりする」
「はー、そういうもんですか?」
「いいかい、これはいわゆる勘、あの第六勘の勘だ。職人のこの勘こそが日本文化の神髄だ。なにがバイヤーだ。横文字並べりゃ偉いと思っていやがる。課長のすきなマニュアルなんて、忍耐を知らず、微妙さを体得できない毛唐が平均点を取れればいいという思いで作ったもんだ。だけど、俺たちの目指すのは平均点より遙かに上なんだ」
 相沢は石塚の毛唐と言う言葉に苦笑いを漏らしたが、彼の言う文化論にも多少頷けるような気がした。相沢は答えた。
「調理長、もう少し耐えて下さい。山本本部長はあの若さで取締役候補です。一課長の僕が出来ることなんて限られていますが、僕なりに努力をしています。もっと上の方にも訴えていこうと思っています」
「いやいや、課長、無理はするな。別に課長にどうにかして欲しいなんて、これっぽっちも考えていない。ちょっと愚痴を言いたかっただけだ。とにかく、課長は無理をするな。サラリーマンなんだから上手く立ち回れ。」
「はー、あの山本さんに対して上手く立ち回っていたら、人間性が歪むような気がしますし、もう手遅れです」
調理長は同感だというように苦笑いを浮かべた。
「いや遅いということはない。これからのこともある。課長はサラリーマンなんだから、長く勤めることを考えろ。俺たちはどこにでも行ける。1年契約にしてもらったのもそういう含みがあってのことだ」
「そんな寂しいこと言わないで下さい。来年も契約更新、何とかお願いします」
「課長、それは無理だ、歳だしな。こんな長丁場の勤めも初めてだし、体力の限界を感じ始めている。ところで、二番手の内村が不思議がってる。浅草の家から通えず、アパートを借りてまで、何でここに留まっているのか不思議がっている。昔の俺なら、不正を疑われていると感じただけで、さっさと辞めている」
 それは相沢も同じことを感じていた。どうしたわけかここに引き寄せられる。居心地が良いのだ。何故なのか何度も考えた。そして相沢はある結論に達したのだ。人間関係であると。ここに集まった核となる人間達に惹きつけられているのだと。

 調理長、支配人、林コンビそして相沢。5人は、かつて何処かで出会っているのではないか。そう前世で。そこで共通の目標のために働いた同志だったのではないか。相沢の本来の仕事は計数管理だ。何も現場に来てそれをやらなくとも、本社ビルの7階でパソコンに向かっていても誰も文句は言わない。それが毎日のこのこやって来る。皆に会いたくて。
 にこにこして調理長が言う。
「それは二人に頼まれたからだ。課長と向井支配人が料理で勝負したいと俺を頼ってきた。その期待に何としても応えたいと思ったからだ。1年で何とか軌道に乗せるつもりだ。だけど、どうにも耐えられないという時が来るかも知れない。そんな時、俺は二人には絶対に迷惑をかけない形で辞める。」
「調理長、」
「まあ待て、これだけは言っておかなければならないんだ。この世界じゃよくあるんだが、店のものが出勤してきたら、厨房がもぬけの殻なんってことはよくある話だ。それだけは絶対にしない。後釜を据えるまで辞めない。だからその時は許して欲しいんだ。とにかく、石田課長さんの露骨な態度には辟易している」
「はー…」
「どうも山本さんのやり方は俺の流儀とは合わない。最初に出会った時からそれは感じていた」
 ふと、悪代官を懲らしめる5人の侍を想像した。山本統括事業本部長は時代劇に出てくる悪代官にぴったりだし、山本事業本部長の後ろ盾となっている安藤常務はさしずめ悪代官を影で操る悪徳商人といった案配だ。まてよ、侍なんかじゃなくて、農民一揆をを起こした村の主導者だったりして…。

 調理長の真剣な眼差しに気づき、妄想を振り払った。そして懇願した。
「今は耐えてください、お願いします。僕は絶対にあいつらには負けません」
「おいおい、勝ち負けをいっているんじゃない。世の中には、負けるが勝ちってこともあるんだ」
「何とかお願いします」
「分かったよ、分かったから、もうその頭を上げろよ。どうも弱い、向井さんと課長には…。とにかくだ…、向井さんと課長の二人のために、やれるだけやる。」
「有り難うございます」
相沢は深々と頭を下げた。

 事務所に戻ると相沢はパソコンに向かった。ワードを立ち上げ、最初に「岡安専務殿」と書いた。統括事業本部は安藤常務の直轄であり、岡安専務は直接タッチしていない。しかし、今の現状を打開するには常務の上に訴えるしかないと思ったのだ。
 専務は大学の先輩であり、何かと目を掛けてくれている。企画部時代、販促キャンペーンで全国行脚の出張のお供をしたこともある。しかし、専務に信じてもらえるだろうか?厨房が不正をしているという山本の宣伝は既に経営陣にまで浸透しているのではないか?
 相沢が本部に赴くのは会議に出席するためで、月に一度だけ。これに対し、山本は月に一度直轄事業の各現場を回る以外はずっと本部だ。山本のやり方は陰湿だが確実だ。まずは潰したい相手に負のイメージのレッテルを貼る。それをあちこちで触れて回る。
 相沢の「上司を蔑ろにし、独断専行しがち」というレッテルはすでに本部でも定着してしまっている。宴会場と厨房の間に洗い場と中継基地を山本の了解なしに作ったことは皆知っていた。それは山本が稟議に判を押さないので既成事実を作ったまでだし、まして、それを作らなければ現場は大混乱で、今日の成功はありえなかったのだ。
 相沢は大きなため息をつき、書きかけの文章をゴミ箱に放りこんだ。専務に秘密のレポートを送ったことが知られれば、安藤常務と山本事業本部長の機嫌を損なうことにもなる。まして調理長は上手く立ち回れと言った。時期を待つしかないのかもしれない。

 そこへ林が出勤してきた。目の縁にうっすらと隈ができている。早めに深夜喫茶担当を決めようと時給を上げた稟議に山本が判を押さない。「林にやらせておけばいいじゃないか」と言うのだ。林の過剰な勤務実態など素知らぬ振りだ。
「あれ、今日は休みじゃないの、深夜喫茶はハルさんじゃなかった?」
「そうなんだけど、月末まであと10日だから給料だけはやっておかねえと、みんなが困っちまう」
「でも、それは石田課長の仕事だろう。支配人が今月こそやれって、彼女に怒鳴ったてたじゃない」
「俺もそのつもりだったんだけど、あのアマ、やってねえんだ。あれ、今、いないの?」
「また銀行回りだ。本部長もいっしょだ」
「まったくあのアマ、本部長の恋人だと思ってやりたい放題だ。厭になっちまう。慣れない私がやるより、林さんがやった方が早い、なんてヌカしやがるんだ。来月からやるって言ってるけど、どうなるか分かったもんじゃねえ」
「今、何て言った?本部長の恋人って言わなかった?」
と相沢がすっとんきょうな声を上げる。
「あれっ、知らなかったの?恋人に決まってるよ。最初の頃、本部長のおごりで、みんなで飲みに行ったんだ。その時、石田がタバコをくわえて火を点けて本部長に渡したんだ。そんなこと、関係のない男女がするわけねえもの」

 組織上、こういった施設の最高責任者と経理担当が男女の関係であってはまずい。しかし、それを告発するには、もっと確実な証拠が欲しいと思った。そう言うと、林はこともなげに言う。
「証拠ならあるよ。二人はいつも本部長の車で一緒に帰るんだ。みな知ってるよ。ここを出る時、ちょっと時間差を置くんだ。石田が先に出て、車の中で待ってるんだよ」
「それってたまたまなんじゃないの、帰り道がいっしょで、送って行ったのを誰かに見られたとか…」
「いいや、本部長が来るときはいつも一緒だよ。17時半出勤のハルさんがちょうど遭遇するんだ。石田はいつもシートを倒して隠れているんだって。ハルさんに言わせると、あんなことしたって、見えるにきまってるじゃねえか、こっちは立ってるんだもん、だって。笑っちゃったよ」
 相沢はほくそ笑んだ。これは使えそうだと。二人を誰かにつけさせて、その証拠を握る必要があるのかもしれない。林田だったら上手くやってくれそうな気がする。明日、支配人に相談しようと思った。

 林は眠そうな目をこすりこすりパソコンに数字を打ち込み始めた。林が今日の勤務を終えたのは今朝の7時。ということは数時間しか眠っていない。「ご苦労さん」と相沢は林の肩を揉んだ。林は気持ちよさそうにされるがまま目をつむる。
「気持ちよくってとろけそうだ。眠気が増してねむっちまうよ、課長。でも、もっとやって、気持ちいい」
 その日、林はまだ正常な神経を保っていたのだ。





 
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