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愛しのヤクザ

作者:ミジンコ
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第六章 テキヤNo1

 いよいよ八王子祭りの最終日。今日をやり過せば、一段落である。皆、今日は絶対に来ないと確信をもって言う。何故なら、最終日なのだから、テキヤも後片付けを済ませ急いで家路につくはずだし、まして中心街から遠い健康ランドに泊まるはずかないからだ。
 皆の意見に全幅の信頼を置いていたわけではないが、相沢もなんとなくそんな気がして、祭りの最後の夜が暮れる頃、鼻歌交じりで出勤し、向井と交代した。すでに出勤していた副支配人の鎌田が、林田が急遽泊まり番を申し出たと報告する。

 今日は郁子の深夜勤務日である。林と郁子が出来ているという噂を聞いて以来、林田も郁子争奪戦に参加しており、厨房の丸山を含め三つ巴ということになる。林田はとにかく気が多く、しかもけっこう女にもてるのである。
 相沢はこれまで何人もの友人に出会ったが、この種のタイプは初めてだった。相沢はけっしてガリ勉ではないし、友人もどちらかと言えばナンパな人間が多い。それでも女にスケベ話をしながら近づき、嫌われもせず、いつの間にか女の懐に入ってしまう特技を持つ林田のような男は皆無だった。 
 羨ましくもあり、だからといってすぐに真似のできるものでもない。しかし、相沢も林田の影響を受け、少しずつその人格が変りつつあったのだ。

 先週のことである。本部に帰っての昼休み、社員食堂で昔の部下の女達と一緒に食事をした。相沢のヤクザに向こうを張っての武勇伝が洩れ伝わっており、誰もがその話を聞きたがった。相沢は面白おかしく話を脚色し皆を笑わせた。腹をかかえて笑いころげる女どもを見ているうちに、ついつい調子に乗ってきた。
 林田がいつもやっているジョークの練習をしようと思いついたのだ。先日もこのジョークで喫茶店の新人ウエイトレスを笑わせ、以来気安く話せるようになった。ジョークは人と人との垣根を取り除くようだ。ようやく笑いがおさまり、一人の女子社員がおべんちゃらを言う。
「課長って、ぼーっとしているようでも、けっこうやる気になると凄いって聞いていましたけど、本当ですね」
よし、チャンス到来である。相沢はが待っていましたとばかり口を開いた。
「おー、いいこと言うじゃないか。ほら、ちゅーしてやっから、こっちさ来い」
いやーなどと黄色い声が食堂中に響いたが、臆することもなく相沢は続けた。
「ただのちゅーじゃないよ。ねっとりベロ入り」
 ここで更なる笑い声を期待したが、シーンと静まり返った。しまったと思ったが後の祭りである。最年長のお局様が、「さて、そろそろ……」などと言いながら腰を浮かせ、続いて女どもが立ち上がった。
 この話を林田に話すと大笑いで、曰く、感性豊かな女は卑猥な言葉の裏に秘められた人間臭さに感応するのだという。従って、自ら感性を磨き、相手がその手合いか否か見極められるようにならないといけないのだそうだ。大層なもの言いだが、ようするに気取っ女など、糞っ食らえということらしい。相沢もその意見には賛成である。

 事務所で仕事を片付け、ふらふらと風呂場に入って行くと、上田が洗面台を磨いている。一昨日のショックからようやく立ち直ったようで、口笛なぞ吹いている。相沢が、よっと声を掛けると、元気良く挨拶した。
「課長、おはようございます。今日は日曜の晩だし、お客も少ないですねー。そういえば林田さんも言っていましたげど、今日は何事も起こらないと思いますよ。だって、誰だって仕事が終わったら一目散で家に帰りますもんね。こんな所に泊まるわけないですから」
少し違っているが、林田の言葉をそのまま繰り返して同意を求める。うんうんと頷いてそのまま階段を上がった。

 今日は風呂場チーフの岩井が早番で帰ったので、上田も心細いのだ。まして、岩井は入ったばかりの上田に、研修だとか何とか言って、絆創膏の客の応対をさせた。上田は腰を抜かさんばかりの現実に遭遇したのだ。見ると、上田の後姿がどこか不安げだ。
 大広間の中を覗くと副支配人の鎌田がウエイターよろしく注文品をお盆にのせて運んでいる。客は少なく、隅でお喋りに興じるオバちゃんたちを働かせるのが自分の仕事だというのに、何か勘違いしてんじゃねえか、と心の中で毒づいた。
 そのことを何度も注意しているが、そのたびに現場を知らない相沢の弱点を突き、ましてオバちゃん連中は率先垂範を示さなければ付いてこないなどと反論する。ちょっと違うんじゃねんか実態は、と首を傾げた。

 それから映画館に入った。映画は寝転びベッドに横になって鑑賞する。勿論、夜ともなるとここも男子専用の仮眠所に様変わりするのだが、林田に言わせると、一段高い女性専用スペースを覗くと、しばしば女性のあられもない下半身が映画の光に照らされ浮かびあがると言う。
 今日こそと思い、相沢は横になってチャンスを窺った。林田はうつ伏せに寝るフリをして覗くのだそうだ。相沢は何度も寝返りをうつが、プライドが邪魔をしてうつ伏せの位置で首を上げることが出来ない。しかたなく、横眠りで目が白目になるほど視線を上げた。
 歪んだ視覚がようやく一人の女を捉えた。
 なんのことはない。女は白いタオルケットで足首まですっぽりとくるまり、太股なぞ見えやしない。ふと、女がしゃくり上げているのに気付いた。目一杯首を持ち上げてよく見ると、久美子である。
 古い恋愛映画だが、それに感動しているのだ。ここぞと感動を煽り、涙を誘うテーマ曲。久美子がタオルケットを引っ張って、顔にあてがい涙を拭う。その拍子に、形の良いふくらはぎとそれに続く太股が顕になった。極彩色の光がその白い肌を染める。久美子がまたしてもしゃくり上げる。相沢はあまりの可愛さに思わず見惚れた。

 久美子に気付かれぬよう映画館を抜け出した。そしてようやく思い当たった。林田が急遽泊まると言い出したのは久美子が泊まるからだ。郁子を狙っていると皆の前で言ってはいても、妻帯者の林田に勝ち目はない。単に場を盛り上げているだけなのかもしれない。
 ゲームセンターに入って行くと、その林田が宇宙戦争ゲームのボックスの中で機械を操縦している。斜めに傾いた入り口を開け、相沢も中に入って画面に見入った。レーザー砲を発射しながら、レバーを操縦して相手の撃ちだす弾を避けるのだが、ついに被弾してボックスはがたがたと振動しながら墜落した。
「やられちゃいましたね、課長。いいところまでいったのに」
相沢が笑っていると、林田はいつになく無表情な顔で続けた。
「ところで、課長は明日何か予定あります?今晩の勤めが終わったら、暇ですか?」
いよいよ飲みに誘ってくれる気になったかと思い、相沢はすぐさま頷いた。
「ああ、暇、暇、暇を持て余している。全然予定ない」
それを聞いて、林田はちょっとがっかりした様子で言った。
「実は、今日、久美子がここに泊まるんですよ。久美子からお誘いがあったもんだから、嬉しくって急遽泊まり番して、明日二人して遊びに行こうと思っていたわけです、女房には内緒で…」
相沢はちょっと話が違うと思い怪訝な顔で聞いた。
「で?」
「俺は内心うきうきしてたわけですけど、久美子が課長も誘えっていうもんだから、なんか、こう、冷水を浴びせられたみたいで…」
 相沢にしてみれば、林田の誘い方のほうがむしろ自分に冷水を浴びせているようで納得いかなかったし、思わずむっとしたが、林田はそれにも気付かず続けた。
「とはいえ…惚れた弱みであいつには逆らえないし、じゃあ、そういうことで、明日、ご一緒しましょう」
 まさにとぼとぼといった表現がぴったりな歩きでその場を離れたが、ふと立ち止まり呟く。
「でも、俺、止めようかな、だってあのジャガーの助手席は絶対課長を座らせるだろうし、なんか、付け足しみてえで、俺、惨め。かといって、久しぶりにデートもしたいし…」
 林田は揺れる心を持て余し、ハムレットよろしく悩んでいる。相沢は林田の落ち込みようを目のあたりにして、気の毒な気がして断るつもりになっていたが、林田の結論のほうが少し早かった。
「まあ、課長は独身だし、優先権を尊重すっか。ジャガーの中で恋の鞘当でもして遊びましょう、じゃあ、明日」
 今度はきっぱりと歩き出した。林田は今日、深夜喫茶のマスターを引き受けてくれたのだ。相沢は林田の後姿に語りかけた。
「動機はどもかく、深夜喫茶を引き受けてくれて感謝してるよ、でも、恋路は別だ。僕も今日、久美子を可愛いと思ったんだ」

 相沢の脳裏に久美子のむっちりとした太股が蘇る。果たして恋心と欲情はいっしょなのか否か。いつか林田に聞いてみようと思った。林田なら明確な答えを用意しているだろう。
 その後、喫茶で久美子と林田がビールを飲みながら談笑しているのを見たが、何となく近づけず、遠くから眺めた。全ては明日だ。何かが始まろうとしているのか、或いは何も起こりはしないのか?全てが明日決まる。そう思ってその場を後にした。

 事務所に戻り、書きかけのレポートを仕上げた。既に0時をまわり、皆の言った通り何事もなく時間は過ぎていった。しばらくして警官の山ちゃんと石橋が立ち寄り、二人とコーヒーを飲みながら談笑していた。
 相沢はすっかり安心しきっていた。まして頼りがいのある警官二人がいることも、明日デートすることも相沢をうきうきとさせていた。喫茶店を抜け出して林田もやってきた。久美子はもう寝たのだろう。
 警官二人を少しでも長居させようと、林田が冗談を連発する。笑いが部屋中に響く。にこにこと相沢も遅ればせながら笑い顔を作り、上の空で笑い声をあげた。平和な夜、明日はデート。なにもかも順調だった。

 と、突然ドアが開いた。見ると血相を変えた上田が口をパクパクさせている。部屋の全員が上田を注視する。ようやく上田の口から声が響いた。
「課長、大変です。大勢で押しかけて来ました。モンモンしょってます」
 相沢は血の気が失せるという感覚を初めて味わった。立ち上がりかけたが膝に力が入らない。それでも気力を振り絞り立ち上がった。そしてぽつりと聞いた。
「大勢で押しかけたって、何人くらいだ?全員がモンモンしょってるって?」
上田が、うろたえて答える。
「いえ、そうじゃなくて、大勢は大勢なんですが、モンモンしょってるのは一人だけです」
 ふっと肩の荷がおりた。大勢で、しかも全員刺青入れていたら、まさに嫌がらせか殴り込みだ。そうでないと分かっただけでもめっけもんである。にわかに足に力が湧いてくる。
 立ち上がろうとする山ちゃんと石橋を手で制し、上田と連れ立って事務所を出た。少し後に林田がついて来る。風呂場と事務所の連絡係である。

 ロッカー室に入ってゆくと、なるほどあちこちに目つきの鋭い男達がたむろし、入ってきた相沢等を睨みすえる。どの男達も刺青はしていない。抵抗しつつも上田に背中を押されるものだから、男達の間を通り抜け問題の場所に到着した。
 ザ・ヤクザといった顔つきの男が二人、二列のロッカーの入り口で相沢を待ち受けていた。一人が「野郎…」と口にした。と同時に、奥の方から大きな怒鳴り声が聞こえてきた。
「おい、今の失礼な男を呼んで来い。我慢にもほどがある。奴の態度はゆるせん。おい誰か、さっきの男を連れて来い」
 上田は「ひー」と言ったきり、相沢の背広をひっつかんだまま背中に顔を押し付けている。あの失礼な男とは上田のことなのだ。二人の男の背後を覗くと、太った大男が背中にタオルを掛け、男達にマッサージをさせている。そのタオルの下から紛れもなく刺青が露出していた。
 声を掛けようにも、二人の男が遮るように立っており、近づくことも出来ない。太った男が振り向いた。かっと目を見開き、またしても怒鳴り声をあげる。
「おい、お前だろう、そこのふんぞり返っている男の陰にいるのは。さっき失礼な態度をとったのは、お前だろう」
 相沢は別にふんぞり返っているわけではなく、背中を押されるものだから胸を反らせて押し返しているだけなのだ。男が立ち上がった。のっしのっしと近づいてくる。その大きさに思わず相沢はたじろいだ。相沢も背は大きい方だが、その相沢が見上げるほどの大男なのだ。その大男は二人の男を掻き分け前に出た。そして再び怒鳴った。
「さっきから俺の顔をじろじろと見てやがって、俺に文句でもあるのか?えっ、何とか言え、この野郎。言いたいことがあるんだろう?はっきり言ったらどうなんだ」
上田の「ひー」という声が震えている。それほど迫力のあるドスの効いた怒鳴り声である。これが合図となって散り散りに佇んでいた男達が集まってきた。二人は完全に取り囲まれた。中から二番手らしき男が前にでて、低い声で言った。
「親分が怒っていなさるのも、ちゃんとした理由がある。そいつのせいだ。人をじろじろ見るなんて、だいたい失敬だろう。誰だって決していい気持はしないぜ、そうだろう?」

 相沢は首を傾げた。どうも変だ、皆、妙に理屈っぽい。ましてヤクザにしては言葉が丁寧すぎるのだ。親分さんが怒鳴りながら相沢達に詰め寄る。
「俺の何が気に入らないのか知らないが、文句があるんなら、やってもいいんだぞ。やっか?やるんなら、相手になっぞ、えっ、どうなんだ、やんのか、やんねえのか?」
 相手はこちらの失礼な態度に抗議していることを強調している。上田にしてみれば、タオルケットで隠した刺青を確認しようと思っただけなのだ。その行為を失礼だとか何とか言って、居直るつもりなのだろう。そうは問屋が卸すかと、相沢も覚悟を決めた。

 親分さんは相沢に顔を近づけるだけ近づけ怒鳴り散らし、因縁をつけているのではなく接客態度の悪さに抗議しているのだと強調する。一方その脇で一人の若者が殺気立った顔で唸り声をあげている。その顔はまさに般若の面そっくりだ。二番手らしい男が、そいつを手で制しながら言った。
「こういうのを押さえるのも大変なんだ。血気に逸って何をしでかすか分かったもんじゃねえ。こいつは2年前、酔っ払いを半殺しにして、つい最近出所したばかりだ、おい、我慢しろ、我慢するんだ、バカ野郎、相手は素人だ」
 二人の迫真の演技にみとれつつ、いや、そうもしていられないと慌てて相沢は頭を下げた。
「申し訳ございません。失礼があったみたいで、心からお詫びいたします」
と言った途端、親分さんの怒鳴り声だ。
「みたいで、とはなんだ、みたいでとは?こいつの失礼な行為は実際にあったんだ。みたいではなく、失礼な行為があったことを、と言い直せ」
 随分言葉に神経質な人だとは思ったが、確かにその通りだと思い訂正した。
「分かりました、言い直します。大変失礼を致しまして申し訳ございませんでした。ですが、皆様も入り口の大きな看板を見てご承知とは思いますが、刺青のあるお客様はご入場出来ないことになっておりまして…」
ここで親分さんに話の腰を折られた。
「まてまて、なんでもかんでも一緒くたんにするな。それは別の問題だ。その前に、お前、言ったよな、失礼があったって。俺達、極道の世界じゃ、こういう場合は、きっちりと落とし前をつけなければ納まらない。ヤクザなら小指をばっさりとやれば済む。どうだ、お前もそうすっか?」
「滅相もございません。私はカタギです、ヤクザと同じと言う訳にはまいりません」
「馬鹿野郎、それが甘いって言っているんだ。お前の部下の行為は俺達の神聖な世界に土足で踏み込んだも同然なんだ」
「いえいえ違います。親分さんがたまたまお客さんとして入ってきた。うちの社員が親分さんの刺青を確認しようと目を凝らした。これは社員として当たり前のことです。失礼な態度と親分さんは思ったかもしれませんが、カタギの聖域に土足で入ってきたのは親分さんじゃありませんか?」
「お前は、大きな勘違いをしている。いいか、俺達は料金をきちっと払い、カタギとして入ってきた。カタギの聖域に土足で踏み込んだ訳じゃない。だけど俺達は見た目がカタギじゃない、まさにヤクザだ。そのヤクザと知っていながらこの男は失礼を働いた。つまり土足で俺達の聖域に踏み込んだと言うのはそういう訳だ」
 おいおい、何だ何だ、この屁理屈は。相沢は頭が痛くなった。一瞬ひるんだ隙に、親分さんが決め付けた。
「つまりだ、カタギがヤクザに接する時の不文律、波風を立てないと言う不文律をカタギの方から破った。ってことは責任はお前達にある。従って、今晩は泊めてもらう。それを認めることがお前達の責任の取り方だ」
「冗談じゃありません。さっきも言ったとおり、玄関に二つも大きな看板があった。そこには刺青の方は入場できませんと書いてあったはずです。見なかったとは言わせませんよ」
 相沢のもの言いに取り囲んでいた男達は激昂し、罵声を浴びせながらにじり寄る。例の若者は今にも飛び掛らんばかりの勢いだ。親分さんは皆を見回し、尋ねた。
「おい、そんな看板あったか?」
 皆口々に気がつかなかったなどと白々しく口を揃える。なかには外人よろしく首をすくめ、両掌を上に向け小首を傾げる者までいる。「ヤクザには似合わねえー」と怒鳴ってやりたかった。だいたい縦横1メートルもある看板が目に入らぬはずがない。
「惚けるのもいい加減にして下さい。あれが目に入らないわけないじゃないですか。貴方達は目を何処につけているのですか」

ここで親分さんが切れた。館内じゅうに聞こえるような声を発した。
「舐めんのもいい加減にしろ、この野郎。こう見えてもこの世界じゃ、ちっとは知られた人間だ。お前みたいな若造に舐められてたまるか。」
ロッカー室の入り口に林田が顔をだし、目で警官を呼ぶかどうか聞いている。相沢は首を僅かに左右に振る。そして林田が背後に合図を送る。それを見ていた親分さんが冷ややかに言った。
「そうか、随分威勢がいいと思ったら、警察を呼んでいるな。もう事務所に来ているんだろう、どうりで落ち着いていると思ったぜ」
図星をさされて驚いたが、そんなことおくびにも出さずに、こう言った。
「とにかく、お引取り頂けませんか?会社の決まりです。刺青の方はお断りしておりますので、どうか、ご理解下さい」

 警官がいると相手も理解したことだし、これで騒ぎは納まると思ったのだ。しかし、この分さんに限ってこうした常識は通らなかったのである。親分さんの怒鳴り声が相沢の甘い期待を切り裂いた。
「おい、警官、マッポ、ポリス、出てきやがれ。お前に文句がある。出て来い、隠れていねえで出て来やがれ。こらー聞こえねえのか、出手て来いってんだ」
 突然唸り声を上げていた若者が相沢に殴りかかった。唸り声をあげていたのは演技ではなかったのだ。こいつは本気だと思った。咄嗟に顔を左にかわすとパンチが右の頬を掠めた。
 親分さんは更に声を張り上げた。
「出てきやがれ、今、うちの舎弟が暴力を振るったぞ。いいチャンスじゃねえか、出てきて逮捕しろ。聞こえねえのか?」
 これまで越えたことのない一線を越えたことは確かだった。肌が粟立った。それでも相沢は負けじと親分さんと睨みあう。緊張で胸の鼓動が聞こえてきそうだ。その時、「失礼しまーす」と繰り返しながら林田が子分どもを掻き分け掻き分け親分に近づいてくる。そして言葉をかけたのだ。
「親分さん、あっちでコーヒーを用意しますんで、どうぞ場所を変えて…、いわゆるコーヒーブレイクってやつです。へへへへ…」
 手もみして、にこにこと佇む林田を見て、親分さんも行く気になったようだ。パンツ一丁で凄むのも調子がでないのだろう。「よし、行くか」と言う親分の一言で、みなぞろぞろとロッカーに戻って着替え始めた。相沢が林田に耳打ちする。
「子分はそっちで面倒見てくれ。喫茶店がいい。親分は例の個室に連れてゆく。一緒だとうるさい。それから一番若いのには気をつけたほうがいいぞ。さっき本気で殴りかかってきた。俺が空手3級の腕前じゃなかったら、避け切れなかったろう」
林田は肘で相沢の脇を突っつきながら言った。
「課長、もし課長が黒帯だったら、その冗談…、もっと落ち着いて言えたんじゃねえの」
言われてみて初めて気がついた。喉がからからに渇いて、ほとんど唾がなくなっている。相当緊張していたのであ。
 
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