愛しのヤクザ
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第四章 パチプロ
則子が失踪してから一週間が過ぎた。鯨井組の騒動のあった晩、遅番の則子はとうとう相沢の前には現れなかった。寝過ごしたのだろうと軽く考え、何度も携帯に電話を入れたが留守電になったままだ。不安にかられて、深夜、アパートを訪ねたがドアは固く閉ざされ人の気配はない。
翌々日、非番を利用して林が訪ねると、則子は前日、アパートを引き払っていた。林は則子とメール交換をしていたので、連絡くれるようメッセージを送ったが何の反応もないという。林は失踪の原因が相沢にあるのではないかと勘ぐって何度も探りを入れてきた。
確かに相沢はデートに誘い、キスをしようとして拒まれたが、それが原因だとは思えない。それに、林のメッセージに応えないという事実は、二人には計り知れぬ則子なりの事情があったのだと結論するしかなかったのである。二人は目と目が合うと、どこでも、とほほと肩を落とし、うな垂れあった。林田もその傷心をもって仲間に加わろうとしてきたが、二人は林田を無視した。何故なら林田は妻帯者なのだからそんな資格はないし、恋心というよりやりたい一心だったからだ。
そんなある日の夕刻、山本統括事業本部長が個室から顔を出し、相沢を呼んだ。個室に入ると応接にでんと構えて、相沢にも座るよう顎で促す。相沢は厭な予感に捉われた。山本がてかてか光る額に皺を寄せ、唐突に切り出した。
「実は、林君のことなんだ。俺は前から言ってきたが、彼はどうもあの仕事には向いていないんじゃないか?本部の経理からもミスが多いと指摘されている。どうだろう、事務職からはずして、現場に出させたほうがいいんじゃないか」
山本統括事業本部長の遣り口は陰険だが確実である。まず負のレッテルを貼り、それを既成事実として周囲に認識させる。本部でもこれを確実にやっているし、根回しも済んでいるはずだ。真綿で首を締めるように邪魔者をねじ伏せるのである。
本部からの不満の声など聞いていない。確かに林はパソコンに慣れておらず、当初、ミスを犯したことはあったが、同じ間違いを繰り返すことはなかった。また、勘定科目を間違えて本部から指摘されることはあるが、それは慣れの問題である。
しかし、山本は、慣れるまで待てない、即刻だと言うのだ。この提案は二度目であることから、もう拒めないと覚悟を決めた。相沢はうな垂れて個室を出た。ちらりと林を見ると、いつものようにパソコンのキーを叩いている。
その隣で石田経理課長がぼんやり台帳を眺めている。部下などいないのだし、現金出納だけの課長職を置くというのもうなずけない。山本は石田に林の仕事を引き継がせろと言う。石田は、暇なものだから、山本に頼んで林の仕事を自分のものにしようと画策していたのだ。
林は総務の仕事だけやっているわけではない。暇さえあれば、どこでも、どんな仕事でも手伝う。この一月不眠不休で頑張ってきた。それが石田ときたら、現場に一切出ようとせず、日曜祝日は休み、山本の世話を焼くのが自分の仕事と勘違いしている。
その石田が、ごそごそとバッグから何かを取り出した。小さなビンだ。ちらりと上目遣いに相沢を見るが、何事もなかったように爪にマニュキュアを塗り始めた。相沢はため息をついた。向井に相談するしかない。相沢は居眠りする向井の肩を揺すった。
「まあ、そう悩むなよ。あいつはそんなこと気にする男じゃないから。俺から話すよ」
ほっと胸を撫で下ろし席に着いた。すると向井が大きな声で林に声をかけた。相沢は時間をかけてゆっくりと説得するものとばかり思っていたので焦って、止めるよう合図を送るが、既に大声で話は始まっていた。
「おい、林君。君の今までやっていた総務の仕事、全部経理課長に渡してくれ。君は副支配人候補ってことで、俺の補佐を頼むよ。まあ、今まで現場でやってきたことの延長みたいなことだけど、とにかく頼むよ」
一瞬、林は困惑した顔をしたが、向井が頭を下げているのをみて、即座に答えた。
「いいですよ、俺もこの仕事、向いてねえと思ってたところだから。本部から間違い指摘されるたんびに、落ち込んでるより、そっちのがいいや。何かせいせいしちゃった。ねえ、石田経理課長、教えっからこっちへ来いよ。ほれ、俺の膝の上に腰掛けて」
そんな下卑たジョークに反発するでもなく、石田は目を輝かせ、
「本当、嬉しいー。私、前からコンピューターに興味持ってたの」
と言うと、林の隣にちょこんと座って画面を覗き込んだ。向井が相沢に小声で言った。
「課長、林は分かっているんです。石田が林の仕事をやりたがっていたことも、統括事業本部長がそれを後押ししてることも。林は即座に了承したでしょう。あいつだって元店長経験者だ。俺の気持ちなど手に取るように分かる。そんなもんです」
これを聞いて、相沢は林に負けたと思った。林はこの数ヶ月、パソコンの研修を受け、プログラムの導入から実施まで手がけてきた。その仕事をあっさり人に譲るというのである。いつまでもプライドを捨てきれない相沢より、年は若いがよほど大人である。
清水郁子がフロントから顔を出し、ニヤニヤしながら相沢を呼んだ。お客さんだという。フロントに出ると、例のボーイッシュな女が待っていた。横に林田が佇み親しげに話している。林田は相沢に気付き話しかけた。
「課長も隅におけないですね。車で久美子を追い掛け回すとは。でも、後ろから追いかけて、何で久美子が美人だって分かったんです?」
「まさか、林田君のお友達?」
「情婦ですよ、ただのセックスフレンド、ねえ」
女は笑顔を見せ、肘で林田の腹を突いた。かなり本気だったらしく、林田はうーと唸ってうずくまっている。相沢は最初に謝ってしまおうと、ぺこりと頭を下げ、言った。
「あの節は、本当に申し訳ありませんでした。ちょっと苛苛してたもんですから。それに、まさか女だなんて思いもしなかったし」
林田が
「何が、あの節は、ですか、気取っちゃって」
と、ちゃちゃをいれようとしたが、またしても肘で打たれて顔をしかめた。女が言った。
「もういいですよ、あの時のことは、私も言いたいことは言ったし。フロントの女性に言わせると、私のその一言が、相沢さんをすっごく傷つけたって言っていたから、いずれ私の方から謝ろうと思っていたの。もっとも彼女辞めてしまったみたいね」
鵜飼則子は全てを知っていた。ハッピを着たくなかったことも、プライドを捨てきれない相沢の弱さも。じわっと目頭が熱くなり、切ない思いが胸を締め付けた。林田は相沢の様子に気付き、しんみりと言った。
「久美子、課長さんは、その彼女に惚れていたんだ。それがいなくなっちゃったもんで、もう、悲しんで、悲しんで、飯も喉に通らねんだ。見てる俺っちも辛くてさあ。まあ、時間が解決するのを待つっきゃねえ。」
しんみりとした顔のまま、何気ない風をよそおい、続けた。
「ところで、課長、俺もずっと気になっていたんだけど、といっても、まあ、林ほどじゃねえけど……いっぱつくれえ、やらしてもらったん?」
相沢は拳でボディをくれてやったが、林田はそれを避けて笑いながら逃げていった。林田の後姿を見詰めながら、女が言った。
「林田君、ちっとも変わらない。小さいときのまま。彼とは小学校から高校まで一緒。幼友達よ。そうそう、私、吉野久美子。よろしくね。ここ、もう三度目。これからも利用させてもらうわ」
相沢は怪訝な顔で久美子を見た。林田と同じ年であれば30歳。とてもそうは見えない。二十代前半くらいかと思っていた。突っ張ってはいるが、どこか幼さが残る顔立ちだ。久美子は相沢の不思議そうな顔に気付いたのか、笑みをうかべてた。
「もしかしたら、もっと若いと思っていたの?そうだったら嬉しい。でも、本当は30歳、もうオバンよ。そろそろ焦らないといけないって思いはじめたところ。相沢さんはお幾つ?」
「もう32歳だ。どうも女に縁がなくて。それより、いつも、あんなにスピード出しているの。追い付こうとおもったけど、とても無理だった」
「まあね、それっきり趣味がないから」
その時、後ろで怒鳴り声が響いた。振り向くと、林とお客が睨みあっている。怒鳴ったのはお客の方だ。相沢は会話を中断して二人に近付き、そのお客の横顔を見て、何度も問題を起こしている例の奴だと気付いた。相沢が話しかける。
「誰かと思ったら、また貴方ですか。何度、騒ぎを起せば気が済むんです。しまいには、出て行ってもらいますよ」
「何を言っているんだ。今回は、俺は悪くない。こいつがいきなり俺を突き飛ばしたんだ」
にこにこして林が答える。
「何が悪くないだ。悪さしようとしてたじゃねえか。酔っ払った振りして女にぶつかろうとしていた」
「俺はただ酔っ払って脚がふらついただけだ。そいつを、こいつが勘ぐってどついた。どう考えても割があわねえ。おい、兄ちゃんよ、やろうじゃねえか、えっ」
ここで間をあけると、低い声で続けた。
「おい、ちょっくら、外に出ようじゃねえか。ここでは他のお客さんにご迷惑がかかる」
ここで林がぷっつんした。
「何が、ここでは他のお客さんにご迷惑がかかる、だ。テレビドラマみてえな臭い台詞吐きやがって。テメエは、ここで何度人様に迷惑をかけてきた。一回や二回じゃねえだろう」
男はこれを聞いて、ふふふと不敵な笑みを浮かべ、ついて来なとばかり、肩を怒らせ歩き出した。林はその後を追おうとしたが、いつの間に来たのか、林田が林を羽交い絞めして押さえた。林はそれを振り解こうとするが、力では林田には勝てない。
男は振り向いて、二人の様子を見た。ふんと鼻を鳴らし、叫んだ。
「馬鹿野郎、風呂屋のサンスケがでかい面するなってんだ」
林は尚も抵抗するが、林田が事務所に無理矢理連れ込んだ。相沢は林の目に光るものを認めた。男は、またもふんと鼻を鳴らし、相沢の前を通り過ぎ、階段を上っていった。相沢がその後ろ姿を憎々しげに睨みすえる。
林はやはり悔しかったのだ。上司の理不尽で、これまで誇りをもってやってきた給与計算の仕事を諦めざるを得なかった。笑いながらその場をやり過し、現場に出た。そして、何度も女にぶつかって難癖をつけていたこの男に遭遇したのだ。
相沢と同じだ。プライドを傷付けられ、鬱憤はたまりにたまった。林と違うところは、それが相沢のは自尊心だったことだ。林の方は、自尊心ではなく誇りだ。仕事に対する誇りを傷つけられたのだ。相沢よりよほどこたえただろう。
相沢は、階段を上がってゆく男に向かって怒鳴った。
「おい、俺がさっき言った言葉が聞こえなかったのか?問題を起せば出ていってもらうと言ったはずだ。金は返す。今、出ていってもらおう。さあ、ロッカー室はこっちだ」
男は振り向くが降りてこようとはしない。相沢には林の悔しさが感染していた。引きずり下ろしてやろうと、階段を上がっていった。男は温厚そうな相沢が怒りを顕にしているのを見て、困惑の色をみせたが、まだ余裕の笑みをうかべている。
腕にそうとうの自信があるのだろう。それは相沢も一緒で、負ける気はしなかった。一歩一歩男に近付いていった。1メートルの距離で、ふと、相沢は自分がかなり不利な立場に立たされていることに気付いた。そこは階段途中である。
もし、男がつま先でちょっと蹴り上げれば相沢の顎にあたる。男が空手の有段者であれば、まず避けられないだろう。階段を一段上がる。男も一段上がる。優位を保っている。どうやら、相手はそうとう喧嘩慣れしている。参ったと思った。
と、突然、林田が下から駆け上がってきた。林田は、一目見て相沢の不利な点を見抜いたようだ。相沢と男の間に半身になって割って入った。そして言った。
「とっつあん、入場料は返してやっからよ、出ていってくれよ。とっつあんには世話になったけど、もう、俺だって我慢の限界だ。来るたんびに騒ぎを起している。さあ、出ていってくれよ」
林田は男を睨みつけているが、いつになく真剣な眼差しが、どこか寂しげに映る。男はまたしても、不敵な笑みを浮かべていたが、ふんと鼻先で笑った。「そうかい」と呟き、ふーと長い吐息をもらした。そしてゆっくりと階段を下りて行き、ロッカー室に消えた。
林田はじっとその後姿をみつめていたが、ふと、苦笑いを洩らし、重い口を開いた。
「あの人には随分世話になった。あの人はパチプロで、俺が稼げるようになったのは、あの人のお陰なんだ。でも、まあ、しょうがねえ。とっつあんも分かってくれたみてえだし。でも、林の奴、よっぽど悔しかったみてえだ。机につっぷして、くっくっくっって泣いていやがった。とっつあんと何かあったん?」
「いや、そうじゃない。事業本部長が、総務とコンピューターの仕事を石田経理課長にやらせろって言ってきた。それで悔しかったんだろう。つい、とっつあんに鬱憤を晴らしたんだと思う」
「何とまあ残酷なことを。あいつあんなに一生懸命やってきたのに。プログラマーになるなんて夢見てえなこと言ってた。まいったな、それは」
そこに、久美子が近付いてきて、相沢に言葉をかけてきた。
「相沢さんて、結構厳しいのね。誰だって酔っ払うことはあるわ。何もあんなに怒鳴らなくてもよかったじゃない」
どこか非難するような響きがある。くるりと背を向け更衣室へと消えた。当惑していると、林田が嬉しそうに声をかけてきた。
「課長、また振られちゃいましたね。まあ、彼女には彼女のなりの言い分ってもんが、あるんでしょう。今度会ったら、うまく説明しておきます。」
「彼女には彼女なりの言い分って?」
「課長は、久美子から何か聞きました?」
「何かって、何?二人の関係のこと?幼馴染とは聞いているけど」
「そうそう、幼馴染で、セックスフレンド。違う違う、そうじゃなくって、あいつの家のこと」
「いや、何も聞いていない。家が何かやっているの?」
「いえいえ、聞いていないなら、それはそれとして、いいんですが、まあ、あいつの家は地元の旧家で大地主ってとこです」
二人が事務所に戻ると、向井と林が深刻そうな顔をつき合わせて話し合っている。漏れ聞こえる向井の発言で、石田との仕事の分担と今後の仕事の内容を話しているようだ。当の石田はというと、5時を過ぎたのでもう家路についたということだ。
山本の個室も人の気配はなく、一緒に帰ったのかもしれない。まったく気楽な人達である。何の責任もなく、何の貢献もしない。もし、何もする気がないなら、何も口を出すな、と言いたいのだ。しかし、言える立場でないことは、分かりきっていた。
その日の夜、責任者を集めミーティングを開いた。明日から4日間、八王子祭りである。テキヤが全国から大挙して押しかけてくる。刺青をしょっている人々も多い。その入場を阻止すべく特別警戒態勢をとらねばならない。
鎌田副支配人が黒板に日程を書き、深夜番を書き込んでゆく。祭りの前後を含めて6日間、二人一組で泊り込む。相沢は一日おきに3日間泊まることになった。鎌田とのペアだ。肌は合わないが、こういう時には、何となく頼りになる男だ。兎に角、柔道五段、大男である。
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