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剣の丘に花は咲く 

作者:5朗
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第八章 望郷の小夜曲
  第五話 燃える心

 
前書き
 アンリエッタ回。

  

 
 アルビオンの首都ロンディウム。
 石造りの建物が整然と立ち並ぶ首都の中心にある宮殿。ハヴィランド宮殿では、とあるパーティーに出席する者たちの声が響いていた。
 出席者は勿論、強大な空軍を持ち、空を飛ぶ大陸からハルケギニアを見下ろす大国、白の国(アルビオン)が誇る貴族たち……ではなく、それを打ち破り、地に落とした大地に根を下ろすハルケギニアの列国の貴族たちであり、その中には、トリステイン王国女王アンリエッタの姿もあった。
 彼らがこの国いる理由は、『諸国会議』という名の、敗北したアルビオンから利権や利益を貪る晩餐会に出席するためであった。そして今、宮殿内にあるホワイトホールでは、円卓を囲みそれぞれの国の代表による会議が行われていた。
 
 この会議には先の戦争に関わった、戦勝国であるトリステイン、ガリア、ゲルマニア、ロマリア、そして敗戦国のアルビオン、それぞれの代表の姿があった。
 
 ゲルマニアからは、アンリエッタが嫁ぐ予定であった皇帝アルブレヒト三世が居心地悪そうに顔を顰め座っている。
 ロマリアからは、戦争に義勇軍しか参加させていないことから発言権が低いロマリアから選ばれた大使が、王族等大物が座る周りの面々を、恐縮した顔で縮こまって座っていた。
 アルビオンからは、アルビオン全権大使の任を託され、怪我をおして出席するホーキンス将軍が、右肩から先のない身体を恥じるではなく、逆に誇りに思うかのように胸を張っている。
 ガリアからは、無能王と蔑まれる王―――ジョゼフ王の姿は……未だその姿を見せてはいなかった。
 
 諸国会議は全員が出席しなければ始まらないため、ホワイトホールの円卓を囲む面々は、未だ姿を見せないジョゼフ王を待っていた。
 血みどろの勢力争いを勝ち抜き皇帝となった、野心の男である筈のアルブレヒト三世は、始まらぬ会議に苛立った様子で円卓を指で叩く。

「全く無能王とはよく言ったものよ。時刻通りに来ることも出来ないのか。知っているかね、あやつは自分が王になるために、王座に着く筈だった優秀な弟を殺したそうですぞ。無能な王を戴くようになったガリアには同情す―――」
「…………」

 ハッハッハと笑おうとしたアルブレヒト三世だったが、隣に座るトリステインの代表の視線を受け、声は尻窄みに消えていった。アルブレヒト三世は氷で出来た針に突き刺されるような冷たく鋭い痛みに、冷や汗と脂汗が混じる大量の汗を流しながら顔を俯かせた。

「あ~……きっとジョゼフ王は何か理由があって遅れているのでしょう。ま、もう少し待っていれば来ると思い、ます、ぞ……」

 突然極寒の地に放り込まれたかのように、一気に体感温度が下がったホワイトホールの空気を一新しようとホーキンスがわざとらしい程明るい声を上げたが、全く効果はないようであった。
 適温に保たれている筈のホワイトホールを、一瞬で極寒の地に変えた者は、トリステインの代表の一人、枢機卿マザリーニの隣に座る、若き女王―――アンリエッタであった。

 晴れ渡った青空の下、煌めく湖のような青い瞳―――今は―――星明かりを覆い隠す分厚い雲の下、吹き荒れる吹雪により底の底まで凍りついた湖のように怖いほど澄んだ蒼い瞳が、円卓に座る面々を睨み……いや、ただ―――見ていた。
 しんっ、と静まり返ったホワイトホールの中、互いの呼吸音だけが響いている。

 誰も声を上げない。

 ―――否。

 声を上げれない。
 
 このホワイトホールに集まった者はそれぞれの国の代表である百戦錬磨の強者である筈なのだが、それがたった一人の二十にも満たない少女の存在に怯え縮こまっていた。
 アンリエッタは何も言わない。円卓の一席に腰を下ろしてから一声も口にしていない。隣に座るアルブレヒト三世が自分が、手に入れる筈であったアンリエッタの身体を舐めるように好色な視線を向けた時も何も言わず、ただ一瞥を向けただけ。だがしかし、それだけで十分であった。氷点下でも生優しい程の冷たい瞳での一瞥は、マグマのように煮えたぎるアルブレヒト三世の欲望を一瞬で冷却したのだ。
 人形のような瞳というのとは違う。
 意志が感じられないというわけではない。
 意志は感じられる。
 だた、それが余りにも冷たく……無機質であるが故に、逆にそれが恐ろしい。
 それぞれの国の代表は、最初若くして王座に着いたということで、それぞれ侮り嘲りを胸に『諸国会議』で始めてアンリエッタと顔を合わせた際向けられたのは、恐ろしい程冷たく―――固く―――冷徹な視線による品定め。
 二十に満たない美しい少女から、虫……いや、それよりももっと無機質な、何かの資料を見るような視線を向けられのは、流石の海千山千の者たちであっても初めてであったのか、その場は笑顔で対応していたが、その心の内は顔を顰め気味の悪がっていた。
 
 余りにも気まずい沈黙を壊したのは、ホワイトホールのドアの向こうから響く大きな足音だった。
 音さえ凍りついたかのようなホワイトホールのドアが勢いよく開き、それと共に現れた一人の美丈夫が姿を現す。
 その男は目を見張る程の色男であった。がっしりとした体格は、魔法使いというよりも戦士といった風情で、蒼い髪と髭を揺らしながら円卓に設けられた一席に向かって歩いている。
 会議に出席する最後の人物、ガリア王ジョゼフは椅子に座ると、円卓に座る者たちをぐるりと見回す。

「いやはっはっはっ、どうやらわたしが最後みたいだね! いやいや済まないね! これでも急いでいたんだが! いやしかし、ハルケギニアの王の面々が、このように集まるのは滅多にないことだ! このような機会に恵まれたことを喜ぼうではないか!」

 手を叩き大声を上げるジョゼフを、円卓に座る他の面々は複雑な顔で見つめていた。遅れたことについての反省を欠片も見せず、マイペースで話をするジョゼフに、何時もならば嫌悪や苛立ちを感じるが、今は逆にそのマイペースさに助けられていたからだ。その場の雰囲気を全く考えない言動に、何処の雪原だと言うような冷え込んだホワイトホールに、居たたまれなかった者たちから安堵の溜め息が漏れる。

「そう言えば皇帝陛下! きみの戴冠式に出られないで済まなかったね! いや本当は―――」
「―――会議を始めましょう」

 次から次へと言葉を紡ぐジョゼフの口を止めたのは、今まで一度も口を開くことのなかったアンリエッタであった。

「ん? おお! きみはアンリエッタ姫ではないか! いやいや大きくなられま―――」
「まずはアルビオンの統治方法について話し合いましょう」

 ジョゼフがアンリエッタに気付き、声を掛けてきたが、アンリエッタは一瞥も向けることなく会議を始める。大国であるガリアの王であるジョゼフを完全に無視した姿に、円卓を囲む面々が唖然とする中、アンリエッタは会議を続けようとする。
 その様子に焦った様子で隣に座るマザリーニが、アンリエッタを諌めようとするが、

「へ、陛下……も、もう少し」
「……」
「い、いえ……何でもありません」

 チラリと向けられたアンリエッタの視線に、背筋を震わせ黙り込んで縮こまってしまった。 
 再度静まり返ったホワイトホール(会議室)にアンリエッタの澄んだ声が響く。





















 アンリエッタが主導する会議は順調に進んだが、始まって二時間程で『腹が痛い』とホワイトホール(会議室)からR国やG国の代表が退出したことから、色々と決まる前に会議は解散となってしまった。
 逃げるようにホワイトホールから自国も含む各国の代表が出て行く姿を見るでなく、暗く沈んだ瞳で虚空を見つめていたアンリエッタに、声を掛けるものが一人。
 円卓の席、未だ退出せず、アンリエッタの正面に座っていたアルビオンの代表であるホーキンスだった。ホーキンスは他の代表がいなくなったのを確認すると、アンリエッタの隣りまで移動する。アンリエッタの隣に立つと、ホーキンスは頭を下げた。

「恐れながら、陛下に奏上したいことがあります」
「……」

 頭を下げたまま声を上げるホーキンスを、チラリと一瞥するとアンリエッタは無言で先を促した。
 アンリエッタの無機質に光る視線に背中に冷や汗を流しながらも、ホーキンスは話を続ける。

「アルビオンはこの度の戦で疲弊を極め、民はもはや日々の生活すらままなりません。この戦の責任は全て戦争を引き起こした我ら貴族であります。誠に勝手な話でありますが、これ以上民を痛めつけること等したくはありません。ですので陛下。我らはどうなっても構いません。例えアルビオンの貴族全員を処刑したとしても、何卒民には寛大なご処置をお願いいたします」
「確かにこの戦を引き起こしたのは民ではなく貴族であり、民に戦の責任をとって貰おうなど考えてもいません」
「おお、ありがとうござい―――」
「―――ただ」

 自身の言葉を受け入れるようなアンリエッタの発言に、ホーキンスは弾んだ声で、喜色が浮かぶ顔を上げようとしたが、それは、続く冷えた声によって一瞬で凍りついた。

「疲弊したのは我が国も同様。それをお忘れなきよう」
「……それはどういうことでありましょうか」

 下から覗き込むように、ホーキンスは頭を下げた姿でアンリエッタを見上げた。アンリエッタを見るホーキンスの視線に、警戒と不審が入り混じる。向けられる視線に気を払う様子を全く見せず、アンリエッタは席を立つ。
 ホーキンスが先程の発言の意味を聞くが、アンリエッタは何も答えずドアに向かって歩き出した。
 
「陛下っ!」

 ホーキンスの焦った調子の制止の声に、もう話すことはないとでも言うように無言で去っていくアンリエッタ。
 拒絶の意思を隠そうともしないアンリエッタの背中に、ホーキンスはどうすれば止められるか必死に頭を働かせると、直ぐにある思いが湧き上がった。それは、元々民の擁護を得たならば話すつもりだったもの。
 この戦争を終わらせた一人とも言ってもいい英雄についての話。
 しかし、こんな様子のアンリエッタに、それが効果を発揮するかどうか。しかし、逡巡するホーキンスの前には、既にドアノブに手を掛けようとするアンリエッタの姿が。迷ってる暇はないと、先ほどよりも大きな声でホーキンスは声を上げた。

「陛下っ! 陛下の軍を救った英雄について、陛下はご存知でありますか!?」

 アンリエッタはドアノブに伸ばす手を止めない。

「たった一騎で、七万の軍勢を打ち破った英雄を!」

 ドアノブを掴む手が回り、

「赤き英雄のことを!」

 開く寸前ピタリと止まった。



 



 


 ドアノブを回した姿でピタリと動きを止めたアンリエッタの背中に、好機とばかりにホーキンスは次々と言葉を投げかける。

「浅黒い肌の、鷹の目のような眼光を持つ長身の男です。その英雄は、様々な武器を操り、人間業とは到底思えない動きや剣の腕で七万の軍勢を正面から突き破り、このわたしの右腕を切り飛ばしました」
「―――なま、えは……言っていましたか」

 アンリエッタが振り返らない。ドアノブに手を掛けた姿で、声を上げたが、その声は微かに震えていた。
 そのことにホーキンスは気付いていたが、そのことについて指摘することなく、ただアンリエッタの問いに答えた。

「いえ、名前は言ってはおりませんでした」
「そう、ですか」

 初めて会った時から感情と言うものを感じさせなかった声が、今は微かに耳を震わせるだけだというのに、痛い程その声に満ちる感情が感じられた。砂漠で遭難した者が、目の前に流れる川が幻か本物かどうか尋ねるような、期待と不安が混ざる声。
 もしや知り合いかと眉を寄せるホーキンスだったが、今はアンリエッタを引き止めることだけに集中しろと頭を切り替える。

「しかし、保身に走る将軍の気質は何処の国でも変わらぬものですな。いや、ただ事実が信じられないだけなのかもしれません。何せたった一人の男に七万の軍勢が敗走に追い込まれたなど。わたしも自身で経験しなければ、欠片も信じられなかったでしょうから」

 ホーキンスの言葉に間違いはなかった。何故、間に合わないはずの連合軍の撤退が間に合ったのか、来るはずのアルビオン軍が来なかったのか、その調査を連合軍がしないわけもなく。戦争終結後、連合軍の各国はアルビオンにその理由を求めた。しかし、その返答は、一人の騎士によって敗走したと言うものであった。そんな話しが信じられる筈もなく、各国は独自に調査を進めたが、そのどれもがその返答を裏付けるだけの結果となった。しかし、いくら何でもそんな話が信じられるわけのなく、いや、例えそれが真実であっても、たった一人の騎士によって一国の軍が敗れたなどの話は認められる理由がなく、各国は示し合わせたかのように、それについては表向き、アルビオン軍が何らかの理由で行動不能になったことからロサイスへの到着が遅れたとし、忌避するように、その話について関わろうとしなくなった。そのため、アンリエッタの元に上げられた報告も、当たり障りなく作られた報告であったため、アンリエッタが真実を知ることはなかったのだ。
 
「そのひとは……どうなったのですか?」
「分かりません。彼に腕を切り飛ばされた後のことは、わたしは気を失いましたので。しかし、副官の話によると、逃げる我らを追うことはなかったとのことです。わたしの最後の記憶では、確かに全身傷だらけでしたが、致命傷と思えるようなものはありませんでした。ですから、既に帰国したものと思っておりましたが、そんな話は全く耳に入っていませんでしたので、そのことを聞こうと思ったのですが」
「いき……てる……あの方が……生きて」

 ホーキンスの視線の先では、アンリエッタの華奢な背中が大きく震えていた。明らかに動揺した声で、繰り返し同じことをつぶやき続けている。その声は、会議を淡々と進める中、えぐい程自国の利益を手を伸ばした女の姿とは思えない程だ。

「―――その様子ですと、知らないようですな。かの英雄がそう簡単に死ぬとは思えませんし、もしや終戦のゴタゴタで下に降りる方法が分からないのかも知れませんな」
「シロウさんが……シロウさんが生きて……生きてる」













 





 誰もいなくなったホワイトホールで、残されたホーキンスは一人円卓に設けられた席に座り込んでいた。
 頭に浮かぶのは、ついに最後まで振り返ることなく部屋から出て行った女性。若くして王座に着いたアンリエッタであった。初めて見た時、その美しさより身に纏う雰囲気に息を飲み、感情が凍りついた瞳を見て背筋を震わせた。戦場を駆け抜け、様々な惨事を目にしたことがあるホーキンスにとって感情が凍りついた、摩耗した人間を見るのは初めてではない。しかし、感情が感じられない瞳の中、虫を観察されるような視線を向けられるのは初めてであり。実験動物を腑分けするようにアルビオンを切り裂こうとする姿には、吐き気すらもよおした程だ。だからこそ、若いと侮ることなく、覚悟を持って挑んだ。しかし、それでも甘かった。民の窮状を伝え、温情をもらおうとしたが、視線すら向けられず、与えられたのは冷酷なまでな言葉。追い詰められ、博打を打つつもりで放った言葉は、そんな怪物のような女をただの女……それも小さな少女に変えた。

「……シロウか」

 それは英雄の名。
 たった一騎で七万の軍勢を打ち破りし、幻想の彼方に消えた筈の本物の『英雄』。
 ホーキンスは英雄の名前を口にし、切り飛ばされた右腕の肩口を撫でた。言葉通りの目にも止まらない疾さで振るわれた剣は、恐ろしさより憧れさえ抱かせた。
 七万の軍勢を打ち破り。
 恐ろしい氷の女王を、ただの少女に変える。
 絵本の中から出て来たかのような『英雄』は、一体何者なのか。

「また……会いたいものだ」

 目を細め、何時の間にか浮かんだ微笑みを口元に湛えたホーキンスの口から溜め息混じりの声が漏れた。























 ハヴィランド宮殿に設けられた客間の一室の前。
 一目見てその豪華さが分かるドアの前に立つ者は、帯剣をしていなければただの平民にしか見えない簡素な服装をしたアニエスであった。
 ノックをするではなく、ドアの前に立ち尽くしている。
 脳裏に過ぎるのは、心も身体も氷で作られたような姿になった主のこと。時折見せてくれた笑顔は、ある日を境に欠片も見せることなく。それどろこか、人が変わったかのように、国の利益となるならばどれだけ残酷な命令さえ眉一つ動かさず下すようになった。その姿に、人間性さえ感じられなくなりつつある。
 小さく覚悟を決めるように一つ溜め息を吐くと、アニエスは重い腕を持ち上げドアをノックする。
 大きく三回。続けて小さく二回。
 暗号のような決められたノック数。
 それで自分が来たことを中にいる主に知らせると、中から入室の許可が下りる。

「……どうぞ」
「ん? ……失礼します」

 中から聞こえた声に、アニエスは訝しげな顔をする。声の主は自分の知る主、アンリエッタのものに間違いはない。しかし、最近耳に慣れるようになったあの氷のような声ではなく、以前の優しいこちらを気遣う様子が伺える声であった。
 だが、それでも入らないことはありえず。ドアを開け中に入ると、そこには窓辺に置かれた椅子に座り、血のように赤いワインに満たされたグラスを膝に抱えるように両手で持ち、夜空に瞬く星を見上げるアニエスの主の姿があった。

「陛下。わたしに何か話があると聞きましたが」
「…………」

 無言で窓の向こうを見上げるアンリエッタに、アニエスが眉を寄せる。

「……トリステイン軍の一部の反乱は、シティオブサウスゴーダの水が原因かと調べましたが、調査したメイジが言うには異常は見当たらないとのことでした。『先住魔法』の可能性がありますが、調べる方法がなく」

 元々アニエスがアルビオンに来たのはアンリエッタの護衛ではなく、連合軍の兵士がシティオブサウスゴーダで突然反乱を起こしたことの真相を解明するためであった。反乱を起こした連合軍の兵士たちは、ガリアによりアルビオン軍が壊滅した後、それぞれの国に引き渡された。引き渡された後、各国で事情聴取が行われたが、反乱の理由については全員が『そうしなければいけない気がした』等と申し立てたことから、何らかの魔法による洗脳ではないかと推測された。しかし、その魔法が一体何なのかは全く不明であった。これが最後と判断することが出来る筈はなく、そのためアンリエッタからアニエスは反乱の原因についての調査を命じられていたのだった。

「未だその理由が不明のまま、陛下の前に来たこと、申し開きの言葉も―――」
「アニエス」
「はっ」
「構いません。それよりもあなたにお願いしたいことがあります」

 顔を向けることなく、アンリエッタはアニエスに背中を向けたまま話を続ける。
 その様子にアニエスは眉を顰める。

 明らかに違う。
 最近の氷で出来た人形のような姿ではなく。以前の何処か自信がなさげであるが優しい姿でもない。 
 一体どうしたのだ?
 明らかに様子が変だ。
 だが、最近の考えが分からない姿よりはまし―――か。
 
「エミヤシロウは知っていますね」
「はい。ミス・ヴァリエールの使い魔の男ですね」
「そうです。あなたにその彼を探してもらいたいのです」
「理由を聞いても?」

 背中を向け椅子に座るアンリエッタに、跪いた姿で尋ねるアニエス。暫くの間、部屋の中が静まり返る。無言の時が続き、アニエスが先の言葉を撤回しようとする直前、黙り込んでいたアンリエッタが口を開いた。

「先の戦で、何故ロサイスから連合軍が無事逃げることが出来たのか知っていますか」
「……何らかの理由で、アルビオン軍の進行が遅れたと聞いています……が、噂では、たった一人の男がアルビオン軍を打ち破ったと……いえ、すみません戯言を口にしてしまいました。一人で七万の軍を敗走に追い込むことなど出来るは―――」
「その噂こそ真実だと言ったら」
「え?」
「そして、その男がルイズの使い魔であるエミヤシロウだと言ったら?」
「まさか」

 顔を上げ左右に振るうアニエスに、アンリエッタがふっと小さく息を吐くような笑みを作る。

「彼は文字通りの『英雄』です。アルビオンのホーキンス将軍に聞きました。彼が七万の軍を打ち破り、総司令官である自分の右腕を切り飛ばしたと」
「ま、まさか。そんなことが人間に……」
「シロウさんはトリステインに戻ってはきてはいませんが、生きている可能性があります。彼によってトリステインは救われました。どれだけの御恩があるか……アルビオン軍と彼が交戦したのは、ロサイスから北東の地点です。どんな手を使ってでも彼を見つけ出してください」
「……承りました」

 疑問や否定の言葉を飲み込み立ち上がったアニエスは、最後にアンリエッタの背中に頭を下げると、部屋を出ようとしたが、

「アニエス」
「何でしょうか?」

 名前を呼ばれドアに向かう足を止められた。  
 振り向くと、その先にはあいも変わらず窓の向こうを眺め続けるアンリエッタの背中が。

「復讐には、何か意味があるのでしょうか」
「……復讐の意味ですか」

 アニエスの顔が苦しげに歪む。
 何の前振りもなく告げられた言葉に、アニエスは動揺するように心臓が一瞬大きく鼓動したが、ゆっくりと大きく息を吸うことでそれを治めると、アンリエッタが見つめる先の窓の向こう側に視線を向けた。 
 静まり返る部屋の中、アニエスの声が響く。
 
「……殺された者の恨みを晴らすため、自分が前に進むため……そう考えていましたが」
「今は違う?」
「……少し……分からなくなりました……わたしも今……復讐について……考えているところです」

 段々と小さくなっていく声に、アンリエッタは身体を微動だに動かすことなく返事を返した。

「……すみません。おかしなことを聞いてしまいまして。もう……いいです」
「……は」

 









 背後でドアが閉まる音を聞いたアンリエッタは、窓の向こうに投げかけていた視線を手元の赤いワインに落とした。注いだはいいが、先程から一度も口をつけていないそれを見下ろしながら、静かに目を瞑る。
 瞼の裏。闇に沈む視界の中の奥に、何かの影が見えた。それは段々とその姿を明確にし。一人の男の姿を創り上げた。

 

 シロウさん……あなたは何度わたしを救ってくれるのですか。


 拐かされ、騙されルイズに杖を向けた時も……。
 

 寂しさと虚しさに心砕かれようとした時も……。


 復讐心で曇った眼で始めた戦争で、兵士たちの命が無残に散る筈だった時も……。


 そして、心が凍ってしまったわたしを……。 


 ………一体……何度、助けて…………。



 グラスに満たされたワインがゆらりと揺れる。

 そこで自分の身体が小刻みに震えているのを自覚した。

 そして、頬を暑い何かが流れていることにも。
 
 ゆらりと―――ワインが揺れる。

 いくつもの輪が生まれては消える。
 
 それが、自分の顎から滴る雫によるものだと知った時、自分が泣いていることを自覚した。

 グラスから右手を外し、頬を撫でる。
 
 そこには火傷するほど熱い水が。

 
 
 どうすれば、あなたに報いることが出来るのですか……。


 あなたは、何を求めるのですか……。


 わたしは……何をすれば……。



 グラスを傾け、喉にワインを流し込む。

 痛い程の甘さが舌を包む。

 喉が焼け、胸が燃える。

 吐く息は熱く―――甘い―――。

 震える身体に両手を回し、空になったグラスごと胸に抱く。

 



「―――エミヤ……シロウ……戻って来られたら」

 



 瞼の裏に浮かぶ影の名を呟き、赤い唇を指先で触れる。


 
 唇は熱く濡れて。



 
 そして、甘い思い出が蘇り。




「……わたしに……出来る全てを……」




 
 期待に揺れていた。
 
  
 

 













 
 

 
後書き
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