たった一つのなくしもの
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第六章
「やっぱりな」
「そうだな、経営も上手にいって」
「スタッフにも家族にも恵まれてるよ」
「寄付をして喜ばれてな」
「実家の両親にも孝行してるよ」
「最高だろ、本当に」
「ああ」
今も漠然とした顔だ、その顔での返事だった。
隆太はスコッチを一口飲む。その美味を味わいながらゴキブリに答えた。
「楽しくも嬉しくもないだけでな」
「それだけだな」
「生きているだけだよ」
その最高の成功の中をだというのだ。
「それだけだよ」
「そうだな」
「俺はな」
「あんた死ぬまで俺と一緒にいるな」
つまり契約を続けるというのだ、死ぬまで。
「それまでな」
「そうするさ、頼むな」
「頼まれたら受けるけれどな」
ゴキブリも断らない、相手がそうした考えなら。
それで彼のところに留まり続けることにした、それで言うのだ。
「じゃあ最後の最後に聞くよ」
「俺が死ぬ時か」
「そうしていいかい?その時にな」
「何を聞くんだよ」
「その時にな、じゃあいいな」
「わかった、じゃあ何でも聞いてくれ」
隆太もゴキブリの言葉を受けて述べた。
「その時にな」
「そういうことでな」
こう話してそしてだった、隆太はゴキブリの用意してくれた幸運を老年に達してからも受け取り続けた。
そのうえで遂に死の時を迎えた、百歳になって老衰でだ。
心優しく出来のいい家族に見守られながら苦しまずに死のうとしている、自宅の自分の部屋で静かに息を引き取ろうとしている。
夜は一人にしてもらっていて静かにベッドの中にいる、その彼のところに。
ゴキブリが来た、そして彼に言ってきた。
「あんた明日の朝にな」
「死ぬか」
「そうなるよ」
こう彼に枕元で言うのだ。
「家族に見守られてな」
「そうか」
「長い付き合いだったけれどこれで終わりだな」
ゴキブリは長年の相棒にこうも言った。
「ずっと有り難うな」
「こちらこそな」
「それでだよ」
礼を言い合ってからだ、ゴキブリは態度をあらためて彼に言った。
「覚えてるよな、最後にな」
「俺に聞くんだったな」
「ああ、あんたどうだった?」
問いだした、約束通り。
「あんた幸せだったか?」
「俺の一生か」
「俺と会って契約してな。幸せだったか?」
「幸せだったか、か」
「ああ、あんたにずっと幸運を与えてたけれどな」
幸せのそれを、契約通りそうしてきた。
そのうえでだ、こう彼に問うたのだ。
「どうだった?幸せだったか?」
「いや」
隆太はゴキブリのその問いに否定の言葉で応えた。
「全くな」
「幸せじゃなかったか」
「何があっても嬉しくも楽しくもなかった」
つまり喜ばなかった、ゴキブリとの契約通り。
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