たった一つのなくしもの
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第二章
「それで喫茶店探せ、マスター探してるからな」
「俺が喫茶店のマスターになるのか」
「雇われだけれどな、あと外見もな」
ゴキブリは今度は彼のその冴えない風貌の話もした。
「服はその五百万で何とかしろ、充分だろ」
「ああ」
「後髪の毛は毛生え薬だ、これ頭に毎朝塗れ」
今度は瓶のそれを出して来た。
「これでいいだろ、俺と契約したら全部してやる」
「契約かよ」
「ああ、同居人だからな」
とにかく理由はこれに尽きた。
「助けてやる、俺はこのアパートに引っ越して御前と一番長く暮らしてるから情が移ったから助けてやるよ」
「大学に入学してからだからな」
群馬からこの東京の大学に出てからだ、その間この部屋から離れていない。
「長いな」
「俺はこの部屋に二十年いるからな」
「築二十年だったな、このアパート」
「その縁だ、ただ契約をしないと何もしてやれないんだよ」
「それで契約か」
「俺は何でもしてやる、けれど御前からあるものを貰うぞ」
ゴキブリの言葉は急に厳しいものになった、隆太に確認する感じだ。
「それもいいか」
「魂とかか?」
「そりゃ悪魔だろ、別にそんなのいらないよ」
「じゃあ何だよ」
「喜びだよ」
契約と共に貰うものはそれだというのだ。
「喜びだよ、それ貰うからな」
「喜び?」
「ああ、あんたのそれを貰うよ」
ゴキブリは隆太に対して言う。
「俺はあんたに色々な幸運を授けるけれどな」
「その代償はか」
「そう、喜びだよ」
それを貰うというのだ。
「それを貰うよ。俺がこうして長生き出来て力を使えるのもな」
「喜びを貰ってきたからか」
「契約した相手とな」
そうしてきたからだというのだ。
「俺は今まで生きてこられたんだよ」
「そうだったのか」
「それでいいかい?」
隆太にあらためて問う。
「それで」
「正直このままだとな」
隆太は今の自分自身の状況を考えた、金はないし仕事もない、日雇いで何とかという感じだ。しかも髪の毛は薄くなってきていて家賃も滞納している状況だ。
こんな状況だ、それならだった。
「生きることすら出来ないかも知れないからな」
「ネットカフェ難民か」
「そうなるからな、じゃあな」
「契約するんだな」
「ああ」
ゴキブリにこくりと頷いて答えた。
「それじゃあな」
「よし、じゃあ契約成立だ」
ゴキブリも隆太の言葉を受けた。
「これから俺はあんたに色々な幸運を与えるぞ」
「それでだな」
「喜びを貰う、そうするからな」
こうしてだった、彼はゴキブリと契約した。まずは風呂に入って身体を綺麗にしてからゴキブリから貰った馬券で大穴を当てて当面の金を手に入れた、だがその時にだった。
何とも思わなかった、虎口を脱したというのにだ。
彼は漠然とした気持ちで家賃を払いそれから居酒屋に向かった、そこで酒を飲んでもだった。
「美味いけれどな」
「それでもだろ」
服のポケットの中から声がしてきた、ゴキブリの声だ。
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