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怨時空

作者:ミジンコ
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第五章 妻の自殺

 3年の月日が瞬く間に過ぎた。それ以前は帰宅時間を遅くするために接待にかこつけ
て夜遅くまで飲んでいた。しかし、香子と結婚してからというもの接待は出来るだけ避け
るようになり、家で過ごす時間が多くなった。
 しかし、いつの頃からなのか、記憶が途切れ途切れになり、日々の現実が曖昧模糊と
なっていった。意識が埋没し、無意識の世界で生活を送しているような感覚に時折襲われ
る。会社で仕事をしている途中、ふと気が付くと家にいるのである。実に不思議な感覚だ
った。
 そして会社に行ったことさえ思い出せなくなる。傍らにいる香子に聞く。
「俺、今日、会社に行ったっけ?」
香子が困惑ぎみに言う。
「何を言っているのよ、さっき仕事から帰って来たばかりじゃない。馬鹿なこと言わない
でよ」
 頭が朦朧としいて、時の流れが緩慢だったり、時に急激に走り出したり、確かに会社
での記憶はあるのだが、ふと我に返ると、自宅でぼーっとしている。そんな自分をおかし
いと自覚しているのだが、それを解決しようにも頭には何も浮かんでこない。
 まして、ここのところ体調もおもわしくない。体がだるく、階段を上がるのもしんど
い。朝、鏡を見ると顔が浮腫んでいる。こんな顔だったかと思うほど醜くなっていた。香
子は桜庭の顔を見るたびに、顔をしかめたり、嫌味を言ったりする。
 あれほど愛し合っていたというのに、少しばかり容貌が衰えたからといってその態度
はないだろうと反発するのだが、怒る気力がまずないのである。へへへへと力なく笑い、
よたよたと背をむけて、香子の苛ついた視線を避けるだけなのだ。
 桜庭には何故体調が悪いのか思い当たらなかった。小学5年になった香織は、次第に
桜庭を毛嫌いするようになり、一緒に食事しようとさえしない。しかし、詩織はまだ桜庭
になつおり、時折、微笑みかけたり甘えたりする。
 気だるく無気力な生活が続いた。そんななか唯一の救いは詩織との触れ合いだ。居間
で一人ぽつんとしていると、ドアを僅かに開け、顔を覗かせる。手招きすると、走り寄っ
て抱きついてきた。腹の上に乗せ、くすぐるときゃっきゃと笑った。
 そんなつかの間のひと時なのだが、それが過ぎ去ってしまえば、今しがた起こった出
来事なのか、それとも遠い過去のそれなのか思い出せない。そんな記憶が山のように蓄積
されているはずなのに、少しも実感を伴って思い出すことができないのだ。
 夫婦の仲はさらに険悪になっていった。家庭内別居同然だった。寝室も分け、セック
スレスになって久しい。食事の時だけ顔を合わせるのである。夫婦2人と詩織の3人だけ
の食事は気まずいものだった。
 沈黙に耐えきれず、桜庭が詩織に語りかけた。
「どうして黙っているの。あんなに二人で遊んだじゃないか。お姉ちゃんに何か言われて
いるのか。僕と喋っては駄目だとかなんとか」
詩織は黙っていた。母親の顔を盗み見ている。そして、困惑したようにべそをかいた。城
島が声をかけた。
「いいんだ、詩織ちゃん。いいんだよ。答えたくないのなら、いいんだ」
桜庭がこう言うと、詩織はスプーンを置き、
「もう食べたくない。私、部屋に行って寝る。おやすみなさい」
と言うと、小さな体を左右に振りながら、階段を上っていった。

 或る日、食事中に胸が苦しくなって、食卓から立ちあがり、洗面所に急いだ。洗面台
の1歩手前で胃の中のものを一挙に吐き出した。急いで蛇口をひねって水を含むと、更に
げーげーと胃液を吐いた。真っ赤な血がそれに混じり、異臭が鼻をつく。
 大きく息をしながら目の前の鏡に見入った。浮腫んだ醜い顔がそこにある。ふと、視
線を鏡に映る自分の顔の背後へ向け、思わずぞっとした。何時の間に二階から降りてきた
のか、香織が居間のドアを少し開け、嫌悪に満ちた視線を投げかけていた。
 その香織の上に香子の顔が現れた。憎憎しげに桜庭の様子を窺がっている。桜庭はよ
うやく分かりかけてきた。食事に毒を入れているのだ。怒りがむらむらと沸き起こるが、
気力が伴わない。それでも、きっとなって振りかえった。ドアがばたんと閉められた。
 中条みたいに殺られてたまるか、と、そう思った瞬間、桜庭の怒りが急激に膨れ上が
った。そうだ、中条もこんな風にして狂気へと追い込まれていったのだ。気力を振り絞っ
た。このままでは駄目になる、いや、殺されてしまう。
 桜庭は、居間のドアを乱暴に開け放った。香子は二人の子供を守るように抱きかかえ
ていた。桜庭は有無を言わさず殴りつけた。香子は倒れ込み、香織は母を庇うような姿勢
で抱き付き、詩織は傍らで火の点いたように泣き出した。
桜庭が怒鳴った。
「俺に毒をもっただろう。ずっと何年にもわたって、毒を食わせていたんだ、分かってい
るんだ」
香子も負けじと叫んだ。
「馬鹿なことを言わないで。あなた正気に戻って」
「正気だと、ふざけるな。どう考えてもおかしい。体調は悪くなる一方だ。毒を盛られた
としか思えない」
「あなた。頼むから落ち着いて。会社を首になって悔しいのは分かる。でも、あたし達に
当るのは、もう止めて。子供に暴力を振るうのはもう止めて。この家はまるで地獄よ。あ
なたが作り出した地獄よ」
唖然として香子の言葉を聞いていた。最初意味が分からなかった。
「会社を首になっただって。冗談じゃない。昨日だって一昨日だって会社に行っている。
もうすぐ部長になる」
「もう、いい加減に現実を見詰めて。部長には矢上さんがなったわ。そして貴方は首にな
ったの。あなたのショックは分かる。でも現実を認めて、これからのことを考えればいい
のよ。お願い、正気に戻って」
香織が泣きながら言った。
「あんたは、もう一年も会社に行ってないわ。そうやって暴れては暴力を振るう。最低よ。
最低だわ」
桜庭は頭が混乱してきた。ふと、上司の姿が思い浮かんだ。かつての部長の席を争った矢
上だ。矢上が冷徹な視線を向けて言い放った。
「競争相手にお客を奪われたんだぞ。大事なクライアントが、うちの会社を出入り禁止と
言ってきた。ミーティングを何度もすっぽかしたそうじゃないか。若い女房に夢中になり
やがって。責任を取れ、首だ。もう明日から出て来なくていい」
桜庭は会社を首になったのだ。すっかり忘れていた。次第に詳細に思い出していった。香
子が子供達に言った。
「さあ、もう遅いから寝なさい。明日早いんでしょう」
香織は心配そうに何度も振りかえり、詩織はしゃくりあげながら階段を上がっていった。
しばらくして二階でドアが閉まる音がした。それを待っていたかのように、香子は重い口
を開いた。
「今日、警察が来たわ。あなたのアリバイを疑っているみたい」
驚いて桜庭が聞いた。
「おい、おい、何を言っているんだ。いったい何のアリバイだって言うんだ」
「あなたがマンションの屋上で奥さんを殺して突き落とした時のアリバイよ。」
「馬鹿な、俺は泉美を殺してはいない。お前は何を言っているんだ。泉美は自殺したんだ」
「どうして、そんなこと言うの。あの日、上野さんと別れて、貴方はもう一度屋上に行っ
た。そして携帯で奥さんを屋上に呼び出した。奥さんは驚いて、『自殺するだって。ふざ
けんじゃない』って叫んで屋上まで上がって来た。そして、あなたは、奥さんを屋上から
突き落としたのよ」
「嘘だ。俺はそんなことしてない。それに、泉美が自殺したのは、上野が殺しそびれた時
よりずっと後だ。一ヶ月も後のことだ」
そう叫んで、ふと或ることに気付いた。そして、ぎょとなって香子を見詰めた。泉美の
「自殺するだ」という言葉は「自殺するだって、ふざけんじゃない」の前半だけの聞き違
いだったとすれば納得がゆく。しかし、何故それを香子は知っているのだ。
「香子、何故、泉美が叫んだというその台詞を知っているんだ。本当は『自殺するだ』じ
ゃなくて『自殺するだって』と言っていたんだ。近所の奥さんはそれを『自殺するだ』と
聞き違えた。そのことを、何故、お前は知っている?俺だって今始めて知った」
「何故って、泉美さんがあなたにそう言ったからじゃない。それを、貴方が私に喋ったか
らよ。いい、貴方は私に、上野さんのことも、何もかも話したわ。真夜中にやってきて、
涙ながらにアリバイ工作を懇願した。あの日のことを忘れたの」
 桜庭は気が狂いそうになった。香子の話はいくらなんでも自分の記憶とは違う。矢上
から首を宣告されたのは確かに忘れていた。しかし、泉美を絶対に殺してはいないのだ。
それには自信があった。
「絶対に俺は殺してはいない。あの日、部屋に戻ったんだ。戻って泉美の高鼾を聞いて首
を絞めて殺したくなった。でも、出来なかったんだ。俺はその日、しかたなく泉美の横で
寝た。それは確かだ」
「じゃあ、あの日、涙ながらに言ったことは何だったの。君のために妻を殺した。頼むか
らずっと一緒だったと証言してくれって私に懇願したわ。私は厭だった。でも、貴方が可
哀想だから、しかたなく警察で嘘の証言をしたのよ。でも、警察はやっぱり疑っていた。
私はどうしたらいいの。私は嘘の証言なんて厭だって言ったのに……」
そう言って泣き崩れた。
 桜庭はいよいよ混乱してきた。現実と夢との境をさ迷っているようで、気が狂いそう
だった。まして、首になったことを失念していたこともあり、不安で胸が締め付けられた。
ざわざわとという不安が体中を駆け巡った。

 その夜、桜庭はベッドに入ると、記憶に残る矢上のあの時の顔を思い浮かべた。薄い
唇の動きまで鮮明に覚えている。だが、鮮明な割りに実感が伴わないのだが、確かな記憶
として脳裏にこびりついている。どう考えても首になったことは事実としか思えない。
 しかし、何かが違う。そんな気がしてならなかった。それに不思議なことがもうひと
つある。それは眠気がないのである。いつもなら、食後すぐに睡魔が襲ってきた。今日は
食事を吐いたから、そうならないのかもしれない。
 しかし、待てよと思った。もし吐かなければ、香子の言った泉美を殺したという記憶
も矢上の記憶同様鮮明に思い出したのではないのか。その時、突然、泉美の言っていた言
葉が甦った。「翔ちゃんが、言っていたの。寝ている時に、奥さんが耳元で囁いているよ
うな気がするって」
 まして、「自殺するだ」という台詞は、担当刑事が桜庭に耳打ちし、自殺の線が濃厚だ
と密かに教えてくれた。まして、この件はマスコミには報道されなかった。しかし、香子
がその台詞を知っていたということは、屋上に駆け上がってきた泉美が「自殺するだって、
ふざけんじゃない」と叫んだのを直接聞いたのだ。つまり香子が泉美を殺したのだ。
 ふと、廊下が軋む音が聞こえた。電気スタンドの灯りを消して、布団をかぶった。布
団に少し隙間を開け、ドアの方を窺がった。ノブが回され、ドアが僅かに開かれた。窓か
ら射し込む月明かりが詩織の目を赤く照らし出した。外でしわがれた老婆のような声がす
る。
「寝ているかい」
詩織は大きく頷いた。詩織の頭越しに香織と香子の赤い目がドアの隙間から覗いた。桜庭
は恐怖に打ち震えながらも勇気を振り絞り、大きな咳をした。ドアはすっと閉められた。
桜庭は一睡もしないで朝を待った。そして夜が明けると逃げるように家を出たのである。

 高円寺の母親の元に身を寄せて、体の回復を待った。体調が戻るのに1週間かかった。
その間、母親は何があったのかしつこく尋ねたが、桜庭は固く口を閉ざしていた。眠気と
それに続く悪夢から開放されるのをひたすら待つしかなかったのだ。
 体調が整うと、会社に恐る恐る顔を出した。すると矢上が飛んで来た。
「部長、どうなさったんです。お休みは確か今週一杯でしょう。仕事のことでしたら、電
話して頂ければ、私が対応しておきましたのに」
この言葉を聞いて、騙されていたことをはっきりと思い知らされたのだ。結局、桜庭は首
になどなっていなかったし、山口の企画を大成功させ、二ヶ月の特別休暇をとっていたの
だ。その二ヶ月の間にあの悪夢がもたらされたことになる。
 秘書が応接テーブルの上にコーヒーを置いて出て行くと、桜庭は椅子から立ち上がり、
ソファに移ると、どっかりと腰を下ろした。ふーと長い息を吐くとともに胸を撫で下ろし
た。そして、おもむろにポケットから携帯を取り出し、電話帳のそのナンバーを押した。
 桜庭は、探偵の近藤に事情を話し、その後の調査に当らせたのである。数日後、近藤
から連絡が入り、例の喫茶店で待っていると言う。すぐに駆け付けると、いつもの席でに
やにやと笑いながら待っていた。桜庭が腰をおろすと、挨拶抜きで唐突に話し始めた。
「桜庭さん、命拾いしましたね。やはり、桜庭さんには5件、合計3億5千万円の保険金
か掛けられ得いましたよ。まったくあの女も大した玉だ」
「それと、警察の方はどうです。私が妻を殺害したと疑っているのは本当なのですか?」
「いや、その点は全く心配ありません。あそこの署長は知り合いだから、すぐに調べてく
れました。あれは、自殺以外ありえないという結論のままです。それより、あの家の所有
権が移転されてます。あの女、ケツに火が点いて、逃げ出したってわけです」
「保険会社の方はどうなっています。もし、保険がそのままであれば、私は命を狙われる
可能性がある」
「ええ、そっちの方もご心配ありません。保険会社にも話を通してあります。2度も保険
金を毟り取られたわけですから、保険会社の方も必死で彼女の行方を探していますよ」
これを聞いて、桜庭の心にようやく安堵の思いが広がり一挙に肩から力が抜けた。
 そして飯島のたどり着いた結論は、泉美を殺したのは香子だということだ。香子は城
島が狛江に泊まり寝入るのを見届け、後楽園のマンションに向かった。そして泉美に電話
した。桜庭がマンションの屋上から飛び降り自殺すると電話してきた、何とかして欲しい、
と。そして屋上に現れた泉美を、待ち構えていた京子が突き落とした。
 桜庭はそのことを死ぬまで胸にしまっておこうと決めた。泉美から解放されたことは
それで良かった思うし、これ以上香子を追い詰めることはしたくなかったからだ。香子は
二人の子供を養いつつ、また獲物を探しているのだ。自分にはもう関わりはない。

 忌まわしい事件が続いたが、今、すべてに終止符がうたれて、桜庭は満ち足りた思い
で自室の椅子に腰を掛け、深く長い息を吐いた。香子とのことは少なくとも3年という月
日を楽しんだのだから、十分元はとれている。
 桜庭は、若い肉体を弄んだ日々の記憶を手繰り寄せようとした。しかし、香子や子供
達の顔が思い浮かぶだけで、個々の記憶は浮かんでこない。浮かんでくるものは、あの悪
夢の時のものばかりである。3年という月日はどこに行ってしまったのか。
 いったい、香子はどんなマジックを使ったのだろうか。確かにあの家に引っ越して4人
の生活が始まった。そして、寝室での睦言や4人での団欒のひと時。その記憶の欠片もな
いということはどういうことなのか。まったくもって不可解というしかない。
 しかし、桜庭は全てを忘れることにした。念願の部長の椅子を射とめ、交際費は使い放
題、女など整理券を配りたくなるほど、向こうから近付いてくる。桜庭の人生はこれから
が本番となる。そう思うことで、心に残る不安から目をそらすことにしたのである 
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