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怨時空

作者:ミジンコ
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第四章 決意

 泉美が不法侵入で警察に逮捕されたことは、桜庭にとって離婚を有利に運ぶのには好
都合に思えた。まして凶器を持っていたとすれば、うまくいけば殺人未遂になるのではな
いかなどと、桜庭は素人判断を口にしたりした。
 しかし二人の甘い期待は裏切られた。泉美が手に持っていたのは凶器ではなく、携帯
電話だったのだ。桜庭の携帯に電話し、壁に耳をあて、その呼び出し音を聞こうとしてい
たらしい。遠目でみれば広げた携帯はナイフに見えないことはない。
 桜庭は香子の親戚を名乗って警察に電話したのだが、その事実を知った時、桜庭はが
っくりとうな垂れた。もし、凶器さえ持っていれば、離婚に向けて一歩近付く、そう思っ
ていたのだ。その晩、桜庭は家に帰ると、泉美を怒鳴りつけた。
「貴様、いったい何を考えているんだ。恥ずかしいとは思わないのか。人の家に不法侵入
して警察に逮捕されるなんて、何て馬鹿なことをしでかしたんだ」
泉美も負けてはいない。声を押し殺してはいるが、怒りの度合いが数段上だ。
「あの女と別れたなんて嘘だわ。私には分かっているのよ。昨日だって、あの家の中にい
たんでしょう。えっ、どうなの、あの中にいたんでしょう」
確かに、泉美が連行された後に、あの家に入ったのだが、その前は銀座にいたのだ。
「馬鹿言え、俺は銀座で接待していたんだ。あの山口先輩を接待していた」
「嘘よ。それなら、何で警察に引き取りに来てくれなかったのよ。とうとう連絡がとれな
かったって警察の人が言っていたわ」
「しかたないだろう。山口先輩が3軒目に行きたがった。接待相手を置いて帰ることなん
て出来ない。接待が終わったのは午前3時だ。しかたないから、会社で寝たんだ」
泉美が押し黙った。大きく肩で息をしている。桜庭もこれ以上何を言っても無駄であるこ
とは分かっていた。泉美は心のバランスを崩していた。桜庭に対する執着は尋常ではない。
あの晩、泉美の誘いに乗ったのは間違いだった。眠った子をおこしたようなものだ。泉美
がぽつりと呟いた。
「絶対に離婚なんてしてあげない」
桜庭は深い溜息で応えた。泉美が桜庭を睨みすえ、唸るように言った。
「あんなお屋敷に住んで、美人で、あんたが飛びついた理由が分かり過ぎるから、絶対に
離婚なんてしてやらない。もっと醜くなって、あんたの奥さんでい続けてやる」
桜庭がかっとなって立ちあがった。殴ってやろうかと思い泉美を見下ろした。肉が歪んで、
顔が変形していた。一見したところ、泣きそうなのか、怒っているのか、判然としなかっ
た。しかし、笑っていると知って、桜庭はぞっとしたのだ。悪意に満ちた目は明らかに笑
っていたのである。

 それからというもの、香子の家に無言電話が日に何回とかかるようになり、注文して
いないピザや寿司が届き、また男の声で子供の事故を知らせる電話まであったと言う。明
らかに泉美の仕業であり、その行為はまさに常軌を逸していた。
 或る晩、桜庭は会社を一歩出たとたんぴんときた。見張られている。泉美か、或いは
泉美の雇った私立探偵か。そのまま、香子の家に行く予定をすぐさま変更した。下請けの
製作会社に電話して担当を呼び出し銀座のバーに直行した。
 その店のトイレで香子に電話を入れた。香子はうんざりしたような声で言った。
「貴方の奥さんは異常よ。今日だってお寿司が10人前届いたわよ。何とかして、もう耐
えられない。警察に調べてもらったけど、携帯はプリペイドカード式を使っているらしく
って、証拠がつかめないらしいの」
「分かった、しかし、『香子が言っていたけど、とんでもない嫌がらせをしていって?』
とは聞けないよ。いったい何と言って、あいつを問い詰めたらいいんだ」
「簡単よ、既に別れたけど、元恋人から相談されたって言えばいいじゃないの。私とは別
れたんでしょう、一ヶ月も前に。だったら、その人から電話で相談されたって言えば問題
はないはずよ」
「そんな嘘を言っても始まらない。恐らく、俺とお前がまだ続いていることを知っていて、
意地になって嫌がらせをしているんだ。お前が疲れ果て、俺を諦めるよう仕向けている」
「そんな事出来ない。貴方を諦めるなんて考えられない。何とか離婚できないの。お金な
ら私が都合つけるわ」
「いや、無理だ。いくら金を積んでも、マンションを譲るといっても絶対に離婚届に判は
押さないだろう」
「それじゃあ、どうするの、私はどうすればいいの。一生、日陰者で、あの人の嫌がらせ
に耐えていかなければならないの」
「分かった、何とかする。だからもう少し待ってくれ。何とかするから」
「何とかするって、何をどうすると言うの。ずっとその繰り返しじゃない。一向に事態は
変わっていないわ。何とかする、待ってくれ。その言葉をもう何度聞いたと思っているの

「そう責めないでくれ、まさか殺すわけにはいかないだろう」
こう言った瞬間、桜庭はごくりと生唾を飲み込んだ。殺すという言葉にリアルな響きがあ
った。香子も黙り込んでいる。桜庭は頭を激しく振ってその思いを心の奥底に閉じ込めた。
そして自分でも驚くほど苛苛した声で言った。
「とにかく、今日は行けそうもない。それに、何とかする。何とかするつもりだから、も
うこれ以上何も言うな」
一瞬、香子は息を呑み、桜庭の怒りをやりすごした。そして静かに言った。
「分かったわ。今日は会えないのね、そのことは諦めるわ。それに、今日は貴方を責めす
ぎたみたい。本当に、御免なさい」
そう言うと、受話器を置いた。桜庭は携帯を見詰め、大きなため息をついた。見ると便器
に吐しゃ物がこびりついている。泉美に対する憎悪がむくむくと膨らんでゆく。

 その日から、桜庭の心に殺意が芽生えた。仕事中にも、桜庭の心に住み着いた悪魔が
囁く。そうだ、殺してしまおう。それが一番だ。しかし、完全犯罪でなければならない。
警察に捕まって、刑務所暮らしなんてまっぴらだ。香子だって愛想尽かすだろう。
 泉美の横に座っていても、その囁きは聞こえる。とにかくアリバイだ。それを何とか
しなくては。まして香子に俺が殺したと疑わせるのも、今後の幸せな家庭生活の障害にな
る。香子をアリバイ工作に使うなんてもってのほかだ。では、どうする? 
 犯罪の臭いのしない事故死が理想的だ。まてよ、などとあれこれ思いを巡らせ、そし
て最終的に思いついたのが自殺にみせかけた殺人だった。考えに考え抜いたのだ。
「何、考え事しているのよ」
泉美の声に驚いて、桜庭は我に返った。その日は、いつものように遅く帰ったのだが、め
ずらしく泉美は起きていた。桜庭は素面で寝室に入る気がせず、ソファーに腰掛けウイス
キーを飲んでいた。その横で、泉美はピーナツを口に放り込みながら、テレビを見ていた
のだ。
「いいや、何も考えてはいない。ただ、ぼーっとしていただけだ」
泉美がにやにやしながら言った。
「この女、死んでくれねえかな、なんて思っていたんじゃない。どお、図星でしょ。ねえ、
いっそ殺したら。包丁持って来てやろうか、台所から」
「馬鹿なことを言うんじゃない。俺を犯罪者にしたいのか、お前は」
憎悪と怒りが頭の中で渦巻いているが、そんなことおくびにも出さず答えた。殺意を気付
かれては完全犯罪なんて出来るはずもない。桜庭は立ち上がりながら、言った。
「少し夜風にでも当たって酔いを醒ましてくる。先に休んでいなさい」
泉美のこめかみに血管が浮く。
「あんたに言われなくても寝るわよ。ふん」
あれを期待して起きていたのは確かだ。桜庭は、だぶついた肉を揺すりながら歩いてゆく
後姿を眺め、背筋に悪寒が走った。ドアを閉めるバタンという音が二人の居た空間を引き
裂いた。

 15階建てのマンションの屋上から下を眺めた。深夜だというのに、春日通りはヘッ
ドライトの流れが川のように暗闇に帯をなす。交通量はまずまずだ。ドライバーは、誰か
が歩道に落ちてくれば、気付かないはずはない。
 問題は泉美を屋上に何と言って呼び出すかだ。「おい、屋上に来て見ろ。星が綺麗だぞ
」なんて言おうものなら、すぐさま見抜かれて「私をそこから突き落とすつもりなの」な
どと厭味を言われかねない。まあ、それはいい。それより、問題は上野のことだ。
 既に上野と接触し、泉美殺害の手はずは整えてある。上野は大学の演劇部の後輩で、
資産家の一人息子だったが、バブル期に不動産に手を出し、今は零落している。問題は、
上野の口の軽さだ。絶対に秘密は守ると言っているが、これが信用ならないのだ。
 上野は気が弱く、力もない。もしかしたら力なら泉美の方が強いかもしれない。その
上野が脅迫者にならないとも限らないのだ。報酬の一千万円など、すぐに使い切ってしま
うだろう。その後が問題なのだ。
 巷で話題になっている、4、50万で殺しを請け負う東南アジア系の殺し屋とのコネ
クションはないが、いずれ手蔓を探す必要がある。上野が脅迫者に豹変する前にコストの
安い殺し屋見つけ出し、そして上野も殺す。桜庭はそう決意した。

 実行の日は、来週の金曜日だ。手はずはこうだ。桜庭はいつものように午前零時に帰
宅する。そして、今日のように屋上で酔いを醒ますといって部屋を出る。屋上には行かず
1Fの24時間営業のジョナサンに入る。そこで酔い覚ましのコヒーを飲む。
 桜庭が携帯で泉美を屋上までおびき寄せる。屋上には桜庭の靴が揃えて置いてあり、
それを見て泉美は桜庭がビルから飛び降りたと思い、手すり越しに下を覗きこむ。上野は、
その後ろから近付き用意したブロックで後頭部を殴打し、靴を脱がせ、屋上から突き落と
す。そして桜庭の靴を泉美のそれに置き換える。
 桜庭は、今か今かと窓越しに春日通りを見詰めている。そこに、どさっと人間が降っ
てくる。そこで「おい、人間が上から降ってきた」と騒ぐのだ。何人ものアリバイの証言
者と店を出て、遺体を取り囲む。ふと、気付く振りをして遺体にすがりつき、「何故だー、
泉美― 」と泣き崩れる。これほど完璧なストーリーはない。桜庭は自殺の目撃者なのだ
から。

 その日はとうとうやってきた。朝から何も手につかず仕事どころではない。時間をも
てあまし、苛苛と過ごした。仕事が終わり、飲んで帰らなければならないのだが、行く先
はいくらでもあるのに、今日に限ってどこも気が進まない。
 桜庭は、気を静めるために歩くことにした。東銀座から晴海へ、晴海から銀座へ、ど
こをどう歩いたか記憶にない。酒の自動販売機を見つけると、ワンカップを買って一気に
飲んだ。へべれけになるまで飲みまくった。
 自宅のある後楽園まではタクシーを利用した。泉美は起きているだろうか。起きてい
ればそれはそれでいい。寝ていれば酔った振りをして起こす。前後不覚になって、もしか
したら抱いてくれるかもしれないと期待を抱かせるのだ。
 そして、いつものように屋上で酔いを醒ましてくると言う。今日は泉美を誘うか台詞
も考えていた。ドアベルを鳴らす。どさどさという泉美の足音が聞こえる。どうやら起き
ているらしい。ドアが開き、ふてぶてしい泉美の顔が覗く。
 桜庭は、叫んだ。「おい、俺の人生もこれで終わりだ。福岡支店に左遷が決まった。
ラインから外されたんだ。もう、終わりだ」
泉美が素っ頓狂な声で答えた。
「どうして、何か失敗でもしたの。いったいどうしたと言うのよ」
「山口先輩に、してやられた。俺の企画を蹴って電通に鞍替えしやがった。俺は赤っ恥を
かかされたんだ。ちくしょう、山口の野郎。殺してやりたい」
「それで左遷というわけ? 」
「ああ、その通りだ。経営陣も期待していた企画だ。もう、俺は死ぬっきゃない。福岡支
店なんて真っ平だ」
「私は福岡行ってみたいわ。福岡に支店を出すのよ。いい考えだわ。違う所で生活するの
も悪くはないもの」
「冗談じゃない。九州に左遷されて戻ってきた奴なんていない。支店とは名ばかりの10
人たらずしかいないし、それにもましてせこいビルだ。生きがいも糞もない。小さな仕事
を御用聞きみたいに取ってくるだけだ。くそ、冗談じゃない」
 桜庭はカバンを投げ捨て、玄関に取って返した。エレベーターに乗って一階のジョナ
サンに直行だ。動悸が高鳴る。上野はどうしているだろう。そのことばかりが気になって
呼吸が苦しくなる。ジョナサンでコーヒーを注文する。そして携帯で上野にサインを送る。
 呼び出し音を三回鳴らして切る。ジョナサンで席を確保したという合図だ。そして、
泉美に電話を入れる。
「もしもし、俺だ」
「どうしたの、もう酔いが冷めたの」
「いや、そういうわけじゃない……。そうじゃない……。と言うか……俺はもう駄目だ。
このまま、死ぬ。この屋上から飛び降りて死ぬ」
「あんた、冗談言っているんでしょう。いい加減にしてよ。もう眠るんだから」
「ああ、分かった。あばよ、またいい男を捕まえろ。じゃあな」
そこで電話を切った。後は待つだけだ。じっと春日通りに面した窓に目を凝らす。
 じりじりと待った。目を凝らした。塵一つ落ちては来ない。20分ほど経ったろうか、
ふと、上野がジョナサンの入り口に立っているのを見て、桜庭はぎょっとなった。上野が
桜庭を見つけ近付いてくる。凝視する桜庭の目には、その歩みは、まるでスローモーショ
ンのように映った。「いったい何が起こったというのだ」桜庭が心の内で叫んだ。
 席に着くなり上野が声を殺して言った。
「桜庭、お前の女房は屋上に来なかった。俺は15分待った。だが、これ以上待ったとこ
ろで来るはずもない。だから非常階段で降りてきた。だがな、桜庭」
ここで言葉を切り、桜庭の目を覗き込みながら続けた。
「約束は約束だ。金は返さん。お前はこう言ったはずだ。不慮の事故が起きて殺せなかっ
たとしても、それはそれで仕方がないってな。お前の女房が来なかったというのは、これ
は不慮の事故だ。お前の女房は、自分で考えているほど、お前のことを心配していなかっ
た」
俯いたまま、弱弱しい声で答えた。
「ああ、分かっている。金のことはそれでいい。兎に角、もう一度、計画を練り直さなけ
ればならない」
緊張の糸がぷつんと切れるとともに、落胆は桜庭の思考力をねこぞぎ奪ってしまったらし
く、何の考えも浮かばない。そして次に続く上野の一言は、桜庭に計画の頓挫を思い知ら
すことになる。その言葉とはこうである。
「俺は、やることはやった。だから、もうご免だ。もし別の計画をたてるのだったら、別
の男を捜せ。兎に角、俺は、やることをやって、お前との約束は果たしたんだ」
マンションの部屋に戻ると、泉美の壮大な鼾が天井を揺るがしていた。

 翌朝、桜庭は何事もなかったように新聞を読み、トーストを齧る。泉美が淹れてくれ
たコーヒーを一口飲み、
「おい、濃すぎるぞ。苦くて飲めねえよ」
と言って、いつもの重苦しい沈黙を振り払い、会話のきっかけを作った。
「私は濃い目が好きなの。苦いと思うなら、少しお湯で割ればいいでしょう」
「それより、お前は冷たいな。俺は本当に自殺するっきゃないと思っていたんだぞ。屋上
の手すりを越えて、何度も春日通りにジャンプしかけたんだ」
「あんたが自殺するだって?冗談言っているんじゃないわよ。あんたはどんなに間違って
も自殺するような男じゃないわ。それより、いつから行くの、福岡へ。私、先に行って良
い物件を探そうと思っているの」
「おい、お前、本気なのか。冗談じゃねえぞ。福岡支社に行くくらいなら、俺は会社を辞
める。だってそうだろう。あそこは言ってみれば姥捨て山なんだ」
うだうだと言葉を発しながら、桜庭は、福岡支社左遷という嘘をどう収めるか考えていた。

 泉美が自殺したのは頓挫したあの殺人計画から一月ほど経ってからだ。マンションの
屋上から飛び降りたのである。帰宅の遅い夫に苛立って、発作的に屋上に駆け上ったらし
い。階段で擦れ違った隣の主婦が、「自殺するだ」と口走ったのを聞いている。
 桜庭は、その日は、深夜まで山口を接待した後、タクシーで香子の家に行って泊まっ
た。そして、翌日、帰宅して泉美の死を知ったのである。警察で遺体と対面した。顔が潰
れてぐしゃぐしゃだった。主婦の証言から、自殺しか考えられず、取調べもなかった。
 しかし、どう考えても納得出来ない事実が二つあった。一つは、泉美が言ったという
「自殺するだ」という言葉である。泉美は出身こそ宮城県だが、東京の暮らしの方が長く、
そんな方言のきつい言葉を吐くとは思えないということである。或いは、かっとして思わ
ず出てしまったとも考えられるが、多少疑問が残る。
 今一つは、泉美の自殺そのものだ。桜庭は、その性格を知り抜いていた。他人を責め
ても決して自らを責めたり省みることのない女。絶望より先に、その原因がたとえ自分に
あったとしても、そのきっかけを作った人間に怒りを爆発させる人間。それが泉美だから
だ。自殺など考えられなかった。

 桜庭はマンションを売って、香子の屋敷に移り住んだ。木の香りに満ちた豪華な屋敷、
若くて美人の妻、まるで夢のような生活だった。子供はすぐになついた。香子との新婚生
活は刺激的で、屋敷の門をくぐった時から下半身が心地良く疼く。
 泉美の言っていたことも経験した。香子は家事が嫌いだった。食事はつくるものの、
後片付けと皿洗いを桜庭にせがんだ。
「お願い、ねえ、お願いよ」
そう言って哀願する香子には、確かに逆らい難かった。何度か繰返して、とうとう後片付
けは桜庭の仕事になったのである。
 哀願する香子の顔を思い浮かべ、思わず吹き出した。あれが、泉美の言っていた人を
自由に動かす不思議な力なのだと分かって可笑しかったのだ。桜庭は皿をスポンジで洗い
ながら声を出して笑った。居間の方で声がする。
「ねえ、何を笑っているの。ねえ、どうしたの」
「何でもないよ。ちょっと思い出し笑いをしていたんだ」
「何よ、気持ち悪い」
「それより、先に子供達を風呂に入れたら。さっき、風呂のスイッチを入れておいたから、
もう沸いているぞ」
「何言っているのよ。食べたばっかりでお風呂に入ってはいけないのよ。お風呂に入ると
血液が体全体に回って胃の方が手薄になって消化不良になってしまうの」
「ほう、そうかいそうかい。分かりました、分かりました。ゆっくり休んでから入って下
さい、お、く、さ、ま」
そう言いながら、桜庭は幸せを噛み締めていた。心の中で泉美に語り掛けた。死んでくれ
て有難う。お前の分まで生きてやるよ、と。 
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