シンクロニシティ10
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第八章
ゆらぐ紫煙が突然一つの方向に流れを変えた。ふと、榊原は視線を落とし、寝ているはずの幸子を見た。幸子は無邪気な悪戯を母親に見咎められた子供のように、息を吹いて尖らせていた唇を引き結んだとおもうと、今度ははにかむような笑った。
あまりの可愛さに思わず抱きしめた。背中の薄い肉をまさぐりそれを掌で味わった。髪が頬に絡みつく。その感覚さえいとおしい。幸子が榊原の胸を手で押し豊満な乳房を引き離した。下から見上げる目が何かを訴えたいた。榊原はこくりと頷いた。
「ご免よ、色々あってね。今日のワシは晩飯の時からどうも上の空だった。それを言いたいのだろう。分かっている。だけど君の話はよく分かった。マル暴の親しい奴に話してみるよ。」
「面倒なことお願いしてご免なさい。でも、晴海がどうしもって言うの。なんだか怖い話で、私背筋が寒くなったわ。そんな世界あるなんて思ってもみなかったもの。」
「ああ、ワシもちょっと聞いたことがない。ヤクザが情報ブローカーってのはどうも腑に落ちない。そのモンスターに元ヤクザの名前は聞かなかったのかな。」
「多分聞いていないと思う。でもそのモンスターって名乗った人と連絡は取れるみたい。だから聞いてみるように言っておくわ。」
「ああ、そうしてくれ。それと、疑問がひとつある。モンスターは何故洋介君の携帯の番号を知っていたんだろう」
「だって実家も分かってしまったのだから、何でも調べようと思えば調べられるんじゃない。NTTから情報を得るとか」
「素人はそんなこと出来ないよ。警察なら別だが。」
少し考えて再び聞いた。
「肝心なことを聞き忘れていた。洋介君を追ったヤクザは何と言う組だった。」
「聞いたけど、よく覚えていないっていうの。まったく晴海はぼーっとしていて、肝心なことなのに。兎に角それも洋介君に聞いてみるわ。」
頷くと榊原は押し黙った。空を見つめてまたしても上の空の様子だ。幸子は深いため息をついて言った。
「いったいどうしたの。今日のあなた少し変よ。何かあったの。」
幸子の疑問には適当に答えて誤魔化したが、内心は泣きたい気持ちだった。今日は1週間前からの約束だったので、心を奮いたたせて飲み会を抜け出してきたのだ。幸子を帰して、ひとりホテルのバーで飲み直した。
実は事件が解決し、捜査本部が解散になったのだ。今日はその納会だった。しかも、あろうことか原警部補と回った質屋に例のローレックスが陳列されていた。製造ナンバーも一致し、持ちこんだ男も逮捕された。単純な物取りとして事件は決着したのだ。
あまりにあっけない幕切れに茫然自失として、心に秘めていたアイデアを放棄せざるを得なかった。
犯人が割り出された時、とっさに替え玉かとも考えたが、死刑判決確実なこの事件に替え玉などあり得ない。連日のナシワリ捜査の疲れがどっと足腰にきた。思ってもいない結末に頭が真っ白になってしまったのだ。
石川警部に対する唯一の優越意識は榊原の推理力だった。権力機構の中でがんじがらめに縛られ、それでも彼の顔面に一撃を与えるたった一つの希望が潰えたのである。そして、あの日、石川警部は榊原の追い落としの好機と睨んで行動を起こした。
衆目のなか、石川が榊原を怒鳴りつけたという話は、着任すれば早々に駒田の耳に入るだろう。榊原は警視庁で名刑事と謳われ、怒らせると怖い存在と囁かれた。その男と渡り合ったという逸話は、まさに絶妙なタイミングで作られたのである。
駒田は間違いなく報復人事を画策する。最悪の場合、箱に戻されるか、或は僻地に飛ばされる可能性だってある。刑事畑に馴染んで十一年、その地位を得るために必死で頑張った機動捜査隊の頃のことが脳裏に浮かぶ。
あれだけ小川総務部長を脅したのだから時間稼ぎにはなるだろうが、それがいつまで持つかは分からない。兎に角、証拠となるブツを入手することだ。それしか、彼らの鼻をあかす手段はない。
マスコミが喜びそうな不正など掃いて捨てるほどあるが、そんなことで脅すなど榊原の流儀ではない。あの事件こそ、警察不祥事の詰まったパンドラの箱のような気がする。上司が横槍を入れてきて、榊原のやる気を削いだ、あの事件だ。
県警本部長の首をとった山口県警のノンキャリアの向こうを張って、どでかい報復を考えていた。もしこれが榊原の推理通りであれば警視庁始まって以来のスキャンダルになるはずだ。兎に角、ブツを手に入れることに全力を注ぐ決意を固めた。
翌日、目覚めて寝床の時計を見ると既に10時を過ぎていた。とっさに飛び起きたが、久々に休暇をとっていたことを思い出した。女房は子供を預けてパートに出かけている。二日酔いで頭ががんがんと痛む。
電話が鳴った。恐らく石田だろう。用件は分かっていた。先に幸子に聞いてしまったが、それを隠す必要はないだろう。いずれ幸子のことも、話さなければならないかもしれない。受話器をとると、案の定、聞き覚えのある声が響いた。
「もしもし、石田と申します。榊原さんはご在宅でしょうか。」
「もしもし、ワシだ。その、ご在宅中だ。携帯に電話くれたみたいだけど、ポケットに入れっぱなしで、留守電も今日聞いた。」
「そんなことだろうと思っていたよ。でも、警視庁にも電話いれて、折り返ししてくれるように頼んだんだが」
「いや、何も聞いていない。きっと伝言するのを忘れたんだろう。」
実際、そんな伝言は聞いてはいない。数人の同僚の顔を思い浮かべ、心の内で舌打ちした。
「ところで、今、九州だ。女房の叔父さんの家を訪ねた。知らぬ存ぜぬだ。どうも怪しい。恐らく知っていると思う。」
「おいおい、また有給かよ、余裕のある民間はいいよな。」
「それより、お前に頼みがあるんだ。」
「ああ、聞いた。洋介君のことだろう。幸子さんと昨日会った。」
少し間をあけて、不思議そうな声が響いた。
「お前たち随分頻繁に会っているんだな。」
榊原は二人の仲を隠すつもりはなかったのだが、何故かうろたえた。
「いや、頻繁に会っているわけじゃない。たまたま訪ねてきた。よほど洋介君のことが心配だったんだろう。晴海さんに頼まれたらしい。」
「ふーん、そういうことか。まあ、そんなことはどうでもいいんだが、兎に角、ただごとじゃない。」
「お前は、洋介君から直接聞いたのか。」
「ああ、聞いた。」
「それじゃあ、洋介君を追いかけたヤクザの組の名前はどうなんだ、洋介君から聞いているのか?」
「ああ、確か上村組と言っていてな。池袋に本拠を置いているらしい。」
榊原の心臓が高鳴った。どくどくと音を立てて脳神経の末端まで流れ込んでゆく。上村組と言う言葉が脳内でこだまする。そうだ、この偶然なのだ。この偶然の一致こそ、すべてを支配するお天道様の業なのだ。このはっとするような発見と偶然がなくして、どんな推理もそれ以上飛躍しない。
それが夢であったり、期待もしていない人の証言だったり、過去の事件との出会いだったり、全てが仕組まれているように、時空を超えた偶然の一致が、まるで真実に近づけるために配置されているように、そこに配置されているのだ。榊原が叫んだ。
「おい、今何て言った。上村組だって。本当に東池袋一丁目の上村組か。」
「おいおい、一丁目だか二丁目だか、俺には分からん。兎に角、池袋の上村だ。」
榊原は押し黙った。血流は体全体を駆け巡っている。
「それから、何故、モンスターが洋介の携帯番号をしっていたのか聞いたか?」
「いや、聞いてない。親が分かったんだから、その線で調べたんじゃないか。探偵だから色んな、例えばNTTとかのコネクションもあるだろうし。」
幸子と同じ答えが返ってきた。
いずれにせよ、上村組と聞いて自分の勘が真実味を帯びてきた。偶然の一致にこそ全ての謎を解く鍵が隠されている。誰もが単なる偶然の一致と退ける事項にこそ、実はこの世の秘密が隠されていることを、榊原は経験から知っていたのだ。
「おい、榊原どうした。上村組ってことが、そんなに興奮することだったのか。」
「ああ、そうだ。お前は何度もワシに言っていただろう。何といったかな、あの、英語。偶然の一致みたいなニュアンスの、、、」
「シンクロニシティだろう。ユングの言う、意味のある偶然の一致というやつだ。俺に言わせればそれに縁を結びつけたいね。かつて、南方熊楠という学者が因果律に縁を結びつけたように。」
「難しいことは分からんが、とにかくその意味のある偶然って奴だ。ワシが今まさにその上村組のことを考えていた。密かに内偵している事件の鍵を握っているのがその上村組なんだ。」
「へー、そいつは面白い。幸子、晴海、洋介、そしてお前が、偶然にも上村組で繋がった。単なる偶然の一致として片付けるわけにはいかないかもしれない。」
「以前お前も言ってたじゃないか。お前は仕事で悩んで資料室で文献を探していた。その時、偶然、棚から資料を落とした。落ちた文献の開いたページに、その解決の糸口が書いてあったって、そう言ったじゃないか。実は、ワシも何度も捜査で同じような経験をしている。そんな時に限って難事件が解決するんだ。」
「ああ、その話は覚えている。面白い。確かに何かがあるのかもしれない。」
「うん。久々にやる気になった。徹底的に洗ってやる。」
「ああ、その意気だ。これだけ狭い人間関係が一点に収斂された。何かがあることは確かだな。」
電話を切ってからも興奮は収まらなかった。密かに内偵していたのは、石神井の捜査本部に入る前の話だ。その事件は上司の横槍が入り、やる気をなくして放り投げた。それが駒田等に対抗するため、その事件に関わるブツを入手する必要に迫られたのだ。
そのブツには、警察庁キャリアのスキャンダルの核心が隠されている。それを握っているのが上村組なのだ。それが石田、榊原、幸子、晴海とその恋人洋介、それぞれが繋がった。何かがあることはまず間違いない。
その日、池袋署マル暴の知の知り合いに連絡をとり、上村組に同行してもらう手筈をとった。翌日、朝出勤すると、机にメモが置いてあった。捜査四課長、高嶋からの伝言で、今日、7時に新宿の例のバーで待つと書いてあった。そのメモを丸めてゴミ箱に放り投げ、お茶を一口すすって席を立った。
有楽町線で池袋向かった。昨夜はつい飲みすぎてしまい、アルコールが少し残っている。二日酔いと言うほどではないが頭が重い。幸い通勤時間を過ぎており、席に座ることができた。瞼を閉じ、うつらうつらして目を開けるといきなり池袋に着いている。
待ち合わせの場所は東口駅前の交番だ。中を覗くと、眠そうな目をした中畑がお茶を飲みながら、制服警官とおしゃべりに興じている。どうやら中畑も二日酔いらしい。相変わらずヤクザと見まごうばかりだ。肉厚なボディに角刈り、腕には金のブレスレットが光る。
外の榊原に気付いて手で中に入れと指示していたが、榊原が首を縦に振らないものだから、ごそごそと立ちあがって外に出てきた。身長175センチの榊原も見上げるような大男だ。しかし、その声は少しトーンが高い。
「二日酔いなんだ。そんな俺を朝っぱらから働かそうってわけか。」
「ワシも二日酔いだ。それにもう10時過ぎている。親分さんも、もうご出勤だろう。」
「しょうがねえな。でも、昨日も言ったけど、上村組なら本庁に行った坂本辰夫のほうが顔は利く。俺なんてまだ日が浅いし、あいつに頼んだほうがいいと思うんだが。」
「ああ、坂本警部殿か。そうかもしれん。だけどワシはあいつは好かん。」
にやりと笑って中畑が吐き捨てるように言った。
「ああ、胡散臭い男だ。ヤクザの上前をはねるよな奴さ。そんな奴が警部試験に合格して、本庁にご栄転とは警視庁も腐ったもんだ、まったく。」
榊原は聞こえないふりをしていたのだが、中畑の鋭い人物評価に思わず頷いてしまった。坂本警部は池袋署にいた頃から上村組との黒い噂が絶えなかった。榊原の妄想が暴走する。坂本は上村組が関わったあの殺人事件のもみ消しに動いたのではないか。
豊島区役所に向かう道から右に折れると狭い路地がある。その路地の両側には飲み屋、ピンサロ、韓国エステなどが軒を連ねて、どぎつい看板が立ち並ぶ。さすがに客引きの姿はないが、夜ともなれば彼らの口からそのものずばりの口説き文句が飛びだすのだろう。「旦那、一発抜きませんか」などと。
上村組のビルは奥まった路地の一角にあった。地上5階建て、一階は駐車場になっており、黒塗りのベンツの他、5台の車が止めてある。ビルの横に階段があり、そこを上りきると分厚そうな鉄のドアがデンと構えている。監視カメラが二人を追って動く。
中畑がブザーを押すと、すぐに扉は開かれた。若い男が立って、「どうぞ」と頭を下げて中に招き入れた。中畑は「どうも、どうも」と例の高いトーンで言葉を発し、勝手知ったる我が家に上がるがごとくずかずかと奥へと進んで行く。
6人程の若い衆が立ちあがり、腰を直角に曲げて挨拶する。中畑の「どうもどうも」が繰り返され、奥のエレベータに近づいていった。先ほどドアを開けてくれた若者が二人を追い越し、先回りして、エレベータのボタンを押した。
エレベータに乗り込み、入り口の方をみると右手の応接に男が座っており、二人を窺っている様子だ。写真でしか見ていないが、例の男に違いなかった。エレベータのドアが閉まると、榊原が口を開いた。
「目つきは鋭いが、随分と礼儀正しいヤクザじゃねえか。まして、いかにもヤクザってな格好はしていない。」
「ああ、上村の方針らしい。これからのヤクザのシノギは一目でヤクザでございってな格好でやるような単純なものじゃ駄目だと言っているらしい。」
「確かに紳士然とした奴が、突然ヤクザに豹変したほうが、素人には恐怖を与える。」
エレベーターのドアが開き、前には大理石の壁が立ちはだかっている。右手にドアがあり、そのドアが開かれ、男が顔を出した。「どうぞ」と言うと、中に消えた。
ドアを抜けると、右手に受け付カウンターはあるが受付嬢の姿はない。左手にあるドアが少し開いており、そこから入れということらしい。中に入ると部屋は20畳ほどの広さで、真中に皮張りの豪華な応接ソファが置いてある。既にコヒーが用意されていた。
榊原は上村組長の前のソファにどっかりと腰を据えると、開口一番その印象を伝えた。
「テキヤの親分さんの事務所と言うより、一流企業の社長室といった分囲気ですな、いや、ご立派ご立派。」
にっこりと笑い、上村が答えた。
「有難うございます。みなさんそうおしゃいます。中畑さんが、ここの方がいいと仰るものですから。何故、新宿の事務所ではいけなかったのですか。」
上村組長は新宿にやはり10階建てのビルを所有し、上村興業㈱の看板を掲げている。傘下に入る五つの会社の親会社である。中畑が答えた。
「企業人の上村社長じゃなく、テキヤの親分の上村組長に話があったんだ。」
上村は鷹揚に何度も頷いて、視線を榊原に戻した。
年齢は榊原より2歳上と聞いていたが、50歳を越えているように見える。鼻梁が曲がっており、喧嘩に明け暮れたという昔の名残なのだろう。眉が太く、眼光は鋭い。中畑に負けないほどの体躯を前に傾けながら座り直した。榊原が付け加える。
「それに、神農と天照を祭った神棚もない。」
上村が笑いながら、それに答えた。
「実は、昔ながらの組長室はこの下、三階にあるんですよ。もともとテキヤ出身ですから伝統は重んじますので、そこにはその神棚も飾ってあります。ここは、いわゆるビジネスのためのスペースです。」
「そうそう、自己紹介が遅れた。中畑がなかなか紹介してくれないから。」
横を見ると、中畑は瞼をようやく開けている状態で、それどころではないらしい。
「ワシは警視庁捜査一課の榊原だ。以後お見知り置きを。」
こう言って少し腰を上げて挨拶した。上村も同様の仕草で応えた。
「さっそくですが、組長さん。ちょっと頼まれてほしいんだ。たいしたことじゃない。ある若者の無礼を許してもらいたいんだ。」
「そう言われても、なんのことやら。」
「実は二週間前、或若者が男の新聞を盗んだ。ただの新聞じゃない。中にMDが挟みこまれていたそうだ。」
植村がきょとんとした顔で聞き返す。
「そのMDってのは何です?」
「フロピーディスクの進化したやつで、10センチくらいの円盤に情報がぎっしり詰まっている」
「どんな情報だったんです?」
「さあ、分からん。何か重要なものだっただろう。おたくの幹部が拳銃をちらつかせてその若者を追いかけたんだから。」
「榊原さん、それは本当の話ですか。だいちMDなんてうちが関係するような話じゃない。」
「いや、追いかけたのは確かにお宅の組員だよ。飯島敏明、あんたの弟が社長をやってるレディースクレジットウエムラの専務さんだ。さっきちらっと見たぞ、2階で。」
組長は立ちあがり、内線電話を掛けた。飯島を呼んだのだ。暫く無言で向き合っていると、ドアが開き背の高い男が入って来た。ゆっくりと歩いて組長の前に佇んだ。渋い二枚目といったところだ。
「お前、二週間前、モデルガンちらつかせて若い男を追いかけたって?」
こう言いながら、榊原に笑いかけた。榊原も苦笑いを浮かべている。
「はい、知り合いが大事な鞄を盗まれたって聞きまして、そいつの人相風体を聞いて追いかけました。」
「刑事さんは鞄じゃなく、MDだと言っている。」
「MDって何です。」
「何でもいい、少なくとも鞄じゃない。」
「まあ、何であろうと、頼まれたもんで盗まれたものを取り戻そうとしたわけです。」
上村が向き直って榊原に言った。
「ということらしい。」
「なるほど、しかし、その若者は反省している。MDを返したいと言っている。許してやってくれんか?」
榊原は飯島に向かって言ったのだが、飯島は無視している。組長が間に入った。
「どうなんだ、飯島。お前の知り合いは何と言っている。」
「さあ、分かりません。あれ以来会っていませんから。」
「それじゃ、いますぐ連絡してみろ。」
飯島は携帯を取り出すと、静かな声で話し出した。要領よく説明するところをみると、それなりに頭は良さそうだ。「はい、はい、」と短く答える声だけが響く。榊原は組長を観察していた。
間違いなくこの組長も電話の相手を知っている。見ず知らずの男に自分の組員が命令されるのを無視することなど絶対あり得ない。広い事務所に飯島のきっぱりとした声が響く。
「分かりました。そのように伝えます。」
こう言って、携帯を胸にしまうと組長に向かって言った。
「MDを返してくれるのであれば、問題にしないと言っています。告訴も考えていたようですが、取り下げてもよいとのことです。」
上村は鷹揚に頷くと、榊原に向き直った。
「こんなことでいかがでしょうか。」
榊原は、にやりと微笑みポケットからMDを取り出すと机の上に置いた。飯島の視線が揺れるのを飯島は見逃さなかった。飯島がゆったりと口を開いた。
「刑事さん、確認して置きたいんだが、まさかコピーなどしてないだろうな。先方さんはある企業の重役だ。もしこの情報が外に漏れると大変なことになる。つまり、あの若造のとった行動は窃盗だ。あんたは、その窃盗の告訴を取り下げることを条件にバーター取引を申し込んでいるんだ。本来刑事が関わるべきことじゃねえ。」
「コピーなんかしていねえよ。それに、バータ取引なんて言うが、若者の将来を考えて情状酌量ってこともあるだろう。」
「いや違うね、告発すれば刑事事件になる。あんたはその当事者ではなく、ヤクザの組長に、その取り下げをお願いに来ている。問題じゃないかね。」
「しかし、まだ告訴したわけじゃないだろう。」
眠っていると思った中畑が突然声をあげた。
「うるせいな。眠ってもいられねえ。おい、飯島、いいかげんにしろよ。この榊原って刑事は信用の置ける人間だと組長に言ってある。だからこうして会っている。榊原さんが、やってないと言えば確実にやってない。お前が、ここでごたくを並べてどうする。えっ、組長の面子はどうなる。」
二人は睨み合った。先に視線をはずしたのは飯島だ。上村組長が引き継いだ。
「まあ、そういうことだ。榊原さんがコピーしていないと言っているんだ。俺は信用している。中畑さんがそうおっしゃっているんだ。お前はもういい、下がってろ。」
不承不承といった面持ちで、飯島はドアに向かった。中畑がさっと立ちあがり、組長に長々とお礼の口上を述べ立てた。まるでヤクザの仁義みたいだ。笑いを噛み殺していたが、頭を下げるタイミングだけは中畑に合わせた。
外に出ると、中畑は開口一番榊原に言った。
「どうせ、コピーとってあるんだろう。」
「いや、若者の将来がかかっているし、仁義に背いくわけにはいかん。だから、コピーはとっていない。」
「そいつは榊原さん、正解だぜ。奴らと付き合うには仁義を守ることが一番だ。」
二人は駅に向かって歩いた。実を言えばコピーはとってある。上村組に関する情報は何でも欲しかったからだ。しかし、石田も、さらにモンスターでさえMDの暗号は全く手に負えなかったのだ。
警視庁の公安に持ちこめば、その手の暗号解読の部署があり、そこに頼めばよいのだが、刑事課と公安課は全く接触がなく頼む伝手もない。やはり、あの人を通じて頼むしかないかもしれない。
今日、行くつもりはなかったが、キャリアで信頼でき、しかもコネクションがあるのはあの男ぐらいだ。石田にキャリア批判をぐだぐだと話している時も、この男のことが頭に引っかかっていた。友人としてここ数年つき合ってきたのだ。
その友人とは、今日、新宿に榊原を呼び出した高嶋四課長である。CDを解読するには高嶋の手を借りるしかない。高嶋が小川総務部長を慌てさせたあの一件で呼び出しをかけたことは分かっている。榊原は憂鬱な気分で歩いた。
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