戯画(カリカチュア)
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前編
戯画(カリカチュア)
宇宙暦799年、新帝国暦1年6月。ラインハルト・フォン・ローエングラムの即位に伴い、新銀河帝国ローエングラム王朝が樹立された。同時に、臣下への恩赦として一階級の昇進と休暇が下賜されることとなり、ラインハルトの重臣たちも、交代で一週間の休暇を取った。例外として、新体制への移行作業に追われる軍務尚書のみが休暇の返上を願い出ており、ラインハルトは一瞬鼻白んだものの、元より自身が休暇を取る習慣もなかったため、あえて何も言わず諾と応じた。
パウル・フォン・オーベルシュタインは、真新しい元帥の軍服を着用し、グレーのマントをいささか鬱陶しそうに靡かせて、執務室へと向かっていた。同行しているアントン・フェルナー准将は軍務省官房長官に任用され、早くも「軍務尚書の部下」として頭角を現していた。
「フェルナー准将」
オーベルシュタインは常の彼らしく、極めて事務的に部下の名を呼んだ。
「卿が最後だ」
「……は?」
軍務尚書のほとんどの発言は、極めて理知的に理論的に構築されている、というのが周知の事実だった。しかしながらフェルナーと一対一の場合において、しばしばこのように唐突な言葉を吐くことがある。それはフェルナーにある程度の信頼を置いているということもさることながら、いちいち理詰めで説明しなくとも、その優秀な部下に自分の真意を読み取る能力を認めているということでもあった。しかしながら今回の場合は、明らかにオーベルシュタインの言葉が足らなかったようだ。彼は歩みを止めぬまま、不足した言葉を言い添えた。
「休暇の申請だ。軍務省内でも交代して休暇を賜るようにと、通知を出したはずだ。上官が休みを取らねば、部下も休暇を取りづらいと言ったのは、卿ではなかったか」
そう言って、数枚一綴りになった書類をフェルナーに手渡した。三ヵ月分のカレンダーを縦軸とし、横軸には軍務省の部下たちの氏名が記されていた。各員がこの表の休暇希望日に丸印をつけるという、非公式な書類である。希望日の集中を防ぎ、職務に支障をきたすことのないよう考案されたものだ。端的に言えば「みんなのおやすみ一覧表」である。フェルナー准将の欄には、確かに希望日が記されていなかった。
「小官が申し上げたのは、尚書閣下ご自身のことです。軍務省の長たる閣下が休暇を返上されるというのなら、小官もそれに倣うまでですが」
フェルナーは分かっていた。彼の上官は、こういった論法を嫌う。
「卿の休暇の責任を押し付けられるとは、甚だ心外だ。卿らしくもない」
軍務尚書の言は、正にその通りであった。もちろんフェルナーにとっても予想通りの回答であり、彼はしたり顔で笑った。
「失礼しました、閣下。小官の休暇に一日お付き合い頂けるのでしたら、私も休暇申請を出すとしましょう」
無論これは彼の冗談であり、彼流の気の遣い方でもあった。軍務尚書は定評のある冷たい口調で「無用だ」と言い捨てると、執務室へと消えていった。
「それで……」
フェルナー准将は、突然の来客に目を覚ます形となった。来客と言うより、奇襲だ。
「か、閣下!」
午前5時半。休日には早すぎる上官の襲撃に、フェルナーはTシャツ姿のままインターホンに応じていた。
「なんだ、まだ寝ていたのか。『明日は早くから並びますよ』と、卿は言っていなかったか」
「確かに申し上げましたが……とにかく、少しお待ち下さい」
フェルナーは慌てて寝室へ駆け込むと、用意してあった私服に着替え、玄関のドアを開けた。8月も下旬、ようやく省内の職務も落ち着いてきたところで、結果的にフェルナーの誘いに乗る形となって、軍務尚書オーベルシュタインは一日だけ休暇を取った。今日一日は、グスマン少将が悲鳴を上げながら軍務省内を駆け回ることになるであろう。
「それで、とっておきの肉屋とやらは、どこにあるのだ、フェルナー」
オーベルシュタインは派手すぎないシャツにスラックスという姿で、部下の官舎へ訪れた。フェルナーは上官に休暇を取らせるために、少なからず苦心した。その口説き文句が、「とっておきの肉屋があるんです。帝都では珍しい、養鶏場を持っている肉屋で、そこの鶏肉はすごくうまいんですよ。閣下のご愛犬にいかがですか?」だったのである。軍務尚書がまだ総参謀長だった頃、元帥府の前で犬を拾ったという話は有名で、その犬が、柔らかく煮た鶏肉しか食さないというのも、諸提督間だけでなく部下たちにまで知れ渡っていたのだった。
「閣下、さすがにまだ、店は開いていませんよ」
フェルナーが欠伸を堪えてそう言うと、オーベルシュタインはフッと笑みを浮かべた。
「そうであろうな」
畜生。フェルナーは独りごちた。本当はフェルナー自身が、軍務尚書の寝こみを襲おうと思っていたのだ。そのために、彼の休日の起床時間まで調べ上げていたのに、どうやら、完全に読まれていたようだ。仕方ない。どうあれ上官に休みを取らせることには成功したのだから、こんな誤算などいくらあっても良い。
「とにかく今から出ても仕方ありません。うまいコーヒーを淹れますよ。豆にはこだわっている方なので、閣下のお口にも合うと思いますが」
「……いただこう。代わりと言っては何だが、朝食を買ってきた」
隠すように後ろ手に持っていたファーストフードの袋を、オーベルシュタインは掲げて見せた。
「閣下が、これを……?」
「無論だ。何を驚く?」
「いえ……確認したまでです」
この上官のことだ。おそらく友も連れず、単身でファーストフード店へ寄ったに違いない。軍服を脱いだ軍務尚書は、人目を引くような非凡な容姿ではないから、帝国の一臣民になり得るだろう。ともあれオーベルシュタインをリビングへ招じ入れ、フェルナーは挽きたてのコーヒーに湯を注いだ。リビングとはいえ、大邸宅ではなく官舎である。対面式のキッチンから、オーベルシュタインの座るソファは良く見えていた。いつにない位置関係に、フェルナーは違和感を覚えた。そしてそれはどうやら、上官も一緒だったようだ。
「卿が台所に立つ姿を見ようとはな。ふむ、良い香りだ」
日頃から、少なくとも勤務時間内に飲み物の好みなどを口にしないオーベルシュタインであったが、どうやらコーヒーを嫌っている様子はないようだ。
「冷やかさないで下さいよ。私だって気恥ずかしいんですから」
そう言いながら、二人分のコーヒーをリビングのテーブルに置いた。
「そういえば、閣下はいつもミルクを入れていましたね」
砂糖を入れるところを見たことはないが、確か休憩時に飲むコーヒーには、高級そうなミルクを注いでいた。
「いや、これは入れずとも良い。軍務省のインスタントは、ミルクでも入れねば飲めたものではないからな」
「確かに、うまいとは言いかねる代物ですね」
「ああ。この挽きたてのコーヒーならば、存分に香りも味も楽しめるのだがな。……さて、朝食だが。卿はいつも、ベーコンレタスバーガーだったな」
オーベルシュタインは細長い指で袋を開封し、フェルナーの前にバーガーとポテトを置いた。
「はぁ、それは間違いないんですが、閣下、良くご存じで」
言うまでもなく、オーベルシュタインはフェルナーの上官である。部下であるフェルナーが軽食の買い物に出ることはあるにしても、オーベルシュタインが部下の飲食物を買う機会は、普通ない。執務室で軽食をかじりながら共に仕事をすることはあるが……。
「店頭の写真に、卿がいつも食べているものと似たものを見つけたのだ」
「はあ……」
さすがの観察眼としか言いようがなかった。もしかするとその義眼には、記録保存機能でもついているのかもしれない。オーベルシュタインはその半白の前髪を軽く掻き上げて、自分の朝食を取り出した。かくして軍務省の要人2名は、休日の朝を芳醇なコーヒーの香りとともにスタートさせたのだ。
「閣下は、フィッシュ・アンド・チップスだけでよろしいのですか?」
痩身で長身な上官は、ソファにゆるく腰掛け、その長い脚を組んで朝食を摂っていた。歩きながらでも気軽に食べられるフィッシュ・アンド・チップスの人気は、銀河帝国でも揺るぎないものである。しかし、主食にするには少々手軽すぎると言えよう。しかし彼の上官は、薄い唇の動きをいったん止めると、「たまには良かろう」と一言呟いて、コーヒーを口に含んだ。
「昼食は私の馴染みの店を予約してある。せいぜい空腹にしておいてくれ」
「ほお、それは楽しみです。……閣下にも、馴染みの店なんてあるんですね」
「……どういった意味かな?」
「いえ、お気になさらないよう、お願い致します」
「そうか」と独りごちるように言い捨てて、オーベルシュタインは朝食を続けた。若い男性の一人暮らしにしては、部屋が清潔に保たれているとか、観葉植物を置いているとは意外だとか、軍務尚書はその義眼で彼の若い部下の生活ぶりを観察しては、ぽつりぽつりと感想を述べた。その口ぶりと表情は、いつもの冷徹無比な様子と変わらなかったが、いつになく饒舌で心もちリラックスした姿勢を見るにつけ、フェルナーは今日一日の休暇の重要さを感じた。
「さて、もう1時間もすれば肉屋も開きますよ。そろそろ出発するとしましょう、閣下」
フェルナーがファーストフードの紙くずを屑かごに放り込みながら言うと、オーベルシュタインも立ち上がって、コーヒーカップを持ち上げキッチンへ向かった。
「か、閣下。そんなことは小官が!……あっそ、そこへ置いておいて下さい。後で洗いますから!」
オーベルシュタインは自分自身、部下へも同僚へも、そして上官である皇帝ラインハルトに対しても、辛辣で容赦ないことを自覚している。その彼に対し、可能な限り先端を丸めた針でつつくということを、これまた容赦なく日常とするフェルナーが、大声を上げて慌てている様子は、彼にとってなかなか滑稽で痛快であった。彼は笑みがこぼれるのを押さえながら、
「構わぬ。お茶やコーヒーはすぐに洗わぬとカップに色が残るし、この程度の手間を惜しむようでは、軍務省の仕事など到底務まらぬ」
と、手早く二人分のカップを洗い、水切り籠に置いてしまった。ポケットから取り出したハンカチでさっと手を拭くと、日頃動揺の色など見せない部下の唖然とした顔を見やって、玄関へと促した。
「行くとしようか。表に、私の乗ってきた地上車が置いてある」
その肉屋は、評判にたがわず開店前から数人の客が並んでいた。
「ほお、これは期待できそうだな」
二人は地上車を近くのパーキングに入れると、列の最後尾に並んだ。本来ならばオーベルシュタインほどの国の重鎮。建国の元勲と言って良い人物である。正体を明かせば列の最前列に入れることはおろか、オープン前の店をも開けてしまうであろう。しかしフェルナーには良く分かっていた。彼はそういった特権を振りかざすを是とはしない。というより、新帝国の重鎮たちは皆、そのような悪しき旧帝国貴族の権力体制をこそ憎んでいるのである。かくして、帝国元帥が開店前の肉屋に並ぶという、珍妙な光景が誕生した。彼の地位職責を知る者が通りかかれば、飼い犬一つでも噂になる彼であるから、たちまち巷間の流言に乗せられ、首都全域に広まることであろう。
彼らが並び始めて30分もしたころ、ようやくお目当ての肉屋はシャッターを開けた。メインの鶏肉以外にも、牛、豚、羊など、肉屋らしい商品が並ぶ。数分して彼らの番が訪れ、オーベルシュタインは鶏もも肉を2kgとむね肉を1kg注文した。
「そうだ、あれも買っておこうか……」
オーベルシュタインが一品注文を追加すると、肉屋の主人は笑顔になって、その大きな品物を手早く包んでくれた。フェルナーは列から抜けて、車を準備してその様子を眺めていた。しかし、噂通りの愛犬家ぶりだなと、癖のある銀髪の部下は、心の中で作戦の成功をほくそ笑んだ。自分のための休暇は必要としないが、愛犬のためには貴重な一日を惜しまない。あの冷徹な男に愛されている存在が、どんな姿をしているのか、見てみたいものだな。彼は噂に聞く老いたダルマチアンを想像して呟いたが、この考察は、実は的を射ていない。彼の上官は確かに愛犬の餌のために休暇を使ったが、もとより休暇など取らず、仕事帰りに店の場所さえフェルナーから聞き出せばよいことなのである。オーベルシュタインはこのアクの強い不遜な部下に、彼の私人としての時間を共有するに足る何かを見出していたということであろう。
「買い物は終わった、フェルナー准将」
買い物袋を後部座席に置くと、軍務尚書は自ら助手席のドアを開け、乗り込んだ。最後に注文した袋だけ、地上車の保冷ボックスにしまうと、端的に指示を下した。
「いったん私邸へ寄ってもらおうか。肉を冷凍室に入れねばならぬ」
「かしこまりました」
新銀河帝国軍の高級将校たちを乗せた地上車は、こうして一路オーベルシュタイン邸へと向かった。
(つづく)
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