失われし記憶、追憶の日々【精霊使いの剣舞編】
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第九話「魔精霊は顎」
巨大な顎。それが突如、空から現れた。
虚空に浮かぶ顎は頭部も頚部も胴体もない。ただ顎だけが空に浮かび、ズラリと並んだ鋭い歯をガチガチと鳴らしている。
「魔精霊か……まさかこんな場所で目にするとはな」
魔精霊は精神構造の在り方が人間とあまりに異なるため、精霊使いは決して手懐けることができないとされている異形の精霊だ。
「魔精霊がなんでこんなところに……?」
俺の声に訝しげに首をかしげるクレア。
ヴォ……ルォォオオオオォン――――!
魔精霊の耳をつんざくような咆哮に身をすくめるクレアたち。その威圧感は凄まじく、距離があるにも関わらず、感じられる神威は魔神級の精霊に匹敵する。
しかも、見たところ発狂しているようだ。魔精霊でも手に負えない精霊と交戦して逃げてきたのか、それとも――。
「エリス、一先ずは決闘は中止だ。クレアとリンスレットもそれでいいな?」
「ああ」
「わかったわ」
「ええ」
俺の言葉に素直に頷いた。あの精霊の危険性はこの場の全員が理解しているのだろう。いつの間にかリンスレットの後ろにはキャロルが控えていた。
「避難するぞ。殿は私が務める、君たちは気絶した二人を運んでくれ」
風翼の槍を構えたエリスが前に出た。
「いや、殿は俺がやろう。あれは並の精霊使いがどうこうできるものではない。それに、今の君では荷が重いだろう」
悠然と槍を構えてはいるが先程の戦闘でのダメージがあるため、その手は細かく震えていた。
エリスも自覚はあるのか大人しく後ろに下がった。
「……すまない」
「なに、適材適所だ。君が気に病む必要はない」
長剣の切っ先を下に向け、下段で構える。虚空に浮かぶ阿木とは森の木々を薙ぎ倒し、古代の遺跡を粉々に噛み砕いた。
リンスレットが口笛を吹き、白狼の姿となったフェンリルが気絶したレイシアとラッカを背に乗せてやってきた。
「決まりですわね。ここはリシャルト様にまかせて、急ぎますわよ!――クレア、なにをぼーっと突っ立ってますの!」
リンスレットがクレアの裾を引っ張る。それまで俯いて何かを考え込んでいたクレアが突然、顔を上げた。
「リシャルト、殿はあたしが務めるわ」
「なに?」
驚く俺を余所にクレアは革鞭を鳴らしてスカーレットを呼び寄せた。
クレアの紅い瞳は爛々と輝き、夜空に浮かぶ魔精霊に釘付けとなっている。
――魅入られたか。
俺は静かに隣のクラスメイトに問いかけた。
「あれを契約精霊にするつもりか?」
「……」
「相手は魔精霊、それも狂乱している。無茶なのは君も承知しているだろう?」
「……千載一遇のチャンスなのよ」
唇をきゅっと髪、思いつめた表情で呟く。
「〈精霊の森〉であれほどの精霊と遭遇することなんてまずないわ。それに、過去に魔精霊と契約を交わした精霊使いもいなかったわけじゃない」
「グレイワースの婆さんか?あの人は例外だ」
「あたしも素質があるかもしれないわ」
「だとしても、今の君では確実に失敗するだろう。それも死に至る」
クレアは俺をキッと睨みつけた。
「アンタにあたしの何がわかるのよ! あたしが強い精霊を求める理由、言ったでしょ?」
「ああ、聞いた。君が《精霊剣舞際》に出場しなければならないことも、現段階でチームメイトがまだ一人もいないことも承知している」
そう言うと、クレアは驚愕で目を見張った。
「どうして――」
「知っているか、か? 見れば分かる。教室では君に近づこうとする者は極一部を除いて誰もいない。リンスレットとは犬猿の仲だからチームに入ることはまず無理だろう。お互いプライドが高いからな」
《精霊剣舞祭》は団体戦だ。五人集まらなければエントリーも出来ない。まだ一人もチームメイトがいない現状を鑑みれば、焦るのも仕方のないことだが。
「君にはスカーレットがいるじゃないか。それとも君の契約精霊になにか不満でも?」
「うるさいわねっ、不満なんてないわよ! でも、あたしには強い精霊が必要なのよ! あたしから封印精霊を横取りしたアンタにとやかく言う資格があるの?」
痛いところを突かれ口を噤む。クレアはばつが悪そうに、ふいっと目を逸らした。
「とにかく、あれはあたし一人でやるわ。あんたたちは逃げなさい」
「クレア・ルージュ、君は――」
「エリス、あんたは皆を守ってやって。考えたくないけど、もしあたしが――」
クレアはその先を口にしなかった。
「――スカーレット!」
相棒の契約精霊の名を呼び、森を食い散らかす魔精霊に向かって駆け出した。
「クレア!」
慌てて手を伸ばすが、すでにクレアは魔精霊の元に向かっていた。
魔精霊が咆哮し、衝撃の塊を叩きつける。辺りの木々が根こそぎ吹き飛んだ。
「くっ、――一重二重と重なり我が身を守れ、彼の者我を討つことあたわず!〈多重障壁〉展開!」
「風よ、我らに加護の手を――風絶障壁!」
エリスが張った障壁の上から俺の障壁を被せ、背後にいた全員を守る。
吹き付ける風から身を守りながら、クレアの姿を目で追った。
クレアは舞い散る火の粉のように空を舞っていた。その右手には炎の鞭が握られ、燃え盛る紅蓮の斬線が闇夜に一筋の軌跡を残す。
クレアは危な気なく地面に着地すると、木々の隙間を縫うようにして魔精霊に接近した。
だめだ、これではいずれ負ける。
俺の見る限り、クレア・ルージュという少女は少なくとも、こと戦闘においては冷静な判断と戦術眼を兼ね揃えている。
しかし、今の彼女は姉であるルビア・エルステインへの想いが先走り、冷静な判断が降せていない。これでは先が見えたも同然だ。
「しぶといわねっ、いい加減、あたしのものになりなさい!」
炎の鞭が夜の闇を舞い、紅いツインテールが闇夜を踊る。
その光景に、思わず目が釘付けになった。
――綺麗だ……。
これが、彼女の――クレア・ルージュの剣舞か。なんと流麗にして優美。夜の闇を炎の軌跡が走り、華麗に舞うその姿に俺は言葉を失った。暴走するエストに一人で立ち向かった時の姿を彷彿させた。
「まったく……本当に困ったものだ」
無謀と勇猛は違うというに。
「エリス、リンスレット。あとは任せた」
「行くのか?」
「ああ、どうやら俺は自分でも思っていた以上にあいつを気に入っているらしい。あのはねっ返りのお嬢さんを助けてやらないとな」
「気を付けてくださいましね」
後ろ手に手を振り、駆け出した。
紅蓮の炎が魔精霊と剣舞を踊っている。
あの焔は消してはいけない。あいつを死なせてはいけない。
なぜなら俺は――、
「あいつのパートナーなのだから!」
オォォオオオン――!
魔精霊の咆哮がクレアを襲い、地面に叩きつけた。
「――クレア!」
† † †
「……あ……ああ、あ……」
地面に叩きつけられたクレアはヒッと身を竦ませた。
目の前には異形な精霊がガチガチと歯を鳴らして迫っている。
それは、まるでクレアを嗤っているかのように見えた。
逃げようとするが、足に力が入らない。
今更ながら恐怖がドッと押し寄せてきた。戦っている間は感覚が麻痺していた、でも今は――、
「あ、あんたなんか、怖くなんかないんだから……っ、あ、あたしの下僕になりなさいよね!」
その罵声に反応したのか、精霊が哄笑の声を上げる。
クレアは身を震わせ、思わず目を閉じた。身体の底から震えが生じ、歯の音が噛み合わない。得体の知れないものへの本能的な恐怖がクレアを縛っていた。
――と、そのとき、クレアの火の鞭が忽然と姿を消した。
スカーレットがクレアの意志に逆らい自発的に精霊魔装を解いたのだ。
火猫の姿となったスカーレットをクレアが絶望的な目で見る。
「スカーレット!? どうして……」
ついに自分の契約精霊にまで見放されてしまったか。かすれた声で契約精霊の名を呟くクレアを一瞥し、スカーレットは低い唸り声を上げて、地を蹴って跳び上がった。
「……っ、だめっ――スカーレット!」
その瞬間、クレアはようやく悟った。しかし、スカーレットは主の声を振り切り、真っ直ぐ魔精霊の元へ駆け、襲い掛かった。
鋼鉄さえも溶かす灼熱の炎。しかし、魔精霊には通用しなかった。
凶悪な顎が開口し、火猫の胴体を容赦なく噛み砕く。
「……あ……スカーレッ……ト」
噛み砕かれたスカーレットは断末魔の悲鳴を上げ、渦を巻くように虚空に消えた。
クレアはその場にへたりこんだ。
理性では逃げろと訴えているが足が小刻みに震えて言うことを聞かない。
あたしのせいで、スカーレットが……。
焔の消えた虚ろな双眸に涙が溢れた。
……あたし、馬鹿だ。リシャルトが止めてくれたのに。勝てもしないのに、一人で突っ込んで。
そして、無様に敗北した。
「……なによ、自業自得じゃないの……」
その上、家族のように大切にしていた契約精霊までも失った。救い様のない馬鹿――。
魔精霊がガチガチと歯を鳴らしながらゆっくりと近づいてくる。スカーレットを食いちぎったばかりの、その禍々しい牙で。
「いや……だ……」
涙が頬を伝い、地面に落ちていく。喉の奥からひきつった声が洩れた。
「助けて……助けて、姉様!」
絶望に目を閉じた、その時。
「クレアっ」
アイツの声が聞こえた。
† † †
今にもクレアを食い殺そうとしている魔精霊を見て、一気にスピードを上げた。
夕凪流活殺術奥義――跳躍瞬動!
瞬動のその先、空間を飛び越える歩術を用いて一息でクレアとの間に割って入った。
地面を蹴って、魔精霊よりも高く飛び上がる。長剣の柄から離した片手で拳を握り締め、天高く振り上げた。
「夕凪流活殺術枝技――真地・鉄槌打ち」
神威で筋力を強化して拳を降り下ろす。
轟音を響かせて魔精霊を地面に叩きつけた。半ば地面に埋まった魔精霊に長剣の切っ先を向ける。
弦月飛脚で急降下した俺は魔精霊の顎の中心を砕いて、剣を突き刺す。
「消え失せろ、顎」
膨大な神威を注ぐと魔精霊は膨張し、粉々に四散した。
† † †
降り始めた雨がクレアの背中を濡らしていた。俯いた顔は見えず、水滴が顎を伝い地面に落ちていく。それは雨か、涙か――、
「クレア」
「……あたしが、弱かったから」
話し掛けると、ポツリと呟いた。
「あたしが弱いから、スカーレットを守れなかった……あたしが弱いから――」
――姉様を止めることが出来なかった。
「もっと、力があれば……もっと、もっと、あたしに力があれば、こんな……」
虚ろな表情で力があればと繰り返すエリス。その徒ならぬ気配に手を伸ばそうとして、フッと視界が暗点した。
しまった、神威の過剰消費か……!
ふらっと、身体が傾き、意識が遠のく。
意識を失うその時まで、クレアの顔が頭から離れなかった。
後書き
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