ボリス=ゴドゥノフ
しおりを利用するにはログインしてください。会員登録がまだの場合はこちらから。
ページ下へ移動
第一幕その三
第一幕その三
「はい」
「明日クレムリンに来るのだ」
「クレムリンに」
「そうだ」
彼は言った。言わずと知れたモスクワの中心地であり皇帝の宮殿である。赤い巨大な城として知られている。この宮殿の中で豪壮な宴が、そして陰惨な権力闘争が行われてきた。ロシアの歴史の生き証人の一人でもある。
「よいな」
「わかりました。明日ですね」
民衆達は問う。
「そうだ、明日だ」
警吏はあえてにこりとした笑みを作って応えた。
「ご馳走は明日だ」
「明日ですよね」
「楽しみに待っておれ。よいな」
「わかりました。それじゃ」
民衆達はそれを聞いて満足した。そして解散をはじめた。
「明日になればご馳走とわし等を守って下さる方が現われる」
「何とも嬉しいことじゃ」
彼等は単純にその二つだけを喜んでいた。実はこの二つを適えてくれるのならばボリスでも誰でもよいのだ。だが今はボリスが出て来た。だから彼の即位を望むようになった。それだけのことであった。
そして次の日となった。クレムリンの中であった。クレムリンとは本来城塞という意味でありここに行政機関や教会権力の中枢、そして皇帝の私邸等が置かれていた。またここにあるウスペーンスキイ大聖堂において皇帝の戴冠式が行われる。アルハーンゲリスキイ大聖堂には歴代の君主達の棺が置かれている。ロシアの心臓であり心であるとも言える場所なのである。
そこに民衆達は呼ばれていた。先に述べた二つの聖堂の間に彼等はおり、兵士達が警護している。黒い兵士達であった。
彼等がクレムリンを守護しているのだ。
「いよいよだな」
「ああ」
民衆達はヒソヒソと話し合っていた。
「ボリス様が皇帝となられる日が来た」
昨日とは話していることが少し違っていた。
「わし等にご馳走と安全を与えて下さる方だ」
「前の皇帝様はよかったな、それは」
「おい、前の皇帝様ではないぞ」
誰かがその言葉に突っ込みを入れた。
「違ったのか?」
「前の前の皇帝様じゃ。イワン様じゃ」
「おお、そうじゃった」
彼等はそれを聞いて頷き合った。
「イワン様じゃった、すまぬ」
「タタールに対して勇敢じゃったな」
「憎い敵を殺しまくってのう。見事な方じゃった」
彼は怖れられていると同時に敬愛もされていた。狂気さえ感じられる人物であったがだからこそロシアの君主として務まったとも言えた。ここはロシアなのである。中国や西欧の君主とはまた違った君主が存在するのである。
祝賀の鐘が鳴り響く。貴族達の行列が皇帝の私邸にある赤の階段を登っていく。近衛兵を先頭にして黒い兵士達、貴族の子女達が続く。ものものしい行列にはズル賢そうな顔をした小男もいた。茶色の髪に薄い髭と狡猾な光を放つ青い目を持っている。大貴族の一人シェイスキー公爵である。彼は敷物に載せた赤い王冠を持っていた。それは金や宝玉によって飾られみらびやかな光を放っている。如何にも重そうであるがそれが何よりもロシアという国の重さを現わしているようであった。
「王冠だ」
民衆の中の誰かがそれを見て呟いた。
「王冠が入ったぞ」
「いよいよだな」
「ああ」
彼等は口々に言う。だがその言葉には特に熱意もなくただ無造作に言っているだけであった。彼等はそこにいるだけに等しかった。おそらく呼ばれなければ来なかったであろう。
「よし」
昨日の警吏がまた言った。
「ではよいな」
「はい」
民衆達は頷いた。
「声をあげよ」
「万歳」
彼等は言った。
「皇帝万歳」
やはり空虚な声であった。声は大きくともそこには心はなかった。
「ロシアの皇帝ボリスに栄光あれ」
「栄光あれ」
感情は篭ってはいなかった。それをクレムリンの奥深くで聞いている者がいた。
黒く厳しい髭に筋骨隆々の巨大な身体を持っている。髪は黒く、白いものさえなかった。顔はアジア系の血が入っていると思われるが男性的であり、目も鼻も口も大きく、しっかりしていた。その表情には威厳があり迷いは少し見ただけでは感じられなかった。だが彼はそのクレムリンの奥深くで一人上を向いて何かを見ていた。彼は毛皮を着て重厚な服をその身に纏っていた。
「陛下」
部屋の中に入って来た貴族の一人が彼に声をかけた。
「陛下か」
男はその声に顔を向けた。彼こそが今皇帝となろうとしている男ボリス=ゴドゥノフであった。
「もう私は皇帝ではないのだな」
「はい」
その貴族は恭しく答えた。
「あの民衆の声を御聞き下さい」
「民衆の」
「皆貴方を心よりお待ちしております」
「心からか」
だが彼はその声が空虚なことを見破っていた。
「おそらくは」
「おそらくは?」
「いや、何でもない」
だが彼はそれ以上言おうとはしなかった。
「では着替えよう。服を持って参れ」
「はい」
貴族はそれに従い部屋を後にした。一人になったボリスはまた上を見上げながら呟いた。
ページ上へ戻る