ボリス=ゴドゥノフ
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第五幕その五
第五幕その五
「わしがそうなるように仕向けたのではないのか?わしが皇帝になりたいばかりに」
「違います!」
「いや、そうかも知れない」
次第に声が壊れてきていた。
「わしは。醜い男なのだから。罪深い男なのだから」
そして心も。
「皇帝になる資格はなかった。わしは・・・・・・罪人なのだから」
そこまで言うとその場に崩れ落ちた。そしてうわ言の様に呟く。
「皇子を」
彼は言った。
「フェオードルを呼んで参れ」
「わかりました」
貴族の一人が頷く。そしてボリスの皇子であるフェオードルがやって来た。
「父上」
「息子よ、来たか」
ボリスは彼に顔を向けた。最早その顔は死相となっていた。
「よくぞ来た、皇帝よ」
「皇帝?」
「そうだ、今からそなたがロシアの皇帝だ」
力ない笑みと共にこう述べる。
「私が」
「そうだ、よいか」
ボリスは我が子に対して語った。
「偽皇子は手強い。まずはそれを覚えておけ」
「はい」
「そして身内の裏切りにも気をつけよ。よいな」
「わかりました」
「貴族も。軍も。彼等には目を光らせておけ」
「はい」
その貴族達、とりわけシュイスキーがいたがそれでも言った。それに構う場合ではなかったと思ったからだ。
「飢饉に疫病もある。これにも気を配れ」
「了解しました」
「偽皇子の後ろにはポーランドやリトアニアがいる。あの者達と、そしてバチカンこそが」
「最も恐るべき敵なのですね」
「タタールと同じくな。あの者達を退けよ」
「はい」
「民のことを常に案じよ。そして」
最後に父の顔になった。皇帝の顔から父の顔になった。
「そなたの姉を。クセーニャを」
彼は言った。
「護ってやってくれ。あの可哀相な娘を」
「はい」
彼は息子として、弟して頷いた。
「このフェオードル、命にかえても姉上を」
「頼むぞ。何があっても」
彼は泣いていた。
「護ってくれ。そしてそなたにも」
息子をかき抱いた、胸に強く抱き締める。
「神の御加護があらんことを。主よ、これが最後の願いです」
「父上・・・・・・」
「皇帝は自分の為に祈ってはならん。民の為に祈るのだ」
だが彼はこの時父として彼等の為に祈ったのであった。
「さすればこのロシアは・・・・・・」
一瞬意識が遠のきかけた。
「父上!」
「陛下!」
だがフェオードルと貴族達の言葉により帰って来た。だがそれが最後の力であった。
「もう終わりじゃ」
彼は青い顔でこう述べた。
「わしの罪は永久に消えはせぬ」
「いえ、それは」
「いや、わかる」
彼は息子の言葉を遮った。
「皇子はわしが殺したものではない」
「はい」
彼は最後にそれを確かなものだとわかった。
「だが死なせたのはわしだ」
「それは」
「わしは皇子が死ねばいいと心の何処かで思っていた」
そう告白する。そこに僧侶がやって来た。ピーメンとは違う僧侶である。
ロシア皇帝は言うまでもなくロシア正教会とは密接な関係にある。皇帝教皇主義をとっていたギリシア正教の流れを汲むものであるからこれは当然である。戴冠式は総主教によって王冠を授けられ、臨終の際は剃髪を受ける。そして修道僧となって死を迎える習わしであった。
「残念だが遅かったな」
ボリスはその僧侶に顔を向けて言った。
「わしはもう死ぬ。それにわしには」
声は出る度に弱くなっていっていた。
「修道僧になる資格もないのだ」
「それは」
「息子よ、聞くがいい」
彼は息子にまた顔を向けた。
「わしは野心を持っていた」
最後の懺悔であった。
「皇帝になりたいと思っていた。心の奥底でな」
「はい」
「わしこそがロシアを正しく治められると思っていた。それを否定したかったが事実じゃ」
「そして皇帝になられた」
「なりたくはないという気持ちもあった」
その目の光も弱まっていく。
「だからあの時は拒んだ」
即位の時である。
「しかし皇帝となった。じゃが罪は」
弱々しく微笑む。
「消えはしなかった。野心の罪はな」
「父上」
「さらばじゃ。新しき皇帝よ」
優しいが弱い微笑みを息子に向けた。
「わしの罪は消えはせぬ。だがそなたには」
もう声は消え入りそうであった。
「罪はない。ロシアを・・・・・・治めよ。わしの様にはなるな」
そう言い残して事切れた。ゆっくりと目を閉じ口を閉じた。これがボリスの最後であった。
「父上!」
「御臨終だ」
貴族の誰かが呟いた。
「陛下の。そして」
「ロシアの」
誰も何も言えなかった。ただそこに茫然と立ち尽くし、父の亡骸を抱いて泣くフェオードルを見ているだけであった。皇帝ボリス=ゴドゥノフは今崩御した。
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