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ボリス=ゴドゥノフ

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第五幕その一


第五幕その一

                    第五幕 崩御
 モスクワには大きな寺院が多い。それはそれだけロシア正教が栄えているのではなくロシア人が大きな建物を好むからであろうか。彼等はその大柄な身体の為か大きな建物を愛する。そしてその中に祈るのである。赤や緑の派手な外観でありそれだけでかなり目立つものがある。正式な名はパクロフスキー寺院であるがここに民衆に人気のあった修道士ワシーリィの墓がある為にこう呼ばれている。九つの丸屋があるが何処から見ても八つに見える。不思議な大聖堂である。
 聖ワシーリィ大聖堂もその中の一つである。今男達はその中で祈りを終え聖堂から出て来ていた。そして雪の降る道で何やら話し込んでいた。
「そっちはどうだい?」
 髭の濃い男が同じく髭の濃い男に声をかける。
「食い物のことかい?」
「ああ。大丈夫か?」
「大丈夫ならお恵みにありつかない筈ないだろ」
 声をかけられた男はそう返した。
「何もありゃしねえよ。家じゃかかあとガキが腹空かして泣いてらあ」
「そうか」
「木の皮とかそんなのの世話になってるさ。ったく何時までこんな有り様が続くのかね」
「さてね」
 男はその仲間に対して肩をすくめてみせた。
「何時まで続くやら。その間に俺達も飢え死にしちまいそうだな」
「かもな。それもこれも全部あいつのせいだ」
「皇帝のかい?」
「当たり前だろ。あいつが皇帝になってからろくなことがねえ」
「そうだな」
「あいつが悪さばっかりするからだ」
 仲間は忌々しげにこう述べる。彼等は飢饉等の災厄は全てボリスのせいだと思い込んでいたのである。迷信だが当時は天災は為政者のせいであると考えられたものだったのである。
「飢饉は続くしタタールの奴等は来やがる。おまけにポーランドからも何か来るそうじゃねえか」
「ああ、皇子様が生きていたってな」
 男はそれを聞いてこう述べた。
「あれ?死んだんじゃなかったのか?」
 仲間はそれを聞いて眉を顰める。
「確か。事故で」
「あれも事故じゃなかったんだよ」
 男は仲間にそう囁いた。
「事故じゃなかったって」
「ボリスの奴がな、暗殺しようとしていたらしいんだ」
「それは本当か!?」
「ああ」
 男は頷く。
「あの話は本当だったのか」
「そうさ。そしてすんでのところで逃げられてずっと今までポーランドに身を隠しておられた」
「ほう」
「そして今正統な皇位を奪い返す為にこのモスクワに向かっておられるらしい。兵を率いられてな」
「それじゃあボリスの奴はもうすぐ終わりか」
「多分な。それで奴はこれだよ」
 そう言って首をギュッと締める動作をする。
「奴が死んだら飢饉も終わりさ。何せ全部奴の悪事のせいで起こってることなんだからな」
「そうだよな。じゃあその皇子様が来られたら俺達の暮らしもずっと楽になるな」
「ああ。もう餓えなくて済む」
「ボリスには天罰が下って」
「俺達は万々歳。いいことばかりだよな」
「そうだな。楽しみに待つとしようぜ」
「皇子様がモスクワに来られるのを」
 見れば他の男達もそんな話をしていた。小声で。その小さな声が雪のモスクワに響いていた。それが何よりも今の疲弊したロシアの姿を現わしていた。暗く、寒い。今のロシアそのものであった。
 その中で子供達だけが騒いでいる。痩せ細りながらも遊ぶことだけは忘れない。彼等は元気のいい声で犬や猫を相手に遊ぶ。時には別のものを相手に遊んでいた。
「元気があるのう」
 それを見て一人の老人が呟く。
「こんな世の中でも」
「わし等も昔はああじゃったな」
 隣にいる老人がそれに応える。
「昔はな」
 老人はそれに頷いた。
「わし等の頃も色々あったが」
「今度はどうなるのかのう」
「あの子供達の中で何人生き残るか」
「わからぬのう」
 暗い話であった。彼等の目にはもう暗いものしか映らなくなっていた。そうさせているのが今のロシアであった。何もかもが暗い世界になってしまっていた。 
 その暗い世界でも子供達だけは明るかった。例えその場だけであっても。そしてその子供達の側に一人のみすぼらしい修道僧の服に司祭の帽子を被った男がやって来た。
 聖愚者であった。東方キリスト教会、とりわけロシア独特の存在である。『私達はキリストの存在故に愚かな者となり』という聖書の精神に基づく求道者であり聖なる愚者を目指している。カトリックには見られない存在である。
 ロシアには数多く存在し、貧しい中で白痴の様に修業を続ける。中には本当に白痴もいたという。その修業の結果一種の霊的完成に至り奇跡を行うとされていた。先に寺院に埋葬されたと書いたワシーリィもまた聖愚者であった。ロシア正教において聖人とされた者もおり、時にはその愚者であるという立場から恐れを知らぬとされ社会における不正や悪の告発者、批判者ともなっていた。聖人であると共に道化でもあったのだ。
 その聖愚者が歩いて来た。子供達は彼のところに集まる。
「ねえ聖愚者さん」
 彼等は声をかける。
「僕等を祝福して。帽子を脱いで」
 そう言いながら群がる。だが聖愚者はそれに応えようとはしない。そこにしゃがみ込んでしまった。
「今日も寒いな」
 彼は呟いた。
「この寒さは何時まで続くのか。これも神の思し召しか」
「ねえ聖愚者さん」
 子供達がまた声をかける。
「祝福してよ、帽子を脱いで」
 そして帽子をいじりはじめた。
 
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