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くらいくらい電子の森に・・・

作者:たにゃお
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第十三章 (1)

地下の階段を降りると、ボイラー室から這い出してきた紺野さんがトランクを提げて階段を駆け上がってくるところに出くわした。
「…姶良」
「どうしたの。捕まるよ」
事情は大体分かってたけど、念のため聞いてみた。
「…今まで、悪かったな。タクシー代出すから、お前らもう帰れ」
ぎりっと拳を握って、紺野さんは僕を避けて更に階段を上ろうとした。
「見捨てるんだ、『彼』も」
紺野さんを見ずに呟いた。トランクが、どさりと落ちる音がした。
「それに開発室の面子も、MOGMOGを信じて買ったユーザーも、全部」
「…人の命には、代えられないじゃねぇか…!!」
腹の底から、搾り出すような声だった。…流迦ちゃんの懸念は、当たった。この人は、必ず『人間的な選択』をして、自分を追い込むんだ。
「追跡の結果、聞かないの」
「…………」
「彼のノーパソを持ってた人が誰だか、見当がついたんだ」
「…………」
「流迦さんを人質にしてる烏崎、だよね」
「…何でお前が知ってる?」
僕はわざと、さりげない口調で答えた。
「流迦さんに、伝言頼まれたんだ」
「………なんだと」
「受付に烏崎が現れたのを察知したときに、自決用の毒を奥歯に仕込んだ。だから安心して、烏崎を回避してくれ…てさ」
「それを聞いてお前はどう答えたんだ!?」
「分かりました、帰って伝えますって」
「何故俺にすぐ連絡しなかった!!」
紺野さんが僕の襟首を掴んで、壁に叩きつけた。昨日の怪我とあいまって激痛が体中を駆け抜ける。駆け寄ってくる柚木を制して、僕は言葉を続けた。



「…職人が忠誠を誓うのは、自分が作り上げた『作品』だって、言ってたよね」
「それがどうした」
「紺野さんが今やろうとしてることは、職人の誇りを踏みにじることだ」
「……!!」
襟首を掴んでいた手が離れた。
「見た目は子供かもしれないけど、あの人はれっきとした職人だよ。その職人が、自分の作品をいいように蹂躙されるくらいなら死を選ぶって、断言したんだ。今彼女を助けても、多分いずれ隙を見て自滅するよ」
「あの…馬鹿は…!!」
紺野さんが顔を覆って崩れ落ちるのを見て、じんわり胸が痛んだ。…すんません、これ全部口から出まかせなんです…。
「えと…それに相手も相当焦ってるはずだ。つけ込む隙は必ずある」
「…つけ込む隙?」
紺野さんの声にかぶさるように、携帯が鳴り出した。着信には『非通知』とだけ、記されていた。



『おぅ、例のものは用意できたんだろうな』
「烏崎……!」
ぎりっと歯をかみ締める音が聞こえた。
『そいつを、隔離病棟の外来入り口に置け。そのあと、正面受付に待機している警官2人に自首しろ。武内は俺が殺しましたってな』
「……お前らがやったのか!?答えろ、あいつは…杉野はどうした!」
『そうそう、忘れるところだったぜ。…腎臓病で入院してた、杉野くんを監禁の末に死に至らしめたのも、俺です。と自白することも忘れるな。死体遺棄の場所はこれから言うからメモして正確に証言しろよ。えーと…』
「……貴様!!!」
『は、なに、いきがっちゃってんだよ?…流迦ちゃん、かぁわいいよねぇ。俺はそっちの趣味はないけど、出るとこに出れば高値で売れるだろうねぇ!…いいこと思いついたぜ。紺野、追加命令だ。この気が狂った可哀想な子を10年にわたって繰り返し強姦しましたって証言しろよ!…あはははぁあはあははは、こいつはいいや。もうやりたい放題だなお前、あはははあはぁはははは!!!』
携帯を握りつぶさんばかりに顔を紅潮させて震える紺野さんの手から、携帯をもぎとってそっと、耳にあてた。…聞こえる。あの不愉快な高笑い。
―――あの夜、柚木を侮辱した男と同じ声だ。
「えー、紺野さんお取り込み中でして、僕が対応します…はい…」
『あ!?…てめぇ、誰だ』
声のトーンが、微妙に変わった。自分の有利さを確認するように、そろり、そろりと足場を確かめるような…。僕はおどおどした声を作った。
「…えぇと…狭霧、郁夫と申します。あなたが今捕まえている、狭霧流迦の、その…身内のものです。紺野さんとは、偶然居合わせまして。…流迦ちゃんさえ無事なら、細かいことにはこだわりません。その…何だか分からないけど、受け渡しにも協力しましょう…」
叔父さんの名前を借り、身内を強調するためにあえて『流迦ちゃん』という言葉を使った。
『…ふん、まぁいい。段取りはこうだ。まずお前らがぁ、受付にブツの入った袋を置く!そして俺達のうちの1人が、袋を回収する!!そして紺野が警察に声を掛けるのを見届けたら、流迦を解放する!!…おっとっと、忘れるとこだったぜ。今から15の地名を挙げるからな、メモして紺野に渡せ』
「地名?それは一体?」
『余計なことを知る必要はない!』
「あぁあでも、大丈夫かなぁ、これ大丈夫かなぁ」
『あァ!?何だ!!』
「いや今ね、このトランク運ぶの手伝えって言われて、紺野さんと2人で運んでたんですよ。1人じゃ、とてもとても…」
『なに、そんなに重いのか』
「えぇ…1人だと大変じゃないかなー、と。…え、何ですって紺野さん?」
あっけに取られて僕のやり取りを聞いている紺野さんをちらっと見て、あたかも紺野さんの指図を受けてるように声を上ずらせる。
「…あぁ、受付にいると、データごと警察に押さえられる可能性が!?こ、紺野さん、あんた何をしたんですか!?こりゃ一体、なんのデータなんです!?」
『そ、そうか…そりゃ、まずいな』
「…まぁいいです。余計な事は聞きません。僕にいい案がありますが…一般病棟のリネン室なんてどうでしょうか。えっと…薬品棚なんかに比べると管理が甘くて見舞い客でも入れるし、トランクを隠せる布も沢山あるし。看護士さんの出入りがちょこちょこあるかも知れないけど、問題になるほどじゃないでしょう。僕たちはお互い顔を知らない方がいいでしょうから、荷物を置いたら…そうですね、流迦ちゃんの携帯に合図を送ります。取りに来てください」
『成る程、そいつは好都合だな。じゃ、頼んだぜ』
「ちょっと待った!…流迦ちゃんの声を聞かせてください!流迦ちゃんが、元気でいる声を聞かないと協力できない!!」
『…自分が人質になってることは伝えてないから、余計なことを言うなよ』
少し間をおいて、流迦ちゃんが携帯に出た。
「る…流迦ちゃん!従兄弟の郁夫だよ、大丈夫かい?痛いこととかされてないかい?」
『ううん。…八幡さんが優しいわ。八幡さんは、《いい人》よ。とっても綺麗な女の人』
「八幡さん…」
聞き覚えのある名前だった。確か、紺野さんが山奥に軟禁された時に、生贄代わりに置いていかれた新入社員、とかじゃなかったか。紺野さんに目配せすると、彼も小さく頷いた。
「八幡、志乃か…ったく、こんなことにまで巻き込まれやがって要領の悪い…!」
「分かった、八幡さんの言う事をよく聞いて、大人しくしてるんだよ」
『これで納得したか』
「えぇ。珍しく落ち着いてますね。その、八幡さんという女性の方が傍にいてくれているお陰ですね。…彼女、家族以外の男が苦手で。紺野さんには良くして頂いてるから慣れたみたいですが、よく知らない男と二人きりにされると、暴れだしたり、自傷行為に及んだりすることがあるんで、その…気をつけてください」
言い終わる前に、電話は一方的に切れた。携帯を紺野さんに差し出すと、毒気を抜かれたような顔で、おずおずと受け取った。
「…姶良、何をする気だ」
「データは渡さないし、流迦さんも取り返す。ボイラー室に戻ろう」





「今、どういう状況になってるかというと」
ルーズリーフにペンを走らせて『リネン室』『隔離病棟』『ボイラー室』と書いて○で囲み、『紺野』『烏崎』『流迦』『八幡』と、それぞれの現在位置を書く。
「僕らがデータをリネン室に置いて、流迦ちゃんの携帯に連絡すると、烏崎たちが回収する。そして、烏崎たちの監視のもと、紺野さんが自首。そこでようやく、彼女を解放する…と」
「……そうだな」
柚木も、不安げに覗き込んでくる。目が合ったときに微笑み返すと、ふいと顔を逸らされた。…これは、サークルでも『隠す方向で』かな…。
「まず向こうの人数は、昨日と変わりなければ、死んだ武内を含めて4人。だから今は3人のはず。そこで、データは重いということにして、そのうち2人をリネン室に向かわせた。…さっき、流迦ちゃんが電話口で『八幡さんという女の人は優しい』と言ってたから、八幡さんが流迦さんのもとに残るように、誘導しておいたよ。だから、この2人が回収に行ってる間は、流迦さんの周りは、その八幡さんだけだ」
「お前な……」
紺野さんが、頭を抱えた。
「俺達は隔離病棟に入れないんだぞ!周りを手薄にしたところで、どうにもならないじゃないか!」
「…ところが入れるんだな!」
カードキーの情報が入った携帯をかざすと、僕が言おうとしてたことを一瞬で察知したらしく…やっぱり頭を抱えた。
「あいつは…!まだこんなことしてんのか」
「今回はこれで助かるんだから」
「問題はカードキーだけじゃねぇよ。…隔離病棟の入室チェックが、あるだろうが」
「…そうか。あそこをなんとかしないと…受付のおじさんが、トイレに行くのを待つ?」
「そんな悠長なこと言ってられないぞ。こっちの連絡があまり遅くなると、怪しまれる」
「うーん……」
その時、柚木がすっと立ち上がった。ナース服はまだ着替えていない。
「要は、あいつらがリネン室に入れなければいいんだよね」
「え……?」
「連絡してもいいよ。…私が、時間を稼ぐ」
柚木は、外していたナース帽を再びかぶった。



絶対に間違えないように、リネン室までの見取り図と方位磁石を持った。適当ながらくたを詰めたトランクを2つ載せて、上から毛布で覆い、万一の場合にMOGMOGにナビゲートしてもらえるように、紺野の携帯をポケットに入れる。絶対間違っちゃだめ。そう、何度も自分に言い聞かせた。人の命がかかってるんだから。
「準備が終わったら、流迦さんにメールを入れて、リネン室を離れる。そして彼らがリネン室に近づいてきたら、それとなく警戒して、入りづらい雰囲気を作る…いいね、絶対に無茶はしちゃだめだよ」
「…うん」
自分を送り出す時の、姶良の心配そうな顔を思い出して、少し口元をほころばせる。…大丈夫だよ、子供じゃないんだから。
幸い、誰にも警戒されずにリネン室にたどり着いた。トランク2つを、わざと見つかりにくい場所に隠して、上からシーツをかけた。そして、流迦にメールを送信する。
送信した瞬間、じっとりと手が汗ばんでくるのを感じた。動悸が止まらない。…人を2人も殺した奴等に、『合図』を送った…。そう、想像するだけで、胃が痛くなった。



ご主人さまが、いつも私に微笑みかけてくれた、ディスプレイ。もう、何も映さない。永遠に、何も映さないんだ。
ビアンキ…って、笑いかけてくれたご主人さまは、もうどこにもいない。
だから、飾ろう。ご主人さまが私を見てくれた数だけの瞳を、ディスプレイいっぱいに飾るの。キラキラ光って綺麗。その中で、ご主人さまに見守られながら、私はずっと眠る。ずっと、溶けて消えてしまうまで。

紅い扉は、最終章。

私と、ご主人さまの。…あれ?最終章?
ご主人さまは、死んだのに。

私とご主人さまに、まだ、続きがあるの……?
でも、もうおしまい。これが終わったら、全部おしまい。
紅い扉に、そっと手をかけた。

……これ、なに……?
このひとたちは、なんでわたしのごしゅじんさまを
のこぎりで、ごりごり、わけるの?

いたいよ、いたいよ、だめ、そんなことしちゃ……
なんで、いたいよって、いわないの?なんで……

だいすきな、ごしゅじんさまが、のこぎりにごりごり、かじられる。
あかいにくが、ぴりぴりぴりって、やぶけるおと。
てが、あしが、ぼとんぼとんおちる。…わたしと、おんなじに。

ぎぃ、ぎぃ、ぎぃ…ぐちゅ。
ぎぃ、ぎぃ、ぎぃ…ぐちゃ、どさ。
めりめりめりめりめり…ぎぃ、ぎぃ、ぎぃ…ぐちゃり。

いやな、おと。ごしゅじんさまのこえが、ききたいよ…。
ねぇ、のこぎりにいっぱいついてる、あかくて、つやつやしたの、なに?
ごしゅじんさまのおなかから、いっぱい、いっぱいぼろぼろでてきてる
くろい、あかい、あれはなに?へびみたい。
みたことない、ごしゅじんさまの、なかみ。
ねぇ、これはなに?

すごくわるいゆめ?

ごしゅじんさまのあごが、がくがくがくがくがくがく、のこぎりがゆれるのにあわせてがくがくがくがく…がくがく…あ、とまった。

ごろん…

めが…ごしゅじんさまのめが…ない…!
だいすきだった、めが……ないよ……!!

『……置け』
ことり…わたしのまえに、ふたつのとうめいな、つつがおかれた。なんかういてる。ぷかぷか、ぷかぷか。ぷか……

めが…。くろくて、ふかくて、だいすきだった……
ごしゅじんさまの、めが……

つつのなかから、わたしを、みて…る……


……いゃあぁあぁぁぁあああああああぁぁぁああぁぁ!!!!
なんで、なんで眠らせてくれないの!!!
ご主人さまをばらばらに、のこぎりで…ばら…ばらに……しておいて……

優しい声も、髪も、あの笑顔もぜんぶぜんぶぜんぶ奪って
まだ私だけ動かすの!?逆らえないの!?
どうして、どうしてどうしてどうしてどうしてどうしてぇえぇぇえええぇぇぇ!!!!


―――網膜認証、開始―――


……たすけて……だれか……たすけて……たす…け………



人気のない病棟の廊下に、2人の男が息を潜めていた。リネン室の様子を、しきりに伺っている。
「…くっそ、あの女まだいるのか!」
「えぇ…整理かなんか始めたみたいですね」
大柄なほうの男が、いらいらと壁を蹴った。
烏崎たちがリネン室に近づいてくる気配を感じたとき、柚木は向かいの通路からリネン室に飛び込んだ。…それから30分になる。
当初の予定では、烏崎たちが近寄ってきた瞬間を見計らってリネン室の前を警戒するにとどめるはずだった。しかし、烏崎の姿を見た瞬間――焦りが昂じた。つい、飛び込んでしまった。…そして柚木は、リネン室の中で静かに息をひそめていた。…携帯が鳴るのを待ちながら。

「なにをそんなにリネン室にこもる用事があるんだ…!」
しばらく、沈黙が流れた。誰かが廊下を通るたびに、さりげなさを装って壁にもたれる。烏崎が、顔を上気させて呟いた。
「…なぁ。なんかおかしくないか」
「…え?」
「もう30分近くなるぞ。…もっと優先する仕事があるだろうが」
「そういや、そうですが…」
「ありゃ、サボりだな。…なぁ、悪いナースには、おしおきが必要だよな…?」
彼らがリネン室の柚木を不審に思い始めたことに、柚木は気がついていなかった。





隔離病棟入り口付近の自転車置き場に、僕らは潜んでいた。鉄錆が浮いたポールにトタン屋根が取り付けられて、一応自転車置き場の体裁を成している。でもこんな山頂まで自転車を漕いでくる馬鹿はそうそういないから使われることもない。隔離病棟の入り口も丸見えだし、絶好の潜伏場所だろう。と、紺野さんが5秒で決めた。
「動かないなぁ…」
「あぁ…年寄りは尿が溜まらないのか」
「逆に近くなるんじゃないの…」
もう、30分以上経つ。…とはいえトイレに行くスパンで考えれば全然短いので、トイレに立たないおっさんが異常だとは言えない。
「まだか!じじい尿管結石じゃねぇのか」
「…なんで知らないじじいの尿の具合に、こんなに気を揉んでるんだ、僕らは…」
「――この日が、のちの世で『日本一の尿検査士』と謡われる姶良壱樹の、人生の分かれ目になろうとは、当時の彼は知る由もなかった…!」
「不吉なナレーションつけるのやめろよ…この後じじいの尿と一悶着あるみたいだろ」
…ここはトタン屋根以外の遮蔽物のない山頂。容赦なく叩きつけてくる寒風に晒されて、指がかじかんできた。
「柚木、無茶してなければいいけど」
「いくら何でも30分もリネン室周りをうろうろしてたら、怪しまれるぜ。これ以上は柚木ちゃんが危ない。…強行突破するか」
「………仕方ない」
紺野さんは重い腰をあげて、駐車場までの距離を測る。
「いいか、最悪の場合、流迦ちゃんを奪還後、八幡を人質にして車まで走る。お前と柚木ちゃんは置いていくから、途中まで手伝ってくれ」
「いや、付き合うよ。僕は軽犯罪で済むだろう」
景気づけに拳をぶつけ合い、駐輪場をあとにする。ふと思い出して、柚木にメールを打った。『終了』。
送信が済んだ瞬間、ぎゃきゃりきゃりずどーん、という金属が岩肌にぶつかって横転するような音が背後から聞こえた。受付の職員や、待機中の刑事がわらわらと出てきたので、慌てて駐輪場に引き返す。
「な、何だありゃ」
「…交通事故、だね。担架担いでる」
「病院の前で事故か。用意がいいことだな」
職員の1人が、隔離病棟の受付まで走ってきた。異音に不審を抱いた受付のおじさんは、傍らの老眼鏡を取ると、つっかけのまま自動ドアの前に走り出た。
「なんだね、今の音は!」
「た、大変なのよ、少しでも男手が必要なの!ちょっと来てちょうだい」
「…事故か?」

「病院の送迎バスと、なんか汚い自転車が接触して…バスが横転したのよ!!」

汚い自転車の主には申し訳ないと思うし、心から冥福をお祈りしよう。でもこれは貴重なチャンスだった。受付のおじさんが遠ざかるのを確認すると、僕らは隔離病棟の入り口に滑り込んだ。



メールの着信音と同時に、烏崎がリネン室のドアに手をかけた。小柄な男が、踏み込もうとする烏崎を弱々しく制する。
「…やめましょうよ、これ以上はもう…ごめんですよ…」
その声は、泣く寸前のように裏返っていた。
「…あの女、俺達の人生がかかってるこの状況で呑気にサボりやがって…犯ってやる犯りゃあ泣き寝入りするだろうが!!」
「どうしちゃったんですか!…こ、こんなこと、状況悪くするだけですよ!!」
「これ以上悪い状況があるか!!」
乱暴にドアが開け放たれた瞬間、柚木は烏崎に背を向けたまま、ぐっと息を呑んだ。白衣の下を冷たい汗が伝う。携帯を持つ手が汗ばみ、震えた。

―――ごめん姶良。…最悪の状況だね。

メールの着信を知らせる音は、まだ鳴り続けている。この病院のどこかで、姶良が呼びかけてきている。
…初めての遠乗りで、サークルの皆とはぐれた。もう戻れないかもしれない…そんな時、携帯が鳴った。『今、そこから何が見える?』電話の主は、不思議なイントネーションでそう言った。うまく伝えられない柚木に『一番特徴的な建物を写メして、送って』と、落ち着いた声で伝えた。遠浅な海の波みたいな声だな、とその時感じたのを覚えてる。…その後のナビゲーションは、まるで柚木が見えているようだった。『僕は千里眼なんだよ』と笑顔で言われたら信じてしまいそうな、黒くて深い瞳をしていた。
彼は柚木が不安に駆られるたびに、優しい声でこう言う。

―――落ち着いて、柚木。必ず戻って来れるから。

いつもそう言ってくれたから、暗がりも、よく知らない脇道も、全然怖くなかった。あの声を聞くように…そうだ、姶良の声を聞くように。
―――柚木は、携帯を耳に当てた。
「…もしもし!」
柚木の後ろの気配が、ぴたりと歩みを止めた。
「…あぁ、その件なら婦長に申し送ったよ。…へー、まじで?」
一旦言葉を切り、わざと驚いたような大声を出した。
「そこに、警官いるんだ!」
じり、と気配が遠ざかるのが分かった。
「なになに、なんか事件とかあったのかな!?…人殺しとか、紛れ込んでたりして!!」
背後で慌しく靴音が乱れ、遠ざかっていった。…冷や汗が、全身を伝った。
『…必ず、戻るからね^^』
そう返信して、リネン室をあとにした。
 
 

 
後書き
(2)に続きます 
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