セビーリアの理髪師
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21部分:第二幕その五
第二幕その五
「アリアにしろグルックの方が」
「宜しいのですか」
「モンテヴェルディは御存知でしょうか」
「名前だけは」
実は伯爵はその名を詳しくは知らない。目が少し泳いでしまった。
「ベルコレージ。若くして亡くなってしまって」
「はあ」
「彼等の素晴らしい曲が好きなのです。所謂ルネサンスにバロックが」
「先生のお好みですか」
「とりわけカストラートです」
バルトロの言葉がうっとりとしてきた。
「ファルネッリは素晴らしかったそうですが」
伝説的カストラートである。歌唱力だけでなく容姿も素晴らしかったと言われている。スペイン国王の相談役でもあったのだ。
「近頃の啓蒙主義者はカストラートを好ましく思っていないようで」
「モーツァルトもカストラートの曲を作曲していますが?」
「いや、それでも」
違うのだとバルトロは言う。
「あの御仁はソプラノやテノールにどちらかといえば力が」
「まあそうですね」
それは伯爵も認める。実際にモーツァルトはソプラノの為に超絶的なコロトゥーラテクニックを使ったソプラノを残している。そちらの方が遥かに有名であるのだ。
「台本も。モーツァルトのものはどうも軽やかで」
「重厚に?」
「そう、ヘンデルのジュリアス=シーザーのように」
そのカストラートが表題役、つまりタイトルロールを歌う役だ。英雄はカストラートこそが歌う時代だったのだ。バルトロはその時代を懐かしんでいるのである。
「歌うのです。こうして」
一部を歌いはじめる。そこにフィガロも扉からやって来て真似をする。見ればその仕草がそっくりである。本当の親子の様に。
「おやフィガロ君」
あまりにもフィガロの動きがいいのでバルトロは機嫌をよくしてフィガロに声をかけた。
「いいねえ、筋がいい」
「いえいえ」
フィガロはその言葉に笑って応える。
「それはまあ」
「ところで君はどうしてここに」
「だって今日じゃないですか」
笑ったままバルトロに述べる。
「今日ですよ」
「はて、今日」
バルトロはその言葉に首を傾げさせる。
「何かあったかのう?」
「お髭を剃る日じゃないですか」
「おお、そうだったか」
言われてやっと思い出す。しかしバルトロはここで左手で拒むのだった。
「悪いが今日はいい」
「またそれはどうして」
「気分ではないので」
「ではかなり先になりますが」
フィガロはそう前置きしてきた。
「それでも宜しいですか?」
「そんなに先になるのか」
「何しろ忙しいので」
これは本当のことであった。実際に紙を出してバルトロに説明する。
「今日この街に来られた士官の方々の髭剃りや侯爵夫人の鬘に伯爵の若様の散髪、弁護士さんには下剤をお渡ししてと。明日だけでこれだけです」
「随分繁盛しているな」
「おかげさまで」
この言葉にはにんまりと笑って言葉を返す。
「ですから今日を逃されると」
「では仕方がないか」
「サービスしておきますよ」
「そうだな。では頼もう」
少し考えてからそう答えた。
「それで。タオルを出してきてくれ」
「はい」
バルトロはここで懐から鍵束を取り出したがすぐに引っ込めてしまった。フィガロはそれを見てバルトロに尋ねるのであった。
「何か?」
「わしが取って来る」
何かに気付いてそう述べた。
「左様ですか」
「うむ。そういうことだ」
(ふうむ)
フィガロは今まで鍵束を持っていたバルトロの手を見ながら考えた。そうして心の中で呟くのであった。
(あの鍵束が手に入れば大きいな)
そう呟きそっとロジーナに囁く。
「あのですね」
「はい」
「あの鍵束の中に鎧戸のはありますか?」
「ええ」
ロジーナはフィガロのその問いに囁きで答えた。
「確か一番新しいのです」
「そうですか」
フィガロはまたバルトロの手を見て応えた。
「それなら」
「待てよ」
バルトロはここでまた気が変わった。そのうえでフィガロに声をかける。
「フィガロ君」
「何でしょうか」
「やはり君に頼めるかな」
「宜しいのですか?」
「うむ。何かな」
伯爵が化けている音楽教師とロジーナを見ての言葉である。二人の間に微妙な空気を読み取ったからこその言葉であった。
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