一緒に部屋に帰ると、紺野さんが車輪のついた椅子に馬乗りになって、ふて腐れた顔でがさごそ移動していた。僕らに気がつくと、床を蹴ってすいーっと部屋の端まで滑った。
「…何してんの」
「お前らこそ」
紺野さんはふて腐れてそっぽを向いた。
「長~いトイレでしたねぇ。うんこ的なもの?」
「うんこでこれだけ長引いてたなら確実に体調不良だよね。もっと心配してよ」
「言い訳は聞きたくないのっ!」
「言い訳じゃなくて突っ込みだよ」
で、彼はちらっと柚木の方に目を走らせて、鼻を鳴らした。
「あーあー、退屈だったなぁー。DS持ってくればよかったなぁー」
「あ、あの…ごめんね?…そうだ、珈琲淹れてあげるから!」
…この人は大人のくせに、なんでそんなに1人にされるのがイヤなんだ。しかもあの柚木にまで気を遣わせるなんて。
「…で、何があった」
「何がって…」
「悲鳴が、聞こえてた」
「なのに助けにこなかったの!?」
「外に出たら、ビンタ的な音と柚木ちゃんの怒鳴り声が聞こえて恐ろしくなってなぁ…」
と、身をすくませてガタガタ震える仕草をやってみせた。
「ま、大丈夫だろうな、と」
「酷いな…流迦、さんに遭ったんだよ」
「流迦ちゃんに?仕方ねえなぁ。また脱走したのか」
『仕方ない、とはご挨拶ね』
紺野さんの胸元から『あの声』が聞こえてきて、思わずあとじさる。
「…仕方ねぇなあ、また割り込んできたのか」
ぶつぶつ言いながら胸元から携帯を取り出して開く。液晶に、艶々した黒髪が印象的なキャラクターが浮かび上がった。
「なんだ、流迦ちゃん。それやったらダメだと言っただろう」
「…流迦さんの、MOGMOG…?」
「いや、本体だよ。MOGMOGの鋳型を自分の意思で操作してるんだ。…で、どうしたんだ。姶良から聞いたぞ。また脱走したって?」
『うふふふ…いじめ甲斐のあるペットを見つけたんだもの』
ペットかよ…なんかキャラクター崩壊したなぁ、流迦、さん。こんなサディスト気質隠して僕に優しくしてたんなら、そりゃ暴発もするよな…
『なんか好きなのよ、あの子。…ねえ、ちょうだい』
「ほー、妬けるねぇ。代わりに俺じゃだめか。可愛がり甲斐あるぜ」
『だめ。もっと小さくて、綺麗で、目が黒い子がいいの』
紺野さんは僕のほうをちらちら見ながら、ニヤニヤしている。僕は腕を交差させて大きく×を作った。
「んー残念!ご指名のコは売約済みでございます」
『ふーん、まあいいわ。…それより紺野。そこ、もう危ないから』
紺野さんの表情が険しくなった。
「どういうことだ」
『ふふふ…2ちゃんねるは情報が早いの』
流迦ちゃん(のキャラクター)が、にんまりと笑った。
『…ねぇ、企業板ではあなた、もう容疑者扱いよ』
「ぐっ…」
『皆、面白こと書いてるから私も煽っといたわ。うふふふ…』
「…流迦ちゃ~ん…」
紺野さんが何か言おうとした瞬間、流迦ちゃんの画像が建物の見取り図のようなものに変わった。見取り図の地下エリアに、赤いマークが現れた。
『…ボイラー室よ。急いだら?』
「しかし…ボイラー室に行くにしても、一旦病院を出ないと。退出手続きしてからじゃないと、俺達はずっと病院内部にいるってことがばれて、捜索が始まってしまう」
『あぁ、言い忘れたけど』
笑いを含んだ声が、見取り図の裏側から聞こえてきた。
『警察、もう受付に来てるから』
「なにっ!?」
紺野さんの液晶は、一瞬ぶにゃりと歪んで待ち受け画面に戻った。
慌しい気配で目を覚ます。ご主人さまが、帰ってきたのかな?近寄ってきた人影の網膜確認をしようと思ったら、本体を畳まれて真っ暗になった。集音マイクをそばだたせて、ご主人さまの声を拾ってみる。
「姶良、さっきの地図憶えてるか!?」
「大体は…で、なに。本当にボイラー室に行くの」
「私、シャワー浴びたかった…」
「あ、多分大丈夫。さっきの見取り図の通りなら、比較的近くにシャワー室があるよ」
「まじか!?すげぇなお前!!」
そうなんだから!ご主人さまはすごいんだから!
――何がすごかったのかは分からないけど。
何が起こったのか分からなくてやきもきしてると、細く明かりが差した。見上げると、ご主人さまがパソコンのフタを細くあけて、私を見下ろしている。
「ごめん、また移動になったよ。…少しだけ、我慢しててな」
え、そんなのイヤ…て言いたいけど、私に言えるはず、ない。
「…はい、ご主人さま」
答えると、ディスプレイはまた光を失った。次に逢えるのは、いつになるのかな…。なんでかな、前に逢ったのは47分前、その前は1時間と6分前。その前は…。数日前よりも沢山、ご主人さまに逢えてるはずなのに。
すごく、逢ってない気分になってる。
一分一分が、とても間遠に感じてる。
傍らでまだ光ってる、青いドアを横目に見る。…さっきまで、あんなに寂しげな青だったのに、いつの間にか目に焼きつくような濃い青になってた。
「…そんなことしたって、開けないんだから」
コン…コン、コン、コン…ドアの向こうから、ノックの音が聞こえた。…いやだ、向こうに何かがいるんだ。…何かがいて、『開けろ、開けろ』って…
いやだ、もういやだ、狂っちゃいそう…怖い、だれか来て、ハルでも、柚木でも、紺野さんでもいい、誰か来てよ!!
『ビアンキ…ビアンキ!僕だ、開けてくれ!』
…ご主人さまの声!ドアの向こうから、ご主人さまの声がする!
「ご主人さまっ!!」
怖くて、もう何も考えられなくて…私は
青いドアを開けてしまった……
『ご主人さま』は、今日は調子がいいみたい。《透析のあとだからね》そう言って、笑った。ご主人さまは、透析というのをしないと生きられない。血が濁って、死んじゃうんだ…って言ってた。
《散歩に出ようか》
ご主人さまは、ゆったりした普段着に着替えて私を抱えた。
《明日になったら、紺野さんが来るんだ》
本当に、嬉しそうに笑った。…私を連れてきた人間なんだって言ってた。最初は胡散臭い人だと思ってたけど、話してみると子供みたいで、話題は下ネタまみれで、まだ病気じゃなかった中学生の頃を思い出すんだって。
(…あのひと…こんなところでも、そんなことやってるんだ…)
病院の近くにある、大きな公園の並木道についた。通りに面したベンチに腰掛けて、ご主人さまは嬉しそうに紺野さんの話をする。…この前読んで聞かせてくれた『宮沢賢治』なんて、なかったみたいに。
一緒に明滅してくれる相手が、できたんだ。
こんなに笑うご主人さまを見るの、初めてだな…
…冬の太陽は傾くのが早くて、2時間ものんびりしてたら、ぽつりぽつり街灯が点りはじめた。
《…そろそろ帰ろうか》
ご主人様が立ち上がろうとしたとき、誰かがご主人様に話しかけてきた。何か、マークのついた紙を差し出す。ご主人様は受け取って、けげんな顔で話を聞いてたけど…段々、見たことのない、怖い顔になった。
ご主人様が、紙を叩きつけて『誰か』に怒鳴る。怖いくらいの言い争いが、集音マイクを打つ。暫くすると『誰か』は『他の誰か』を呼び、ご主人様を取り囲んだ。
ディスプレイの両脇から黒い腕が伸びてくるのが見えた。腕はご主人さまを乱暴に掴むと、狭くて暗い場所に押し込んだ。集音マイクで懸命に音を拾う。エンジンの音と、複数の男の話し声。ご主人さまが、呻く声。
やがて細い悲鳴を最後に、ご主人さまの声が消えた…
消えた青い扉の前で、呆然としていた。
…ご主人さまの声を使って、開けさせるなんて…!
ハルが言ってた。『その扉は、何があっても開けちゃ駄目』って。…ダメな子だ、私。私なんかにセキュリティの資格なんてないんだ…
目の前に、もう一枚の扉が現れた。青紫色に光る、熱をもった扉。
…なんで!?なんでこんな風に出てくるの!?
熱い、気持ち悪い、もういや、出ていってよ…ご主人さま、助けて!!
『そんなこと言って…すごく、知りたいくせに』
後ろから声がした。…私にそっくりな声。それに扉と同じくらい、熱い。その声の主が、後ろから私の頬を挟むように手を伸ばしてきた。…触れているはずなのに、感触がない。その指は、頬に溶け込むようにして、頬の内側を侵しはじめた。
「いやだっ、離してっ!!」
腕でなぎ払って振り返った。でもそこには、何もいない。
「…あれ?」
青紫の扉と、私しかいない空間。そのはずなのに、さっきの言葉が気持ち悪いくらいに耳に残って離れない。
「すごく、知りたいくせに…」
青紫の扉を見つめる。…悲鳴を残して、静かになったご主人さまは、そのあとどうなったんだろう。…すごく、知りたい…
ご主人さま…早くここに来てください。じゃないと私…
この扉、開けちゃうから…
打ち放しのコンクリートに、黒い温水ボイラーが林立する地下のエリアで、僕らは身を寄せ合って縮こまっていた。…想像してたような、暗闇のコンクリート壁にダクトが這い回って所々から蒸気が洩れたり水が滴ったりするようなサイバーパンクな空間じゃない。ボイラーは一定間隔で、整然と並んでいる。蛍光灯までついてるし、ボイラーに身を寄せると、ちょっとあったかい。でもノーパソを立ち上げるとなると、電波状態は最悪らしく(山頂の上、地下じゃ当然だけど)どこに移動しても圏外になる。…ま、どっちにしろオフラインなんだけど。
「ビアンキ、どうした」
リネン室からがめてきた毛布に包まり、腹ばいになってビアンキに話しかける。ビアンキは伏目がちなまま、一度だけ頷く。
「…はい、ご主人さま」
…瞳の濁りが、ひどくなってきたように見える。ずっと起動しっぱなしだから疲れたのかもしれないと思って電源を切ろうとすると、捨てられた子犬のような目で僕を見上げた。
「…閉じないで、お願い、怖い…です」
「どうしたんだよ、本当に」
マウスでつついたり、撫でたりしてみる。少しだけ嬉しそうにするけど、すぐにはっとしたように振り返り、泣きそうな目で僕を見上げる。でも、何があったのかは全然話してくれない。
「…しかし困ったな。ここに捜査が入るのも時間の問題だぞ」
紺野さんがため息まじりに呟いた。さすがにボイラー室で煙草は控えているらしい。携帯が再びチカチカ光り、流迦ちゃんが現れた。
『ふふ…案外、しばらくは平気なんじゃない』
「なぜ」
『逮捕状が出るまでは、病院内の捜索なんて出来ない。…彼らは、待つことしか出来ない』
「…面会時間が過ぎても俺達が出てこなければ、病院が不審がるだろ」
『もっと大きな問題が起これば、構っていられないんじゃない?』
流迦ちゃんの口元に微笑が閃いた。
『例えばナースが2~3人、謎の変死を遂げるとか』
「おっ…お前が言うとシャレにならん!いいか、絶対に変なことはするなよ!!」
『必要だと思ったら、勝手にやらせてもらう』
…落ち着け、僕…。蓮華の花で冠を作ってくれた彼女は、もう何処にもいないんだ…こんな事で泣きたくなってちゃ、この先辛いことばっかりだぞ…
『…あら、何か報告があるみたいよ』
「誰が」
『ハル』「代わって」『いや』
紺野さんは一旦電源を落とすと、再度立ち上げた。液晶画面がしばらくぐにぐにと歪み、ほうほうの体でハルが顔を出した。
『…マスター。セキュリティの強化を提案します』
「無駄だ。どうせすぐ破られる。しばらく堪えてくれ。…で、用件は」
『かぼすが、例のMOGMOGを操るパソコンの位置を突き止めました』
『てへー。突き止めたの』
「…そうか、でかしたぞかぼすちゃん!」
「うっそ、かぼす優秀!?」
「やったね、かぼすちゃん!!」
しばらく3人で『かぼすを讃える舞い』を舞ったあと、紺野さんが徐に聞いた。
「…で、そいつは今どこに?」
ハルは短い演算のあと、こう、言い放った。
『ここと大体同じ座標に、そのパソコンはあります』
3人とも、かぼすを讃えたまま凍りついた。
「こ…ここだと!?」
「…ねぇ、その患者って、ここの病院に入院してたの?」
一応聞いてみると、紺野さんはぷるぷると首を振った。
「…いや。それにIPアドレス追跡では、つい最近までは確かに都内にいたはずだ」
「ノーパソなんだから移動してるんだろうけど」
「…なんか気持ち悪いな。何が目的なんだろう」
「目的がどうっていうよりさぁ」
柚木も話しに入ってきた。
「場所を突き止めよう。目的は本人を締め上げて吐かせればいいわ」
僕と紺野さんは、思わず身を竦めて息を呑んだ。…この娘、怖い。発想が戦国武将だよ…
「それはもっともだけど、この状況で病棟内をウロウロするわけにも」
「いや!この中に1人だけいるのだよ、この病棟内を自由に移動出来る人間が!」
紺野さんが、丸めた毛布の中をごそごそまさぐりながらニヤリと不気味な微笑を浮かべた。
「さっき、リネン室で毛布と一緒にがめといて良かったぜ…姶良、お前は次の瞬間、俺に感謝することになるだろう」
彼が毛布の中から得意げに引っ張り出したのは、丈が短い桃色のナース服だった。…そ、そうか、その手があったか…一石二鳥のその方法が!!(性的な意味で)
「合い分かった!これで柚木がナースのコス…もとい変装をすれば、誰にも疑われることなく病棟内を歩き回れるって寸法だね。紺野さん、あんたっ、天才だよっ…」
嗚咽をこらえながら紺野さんの手を握る。彼は、力強く握り返してきた。
「あっはっはっは、そうだ俺を讃えろ姶良!ちょっとサイズがピチピチなのは俺の趣…いや、咄嗟だったから間違えただけだ!」
「なんのグッジョブ!間違いは誰にでもあるよ、仕方ないね。…柚木なら、分かってくれるよね」
僕らは一斉に、柚木に熱い視線を注いだ。
「さあ、柚木ちゃん…」
「さ、柚木…出番だよ」
次の瞬間、僕たちは血を吐きながら打ち放しのコンクリートに叩きつけられた。
「バカッ!…あんたたち、コスプレに目が眩んで大事なことが抜け落ちてるのよ!!」
「だ…大事なことって?」
「私を見ず知らずの建物の中に解き放ってどうするの!帰れなくなるだけじゃん!!」
僕らの間を、稲妻のような衝撃が走った。隊長、敵陣営に思わぬ伏兵『方向音痴』が出現しました…!この戦の敗北を悟って崩れ落ちかけた僕を、紺野さんの力強い腕が支えた。
「諦めるな同志!方法はもう一つある」
「た、隊長…」
「どこかで、車椅子をがめてくるんだ。そして患者のふりをして柚木ちゃんをナビゲートする。…しかし姶良。この方法には重大な欠陥がある」
「その完璧な計画の何処に欠陥が!?」
「柚木ちゃんのナース姿をローアングルから堪能する権利に浴するのは、ただ1人!!」
「そ、それなら、腰骨がちょっと繋がってるシャム双生児という設定で、二人で車椅子に乗るというのは!?」
「シャム双生児とか思われる前に、重症なホモと見なされるに違いあるまい。ていうか、そうまでして俺とローアングルを分かち合いたいのかお前」
「くっ…僕らは争うしか道はないのか!?」
「残念ながらな!…恨みっこなしだぜ、姶良」
「望むところだ…だっさなっきゃ負っけよー、ジャーンケーン」
「ぽいっ!!」
渾身の『グー』と『パー』が繰り出され、勝負は一瞬で決着した。…僕は、儚く崩れ落ちた…
「…ふ、ふははははは…畜生、まだ手が震えてるぜ…!」
「くっ…どうでもいいジャンケンは結構勝つのに、何故こういう時ばかり…」
「盛り上がってるところ、悪いんだけど」
もはや呆れ果てた顔で、柚木が割って入った。
「もうナース服着せられるのは諦めるけどさ…紺野さん、そもそもここに隠れてる理由って、なに」
「そりゃ俺が顔さらして病院内ウロついてるとまずい……!!」
言いかけて、紺野さんはどさり、と崩れ落ちた。…や、やった、僕の逆転不戦勝だ!!
「まったくもう…いくよ、姶良」
「はい…」
恥らう乙女のように頬をそめて、静々と柚木のあとについていく。紺野さんがゾンビのように起き上がり、やはりゾンビのようにゆらゆらと追ってきた。
「…おい待てぇ…着替えないのかぁ、ナマ着替えが済んでないぞぉ…!」
「シャワーのついでに着替える。姶良、シャワー室に案内して」
柚木がぴしゃりと言い放つ。ゾンビは再び崩れ落ち、もう立ち上がる事はなかった。
手短に浴びてくるから、と言って柚木が2日振りのシャワーを堪能し始めて既に15分。…普段なら何でもないこの15分が、いやに長く感じる。ボイラー室の脇の倉庫からがめてきた車椅子に座り、毛布を膝にかけ、ゾンビが崩れ落ちながら手渡してくれたニット帽を深々とかぶる。誰が見たって、ちょっと寒がりな患者にしか見えまい。シャワー室から洩れ聞こえてくる、水の音と柚木の鼻歌に、そっと耳をそばだてる。
「この水音が、柚木ちゃんの柔肌を打っているのかと思うと…清流の趣だな」
……おい。
「…何、出てきてんの。見つかるよ」
「妙なものだな、このドア一枚隔てた向こう側で、全裸の柚木ちゃんが、あんな所やそんな所を洗っているなんて」
そう言って紺野さんは、そっとドアに身を寄せた。…見取り図では洗面と脱衣所と個室があったので、正確にはあと2枚のドアを隔てないことには柚木の全裸に到達し得ないんだけど、言ったところで紺野さんの幸せが半減するだけなので黙っておく。
「あの胸、Eはあると見た。脱いだら相当、エロい体なのだろうな」
「ちょっと尻が大きいけどね」
「あの尻がいいんじゃねぇか…ナースの格好なんかさせたら、たまらん感じになるぞ」
「あぁ…ナースはベッド脇に座ったり『直腸検温しまーす♪』とか言って後ろ向きに馬乗りになったりするもんね、ビデオとかでは…」
「うぅむ、あの尻で、馬乗り…か。おい姶良!その辺は同じサークルの誼でどうにかならんのか!!」
「そんな軽い誼でどうにかなるなら、とっくの昔にどうにかしてるさ…」
「諦めるな!お前は堪能したくないのか、仰臥位でじっくりと」
「ねぇ落ち着いて…直腸検温はうつ伏せだよ…」
たわいない世間話を交わしながら、僕はふと流迦ちゃんのことを思い出していた。柚木との対比でというわけじゃない。…別れ際にかけられた、あの言葉を思い出したんだ。
『あれは、重大な問題を内包する欠陥プログラム。…アンインストールなさい』
あの言葉がただの嫌がらせだったとは思えない。彼女は、ビアンキが欠陥プログラムであるという確証を持っている。そんな気がした。
「…流迦さんに、ビアンキをアンインストールしろって言われた」
「仕方ない奴だな、あいつは…」
「重大な問題を内包する、欠陥プログラムだって」
紺野さんの目が、ふっと険しくなった。
「…あいつ、確かにそう言ったのか」
「うん。…心当たり、ない?」
「ないことは、ない」
胸ポケットに入った携帯の電源を切り、腕を組んだ。
「車の中で、少し話したな。…ビアンキは、夢をみるかもしれないと」
「あと、流迦さんが『産みの親』だって」
「まず、MOGMOG開発における流迦のポジションを、ちゃんと説明しようか」
そして、いつにない真顔で語り始めた。
「俺は流迦に出会ってからずっと、彼女にプログラミングのことを学ばせてきた。あの子が遠い将来、ここを出られるようになった時に、手に職があれば助かるからな。最悪、就職が難しければ、うちの会社で働いてもらえるだろ」
本当に…なんでここまでしてくれるのか分からないけど、この点に関してだけは、感謝してもし足りない。心の中で一瞬だけ合掌し、話に戻る。
「彼女はメキメキ実力をつけた。半年学んだだけで俺に並ぶようになり、1年も過ぎた頃には、俺の及ぶところじゃなくなった。…天才っていうのは、ああいう子を言うんだな。ここを出れば一流のプログラマーとしてやっていける実力があったんだが、あの子は退院を望まなかった。…家族も、望んでいなかった」
…その通りだ。話題にのぼらせることさえ、厭われていた。改めて人の口から聞かされると、なんて恥ずかしい話なんだろう…。
「もちろん、それだけの話でもないが。…自我を押さえつけられてきたあの子には、社会で荒波にもまれながら生きていく力がない。…本人に言うと怒るが、とても繊細で脆いんだ。『事件』がなくても、遠からずこんな状況にはなってたよ。一見、傍若無人な危険人物に見えるかもしれない。でもあの子にとって今は、自我を発現させるための、いわば訓練の時期なんだ」
「…訓練」
そんな穏当な言葉では済まされないような危険を感じたが…僕の考えてることが伝わったのか、紺野さんは言葉を継いだ。
「14年間の抑圧と、持って生まれた異能がブレンドされてエラいことになってるが、そこはいずれ落ち着くだろ」
「…だといいけど」
「彼女は自由にプログラムを作り、ルービックキューブを高速で回転させて破壊する、それだけの日々を過ごしてきた。最初のうちは、過去の記憶だけではなく、言葉すら忘れ果てるほどに、そればかりに没頭していた。まるで、それらに埋もれて自分を消してしまいたいみたいにな。作るプログラムも、構造は天才的だったが意味のないものばかりだった…しかし5年、6年と経つうち、あの子は変わり始めた。俺やプログラム、ルービックキューブ以外のものにも興味を示しはじめたんだ」
紺野さんの口調に、彼らしくもない暖かいものが加わり始めた。まるで妹の自慢話をする馬鹿兄貴みたいだな、と思うと口元が緩んだ。
「作るプログラムの雰囲気が変わり始めたのも、その頃だったかな。それまでは、ただ作るためだけに作られた、命のないガラクタ同然のプログラムだった。…しかし、徐々にそのプログラムに『目的』が兆しはじめたんだ」
苦笑いを口元に浮かべて、言葉を切った。
「…ま、あの通り。ろくな目的じゃないけどな。散々な目に遭ったな…あいつが携帯に仕掛けた悪戯のせいで女と別れる羽目になったことも数知れないよ。…でもある日、あいつはまじですごいプログラムを作りやがった」
「…それが、MOGMOG?」
「惜しい。正確にはMOGMOGのインターフェースを司るプログラム…つまり、ハルやビアンキのキャラクターを司るプログラムだ」
当時の興奮がふいに蘇ったのか、紺野さんの声がうわずった。
「…あれが出来上がったとき、あいつはこう言ったんだ。『私は、私の中身を作った。これは、人間を構成するソフト』」
「人間を構成する、ソフト?」
「あのプログラムは、人間の脳内を流れる電気信号を、そっくり模倣したものなんだよ」
愕然とした。…人間の脳を模倣して作られたプログラム、だと?
「なにそれ、昔のSF?」
「理論上は不可能じゃない。現に俺達の脳は電気信号が動かしているんだからな。ただ、その電気信号の流れを詳細に、正確にトレースできる人間がいなかっただけだ。…世の中ではそういう人間を『天才』もしくは『狂人』と呼ぶ」
「…そ、そんな流迦ちゃんが…」
「あれだけの異能だ。その片鱗は、小さい頃から見えてたはずだ。その才能を全部尻の下に押し潰して『清楚で可憐なお嬢さん』に仕立て上げようとしたのは、あの子の親父だよ」
「………」
「ま、珍しい事じゃないさ。…お前らの血筋は『道筋を辿る能力』に長けてるみたいだな」
からかうように言われて、はっとした。そう、僕もよく似た『異能』を持っている。…僕の異能の方は、精々仲間内で『地図要らず』とか呼ばれる程度だけど。
「あーあ…僕のももう少し、カッコいい能力だったらよかったなぁ…道を忘れないとか、微妙に便利なやつじゃなくてさ、こう『異能!』って感じの」
「何を言うか。一瞬表示されただけの見取り図をそっくり記憶してるんだぞ。お前も充分恐ろしいよ。…丁度そのとき、社では一般ユーザー向けのセキュリティソフト市場へ進出するための、強力な『武器』を探していた。俺は、これしかないと思ったんだよ。…初めて会った日に話したな。俺が提案したのは、コミュニケーション的要素を加えることで、対人セキュリティを充実させた、まったく新しいタイプのセキュリティソフト。それに俺が以前からあっためていた『ウイルス消化機能』を組み合わせて出来たのが、今のMOGMOGだ」
「じゃあ、MOGMOGの感情は、人間そのものなのか…?」
「いや、それは人道的にも容量的にも色々問題があるだろうからな。パソコン用にカスタマイズをしてあるはずだ。喜怒哀楽は抑え目にしてあるし、触覚、嗅覚、味覚に連動する電気信号は削除するか、不自然にならない程度に、他の感覚…視覚や聴覚にバイパスさせた。それらの作業をしたのが、あの子だよ」
「…それで、あそこは『開発分室』ってわけなんだ」
「そう。あの子はあれでも、うちの社員だ。…で、お前が言っていた『重大な欠陥』の話に戻ると」
紺野さんは、あごに手を添えて俯いた。
「正直、あのプログラムは俺にはさっぱり理解できない。他の人間にも見せてみたが、同じ事だった。…そりゃそうだよな。誰かの脳の中を覗いて『分かれ』って言うのと同じだもんな。だから、あのプログラムは俺達にとってはブラックボックスなんだよ」
「そんな危険な…」
「一応、動作確認はした。でも誰も構造を理解してないんだ、拾いきれないエラーの一つ二つは内包してるかもしれん。流迦は、それを見つけたのかもしれないな。…いや、ちょっとまてよ。…なあ、姶良」
「ん?」
「欠陥プログラムの話が出たとき、あの子は『MOGMOGは』と言ったか、それとも『ビアンキは』と言ったのか」
「ビアンキって、言ったけど」
「そうか…なぁ、これは言う必要はないと思ったから黙ってたが、ハルとビアンキの間には決定的な違いが………」
紺野さんの声が、ふっと掻き消えた。眉間に深くしわが刻み込まれ、その口元が引き結ばれる。彼はすいっと身を起こすと、そっとドアから離れた。
「紺野、さん?」
「水の音が、止まった…!」
「………は?」
こ、この人…こんな深刻な話をしつつ、ずっと柚木のシャワー音に耳を傾けていたのか!…不覚にも感心してしまうくらい徹底した変態だ。変態は、険しい表情を保ったまま、腕を組んで僕を見下ろした。
「姶良。ナースの柚木ちゃんに、第一声で何を言って欲しい?」
唐突に降り注がれたエロの光に、石をどかされたダンゴ虫のように慌てふためく僕。
「え…えと…『お注射の時間です♪』とか…」
「…はっ、オリジナリティのカケラもない奴め」
「なんだよ、ナースとかスッチーとかは定型モノだろ。そういう紺野さんはどうなんだよ」
奴はニヤリといやらしい微笑を浮かべ、壁にもたれた。
「俺ならこうだ…『この下、何も着けてないんだよ…』」
「反則だ!そんなの、なに着てたってエロいじゃないか!!」
「むっふっふっふ…そしてそのまま『直腸検温しまーす』」
「アタマ悪いAVのシナリオか!」
「そして俺は仰臥位!!」
「あんたかよ!!」
「決め台詞はこいつだ…『あん、だめ、入らないよぉ…(体温計が)』」
「うっわ変態だ、すごい変態がいる!!」
「うるさいっ、廊下では静かにしなさいっ!」
心臓がはみ出るくらいに躍り上がって、弾かれるように振り向いた。シャワーのせいか、ナース服が恥ずかしいのか、頬を上気させた柚木が、ドアの陰に立っていた。
「…第一声は『廊下では静かにしなさいっ』だったね…」
「委員長系看護婦か…アリだな」
変態が選んできた小ぶりのナース服は、柚木の体に必要以上にぴったりフィットして、下着の線まで見えそうな勢いだ。体の横に入った浅いスリットから見える脚は、多分僕が今まで見たことがないほど上のほうだ。日にあてられず、大事にスカートなりジーンズなりに包まれてきた肌色。それはミルクプリンのように柔らかそうですべすべで…多分、柚木の服の下に隠れた肌は、全部こんな感じなんだろうか…耳が熱くなるのを感じながら、僕は心の中で叫んだ。
――紺野さん、グッジョブ!
紺野さんはドアの陰から出てこようとしない柚木の全身を嘗め回すように眺めると、性懲りもなく興奮気味に叫んだ。
「に、ニーソだ、白ニーソのナースがいる!」
「なっ…仕方ないじゃん、替えはこれしかないんだから!」
耳まで赤くしてドアの陰から出てこない。…僕は思い出した。ここに来る前に、沿道のコンビニで替えの服や生活用品を揃えていた時、柚木は最初、ブーツに合わせて膝丈のストッキングを買おうとしていた。しかし紺野さんが大人顔で『山頂だから寒いぞー、少しでも暖かそうなのにしておけよ』と、わざわざ釘をさしたのだ。…そして長めの靴下は、なぜか白のニーソしか残っていなかった。おそらく、柚木に声を掛ける前に紺野さんがハイソックス類を隠したんだろう。
…正直引く。嬉しい反面、ここまでされると、ちょっと引く。
「そういうこと言うんだったら、もうここから出ないから!」
「あっはっは…冗談だよ。出ておいで」
さっきとは打って変わったような爽やかな笑みを浮かべ、手招きしてみせる。柚木は人慣れしてない猫のようにおずおずと、ドアの陰から出てきた。
「…変じゃない?」
「全然、変じゃないよ。ここ病院なんだし」
言いよどむとまた閉じこもってしまうので、僕は慌てて即答した。
「あとは…柚木ちゃん、携帯、持ってるよな。携帯からかぼすちゃんにアクセスした状態で目的のパソコンに近づけば、かぼすちゃんが反応する。反応を見ながら彼を探してくれ」
「…わかった」
「でも気をつけろよ。やばそうだったら、何もしないで帰って来い。一応、『彼』の画像を転送しておく」
僕と柚木のケータイが鳴った。『彼』は、男にしては随分と華奢で綺麗な、でも腺病質な少年だった。柚木は「わっ、美少年じゃん♪」などと浮かれているが…。
「じゃ、頼んだぞ」
もっと柚木のナース姿をイジるかと思ったのに、紺野さんはあっさり送り出した。この人なりに『彼』を心配しているんだろう。僕は軽く頷くと、車椅子を回した。
姶良達を見送ったあと、紺野の携帯が鳴った。『着信 芹沢』の表示を確認して、着信のボタンを押す。
「…どうした」
『あんたこそどうしたんだ。こっちは大変なことになってるぞ』
「横に警察でもいて『引き伸ばせ!』とか言われてるのか」
紺野は、苦笑交じりに応じた。
『似たようなもんだ。山梨の開発室も任意捜査だか何だかが押し寄せてるよ』
「おぉ、こっちもだ…例のとこだがな。で、どうだ。任意捜査には応じたのか」
『応じるわけないだろう。あいつら、今も外で張ってるよ。寒いのにご苦労なことだ』
「暖かい珈琲でも出してやれよ、心証よくしておくに越したことはないからな」
『阿呆。そんな心配してるヒマがあったら自分の心配しろ。伊佐木組の連中、あんたに不利な証言しまくってるみたいだぞ』
「伊佐木組だけだろ」
『捜査に協力的な分、やっかいなんだよ』
「ははは…任意捜査を拒んでるお前らとは心証がちがうわけだ」
『てめぇ、捜査受け入れるぞ』
「そりゃ困ったな。…で、どうだ。『配信』の準備は出来そうか」
『もう少しデバッグしておきたいが、仕方ないだろうよ。このままじゃ捜査令状が出るのも時間の問題だ。…いつでも配信はできる。あんたの預かってるデータが来れば、な』
「うむ…このままじゃ、MOGMOGの件も何もかも、全部俺のせいにされるな…せめて、あのときの『会議』の証言が取れれば…」
薄暗い階段の踊り場に、沈黙が流れた。無性に煙草が吸いたい気分だったが、少しでも気配を気取られる危険は避けたい。イライラと、打ち放しのコンクリート壁を叩くだけだった。受話器の向こうの芹沢が、ふっと鼻息をもらした。
『…なあ。その会議にはノーパソか何か、持って行ったか』
「あ?…あぁ、会社支給のやつをな」
『今、どこにある』
「俺の机の、一番下の引き出しだ。あ、鍵かかってるからな」
『鍵か…壊すぞ』
「…好きにしろ。あとは任せて大丈夫か」
『大丈夫じゃねぇよ。…データ届けるのは、無理か』
「病院を出れないんだよ。ネットで送るには重過ぎるし、リスクも大きい…もう少し足掻いてみるが、難しいところだ」
『そうか。最悪の場合はMOGMOG関連のデータ、全消去するぞ。伊佐木達に引き渡すのも癪だし』
「……仕方ない」
『そうならないように、何としてもデータを届けろ。…それと、少し気になっていることがある』
「どうした」
『伊佐木課長が、会社に来ていないらしい。あんたを陥れるチャンスなのにな』
「それは…嫌な予感がするな。ひょっとして、烏崎もか」
『烏崎?…あいつしばらく来てないよ。予定表では出張ってなってるが』
「そうか。…了解。心に留めておく」
携帯が切れた。紺野は油断なく辺りに視線を走らせてから、階下に降りて行った。