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アドリアーナ=ルクヴルール

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第三幕その六


第三幕その六

「失われた腕輪。あたふたと逃げる際に失くした」
(まさかあれを・・・・・・!)
 今度は虎が叫んだ。それを言われ瞳が燃え上がる。
 この遣り取りを客人達は不思議に思い見ている。
「中国の諺かしら」
「スペインの小説ではなくて?」
 両方共宮廷でもよく話題になるものである。外国に関する知識が教養のステータスシンボルの一つになるのはこの時のフランスの宮廷でも同じである。
「いいえ、違いますわ」
 アドリアーナはそれに対し言った。あえて優雅な、落ち着いた声で。
「フランスの実話なんですよ」
「我が国の!?」
「はい、その証拠にその腕輪がここに」
 彼女はそう言って左腕に入れていた腕輪を取り外し僧院長に手渡した。彼はそれを受け取ると淑女達に手渡した。彼女達はそれを手から手に渡して見る。公爵夫人はそれを横目で見ながら必死に怒りを抑えている。
「綺麗な腕輪ですわね」
「ええとても」
 淑女達は口々に言う。
「見事な細工ですね」
 公爵夫人が手に取った。そしてとぼけてそう言った。
 アドリアーナはその様子を横目で見ている。そして密かに勝ち誇った。
 だが公爵夫人も退かない。虎と豹は互いにまだ隙を窺い合っている。
 二人の間に火花が散る。そこへ公爵とマウリツィオがやって来た。別室で何やら話していたらしい。おそらく政治の話であろう。宴や舞台の裏でこうした話をするのは何時でも同じである。
「何のお話をされているのです?」
 公爵は自分の妻や淑女達が何やら話し込んでいる事に気付いた。
「腕輪の事で」
 淑女の一人が答えた。
「腕輪?どのような腕輪ですか?」
「これです」
 その時その腕輪を持っていた淑女が彼に手渡した。その時公爵夫人の顔が一瞬蒼くなった。
「これは私の妻のものですね。私が贈ったものだからよく覚えていますよ」
「奥様の!?」
 淑女達はそれに驚いた。
 アドリアーナは公爵夫人を見た。その瞳が剣の様に輝く。
 それは公爵夫人も同じである。激しい憎悪の炎が燃え盛っている。
「何か妙な話ね」
 淑女達がヒソヒソと話を始めた。その目は二人を見ている。
「ええ、見てあの二人」
 アドリアーナと公爵夫人を見る。
「何かあるわね、絶対に。さもないとあそこまで睨み合わないわよ」
「大変な事にならなければいいけど」
 淑女達の話も構わず二人は激しい炎を燃やしている。
「何かあるのかな、あの二人には」
 公爵は僧院長に尋ねた。彼は事情を知らない。知っていても自分も多くの女性と浮名を流してきているので言う事は出来ないであろうが。
「そ、それは・・・・・・」
 僧院長は察しがついたが口篭った。怖ろしくて言えないのだ。
 マウリツィオはわかっていたが黙っていた。この場を去ろうとも思ったがそれは卑怯と思い直しこの場に留まった。そして責任者の一人として二人の激しい炎を見た。
(これは消す事が出来ないな)
 彼はそれを見て思った。そしてこの炎はさらに燃え上がった。
「マダム、一つお願いがあるのですが」
 公爵夫人はわざとらしくアドリアーナに微笑んで言った。
「何でしょうか、奥様」
 彼女も平静を必死に取り繕いそれに答える。
「舞台の名調子をお聞きしたいのですが宜しいでしょうか?」
 周りが二人のことをヒソヒソと話しているのをようやく察したのだ。あえて彼女に話し掛けた。
「ええ、よろしいですわ」
 アドリアーナはそれを承諾した。側にいたミショネがそっと囁いた。
「慎重に選んで下さいね」
 彼にもこのただならぬ様子はわかっていた。アドリアーナを気遣ってそう囁いたのだ。
「はい」
 彼女はその囁きに頷いた。そして公爵夫人を見た。
「何を演じて下さるのですか?」
 公爵は尋ねた。
「アリアドネの台詞はどうでしょう?」
 アリアドネとはギリシア神話のクレタの王女だ。英雄テーセウスを助けながらも彼に棄てられる悲運の女性だ。それをあえて勧めたのだ。ここではコルネイユの書いた悲劇である。これはあからさまな攻撃であった。
「・・・・・・・・・!」 
 アドリアーナはその勧めに思わず絶句した。公爵夫人は彼女の紅潮した顔を見て微笑んだ。尚予断であるがこのアリアドネは悲しみに打ちひしがれているところを酒の神ディオニュソスに慰められ彼の恋人となる。
「私はあの劇はあまり好きじゃないな。別のものがいい」
 公爵はそこで口を挟んだ。アドリアーナはその言葉に胸を撫で下ろし公爵夫人は心の中で舌打ちした。
「そうだなあ、『フェドラ』がいい。あれの帰途のくだりが聞きたいな」
 ラシーヌの悲劇だ。これもギリシアの話をもとにしている。ある王の後妻フェドラが自分の義理の子を愛してしまう話である。そして彼女とその義理の子を中心とした政治や宗教までもが入り組んだ複雑な悲劇である。彼の言葉に対しアドリアーナは頭を垂れた。
「それでは『フェドラ』を」
 彼女は語りをはじめる準備をした。客人達は席に就いた。
「私達も座ろう」
 公爵は妻に言った。マウリツィオも僧院長も席に座った。
 
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