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くらいくらい電子の森に・・・

作者:たにゃお
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第十章 (2)

屋上へ続くドアには、鍵はかかっていなかった。『一般的』な患者には、開放しているようだ。ここから見晴らす山脈は厚くかかった雲のせいか、遠くにいく程、蒼く霞んでいる。随分遠くに来てしまった気がして、胸がつまった。



先に屋上に出ていた柚木に、缶珈琲を渡した。
「もう三杯目だね」
そう言って柚木は、プルタブをかしゅ、と起こした。そして高いフェンスに身をよせて、缶珈琲をあおる。
「山の空気って冷たいね…」
呟いて、そっと目を閉じた。僕も柚木の隣によりかかってみた。山の空気っていうかフェンスが鉄臭いな…などと思いながら。
「…流迦ちゃんは、母方の従姉妹なんだ。家が近かったから、よく行き来してた」

長い漆黒の髪が綺麗で、すこし潤んだ黒目がちの瞳が、年に不相応なくらい大人びていた。それ以外は、ごく普通のお姉さん。当時の僕の基準では、制服を着ている人はみんな大人だったから、中学のセーラー服を身にまとう彼女も、当然大人だと思っていた。
優しくて頭が良くて、運動だけはちょっと苦手。スカートめくりを仕掛けて、脱兎のように逃げていく近所の子供も、一度も捕まえられたことがなかった。趣味は料理と、アクセサリー集め。沢山持っていたのに、あまり外でつけることはなかったっけ。僕にだけこっそり教えてくれた、一番のお気に入りは、小さな桜のイヤリングだった。
彼女の父親…叔父さんは地方の市議会議員か何かを勤めていて、選挙が近くなると僕らの家にもよく顔を出した。随分、あとになってから知ったんだけど、僕の生家は、ここいら一帯に多い『姶良』の宗家だったらしい。宗家といっても田舎の一角で強い発言権を持つ程度だけど、市議会選挙くらいのレベルだったら馬鹿にならない影響力を持っていた。…とかいってもそれは立場的な問題で、僕や家族の暮らし向きはつつましいものだ。DSだって、クラスの友達の三分の二が持ってる状態になった頃にようやく買ってもらったくらい。
母方の叔母と結婚した叔父は、悪い人じゃないんだけどがさつというか短絡的なところがあって、ちょっと好きになれなかった。でも叔母は流迦ちゃんに似て綺麗な人だった。

料理が上手で、話す声は絹が摺りあうようにささやかで、いつも優しい流迦ちゃん。
春になると、蓮華が咲き乱れる川原に連れて行ってくれた。そこで日が暮れて星が出るまで寝転んで、どっちが先に一番星を見つけるかを競ったっけ。僕は一度も勝ったことがないけど。…帰り道、負けた僕がふて腐れていると、まばらに輝きだした星々を指しながら、星の神話を話して聞かせてくれた。

彼女に『初恋』の気配を感じていた僕は、彼女の両親の前で臆面もなく『大きくなったら、流迦ちゃんと結婚する!』なんて無邪気にまとわりついた。流迦ちゃんも、笑いを含んで僕の頭を撫でた。可愛い弟をみるような目つきだったけど、僕はそれで充分満足だった。
僕が、僕たちが大人になる日がくるなんて、思わなかった。

ましてこの事が、流迦ちゃんを狂わせるきっかけとなるなんて、カケラも思わなかった。

その事があってから3日後くらいからだったか。叔父さんたちが、流迦ちゃんを連れて頻繁に遊びに来るようになった。叔父さんは僕の隣に座って、饐えた麦酒の匂いを発散させながら「うちげんの流迦のわっつぇか可愛いごてな!?嫁んするが!?うはあははは、ないごてぇおかせっすっとか!はっはっはっは」などと、僕の頭をぐりぐり撫でながら上機嫌で話しかけてきた。…叔父さんに言われると、何だか僕はとてもいやらしい事を言ってしまった気がして、嫌な気分がじんわり広がった。不安になって流迦ちゃんを見ると、いつものように笑ってくれた。

親族が集まる宴会なんかのとき、叔父さんは、いやに僕の隣に好んで座るようになった。そのたびに、『流迦を嫁んするが?』『嫁んするが?』とからかわれた。周りの大人も面白がって囃し立て、僕たちはあたかも新婚のように扱われたっけ。普段から無口な父だけは、眉一つ動かさないで、僕の動向をうかがうような顔をしていた。
…今だから言うけど、僕も半分『その気』になりかかっていた。流迦ちゃんは将来、僕のお嫁さんになる。そう、本気で信じかけていたんだ。

宴会がはけて、酔いつぶれた大人たちの間を縫って片づけを手伝っている時、父がぬるくなった芋焼酎を舐めながら(貧乏性なのか、この人は、宴会の終わりまで不味くなった酒を1人で舐めてることが多い)僕の後をついてきた。やがて誰もいない渡り廊下に出ると、呟くように言った。
「…あんしが、あげに露骨にするんは理由があっとよ。お前や流迦ちゃんの気持ちには、いっちゃん関係なかことばい」
「でも、でも僕流迦ちゃん好いとるが。嫁んしてもええがよ!」
「ええがよ、やなかよ。…ま、お前は勘のよか子たい。心配はしてなか。じゃっどん…」
そう言って残りの焼酎をぐっとあおると、僕が運んでいる皿の上にコップを置いて、すたすたと僕を追い抜いてしまった。
「流迦ちゃんが、もちぃっと、強かおなごじゃったらなぁ…」
「僕、いみしな子嫌いじゃ。流迦ちゃん、あのままでよかよ!」
父は、なにも言わなかった。怒ってるのか落胆してるのか分からないけど、なんとなく気まずい感じがして、他の話題を探した。
「父ちゃん、いつもぬるくなった焼酎飲んどるが」
「悪いか」
「誰も飲まんがね、ぬるいぬるいって」
「酒の一滴は血の一滴じゃ。飲めんうちから邪道な飲み方ぁ覚えんさんな」
そういい捨てると、突き当りの便所に入ってしまった。中からぅおううけぇあぐあとか変な呻き声が聞こえてきた。…血の一滴じゃなかったのか。

…それから程なくして、僕は流迦ちゃんが泣いている姿を目撃する。
待ちに待った春の日曜日。流迦ちゃんと毎年出かける蓮華の川原を楽しみに、虫取り網と麦茶を持って、彼女の家に駆けつけた。玄関先で『るーかーちゃーん』と叫ぶと、いつものように叔母さんが『あら、いっちゃん』と笑ってくれて、後ろの廊下に向かって『流迦―、いっちゃん来たがよ!』と呼んでくれるんだ。…その日も、そうだと思ってた。

玄関で何度声を張り上げても、流迦ちゃんが出てくる気配がない。僕はしびれをきらして、靴を乱暴に脱いで家に上がり、勝手知ったる流迦ちゃんの部屋を覗き込んだ。
そこで目にした光景は、多分一生忘れることはない。
散乱した手紙の山、それを片っ端から引きちぎる叔父。その傍らで、頬を押さえて涙を流す、僕の流迦ちゃん。
――頭が、真っ白になった。
叔父さんは、顔を真っ赤にして僕には分からない言葉を早口でまくし立て、流迦ちゃんを突き飛ばした。僕は思わず『ひっ』と声を上げた。
「あ――いっちゃん!おいやったんかすまんすまん、ほれ、流迦!いっちゃんと虫取りしてこんね!!」
「…じゃっどん、流迦ちゃん、ぐらしかよ。ないしとうね…」
僕は恐る恐る、これだけ言うのが精一杯だった。
「たははは、げんねがとこ見られたばいね…流迦がやっせんこと言いよるき、ちいっとがっとったがよ…ほれ、流迦。立たんね」
泣きながらザックに二人分の弁当を詰める流迦ちゃんに、僕は何を言っていいのか分からなかった。ただ僕が『いい、今日は帰るよ』なんて言えば、流迦ちゃんは叔父さんと二人で長い日曜日を過ごさなければいけなくなる。それだけは、嫌だった。
「流迦ちゃん、行くが!」
僕は流迦ちゃんの手を引いて、玄関を飛び出した。

一旦僕の家に寄って、虫かごと網を置いてくる。
「…使わんの?」
「今日は虫とり、よすが」
流迦ちゃんが、あまり虫とりが好きじゃないことは知ってた。だから僕は、泣いている流迦ちゃんに少しでも元気になってほしくて、女の子が好きそうな遊びに変更することにしたんだ。
…この日、流迦ちゃんの部屋で目にした光景…千切られた手紙の山、激怒する叔父、静かに涙を流す流迦ちゃん。
子供だったから。そんな理由で済まされない。よく考えれば分かったはずだ。
でも僕は、帳の向こうに透けて見えた現実を、思い込みでねじ伏せた。それどころか、小さかった僕の妄想は、周囲の思惑を全く考えようともせず、自分1人を正義のヒーローに仕立てて、完全に先走っていた。
――叔父さんが流迦ちゃんをいじめるなら、僕が流迦ちゃんを守る。
そして僕が導き出した結論は、考えうる限り最悪のものだった。

「蓮華の川原で、結婚式せんね。僕と流迦ちゃんの」

今でも、あの瞬間を覚えている。
流迦ちゃんの顔から、ふっと表情がなくなった、あの瞬間。
歪んだのでも、哀しく微笑んだのでもない。ふっ…と表情が消えたんだ。思い込みの真っ只中にいた僕は、そんな彼女の変化を重要視しなかった。表情を消した彼女を引いて、あぜ道の端にしげる葦を引き抜いて笛にしたりしながら、蓮華の川原まで歩いた。
彼女と並んで歩くのは、これが最後になった。


流迦ちゃんに花の冠を頼んで、僕は蓮華とシロツメクサの花で指輪を作る。…同級生がこの川原を通りかかったら、上着で顔を隠した。流迦ちゃんは、黙々と花の冠を作る。指輪作るのが終わって、流迦ちゃんの手元を覗き込む。彼女は一旦手をとめると、口元に微笑を浮かべた。
「…ん?」
「…んーん」
一見笑っているようにみえたけど、どこか虚ろだった。笑うためだけに笑っている、そんな顔。…そんな風に気がついたのは、ずっと後になってからだ。この時は、叔父さんに怒られたことをまだ引きずってるんだ、くらいにしか思わなかった。

紅い蓮華の指輪を流迦ちゃんの薬指に飾り、シロツメクサの指輪を、僕の薬指につけた。白くて冷たい流迦ちゃんの手を取ったとき、背中がぞくりとした。

…数年前、同級生が上水道にはまって死んだ。自分が知っている子が死んでしまって、もう二度と逢えないなんて…。哀しいというより、怖かったことを覚えている。『死』が、こんなにも無差別に牙を剥くってことを、鼻先に突きつけられた気がした。男子と女子が1列ずつ、出席番号順に並んで献花した。僕は『姶良』だから、先生の次。先生がやったとおり、煙が出る箱からお香をつまみあげ、額の位置まで持ち上げて煙の上に落とす。そして死んだ彼(名前は忘れた)のお母さんから、白い菊を受け取った。白い布で覆われた棺を覗き込んで、先生は静々と涙をこぼしていた。少し長いお別れの後、僕も献花のために棺を覗き込んだ…

…冷たい指を紅い蓮華に通すその行為は、あの死者への献花を思い出させた。その感覚とともに、ちらりと妙な罪悪感が胸をよぎった。…僕はずっと、心の奥底では彼女の本当の気持ちに気がついていたんだと思う。つまり僕も、叔父と同罪だった。

その日、流迦ちゃんが話してくれた不思議な話は、どれもこれも死の匂いをさせていた。偶然が重なって。エゴが絡み合って。大事なものと引き換えに。…理由は様々だけど、必ず誰かが悲しい死に方をする。そんな話ばかりを僕に聞かせた。
やがて日が傾き、一番星が出始める時間になった。僕はいち早く蓮華の原に寝転がり、眼を皿のようにして空を見渡した。
「あっ!一番星、見ゆっとよ!」
「……うん」
いつもなら、一番星の頃になると帰り支度を始める流迦ちゃんが、蓮華の上に身を横たえたまま起き上がらない。夕日の残照もいつしか消えて、青白い夜の気配が流迦ちゃんの白い肌に、薄青い陰を落とした。
彼女はまるで夜に呑まれてしまいたいみたいに、そっと目を閉じた。細い指を、胸の上で軽く組んで。それは、あの恐ろしい葬列をまざまざと思い出させた。
「…流迦ちゃん、帰るが」
「………」
「帰るがよ。この辺は街灯がすんなか。危なかよ」
「…もう少し、ここにいる」
「んー…」
しかたなく、僕も寝転がった。…僕が住んでいた辺りは、夜7時を過ぎてAコープが閉まると、ほぼ死んだ街になる。窓から外を眺めても、見えるのは街灯の連なりだけ。その日は月齢が比較的若くて、月明かりも弱かった。夕日が残照も余さず消えてしまうと、蓮華の川原に薄い闇が広がった。…群青色の雲が一陣、月の光を塞いだ。
「…流迦ちゃーん、天の川、見ゆっとよ。てげてげにして帰るが」
天の川の光しか見えない、完全な闇の中。かさ…と草が擦れ合う音がして、流迦ちゃんが半身を起こした。よかった、やっと帰れるよ…と息をついた瞬間、天の川が黒く切取られた感じがした。
「流迦…ちゃん?」
長い髪が、僕の頬にかかった。…流迦ちゃんが、僕を覗き込んでいる。流迦ちゃんの形に、天の川が切取られていた。月が陰っているせいで、どんな顔をしているのか分からない。
「ね、帰るが…」
流迦ちゃんの影が、少しずつ大きくなっていき、その息遣いを首筋に感じた。起き上がろうと思ったけど、両肩に流迦ちゃんの手が掛かっていて、体が動かない。
「流迦ちゃん、…おかしいがよ!こげん…」
言い終わる前に、僕の唇に暖かいものが触れた。その向こうに、流迦ちゃんのかすかな息遣いを感じて、僕は…気が遠くなった。

「***さん…」

耳元に囁かれたその名は、叔父さんが破き捨てていた手紙の宛名と、同じだった…
頭が真っ白になった。考えが…ちっともまとまらなかった。それでも何か言おうとして口を開きかけた瞬間のことだった。
肩を抑えていた両手が、僕の首筋に移った。ひやりと冷たく、僕の首筋を覆った。
「るかっ…」
眼前に広がる最期の光景は、天の川を切取って浮かび上がる、流迦ちゃんのシルエット。月を覆っていた雲が晴れて、薄闇に流迦ちゃんの顔が浮かび上がった。…やがて、流迦ちゃんは両手に体重をかけてきた。喉を通っている、色々な器官がひしゃげる嫌な感覚、息ができない…声すら、出ない。嘘だ、嘘だ、信じない、僕の大好きな、僕のお嫁さんの、流迦ちゃんが、こんな、僕を憎んで、僕を呪って…こんな……

こんなこと、するはずない……!

苦しい息の下、僕の首を絞めながら涙を落とす流迦ちゃんを見た。叔父さんや、叔母さんや、多くの親戚、そして僕…全てに追い詰められた流迦ちゃんが、とめどなく涙を流しながら僕を見下ろしていた。




――僕は、全てを理解していた。流迦ちゃんは、あの宛名のひとが好きなんだ。

誰にも知られず、密かに育んできた恋だった。それがどんなものか、曲がりなりにも思春期の入り口にいた僕には分かった。
僕たちはそれを、土足で踏みにじった。子供ゆえの無知さで、あるいは大人の都合で。薄れていく意識の中で、もう一度流迦ちゃんを見つめる。…死ぬことへの恐怖は、大して長くは続かなかった。ただ、悲しかった。…そんなにも好きな人が流迦ちゃんにいることとか、それが僕じゃないこととか、優しかった流迦ちゃんが僕を憎んでいたこととか、家を出る前にお母さんが、今日はカレーだって言ってくれたこととか、今もお母さんが、帰りが遅い僕をやきもきしながら待ってることとか、でも僕が帰ることは二度とないこととか、…流迦ちゃんが、泣いてることとか。
僕が鼻歌交じりに謳歌していた『幸せな毎日』は、流迦ちゃんの幸せを削り取ることで成り立っていたんだ。
悲しくて、声も出なかった。
だからせめて、目を閉じた。これ以上、僕のせいで泣いてる流迦ちゃんを見たくなくて。
目を閉じた瞬間、頬を涙が滑り落ちた。僕のなのか、流迦ちゃんのかは分からない。そのまま僕の記憶は、吸い取られるように闇に落ちた。


瞼の向こう側に、まぶしい光を感じた。…ここは天国かな。ううん、親より先に死んだ子は、賽の河原に送られると聞いた。じゃ、ここは賽の河原か。上水道にはまって死んだあの子は、うまく石を積めているかな。僕は、うっすらと眼をあけた。

「いっちゃん!!」
「父ちゃん、兄ちゃん起きたがよ!!」

見覚えがない白い天井。僕の顔を両手で挟んだまま泣き崩れる母。おろおろしながら父を呼びに走る妹。のっそりと入ってくる父。そんなものを順繰りに見わたしながら、半身を起こす。父は枕元に転がっていたナースコールを押して「息子が目を覚ましました」と、一言だけ言った。

一日だけ様子を見て、すぐに退院になった。首を絞める力が弱くて、致命傷にならなかったとか聞いた。
「…流迦ちゃんは」
その名前を聞いて癇癪を起こしそうになった母をなだめ、父が静かな目をして応えた。どうしてか分からないけど「お父さん、こんな顔するんだ…」と、不思議に思った覚えがある。
「流迦ちゃんは、病院に収容されたが」
「…怪我したん?」
「そうじゃなか。察してけ」
それ以上、何も聞けなかった。そのあと、とても遠くの病院に収容されたことと、もう二度と流迦ちゃんに逢えないことを、父から言葉少なに聞かされた。

叔父さんたちが僕の家に来たのは、僕が退院した次の日だった。母が会うのを嫌がったので、父が1人で対応することになっていた。『僕に』謝りに来たって話なのに、父は僕を座敷に入れてくれなかった。「…あんしは『わしに』謝りに来たんじゃ」父は苦い顔をして僕を見下ろし、座敷の襖をぴしゃりと閉めた。
「ほんなこて…あのがんたれが、かんげんねこどしくさって、おいも聞いたときゃ、たまがったがよ。事件にせんでもろてありがとな兄さん」
「…流迦ちゃんは、少しは落ち着いたけ?」
父は僕のために、一言だけ聞いてくれた。…聞きたい事はもっといっぱいあった。流迦ちゃんはどうしてるのか、もう泣いてないか。…叔父さんたちは、流迦ちゃんに優しくしてあげてるのか。僕のそんな疑問は、叔父さんが発した一言で全て、崩壊した。

「勘当したがよ。あげな気狂い、家に置いたらとんだ恥さらしだがね」

父が言った通り、僕ではなく父に散々謝罪の言葉を述べて、叔父は帰った。襖を開けると、父は卓に置かれた南部鉄の灰皿に、短くなった煙草を押しつけているところだった。…無駄に礼儀正しい父が、見送りにも出ないなんて珍しいこともあるものだと思った。
「…流迦ちゃん、どうなるん?」
「わからん」父はセブンスターの尻を指でとんとん弾いて一本取り出し、火をつけた。
「僕、全然怒ってないが。流迦ちゃんだけが悪いんじゃなかよ。叔父さん、ないごて、あげないみしこつ言うがね!僕、叔父さんに言ってやるが!」
父は僕を手で招くと、僕の頭をがしがし揺さぶった。父にそんな風に触られたことがないので混乱したけど、これは褒められてるんだな、と思った。
「堪忍せぇ。あんしは、やっせんぼじゃき…」
そう言って、手を引っ込めてぼんやり空を見つめた。
「わしも、じゃ。…あん娘がいっでん苦しか思いしとるごつ、知っとったが」
まずそうに、紫煙をたらたらと零すように吐き出した。
「ぐらしかなぁ…流迦ちゃん」

以後、流迦ちゃんの行方を聞くことはなかった。



「…とまあ、これが僕が知る限りの流迦ちゃんに関する『事件』の顛末、さ」
長い話を語り終え、柚木の方に首を傾けると、柚木は悩ましげに額に手を当てて考え込んでいた。僕と目が合うと、すっと小さく手をあげた。
「はい、柚木くん」
「…えー、分からないことが二つあるんですが、いいでしょうか」
「一個一個、分かりやすく質問してね」
「では一つ目。…話の所々に差し挟まれる呪文の意味が分かりません」
「失敬な!九州の南に位置する某県の方言を呪文呼ばわりするのか!」
「まじで!?…姶良、よくこの短期間でこっちの言語をマスターしたね。今少しだけ尊敬したかも」
「とうとう外国人扱いか失礼な奴め。…で、その方言のせいで、この話のどこを理解できなかったのかね」
「…いや、ざっくりとは理解できたんだけどね」
「じゃ、ノープロブレム。…あ、これは英語ね」
「分かってるわよ。…で、二つ目の質問だけど」
「はいはい、分かりやすく明確にね」
「…この話の中で、姶良のどこが悪いの?」
そう言われて、一瞬まごついた。
「わ、分かりやすく明確にって言ったじゃないか」
「これ以上明確な問いはないでしょ?叔父さんが、地元票を有利にするために、娘を姶良に無理やり嫁がせようとして、思いつめた娘が、一番弱い姶良に怒りをぶつけた。あんたのどこが悪いの、何を考えようがあるの!姶良は被害者で、あの娘は加害者だわ!」
わ、まずい、なんか結構本気で怒り始めた。…これが怖かったんだ。柚木はいつも公正で、明快で、竹を割ったように真っ直ぐに物事を断じる。…その事件の中で複雑にもつれて絡み合った要素とか、そういうものをあまり重要視しないんだ。

だから僕たちは、いつもどこかでぶつかり合う。

そして、僕はいつも『君には分からない』という迷宮に逃げ込んで、柚木を煙に巻いてきた。迷宮をハンマーで破壊しながら追ううちに、打ち疲れてハンマーを下ろし、回れ右するのを待つために。
なんでこんな気分になったのか…さっきのキスが影響してるのかもしれないけど、僕はそのとき、思った。

もう逃げない。柚木が僕を追いかけるにしても、追いつめるにしても。

「…父さんは僕に、『流迦ちゃんの気持ちを考えろ』と警告した。流迦ちゃんも、本当の気持ちをほのめかしていて…僕は、それに気がついてた。でも僕は『流迦ちゃんが好き』っていう感情を免罪符に、全部見ないふりをしてたんだ」
「だけど、姶良は子供で…」
「子供は、全部無邪気で天真爛漫だと思っているのか」
「………」
「僕は昔から、人よりも勘が鋭い子供だった。母さんが財布を置き忘れた位置も、友達が覚えてきた手品のタネも、妹が好きな子も、いつも誰よりも先に気がついた。ついでに言おうか。叔父さんが、なんで選挙のたびに家に来るのかも、薄々感づいてたよ」
「……姶良」
「でも僕は、流迦ちゃんが好きな人に気付けなかった。…おかしいだろ、妹の好きな子なんてどうでもいいものは嗅ぎつけるのに、自分が好きな人の好きな人がわからないなんて。…僕は無意識に都合のいい時だけ無邪気な振りをして、父さんの忠告を無視して、叔父さんの思惑まで利用して、流迦ちゃんを自分の物にしようとしたんだ」
ここまで一息に言い切って、柚木と目を合わせた。
「僕の勘を狂わせたのは、全部『感情』だ。感情に呑まれて、自分が今どれだけ卑怯な手段で流迦ちゃんを苦しめているのかにすら気がつかなかった。…それは流迦ちゃんも同じだ。彼女は誰かの感情に振り回されるあまり、問題をどんどん複雑にした」
僕は金網から体を起こして、蒼く霞む山脈を見渡した。
「流迦ちゃんは、周りの感情に応えようとし過ぎた。…叔父さんを怒らせたくなかったし、僕も泣かせたくなかった。宴会の席で囃し立てる大人たちに不快な思いをさせるのも嫌だった。…ないがしろにしてたのは、自分の感情だけ。自分がどれだけ追い詰められているのか、僕の首を絞めるまで気付けなかったんだ」

「だから姶良は、感情を信じないんだ」

僕が言おうとした台詞を引き取って、柚木も金網から背中を離した。
「でもね姶良。感情を伴わない理屈なんて、誰の心にも届かないよ。聞いた時点で理屈は分かった気がしても、結局みんな忘れちゃうの」
「…だけど柚木」
「だから、今の姶良は良かった」
そう言って、柚木は悪戯っぽく笑った。
「私に伝えたいって思って、喋ってた。『どうせ伝わらない』じゃなくて。…だから、分からない言葉が多かったけど伝わったよ」
そして僕の手に、空の缶コーヒーを返してきた。
「納得はしてないけどね。相変わらず理屈っぽいし…性分なんだろうけど、全部そればっかりになっちゃダメだよ。まずはおごった珈琲の缶を自分が捨てに行く、そんな不条理から学び取りなさい」
「……おい」
言い返そうとしたけど、柚木はすでに鼻歌交じりで階下に続く階段を降り始めていた。…ずいぶんあっさりしてたけど、僕の言いたいことは本当に伝わったのだろうか。不安を残しながら、僕も階段を降りた。

 
 

 
後書き
第十一章は3/16に更新予定です。 
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