【旧】銀英伝 異伝、フロル・リシャール
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女の敵 (前)
女の敵 (前)
10月に入って、ようやくヤン・ウェンリーの周囲は静けさを取り戻した。
世間がエル・ファシルという言葉に、いい加減食傷気味になったとも言えるだろう。あらゆるセレモニーというセレモニーに出席し、英雄としての役割を一通りこなしたヤンにとっては、ようやく待ちこがれた安静と言ったところだった。もっともその一か月あまりの狂乱はヤンの心を思いのほか荒廃させている。彼の心と同様に、ヤンが新しく与えられた官舎の中は、酷い有様である。
そんな中、テレビ電話が入った。むろん、ヤンはだらしなくソファに横たわったまま、それに出ようとはしない。彼の中ではテレビ電話の着信とは、とりあえず無視するもの、という習慣がついてしまったのだった。
ヤンはそれに気付いて苦笑した。
なんという非常識だろう。ついこないだまで、私の家のテレビ電話に電話をかけてくるのは、ごく親しい友人しかいなかった。それがここ最近の目の回る忙しさで、ほとんど誰とも連絡を取っていない。みんな、どうしているのだろうか。アッテンボローはまだ士官学校だろう。ラップはきっと任地にいるだろう。キャゼルヌ先輩は今日も仕事だろう。そういえばフロル先輩の話を聞かない。第4艦隊の任務が終えた、という話だったが……。
「ただいま、留守にしております。メッセージのある方は、発信音のあとにお話し下さい」
『ヤン、出ろよ。どうせいるんだろ』
その声はヤンの大事な友人、ジャン・ラベール・ラップの声だった。慌ててソファから起き上がって電話に出る。
『おお、やっぱりいたな。どうせマスコミや急に増えた親類から隠れて居留守を使ってるんだと思った』
ヤンは肩を竦めるしかない。
「どこからだ? てっきり任地いると思っていたが、近そうじゃないか」
『野暮用でね、ハイネセンに来ている』
「会おうか?」
久しぶりに二人で会って飲むのも良さそうだ。
『……んー、残念だが30分後の便でトンボ返りだ。今年に入ってすれ違いばかりだなぁ。お互い忙しくて』
「こっちはようやく暇になったがね」
『待命中だって? 何もしなくて給料がもらえるとは羨ましいご身分だなぁ』
「気楽には違いないな。次にどういう任務を与えられるか、不安ではあるが」
『ま、それは考えても仕方ない。いずれにしても、おまえさんは今やエル・ファシルの英雄だ。簡単に戦死するような前線には出さないだろう、軍としては』
恐らくラップの言う通りだろう。英雄か、なんと軽い看板か。
『英雄と呼ばれるのがお気に召さないようだな。だが、これでおまえが同期の出世頭だ。期待してるぜ』
ヤンの顔を見てラップが言う。
「この先十年、昇進の予定はないよ」
『十年後が楽しみだ』
「十年後ねぇ。時々思うんだが、軍人の出世は登山に似ている』
『登山?』
「険しい山道、一歩ごとに細まる道を登り続けるか、谷底に転落するか。どちらが楽だろう?」
『暗くなってるなぁ。成功してこれだから、失敗したらどれだけ落ち込むことやら』
ラップはそう言って苦笑いをする。ヤンも、これには苦笑するしかない。自分は命を救って英雄になったんだ。そこまで悲観することもないか。
『そういえば、フロル先輩の話を聞いたか?』
「フロル先輩? ああ、今どうしてるんだ?」
『知らないのか?』
ラップはいかにも笑わずにはいられない、という顔をする。
『フロル先輩、なんと今朝、憲兵隊に逮捕されたそうだ』
「憲兵隊に!? いったい、どうしたって言うんだ?」
ヤンの脳裏を過ったのは、彼の元上官であるパストーレ少将の暗い噂だった。
だが、どうにもラップの顔を見ると違うらしい。
『ああ、参謀本部のエレベータ内で、痴漢容疑だと!』
「だぁかぁらぁ、あれは手が君のお尻に当たっただけだろう!」
「いいえ、あなたは私の尻に触るつもりだったんだわ! 若くて大尉の男なら、どんな女だって従うと思ったんでしょうけど、そうは行きません!」
「違うって言ってるだろう! 君のお尻を触りたいなら、君の彼氏になってから思う存分触るってば!」
フロルのよく回る舌も、今ばかりは空回りである。いや、むしろ状況を悪化させていると言える。
「やっぱり! 私を上官の権力で屈服させるつもりだったのね! 憲兵さん! パワーハラスメントですわ!」
「だ! か! ら! 違うって言ってるでしょう!」
「男なんて、みんな女の敵なんです!」
「そんなわけあるかッ、ボケッ!」
フロル・リシャールは心底困っていた。人事部で新たな辞令を受け取りに来たはずが、その日に乗ったエレベータの中で、痴漢呼ばわりされ、憲兵隊に逮捕されてしまったのである。
時刻は朝の9時、ちょうど朝の一番混み合う時間であり、事実、エレベータは満員であった。そんな状況でじっとしていたら、どうやら左手の甲が目の前に立っていた女性の臀部に当たっていたらしく、いきなり腕を掴まれて、痴漢扱いになったのである。
言い争っている二人を、憲兵二人が遠巻きに見ていた。手を出すものか、悩んでいたのである。当時そこにいた者の証言を聞いたところ、息が詰まるような混み具合であったらしく、恐らくその若き大尉もわざとやったのではないだろう、とのことだった。
「おい、二人の名前は控えてあるのか」
「あ、そう言えば聞いてませんでしたね……」
「おい、そこの二人」
階級が少佐の憲兵が、その二人に声をかける。
「氏名と階級を名乗ってもらおうか」
「……フロル・リシャール大尉であります」
「イヴリン・ドールトン中尉です」
そのとき、なぜか男の方が驚いたような顔をした。
「なんだ、知り合いかね、リシャール大尉」
「いえ……」
フロル・リシャールはそう言って女の顔をまじまじと見つめている。
「私はこんな不愉快な男知りません!」
イヴリンは吐き捨てるように言った。
だがリシャール大尉は何かを考え込むような様子になってしまった。いったい、なんなのだ?
「憲兵の少佐殿、この場はとりあえず釈放してくれないか……」
しばし考え込んでいたフロルが口にしたのはこれだった。
「なんでよッ! あんたは婦女暴行未遂で逮捕よッ!」
「ドールトン中尉、もし私を正式に告訴したいのならば、それもいいだろう。だが、それは明日にしてくれないか」
フロルは顔を上げて、真面目な顔でそう言った。
「何よ、あんた今日一日で私をどうこうできると思ってるの?」
「いいから、今日一日、待ってくれ。それから俺から訴えるなり殺すなりすればいい。だから、一日待ってくれ」
「本当でしょうね、逃げたりしないのね!」
「ああ、しない。少佐、あなたがこの場の証人になってください。明日、私はまたこちらに出頭します。それでいいですか」
結果的に、今回の逮捕劇は一日の猶予を与えられることになった。
午前11時を過ぎた頃、キャゼルヌの勤務室を叩く音がした。
フロルである。
「おお、来たな、女の敵」
キャゼルヌはその不機嫌そうな顔を見て、言葉を投げかけた。フロルは事実、不機嫌である。当たり前だろう、朝っぱら捕まってさっきまで喧々囂々とヒステリックなやり取りをしていたのだから。
「一応聞くが、本当にやってないんだろうな」
「……」
フロルは不機嫌な顔と無言をもってこれに答えた。
「それならいいんだ。またおまえも面倒に巻き込まれたもんだな。おまえはなんだってそういう面倒事を引き寄せてくるんだ」
「……俺だって聞きたいね。さて、お願いがあるんですが」
キャセルヌは書類を処理する手を止めた。フロルの声色が変わったからである。
「なんだ、逮捕が一日延びただけだろう? それでいったい何がお望みだ」
「とある事件の資料を用意して頂きたいのですが」
それは一年前に発覚した軍需産業と軍の汚職事件であった。
そのあと、フロルがすぐにグリーンヒル中将に連絡を取った。グリーンヒル中将は本来の史実よりも早く中将に昇進していた。エル・ファシル騒乱の事後処理の功績によってである。またこれによってフロルはグリーンヒル中将に大きな貸しを作ったのである。それはちょっとした大きさの貸しなので、一度や二度はでは清算でぬことはフロルも、そしてグリーンヒルもまた、理解していることだった。
今回はその貸しを一つ使ったということである。
フロルがグリーンヒル中将に願ったのは、彼が個人的に信頼のおける情報部の人間を紹介してもらうということだった。
フロルがその男に会ったのは、作戦本部ビル近くの喫茶店だった。情報部の人間と会う、というのはそれ自体が危険な意味を持つのである。例え今回のような小事で関わるのであっても、最低限の気を使う程度の常識を、フロルは有していた。
「フロル・リシャールだ」
隣りの席に座った男に顔を会わせぬまま、名乗った。
「……あんたが予言者フロルか。グリーンヒル中将が言ってたぜ」
「俺が名乗ったのだから、おまえも名乗って欲しいものだが」
「バグダッシュ大尉だ」
「ほぅ……、今日はどうやら厄日らしいな」
「なんだその言い方は」
「いや、こっちの話だ。それで、これがお願いしたい事件だ」
フロルはその資料をバグダッシュに渡した。バグダッシュはそれに軽く目を通す。
「ふん、軍需投機家と軍人の汚職事件か……。サローニ中佐か。こいつは帝国に亡命だと? 下らん事件だな」
「その事件、概ねにおいてはその通りだが、一人だけ哀れな女がいてな」
「む? この軍人の愛人か」
バグダッシュはその名を見つけたようだった。添付されている写真を見て、音の出ない口笛を吹いた。
「美人だな。こいつがどうした?」
「その事件は未だに憲兵隊によって審理中だ。そして、だ」
フロルはそこでバグダッシュに顔を向けた。
「今日中に彼女が被害者であるという証拠を見つけ出して欲しい」
「今日中だと?」
バグダッシュは目を見開いた。
「……グリーンヒル中将に呼び出された時に嫌な予感はしてたんだがな。人使いの荒い男だ、おまえさんは」
「一応補足しておくとだな、彼女はその男に結婚を餌にその企みに引きずり込まれた哀れな女性だ。正直言ってそんな男は俺自身がぶん殴ってやりたいくらいだが、それだけでは彼女が救われん。どうにかして助けて欲しい」
「ふん、まぁいいだろう。だが証拠が見つからなかったらどうする」
フロルは意地の悪い、彼特有の笑いを頬に浮かべた。
「ないものをあることにするのは、情報部にとっては朝飯前だろ?」
「捏造か……。なかなかえげつない男だな、おまえ」
「俺は個人的な主義でな、美しい女性には最大限親切にすると決めてるんだ」
フロルは手元の冷め切ったコーヒーに手を伸ばした。
「筋書きは任せる。不自然にならない方法で、彼女に情状酌量が行くようにしてやってくれ。できれば無罪が望ましいが……」
「まぁそこは任せろ。グリーンヒル中将が俺を信用する理由を、おまえに見せてやる」
そう言って小声で話していた二人の男は、喫茶店から姿を消した。
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※訂正※
作戦本部→人事部
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