【旧】銀英伝 異伝、フロル・リシャール
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紅茶と葛藤
紅茶と葛藤
「おお、影の英雄殿のお出ましとは痛み入るね」
「キャゼルヌ先輩、やめてくださいよ」
「いやはや、半年前の話は今でも軍部で話題でな、パストーレは随分といい部下を持ったもんだって話だ」
「恐縮です」
「いつ戻った?」
「一昨日、ようやくハイネセンに戻ってきました」
フロルはそう言うと、キャゼルヌの個室に備え付けてあるソファーに、どっしりと座った。フロルは一年半の第4艦隊での任務を終え、こちらに戻ってきたところだった。
「キャゼルヌ先輩もお元気そうで何よりです。俺にとっちゃあこの一年半、怒濤のように忙しかったですからね」
「まぁ俺だって忙しかったさ。士官学校の仕事から軍の後方任務に戻ったのは半年前だ。ヤンは今どこにいたっけなぁ。ラップは元気にやってるそうだ。アッテンボローはおまえから引き継いだなんとかって地下組織を元気に運営中だそうだ」
「それは良かった」
フロルは肩を竦めた。
「そういえばおまえ、もう少ししたら昇進できるそうじゃないか。よかったじゃないか」
キャゼルヌが手元の書類から目を上げずに声をかける。キャゼルヌは後方任務のプロとして同盟になくてはならない人材である。その事務処理能力はあの巨大な要塞イゼルローンの実務を一手に担っていたことからもわかるというもの。
「私は運が良かっただけですよ。多少、生き残るために策は労しましたが」
「そこがヤンとは違うところだ。ヤンが今、なんて呼ばれてるか知ってるか?」
「『怠け者ヤン』とかですかね?」
「惜しいな、『穀潰しのヤン』だそうだ」
キャゼルヌは意地の悪い顔で笑いながら言う。
「そういえば今度、ヤンも異動するって聞きましたが?」
「エル・ファシルだそうだ。あそこの宙域の警備部隊の幕僚になるらしい」
「それはたまにはちゃんと働け、ってことでしょうね。あいつももう少しおべっかを使うことを覚えれば、一人前なんですが」
「それもそうだが……奴には無理だろう」
「まったくです」
そこでドアが叩かれ、一人の大尉が入ってきた。亜麻色の髪の30代半ばの男である。どうやらお茶を持ってきたようだ、とフロルが思ったとき、その髪の色が引っ掛った。この男は、もしかして……。
「ミンツ大尉、ありがとう」
差し出されたのはコーヒーだった。キャゼルヌもお茶を飲むために書類仕事を言ったん中断するらしく、仕事机から立ち上がった。
(そうだ! ユリアンの父さんじゃないか!)
そのとき、フロルにはあの可愛い半人前の坊やの顔が思い浮かんでいた。似ている。この大尉は明らかにユリアンの父親だった。彼は確か原作では、ユリアンが8歳の時に戦死したのだ。そしてこのあとユリアンは冷たい祖母に引き取られ、2年間いびられ続けたのち、施設に行って、それからヤンの元に行くことになるのだ。
その瞬間、フロルの心の中を駆け抜けた激痛は、余人には理解できぬものであったろう。フロルは誰が、いつ、死ぬのかを知っている。それは前世の記憶、というチートなものであって、人に言える類のものではなかった。だが、それを使えば、本来は死ぬであろう人物を生かすことも出来るはずなのだ。事実、フロルはそのために本来は望まぬ軍隊生活を過ごしている。もしこんな面倒がなければ、それこそ悪たれコーネフと共に、フェザーンで自由を謳歌してるだろう。だが、それがしたいのではなかった。
彼は愛すべき人たちが死ぬのを、諦められなかったのである。
だが、このミンツ大尉が戦死しなければ、ヤンの元にユリアンが行くこともなくなる。ユリアンという思春期の少年にとって何よりも代え難いヤンの薫陶を、受けることが出来なくなるのだ。ユリアンの父親を、できるなら助けてやりたい。だが、それが本当にユリアンにとっていいことなのか。いや、実の家族の暖かみは誰より自分が知っている。だが、これからの波乱の時代に、ユリアンの果たす役割はかなり大きいのだ。
そしてもう一つ、彼を縛り付けるものがあった。それは彼はまだ士官学校出の中尉に過ぎなかったということである。人事に対して口を出す権利もなく、そんなツテもない。そもそもこれから2年間このミンツ大尉の命を見守り続けるなんてことはできないのだ。フロル自身の命を途絶えさせないことだけで、彼にとっては精一杯だったのだから。
そんなフロルの葛藤は、キャゼルヌにもミンツ大尉にも気付かれることはない。
「……コーヒーか」
「む? フロル、おまえはコーヒー好きだったじゃないか?」
フロルは士官学校時代からコーヒー党の党首だった。一日の3、4杯は飲む、という男で、こいつが喫茶店で飲むのは必ずと言っていいほどコーヒーであった。ちなみにもちろんのことだが、紅茶党の党首はヤン・ウェンリーである。
「……なんとなく、今日はそんな気分じゃないんです。美味しい美味しい紅茶が飲みたくてね」
「おう、それは良かったな。ミンツ大尉は紅茶を淹れさせたら天下一品の男だ。今日はおまえが来るからと思ってコーヒーにさせたが、最近は俺も紅茶ばかり飲んでる始末でね」
「じゃあ、紅茶をお願いできますか?」
「わかりました。美味しい一杯をご用意させて頂きますよ」
そう言うと、ミンツ大尉はとても柔らかい笑顔を零したのである。
「もしよかったらミンツ大尉もどうですか?」
気付くとフロルは、そう彼に話しかけていた。
そのあとは、三人でとてつもなく美味しい紅茶を飲みながら色々と話した。ミンツ大尉には可愛い男の子のお子さんがいること、母親は既に他界していること。フロルは一種、異様なまでの執着でミンツの話を聞きたがった。無論、フロルも自分の家族話を披露していたので、なぜか家族自慢談義で終始したのだった。キャゼルヌに言わせれば「フロルがあんなに家族の話をしたのは初めてだった」ということで、フロルはその紅茶の味と、ミンツ大尉の話を刻み込むようにどん欲に覚えようとしていた。また、その最中、ミンツ大尉は家族三人で写った写真を見せたという。
「あいつ……、私の妻なんですが、早くに逝ってしまったもので、三人で写ってる写真は少ないのです」
その写真には、まだ2歳くらいの亜麻色の坊やと、その子をそっと抱く美しい女性、そしてミンツ大尉が写っていた。
フロルはその写真を手に取って見て、ひとしきり感想を言った後、自分の家族の写真も見せて楽しそうに語った。キャゼルヌにして見れば「俺だってあいつの家族写真なんて初めて見たよ。そもそもあいつが手帳に家族の写真を入れとくような男だと知ったことの方が、驚いたね」という話であった。
そしていい加減話も尽きたところで、お開きになったのだが、ここで一つ小さな出来事があった。ミンツ大尉の写真がどこかに行ってしまったのである。
「あれぇ、どこへ行っちまったんだ?」フロルは首を傾げる。「キャゼルヌ先輩の書類に埋まってるんじゃないですか?」
「バカ言え、そんなわけあるか」
「すみません、ミンツ大尉。探しますからちょっとお待ち下さい」
「いえ、いいですよフロルさん」ミンツ大尉はそこで少し恥ずかしそうに言った。「さっきの写真は特にお気に入りで、焼き増しが何枚も家にあるんです」
「ああ、それは」フロルは頭をかきながら困ったように笑う。
気にしないで下さい、とミンツ大尉は言った。
「キャゼルヌ先輩、今日は一杯どうです?」
ミンツ大尉が部屋を出てった後、フロルはキャゼルヌにそう聞いた。
「俺は仕事だ。午後が楽しい楽しい家族話で潰れてしまったからな。処理してから帰るよ」
「さすが独身貴族」
「俺も、なんだか家族が欲しくなった気がするがな」
「先輩にはきっといい奥さんができますよ」
「なんだ、前と言ってることが逆じゃないか?」
フロルはキャゼルヌの部屋を出て、一人宿舎に帰った。
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