【旧】銀英伝 異伝、フロル・リシャール
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第3次ティアマト会戦(6)
▽前回までのあらすじ
ラインハルトによる遊撃によって、第4艦隊が撃破された。後背のラインハルト艦隊、前方のミュッケンベルガー艦隊によって窮地に陥る同盟軍第5艦隊。
第3次ティアマト会戦の、最終幕。
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第3次ティアマト会戦(6)
叩き付けたヘルメットが、壁にぶつかって大きな音を立てた。投げつけたオリビエ・ポプランは憤怒やるかたないと言った様子で、続けて壁を殴りつける。彼を苛立たせている要因は一つではなかっただろう。
ポプランがイワン・コーネフのために敵を一手に引き受けたのは数時間も前の話であった。ポプランは見事6機を撃墜し、十分な時間を稼ぐことに成功したのである。彼の前から敵戦闘艇部隊が撤退し、彼自身もまた同盟軍艦隊に引き返した。彼が補給のために帰還したのは元いた第5艦隊ではない。既に戦端が開かれていたため、彼はもっとも近くにいた第4艦隊の空母に着艦したのである。
彼にしてみれば、戦闘により近い位置で戦闘にいち早く参加したいという思いもあったろう。6機の敵を沈めたとしても、部下を殺された憤りは収まっていなかったのである。
そして彼が食堂で軽食をとっている時、ミューゼル艦隊の突撃は起きた。
ポプランもまた、猛烈な艦の揺れがいったい何によるものかを瞬時には理解しえなかった。それほどでたらめに乱暴な震動だったのである。だが彼は慌ててかけよった肉視窓からすぐに状況を理解した。突入を開始した敵艦隊が、跳躍《ワープ》による時空震を攪乱手段として用いたということをである。
食べかけのサンドイッチを口に詰め込み、ポプランは愛機の元へ走った。彼の乗った空母は艦体の制御を一時的に失って、警報のサイレンがけたたまく鳴っていたが、それと同じ音が彼の頭の中でも鳴り響いていたのである。彼は確信していた。この混乱を敵艦隊が見逃すはずはない、と。
宇宙船は周りを真空で囲まれているため、外の音が届くことはない。だが、一際大きな光が窓を照らしたのを見て、ポプランは予想を確信を深めた。
エネルギーと弾薬の補填が80%の段階で、ポプランは発艦を要請。敵艦隊が攻め込まれ混乱極まる状況下で、管制は的確に発艦指示を出した。ポプランが発艦した4分後、その空母は撃沈をされた。
そしてまともな指揮系統が回復することもなく、ラインハルト艦隊に第4艦隊は強行突破をされたのだった。
まさに乱戦、しかも一方的に同盟軍艦隊だけが強いられた乱戦であった。ラインハルトの指揮系統を重点的に狙うという戦術もまた、これに拍車をかけていた。
そんな中、ポプランは個人の技量で殺戮の嵐を切り抜けた。帝国軍のワルキューレや宙雷艇を10隻以上撃破したのである。小回りの利くスパルタニアンにとって、乱戦こそ活躍の場だった。
だがそれとて、大局に影響を与えるものではなかったのである。
1945時。
ポプランは随分と数の減った空母のうちの一つ、空母ラクスミーに帰還した。周りを見ても、空母級、小艦隊規模の旗艦の数が恐ろしく減っているのがわかった。乗っていた中級指揮官を格納可能な空母と言えども、その能力が十分に発揮しているとは言いがたかった。格納するべきスパルタニアンもまた、多くが撃墜されていたのである。
第4艦隊はラインハルトの熾烈な攻撃によって、文字通りボロボロになっていた。
そうしてポプランはヘルメットを食堂に入るなり、壁に叩きつけたのである。
「こんなバカげた戦いがあるか」
それは無念が滲んだ独り言だったろう。ポプランが死線を乗り越え、同盟軍に知らせたはずの敵奇襲艦隊は、結局容易く同盟軍を突破していったからである。彼の努力が、ムラサメ少尉の犠牲が、結局報われなかったように思えたのだ。
もっともそれは自虐が過ぎるという話であった。ポプランがその一端を務めた防衛網によって、同盟軍は寸前のところで完全な奇襲を防ぎ得たのである。第5艦隊主席幕僚、フロル・リシャール准将が手配した防衛網が間に合わなければ、同盟軍は理想的な——それは帝国軍にとってという意味であるが——挟撃のもと、完全な敗北を喫していただろう。
だがそれはポプランには関係のないことだった。
ポプランにとっては、目の前の敵艦隊が、偉大なるポプラン様がいた第4艦隊をいいように弄んでいったことが悔しかったのである。悔しく思い、そして驚いてもいた。彼の心には、いつの間にか慢心が蔓延り、帝国軍を軽視してしまっていたのだ。その帝国軍にしてやられたことが、彼には許せなかった。
もしかしたら、先行させたイワン・コーネフの消息が未だ知れないことも、ポプランを苛立たせる要因だったかもしれない。帝国軍の奇襲が本隊に伝わっていることからも、コーネフが無事情報を伝えられたことは間違いないだろう。だが、彼の親友兼相棒と会えないということが、彼には面白くなかったのである。
後世の人々がオリビエ・ポプランという|軍《・》人《・》を評価するとき、大局的視点の欠如をしばしば指摘した。彼は一介の飛行部隊長としては類い希なる英雄であったが、のちにヤン・ウェンリーのもとで階級を上げるに連れて増す、その役割の重要性には応え切れていなかったのではないか、と言われていたのである。
だがそれは厳しすぎる評価というべきだった。人には人の果たすべき役割というものがあって、この時代のこの場面において、ポプランは少なくとも十分すぎるほどの能力を有していたと言えるだろう。
閑話休題。
ポプランはどこからともなくウィスキーを取り出し、乱暴に呷った。喉が焼ける熱さで、一瞬頭が冷める。だが、彼の気分が落ち着くには、まだまだ酒の量が少ないというものだった。
ポプランは乱暴な振る舞いで椅子に腰掛けたが、それから先にすることはなかった。
少なくともその時には、頭脳部を失った第4艦隊は未だ軍隊としての秩序を回復することもできていなかったからである。
第4艦隊司令部旗艦、レオニダスは撃沈され、司令官のパストーレも傷を負ったという。首脳部も負傷者多数で、現在代理の旗艦として空母ラクスミーが選ばれていた。その話を聞いたポプランは、怒鳴り込みに行くという名案が頭をよぎっただろうが、結局それを実行することはなかった。
それが無益なことであると理解していたからに違いない。
ポプランが食堂で酒を呷っている同時刻。
とある一隻の標準戦艦が第4艦隊空母ラクスミーに接舷していた。
それは戦艦ヒスパニオラ。
第5艦隊所属。分艦隊旗艦仕様。
そこに乗っていたのは、戦局を収拾するという重要な任務を担った、第5艦隊主席幕僚、フロル・リシャールだった。
***
「無様な姿を見せるな、リシャール准将」
ラウロ・パストーレ中将は、疲れきった様子でベッドに横たわっていた。血の滲んだ包帯が頭に巻かれ、ギブスに首を固定しているかつての上司の姿は、ただ痛々しいばかりだった。
彼は暗い艦長室の中、小さく取られた肉視窓から外の窓を見ていた。影になって顔は見えずとも、その背中がすべてを物語っている。意気消沈し、悔しさを背負った背中に、フロルは見つめた。
「フィッシャー准将は?」
「|MIA《戦闘中行方不明》だ。旗艦に総員退避命令を発したあと、各員が脱出艇で避難した。私は……その時には意識を失っていたから……気づいたときには行方不明になっていた」
「……中将がご無事であっただけでも、幸いと考えねば」
「だが、兵の犠牲が多すぎたな」
パストーレの言葉の通りであった。第4艦隊はその4分の1の艦艇が撃沈され、大破や中破もさらに4分の1に上る。緊急の改修措置で作戦行動に耐えうる艦艇は約半数の5000隻。無傷の艦が多いのは幸いと言えたが、これも単純に帝国軍が殲滅よりも突破を優先しただけだろう。もしもラインハルトが第4艦隊を殲滅しようとしていたならば、第4艦隊は今頃、文字通り宇宙の塵と消えていたことは間違いない。
「パストーレ中将、今は後悔をするよりも、現状に対応しなければなりません。後悔や懺悔はあとでいくらでもできるのですから」
フロルはこちらを見ようともしないパストーレに向かって、そう言った。フロルがここまで来たのも、敗軍の将を慰めるためではないのだ。
パストーレはフロルに顔を向けた。
その時、フロルはその茫洋と感情の抜け落ちた顔を見て、背中に寒気が走るのを知覚した。普段バカな道化のような笑みを浮かべていた顔には、一切の感情が残っていなかった。乱れきった髪と、青白い顔。そして何より、その目だった。
——目が違う。
以前はこんな目をしていなかったはずだ、とフロルは思い起こしていた。こんな得体の知れないような、気持ちの悪い目ではなかったはずだ。フロルはそんな目を知らなかった。いったいその目にどんな感情が潜んでいるのか、それすらも読み取れない。
「パ、パストーレ中将……」
「私が半分に減らした残存艦隊で、君は何をするつもりなのかね」
パストーレは無表情のままそう言った。いつもの、まるで仮面を被ったような気持ちの悪い笑顔も浮かべず、まったくの無表情でフロルに問いただしたのだ。
フロルは既にパストーレという人間がわからなくなっていた。
5年前、彼がパストーレの第4艦隊を離れ、ビュコック提督の第5艦隊に行く前までは、絶対にこんな目をするような男ではなかった。
——ではこの5年でいったい何があったというのだ。
フロルはいつになく、手に汗が滲んでいることに気がついた。
——この男は、誰だ。
「リシャール准将」
パストーレの声に、フロルは混乱した思考を切り上げた。
「……残存艦隊5000をもって、帝国軍本陣に側撃をかけ、その隙に同盟軍艦隊は撤退します」
「だが、5000隻程度では敵を打ち破れまい。それに帝国軍が追撃をかけ、ハイネセンに長駆する可能性があるのではないか」
「帝国軍は今回の会戦で少なくない被害を負っています。ましてこの宙域は帝国軍の補給基地からも遠く、補給線は長く伸びきっており、長期的な作戦行動を可能にするものではありません。付近に駐留に適した惑星は存在せず、ここで同盟が撤退しても帝国が居座ることはないでしょう。同盟も帝国も、この戦闘の限界点に近づいているのです」
パストーレはまるで笑い方を忘れたような奇妙な笑みを、その頬に浮かべた。
「さすがリシャール准将。明晰極まる戦況分析だ。すると、君はその作戦目的のもと、私から指揮権を奪おうと言うのかね」
フロルは耳を疑った。
——奪う?
「……パストーレ中将は名誉の負傷を負われました。軍医の診立てでは現状況下においては作戦指揮も適わないと——」
「名誉の負傷だとッ!?」
パストーレは叫んだ。
「どこが名誉の負傷だ! 俺は自分の艦隊の半数をむざむざと食い破られ、俺自身はこの有様だ! おまけに旗艦はぶっ飛んで、こんな無様な姿を見て、どの口が名誉だとほざく!」
血の上った顔で、唾を飛ばしながらパストーレは叫んだ。
血の混じるような、叫び。
全身傷だらけで、そんな大声を上げれば、身体が痛まないはずはない。
だがそれすら忘れたように、パストーレは叫んだ。
「俺は、こ、これ以上、失敗するわけにはいかんのだ。この艦隊は俺の艦隊だ……。誰にも指揮権は譲らん。お、俺は——」
「そのために味方を見捨るというのですか!」
パストーレは血走った目でこちらを睨んだ。
「味方だと! あいつらは俺を当て馬にして、帝国の餌にしたんだ! お、おかげで俺の艦隊は——」
「あなたの艦隊は約1万隻、対する帝国軍も約1万隻。第4艦隊は十分な時間をもって迎撃態勢を整え、両軍は正面からぶつかった。どんな奇策を敵が用いたとしても、あなたは互角の敵と戦って負けたんです。あなたの指揮で」
フロルは、あえて残酷に事実を突きつけた。
帝国軍の指揮官があの、ラインハルト・フォン・ミューゼル、常勝の天才だとしても、戦力は互角だったのだ。
「帝国軍の将軍が、パストーレ中将より優秀であったから、同盟軍は負けたんです。その事実から逃げないでくさい。あなたは劣っていたから、負けたんです」
「そ、それが上官に向かって言う台詞か!」
パストーレは起き上がろうとして、失敗した。彼は体勢を崩し、ベッドから転げ落ちたのだ。医療器具が押し倒され、耳障りな物音を立てる。
そして残ったのは、
沈黙。
室内にはパストーレの粗い息遣いだけが響いている。
パストーレはあるいは落ちた痛みで、声を上げられなかったのかも知れない。
呻き声を、噛み殺していたのかも知れない。
ただ粗い息だけを漏らして、地面を見つめていた。
フロルは何も、できない。
出来たのは、ただその姿を見据えることだけだった。
「……准将なら、リシャール准将なら、あの艦隊に勝てたと言うのか……」
しばらくしてパストーレが魂の抜けたような声を出した。
あの艦隊とは、ミューゼル艦隊を指すのだろう。
「勝てなかったと、思います」
フロルは、正直に言葉を吐き出した。
パストーレはフロルを見ようとはしなかった。
「……現刻をもって、第4艦隊の指揮権をフロル・リシャール准将に委嘱する。総司令部の指揮に従い、これを指揮せよ」
「はっ!」
フロルは何もない壁に向かって、敬礼をした。
そして踵を返す。
もうその部屋に用はなかった。
***
艦隊上方より同盟艦隊約5000隻来るの報が入ったのは、ラインハルトの艦隊が強行突破を終え、ミュッケンベルガー艦隊と攻撃の主役を交代した直後のことであった。時刻にして、2124時のことである。ラインハルトはすぐにその半個艦隊が、自らが蹴散らしてきた同盟艦隊の残存兵力であることに気づいたが、同時に多少の驚きをもってそれを聞いた。
艦隊の損害規模こそ十分ではなくとも、立て直しには多くの時間を要すると考えていたのである。
「同盟にもなかなか優れた将がいるようだ。まさか、この|第3次ティアマト会戦《茶番劇》の終幕に間に合わせるとは、な」
ラインハルトは遮音フィールドの作動した指揮官席に座りながら、正面のホログラフディスプレイを見つめてそう言った。
「計算が狂いますね」
横に立つキルヒアイスは悔しげな頬の歪みを見せるラインハルトを見つめながら、わざと直裁な言い方をした。言われたラインハルトはその次の瞬間こそ、キルヒアイスを氷の矢のような視線で睨み付けたが、一瞬でそれを和らげた。キルヒアイスにはいつも通りの穏やかな笑みが浮かんでおり、ラインハルトもキルヒアイスに怒りをぶつけても意味がないことに気づいたからである。
「第4艦隊の指揮官は、ラウロ・パストーレと言ったな。それがこちらの予測よりも優秀であったと言うことか」
「旗艦の撃沈は確認しました。それ自体は指揮官の死を意味するものではありませんが、他の指揮官に指揮権が引き継がれた可能性はあります」
キルヒアイスはあくまで可能性の話をしていたが、現実はそれが事実であった。
第5艦隊の主席幕僚である男が、本隊との連絡が途絶した第4艦隊との意思疎通と、連携した撤退戦を図るために第4艦隊に派遣されていたからである。
宇宙それ自体は広大であり、それを把握するための電磁技術も高度に発達していたが、戦場における両方が行う妨害工作が、小戦力の戦中移動を可能とした。つまり、少数の艦艇で動き、戦場の混乱の中、フロルは第4艦隊に辿り着いたのである。
「あの艦隊の目的が何処にあるのか、キルヒアイスはどう思う」
「敵は攻撃力の高い戦艦を前面に押し出しています。攻撃力に特化した陣形です。戦術的なレベルでは敵第5艦隊を攻撃せんとする我が軍中央部隊を、天頂方向から急襲する形になります。ですが、その戦略目的は——」
「撤退だな」
ラインハルトは簡潔に言い切った。
「帝国軍も叛乱軍も、既に完勝はありえません。このまま状況が進行しても、徒らに損耗を増やすだけです」
「ふんっ、下らん。そもそも作戦目標も定まらないような作戦を遂行する軍上層部が無能なのだ」
ラインハルトにとって、今回の中途半端な軍事行動の原因は、すべてそこに集中するのであった。補給線も困難というほどではないにいしろ、遠く敵国領内に侵攻している。軍事行動というのはそもそも目的を達成するための手段なのであって、手段を目的とした暴挙はラインハルトの嫌うところだったのだ。
「一撃を加え、中央艦隊と呼応して、全艦隊撤退を図るか。そして帝国にそれを追撃する余力はない」
せめてラインハルトの艦隊の補給が間に合えば、効率的な追撃がかけられるのだが、その猶予はなかった。ラインハルトの艦隊は同盟第5艦隊に対する補給を度外視した加重攻撃によって一時的に戦闘不能に陥っており、最前線を脱しつつ補給を再開していたが、ものの30分では補給が完了するべくもなかった。
ラインハルトの艦隊は十分な働きをし、帝国は優勢に戦いを進めていると言えたが、その公算も崩れたのである。
「我が艦隊の補給が完了するまで残り3時間48分です。ですが——」
「本隊が攻撃されるのを黙って見ているわけにもいかないだろう。まったく小癪な叛乱軍め」
「陣容はいかがなさいますか?」
「装甲の厚い艦から補給を優先させろ。それらの艦を前面にして戦列を整え、側面から妨害をかける。この宙域からではミュッケンベルガーの艦隊にはあの敵部隊の方が先に接触する。万一、奇襲をかけられてミュッケンベルガーが戦死でもしたら、俺の武勲に差し障る。ミュッケンベルガー艦隊の側面に一撃を加えんとする敵艦隊の側面に我が艦隊は割り込む。下らんが、盾となる他あるまい。ミュッケンベルガー艦隊はまだあの部隊に気づいていないのだろうからな」
3次元レーダー投影ホログラフを見ながら、ラインハルトは唇を噛んだ。
***
——なんとか間に合ったか。
ビュコックはそう思っていただろうが、それを口に出すことはなかった。大軍を率いる将とはそういうものである。安易に感情を出してはならない。むろん、味方を奮い立たせる時は檄を飛ばすが、だからといっていつも興奮状態にあるわけにもいかず、かといって不安や動揺を見せてもならないのだ。ビュコックは老将だが、頼りになる宿将だ、と味方の将兵に思われるためには、頼られるような立ち振る舞いが要求されるのである。
彼はホログラフで表された戦況図に映った同盟軍の半個艦隊を見ていた。その半個艦隊は何よりもスピードを優先するように、亜光速で天頂方向から近づいていた。急襲をかけようとしているのは明確であったし、その目標が帝国軍中央艦隊のミュッケンベルガー艦隊であることも、わかっていた。
ビュコックにとっても、第4艦隊を突破してきたミューゼル艦隊の猛攻は辛いものであった。あれほどのプレッシャーを、たった一個艦隊から感じたのは、彼の長い軍役においても初めてのことであった。
「あるいは、儂が若い頃に見たブルース・アッシュビー提督が帝国軍にいたとしたら、あのようなプレッシャーを感じたかも知れんな」
という言葉は、のちにユリアン・ミンツが遺した著書に記せられたビュコックの言葉であった。もっとも、アッシュビー自身は猪突猛進型の将ではなかったわけであるから、あくまで艦隊の勢いという意味だったろう。一個艦隊を思いのままに撃砕したミューゼル艦隊の勢いは、守勢に回らざるを得なかったビュコックをして苦しませるものだったのだ。
ビュコックの後ろに立っていた副官のファイフェル少佐が歩み寄る。
「前方の帝国軍中央艦隊の攻撃が乱れています。我が艦隊も、残りの弾薬をすべて使い切る勢いで反撃するべきかと」
「当初の予定通りじゃな。ただ、ミューゼル艦隊とやらにやられた被害が、予想を大きく上回っておるわけじゃが」
ビュコックは疲れたような仕草で、自らの顎を触った。老境に入った身には、長丁場の戦場は辛い。だが、その目はまったく死んでいない。鋭く、前方を見ていた。
「リシャール准将が作り出した好機です。呼応して、一矢を」
「報わんとならんじゃろう。死んでいった者たちのためにも」
ビュコックは座っていた司令官席から立ち上がった。そして声を上げるため、息を吸い込んだ時、とある情報士官が驚きの声を上げた。
「リシャール准将の部隊が針路を変更しました!」
「どういうことだッ!」
ファイフェル少佐がビュコックよりも先に声を上げた。駆け寄って、情報士官のコンピュータを覗き込む。ビュコックは視線を強くして、言葉を飲み込んでいた。艦橋前方の巨大スクリーンを凝視している。リシャール部隊の針路予想線が書き換わる。
リシャール部隊は、ミューゼル艦隊に直進していた。
「第5艦隊に告ぐ。装甲の厚い艦を前に、防御陣形を整えよ」
ビュコックは指揮官席の艦隊放送のスイッチを切った。
ファイフェル少佐が振り返る。
「提督……」
「フロルが策をしくじるとはな……いや、違うかあれは……」
ビュコックは口を閉ざした。
どちらにしろ、もう我が艦隊にできることは——
「防御を固めるしかあるまいよ」
***
フロルは、さきほどまで突撃を叫んでいた口を閉ざし、目の前のスクリーンで第4艦隊の復讐を受けているミューゼル艦隊を見ていた。フロルのすぐ後ろには、副官として艦橋に控えていたラオ少佐がぴったりと立っている。
フロルも、ラオも無言だった。
レーダー士官や、各部署から届く怒号が艦橋を満たし、二人の沈黙に誰も気づいていない。
「どういうつもりだ、ラオ少佐」
フロルは前を向いたまま、沈黙を破ってラオに問いかけた。フロルは振り返ることができない。
その声には静かな怒りが込められていた。
フロルの背中には、ラオのブラスターが突きつけられていた。
「上官に対して銃口を向けることは、上官反抗罪以外の何物でもないぞ」
「誰も気づきません」
ラオは平坦な声で言った。
「艦橋には監視カメラがある」
「既にダミー映像が走ってます」
言うと、ラオはもう一度ブラスタをフロルに押しつけた。
「何が目的だ」
「それは私の言葉です。リシャール准将」
ラオは視線を前方のスクリーンに据えたまま、底冷えのするような声で言った。一切の感情を廃した声だった。
「——あなたは何をしているんですか?」
フロルは答えない。
「我々、第5艦隊所属戦艦ヒスパニオラが第4艦隊に派遣された目的は、同盟軍撤退の隙を作り出すために、敵本隊の側背を突くことです。敵ミューゼル艦隊が我が艦隊の側面から迫っているとはいえ、当初の作戦目標を達成することに対する障害とはなりえません」
「だが損害は生じる。さきほど惨敗を喫した敵に、横っ腹を見せつけたままでいいと言うのか。我が艦隊の前に出てくるというのなら、それを叩くのみだ」
「だから、それがどうしたというのです?」
フロルはラオの顔を見ていなかったが、それでも能面のように表情の欠落した顔であろうことはわかっていた。
「復讐戦など無《・》意《・》味《・》であることはあなたにも分かってるでしょう、リシャール准将」
フロルは答えない。
「すぐに艦隊を戻すのです。そうすればビュコック提督の心証も悪くせず、グリーンヒル提督に対する言い訳もしなくて済む」
「グリーンヒル提督の言いつけか、これは」
フロルは前を向いたまま言う。
「私はあなたの部下である前に、グリーンヒル提督の部下なんでね」
ラオは肩を竦めた。
「理由など、一つだよ、ラオ少佐。俺はあのラインハルトという男を看過できない。俺を邪魔するというのなら、しかも補給も満足に終えていない状態で、士気高く突き進む我が艦隊に復讐戦の機会を与えてくれるというのなら、叩きのめそうというだけだ」
「かの艦隊は補給こそ終えていませんが、艦数は我が方より4000隻近く多いのです」
「何も全滅させる必要はない。我が艦隊もかの艦隊と同じことをすればいいだけだ。我が艦隊の攻撃目標はただ一つ、敵の総旗艦一隻のみ」
「愚かな」ラオの声には呆れすら混じり始めていた。「敵艦隊がはいそうですかと、旗艦に攻撃を許すと思いますか? 現実問題、我が艦隊があの艦隊の旗艦を潰すには、かの艦隊全体を壊滅させなければならないのです。いいですか、あなたのやっていることは、戦略的に何の意味もないのです。あんな艦隊など無視して、ミュッケンベルガー艦隊に突撃するべきだ! 作戦を失敗させるつもりですか!?」
《中央、第5艦隊が敵中央部隊と交戦を開始しました。我が艦隊と敵遊撃艦隊との交戦開始予想時刻まで、残り300秒!》
フロルには艦内放送で流されているはずの声が、遠くに聞こえた。
「それがどうしたって言うんだ!」
フロルは振り返って吠えた。その声で幾人かがこちらに視線をやる。
ラオは、顔色一つ変えずにそれを見ていた。
フロルの、冷静沈着な皮の下を走る激情を見ていた。
「……リシャール准将、あなたは何を焦っているのです」
フロルは口にすることなど適わなかった。
例え、どんな犠牲を払ってでも、差し違えてでも、あのラインハルト・フォン・ローエングラムを殺さなければならないと、彼は信じていたのだ。
あの男は加速度的に地位を上げ、力をつけ、同盟を滅びの道へと誘う死に神となる。
フロルには、守るべき者ができたフロルには、彼の大切な者に不幸を撒き散らす人間に容赦などできようもなかった。
——ラインハルト・フォン・ローエングラム!
フロルは自分が冷静さを失っていることに気づいていた。
彼は自分が将としての思考を手放していることにさえ、気づいている。
だが艦橋ディスプレイに映ったラインハルト艦隊の姿が、その恐怖が、彼を塗りつぶしていた。
フロルは恐ろしかったのだ。
敗北を知らない、あの戦争の天才が。
「おまえは知らないのだ、ラオ少佐。我々の前にいるあの、ラインハルト・フォン・ローエングラムという男が、いったいどれほど危険な男なのかを。ラオ少佐、あの男を名将程度だと思ったらそれは大間違いだ。あれは、史上最も危険な帝国軍中将なのだ!」
吐き捨てるような口調だった。
「どういうことです、リシャール准将! あなたはなぜそこまでラインハルトという男を——」
《帝国軍艦隊が撤退を開始しました》
フロルにとって、第3次ティアマト会戦の終わりは情報士官の一声によってもたらされた。
結局、フロルによって再編成された同盟軍第4艦隊残存部隊は、一撃の砲撃をすることなく、撤退を余儀なくされたのである。
直後に訪れた、同盟軍総司令官の撤退命令によって。
***
叛乱軍が別働隊を編成していた時は驚いたが、なぜかそれを生かす行動をしなかった。そのおかげで、ミュッケンベルガーが思惑通り、満身創痍の叛乱軍第5艦隊に止めを刺そうと、交戦を始めた直後のことであった。
「シュターデン中将より入電! 我半包囲されたり。被害甚大。戦闘の継続能わず。救援を請う!」
「何!」
ミュッケンベルガーは席を蹴って立ち上がった。
それと同時に、シュターデンを失念していた己の迂闊さに舌打ちをしている。
シュターデン艦隊は1個艦隊をもって、敵の1個艦隊を引きつけ、ミュッケンベルガーとラインハルトの2個艦隊が叛乱軍の艦隊を各個撃破するまでの時間稼ぎを申しつけていたのである。
艦隊の数も、質も、シュターデン艦隊は叛乱軍に劣っていないはずである。
それが敗れたということは、ただ一つの理由においてであろう。
「シュターデンめ、戦争巧者を気取っておりながら、そんなこともできんのか!」
ミュッケンベルガーはそう言い捨てた。彼にとっては、大言壮語をする者も、謙遜する者も、実力がない時点で役立たずの人材なのだ。彼にとって、帝国軍宇宙艦隊総司令官として、大切なことはただ一つ。
有能であるか、否か、なのだ。
ミュッケンベルガーとて、帝国軍の将である。帝国軍の悪しき慣例として、家柄や地位によって軍隊における地位まで左右されることを容認していたし、そのような部下を持ったことなど数えられないほどにある。だが、軍人貴族としての矜持と名誉を胸に戴くグレゴール・フォン・ミュッケンベルガーにとっては、誠に力を持つ軍人こそ信頼に値するのであって、口先ばかりの男ほど迷惑なものはないのである。
その点、皇帝の寵姫の弟で出世したラインハルトも、本来は嫌って当然の人材なのだが、今回の働きを含め、その評価を改めつつあった。ラインハルトは、有能である、と考え始めていたのだ。
少なくとも、シュターデンよりは。
シュターデンが壊滅されれば、当然ながら帝国の右翼ががら空きになる。それどころではなく、せっかく撃ち減らし優勢となった艦数においても、それをひっくり返される可能性すらあるのだ。
しかも、帝国軍に余剰兵力は存在しない。3個艦隊で出征し、それぞれをフルに活用して各個撃破を図ったものの、一度は成功した各個撃破すらも尋常ならざる艦隊再編成によって出現した残存部隊のせいで、目論見を崩された。
局所的には、勝った。
敵の一個艦隊を華麗に突破し、更に本隊を蹂躙、ミュッケンベルガーも一撃を加えたばかりなのである。このまま継続すれば、敵本隊は全滅することができるだろう。そうすれば、第3次ティアマト会戦は帝国軍の一方的な勝利として歴史に刻まれるはずだったのだ。
だが、今、それに傷がつきつつある。
シュターデンが負ければ、この戦いの趨勢は振り出しの互角に戻されるのだ。
「……全軍、撤退せよ」
ミュッケンベルガーは静かに席に座った。
これ以上、戦闘を継続しても、勝利を得ることは難しいだろう。
そうなれば、徒らに戦力を消耗するのも戦略的に意味がない。
戦術的には、帝国軍の勝利だろう。
だが、戦略的な勝利者は、存在しなかった。
***
撤退しようとした敵シュターデン艦隊を徹底的に叩き、被害を更に与えたことに満足した第10艦隊が、第5艦隊と合流したのは、翌日0035時のことである。
各艦隊が生存者の救出や撤退を始める中、ウランフ中将の旗艦、盤古が第5艦隊旗艦、リオ・グランデに接舷した。
リオ・グランデの艦橋に姿を現したウランフ中将は、顔にこそ疲労の色を滲ませていたが、足取りもしっかりとした様子であった。対するビュコックは、指揮官席に座り、腕を組んだまま黙している。
「ビュコック中将」
ウランフの声によって、ビュコックは顔を上げた。
「ウランフ中将か」
「お休みになったらどうですか、お疲れの様子ですよ」
ウランフはビュコックが眠りかけていたことに気づいていた。
「そうもいかんじゃろう。よくとって辛勝、実際には負けという戦いじゃったのだから、総司令官がどっしり健在をアピールせねばの」
「ご苦労をおかけした。半包囲に持って行くのがなかなか骨が折れましてな。最後は力業でしたよ」
「さすが猛将の誉れ高いウランフ中将と言ったところか」
ビュコックは疲れた笑みを浮かべた。
ウランフはその中に、憂いを見出した。
「何か、気になることでも?」
ビュコックは一度、視線を外した。目をやったのは、手元にある暫定戦闘詳報であった。ビュコックはそれをウランフに手渡す。
頷いて捲ろうとしたウランフに、ビュコックは問いかけた。
「フロル・リシャール准将に、敗退した第4艦隊の再編成を指示したのは知っておるか」
ウランフはまた視線をビュコックに戻した。
「ええ、抜《・》かれたにしては被害が少ないとはいえ、あの短時間で残存部隊を再編成したそうで。その手腕はなかなかのものですな。あの忌まわしいパストーレは生き延びたそうですが、フィッシャー准将が見つからないそうで」
「うむ、良い指揮官たりえる男じゃったのだが、捜索班からの連絡は、まだない」
「生きていれば、いいのですが」
ビュコックは重々しく頷いた。
それも大きな憂いの一つだった。
また同盟軍は、将来有望な准将クラスの人材を失った。
そして、ビュコックにとって最も信頼に足るはずだった男も……。
「なぜ、命令を無視したのか……」
ビュコックのその呟きは、ウランフに届くこともなく、リオ・グランデの艦橋に消えた。
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