【旧】銀英伝 異伝、フロル・リシャール
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第3次ティアマト会戦(1)
第3次ティアマト会戦(1)
宇宙暦795年2月17日深夜11時、フロル・リシャールは救護艦テュデウスを離れた。彼の恋人——そして婚約者になるであろう女性イヴリン・ドールトンを見舞っていたのである。救護艦テュデウスは比較的小型の救護艦に分類され、今回のグランド・カナル号事件の負傷者が多く収容されていた。
明日にも迫った会戦においては、最後尾に位置し、戦列には近づかないことが決定されている。救護艦には白に赤い十字のマークが描かれている。これはかつて地球にて隆盛を誇った宗教の名残、と言われていたが今ではシンボル的な意味しか持たない。このシンボルマークが描かれた艦艇は帝国、同盟のいかなる軍事行動の攻撃目標とならない、という暗黙の協定が成り立っていた。無論、非情のまかり通る戦場では、その協定が破られることも度々あったが、破られた場合は敵軍からの非難よりも自軍からの非難によってその責が問われることが多かった。この泥沼の150年間において、数少ない倫理的なルールと言ってもよかった。
フロルはその赤十字がキリスト教に根ざしていることを知っていたが、それ以上の感慨は特に抱かなかった。彼にはもっと他に考えるべきことがあったからであり、それは目下始まろうとしている第3次ティアマト会戦のことである。
フロルの知っている銀英伝の歴史において、第3次ティアマト会戦はホーランド中将率いる第11艦隊が敵軍に猪突猛進の突撃と荒唐無稽の特攻によって出血を強いるも、最後の最後にラインハルトによって撃滅される、という展開を迎えるはずだった。ホーランド中将は戦死し、逃げ帰った第11艦隊を守りつつビュコック、ウランフ両提督が撤退する、というのがこの会戦の結末だったのだ。
だが、困ったことにその歴史は再演されそうにはない。
ホーランドが戦死しているからである。
これはまさにフロルの意図せざるところであった。フロルは同盟軍が少しでも優勢に、そして叶うならラインハルトを抹殺せんと、あの戦いでも暗躍に近い活躍をしていたのである。だがその働きかけは本来の歴史の流れを変え、どういうわけかホーランド率いるミサイル艦部隊の全滅という結末を招いたのだ。フロルはバタフライ・エフェクトという言葉を思い出さずにはいられなかった。フロルが関わったがために、歴史はその本来の流れを変えて、未知の方向へと進み始めているのだ。
だがフロルにとって、このような事態は予測できないことではなかった。自分という異分子が銀英伝に介入し、しかも准将というある程度の社会的地位を手に入れた時点で、事象の流れは変化するに決まっているのだ。そして初期値が変わったがために、時間が経るにつれ、その変動幅は拡大していくだろう。当然の帰結であった。
フロルは転生、という半ば非論理的非科学的な経験を有している人間だったが、かといって神の存在や歴史の修正力といったものは信じていなかった。あるいは、フロルの前世の記録は幼少期に形成された嘘の記憶かもしれないのだ。その記憶が本物である、という証明は今となっては、宇宙暦795年となってはできようもないのである。だから、彼は悩まず前向きに考えるようになっていた。自分は確固として生きている。ならば、自分が動けば歴史も変わる。
裏を返せば、それだけの思考力や頭脳が自分に備わっているという自信の発露だったのかもしれない。フロルには、自分が歴史を変えられるという無意識の確信があって、少なからずそれを証明する作業でもあったのだ。
そこでフロルは、起こりうる事象をフラットに考えていた。
ホーランドがいなくなったこの戦い、本来第11艦隊がいるべきところにはパストーレ中将率いる第4艦隊がおり、勘違い男がいなくなったおかげで指揮権もビュコック提督がしっかりと掌握している。同盟軍としては、同数の帝国軍に手堅い防御陣で対し、帝国の出血を強いる、というのが大まかな作戦目標であった。これはフロルも賛同するところである。敵軍は三個艦隊とはいえ、ミュッケンベルガーとラインハルトが所属するのだ。ミュッケンベルガーは別にしても、ラインハルト艦隊の脅威は無視できないものだった。ラインハルトは本来の歴史では、会戦の最後の最後まで戦闘に参加しなかったが、ホーランドという|自信過剰者《ナルシスト》がいなくなった今回、いったいどんな行動を示すのか、フロルにも見当がつかなかった。
順当に考えれば、ミュッケンベルガーの指揮する範囲で、艦隊規模の巧みな手腕を見せつける、程度の活躍しかしないだろう。ミュッケンベルガーとラインハルトには大きな亀裂があり、両者が手を取り合って戦いに臨むのはまず考えられないからである。すなわち、警戒すべきなのはラインハルトの艦隊運動であり、ラインハルトがいかに行動するかにあった。
とはいえ、ラインハルトは勝てる戦を勝つ男である。その奇術詭計は万人の及ぶところではなかったが、彼自身それを望んで用いたことはないはずである。一つに、戦いは勝てる準備をして望むのが戦の常道であり、少数で多数を破らんとするのは邪道であって、破滅の道だったからだろう。ラインハルトやヤンはそれを誰よりも良く理解しており、ラインハルトは常に大軍で少数を破った男だった。ヤンはそれを知りながら、少数で多数を破る戦術的勝利を積み重ねた苦労人である。両者は対極に位置するようで、戦略的戦術的思想には非常に似通ったところがあるのだ。
フロルにはそれがわかっていたから、ラインハルトならどうするか、という思考迷路とともに、ヤンであればどうするか、という思索も重ねた。ヤンはかつて、ミラクル・ヤンと呼ばれたほどの用兵家であり、その手腕は銀河一である。だがフロルはヤンではない。限度というものがあった。
そこで、彼は超高速通信をハイネセンに繋いだ。
無論、相手はあの男である。
「ヤン、久しぶりだな」
『そうでしたっけね』
ディスプレィの奥で、ヤンは苦笑いをしながら敬礼をした。ぼさぼさの黒髪は寝癖でところどころ跳ねていたが、この時間まで起きていたのはフロルがラオ少佐経由でヤンに連絡していたからである。おかげで、本来ならば時間外である超高速通信も特例で使えるようになっていた。いったいどのような工作がラオ少佐によって行われていたが、フロルは詳しい説明こそ聞かなかったが、彼が有能であることは疑いようもなかった。
『それで、先輩、どうしたんですか。わざわざ私をこんな時間まで残業させて』
「それくらいいいだろう、ヤン。給料分だ」
『私の労働時間は定時までのはずなんですけどね』
ヤンはそこまで言って笑みを消した。
『グランド・カナルのことは聞きました。……危なかったそうですね』
「ああ、間一髪だったよ」
フロルは苦みのある表情のまま、肩を竦める。
『こっちではその話題で持ち切りですよ。ロボス元帥はかなり矢面に立たされてます。逆に駆けつけたビュコック提督の英断が褒めたたえられているようで』
「それは提督に申し訳ないことをしたなぁ」
ヤンはそれに一つ頷いた。
恐らく、軍部の責任追及の手を緩めるために、功労者としてビュコックをもてはやしているのだ。それはビュコックからしてみればありがたくない奉賛の声だろう。彼は正しいと思った行動を、彼の軍人の矜持に従って執り行っただけなのだ。その行動に跡づけの道徳心やら美辞麗句をあてがわれても、あの老提督は眉を顰めるだけだろう。
『シトレ校……じゃくなくて元帥は、これを機にロボス元帥の力を削ごうとしているみたいです』
「まぁ予測できる範囲だな」
フロルは頷いた。シトレとロボスは統合作戦本部長の椅子を狙って四半世紀に渡って争い続けていた間柄だった。今回のような明らかな失点を、シトレが見逃すはずはなかった。
フロルは基本、シトレ派の人間である。いや、それを言うのであればヤンもキャゼルヌもシトレのシンパだろう。彼らには共通点があった。言うまでもない。みな、士官学校時代、大なり小なりシトレの薫陶を受けているのだ。シトレは優れた校長であり、優れた軍人であり、優れた人格者だった。彼らが今日も抱く理想の軍人像にシトレが与えた影響は小さなものではなかったのだ。
対するロボスにしてみても、多少大雑把なところがあったが、名将の器の人間であった。その長い軍歴において、彼の能力が、求められる職務に対応できない事態はなかったのだ。だが、そのロボスもここ数年でそれに翳りが見え始めていた。作戦指示、特に戦況判断の遅れや、事態認識の楽観視に拍車がかかってきていた。フロルはまだ証拠こそ手に入れていなかったが、ロボスが老人性の健忘症の類に罹っているのではないか、とまで推測していた。彼が動かしている情報部第三課をもってしても、まだそれは見出せていなかったが、その能力の減衰は明らかだったのだ。
今回の第三次ティアマト会戦でも、フロルは途中からロボスが前線に来るのを引き止めるように暗躍した。もともと出すのを惜しんでいた国防委員会に働きかけ、増援の二個艦隊の出動を意図的に遅れさせ、ロボスの幕僚にも比較的慎重派の壮年の者を集めるようにした。すべてはロボスが前線に来て、その指揮権を振るわぬようにするための裏工作だった。
——ロボスはおかしい。
これはフロルが原作の知識を読んでいた時から感じていた疑問だった。ある時までは名将、勇将と名高かったラザール=ロボス元帥。それが第6次イゼルローン要塞攻略戦を境にしてその能力を衰えさせている。その急激な衰えは単なる老人性のものなのだろうか。
フロルはそこに違和感を感じさせていた。確かに老人性健忘症ならば、説明はつく。だが、なぜこのタイミングでそれが進んだのか……。
『ロボス元帥はすっかり動きにくくなったらしく、第3次ティアマトの会戦でも後方に陣していると聞いていますが?』
フロルの思考を止めたのはヤンの言葉だった。
「ああ、前線部隊三個艦隊で、ほぼ同数の帝国軍と戦うことになるだろう」
『あまり……よくないですね』
ヤンは困ったように言ったが、フロルにしてみれば予想の範囲である。
「いや、数は同数なんだ。少なければ困るが、同数ならばどうにかなる。それこそ、俺のようななんちゃって准将でもな」
『謙遜はいいですよ、フロル先輩』
「おまえさんこそ、准将だって? 俺と同じじゃないか。出世するなら俺よりおまえが先だと思ってるんだがな」
『思うのは自由ですが、ご期待には沿えないでしょう』
フロルは一つ小さく笑ってから、笑みを消した。与太話もここまで、という意味である。ヤンも鋭くそれは読み取ったらしく、画面の向こうで椅子に座り直したようだった。
「ヤン、敵さんはどう動くと思う?」
『……同数の艦隊同士の艦隊戦ですか』
「だが条件は同等ではない。帝国はここまで数百光年を旅してやってきたところだが、同盟は補給も休息も訓練も十分な状態にある。更に同盟は自らの艦隊が動きやすい場所に戦場を任意に設定できた。それが今回のティアマト星域なわけだが、その地理的な条件も同等とは言えんだろう」
『ですが攻めるのは帝国で、守りに入るのは同盟です。士気の高さはどうでしょう』
「帝国軍としては勝たねば帰れぬだろうからな、死に物狂いで戦うか?」
『少なくとも、帝国軍の指揮官は。今回の出兵に関する情報部のレポートを読みましたが、帝国は皇帝の戴冠三十周年に箔を付けるために出兵したそうです。逆に言えばここで無惨な敗北を喫すれば何人かの首が物理的に飛ぶのは確実でしょう』
「すると司令長官のミュッケンベルガーあたりは、それこそ本気で頑張るのかな」
『それもどうでしょう。彼の元帥閣下は帝国でも無類の勇名を誇っています。例え負けても、一度で殺されることはないと思いますね。だからこそ、彼の下についている艦隊司令官あたりが危ない。その能力を最大限に発揮して、勝とうとすると思いますよ。まぁ、もっとも、一般将兵にしてみれば皇帝のお祝いのために命をかけて戦争をさせられるわけですから、決して士気が高まる要素とはなりえないかもしれませんが」
ヤンは悲観が過ぎたと思ったのか、最後に気を休めるように言葉を付け加えた。だがフロルは考えていた。帝国からすれば、これはただの威圧的軍事行動ではない。ある程度の勝利が約束されねばならない、儀式なのだ。ならば、その意味を理解している高級士官たちはそれこそ必死に勝ちを手に入れようとするだろう。
「ヤン、第6次イゼルローン要塞攻略戦を覚えているか?」
フロルは一つのことを確かめるようにヤンに話しかけた。
『そりゃあ、そこまで私の記憶力も退化はしてませんよ、先輩』
「ではあの小賢しい敵、徹頭徹尾同盟軍をおちょくってくれた分艦隊を覚えているか」
ヤンはこの言葉で既に察したらしい。顔色が変わった。
『あの分艦隊がまたいるのですか?』
「いや、分艦隊ではない。一個艦隊だよ」
『え?』
ヤンは驚いたように声を漏らした。
「帝国は専制君主国だがら筋の通らない話も多いらしいが、逆に言えば実力のある者が寵愛を受ければ簡単に栄達できるシステムだ。前、あの分艦隊を指揮していた男は、前回の戦功によって中将に昇進している。そして恐らく、一個艦隊を率いてティアマトに来るに違いない」
『……誰だか、わかったんですか?』
「ラインハルト・フォン・ミューゼル」
フロルはその名を言った。全宇宙を手に入れんと同盟に立ちはだかる若き獅子の名前。ローエングラムの姓をまだ持たず、ブリューンヒルトもまだ下賜されていないであろうラインハルトの名前。本来なら、もっと後の戦いで、ヤンが知るべき名前であった。生涯ヤンと同盟に立ちはだかる者の名前なのだ。
だが、フロルはその名前を明かした。
ヤンはその名前を自分の記憶のデータベースに照合させたようだった。数秒の沈黙の後、上げた顔には驚きの感情が見えた。
『ミューゼル……確か今の皇帝の寵姫、グリューネワルト伯爵夫人の前の名前は——』
「アンネローゼ・フォン・ミューゼル。そう、その通りだ。彼は皇帝の寵姫の弟だ」
ヤンはその事実に背筋を振るわせたように見えた。それは嘲りによってではないだろう。いかな民主主義国家に生まれ育ったヤンでさえ、その地位がどれだけ利権と特権に溢れているかは想像に容易かった。古代中国には皇帝の寵姫とその一族への重用が国を傾けて、その結果に大乱が起きる前例がいくつもあるのだ。それだけ、寵姫の家族は力が集まりやすい。もっとも、凡人が力を得ただけならば、それは恐怖ではない。脅威ではない。だが、あの第6次イゼルローン要塞攻略戦で際立った艦隊運動、戦術眼、戦略眼を見せたあの敵司令官が、そうした特権を授かる立場の人なのだとしたら、それは天才が権力を握ったということに他ならないのだ。それは十分に脅威だった。
「ヤン、あの男が敵艦隊にいる。どう出ると思う?」
ヤンはそのフロルの問いに、苦しそうな顔をした。ヤンにしてみても、そのラインハルトなる敵士官と戦ったのはあの時が初めてだったのだ。フロルがヤンのオフィスに来て、ヤンがその狐を捕らえる罠を考案した、あの時が。時間は短く、ヤンがラインハルトの思考を読み取るには足らなかった。ヤンはまだ、ラインハルトの能力を完全には理解できていなかったのだ。
『わかりません』
「わからない?」
フロルは思わず声が高くなりそうになるのを、必死に抑えた。
『私はそのラインハルトという男について何も知りません。前回の戦いで、彼の艦隊運動を見てその練度は理解しています。戦術的にも、戦略的にも、相当な能力の持ち主であることも。ですが、それでその男の考えを読み切るのは、さすがに無理ですよ』
「……それもそうだな」
フロルも頭を軽く振った。ヤンとて全知全能の神ではなかった。フロルはヤンの今後の活躍を知っているため、思わずそう考えてしまいそうになったが、ヤンは超能力者ではなかったのだ。
『もしかして、そのことを聞くためにわざわざ超光速通信を?』
「わざわざ、というほどでもない。だが、俺が一番信用している用兵家は、ヤン・ウェンリーという男だからな」
『それは買いかぶりですよ』
ヤンはしまらない髪型の黒髪をかいたが、その表情には困惑の色も混じっていた。ヤンにしてみれば、自分と同じくらい、もしかするとそれ以上にフロルという男は戦術家としての能力に富んでいると考えていたからだろう。フロルはヤンの先輩であり、士官学校時代、彼に戦略研究科で色々便宜を図ってくれたのもフロルだったのである。ヤンが読みたい、閲覧したいと思った資料は全てフロルが上級生の特権で見せてくれたし、何をどうしたのか秘密裏に戦術研究コンピュータを使わせてくれたこともあった。ヤンが戦術研究科に転科してフロルが卒業するまでの期間、一番シミュレーションの相手になったのはフロルだったのである。つまりヤンにしてみれば一番相手の考えが読めるのはフロルであって、その上でフロルの有能を知っていたのだ。
「ヤン、おまえさんはどうにも人が良すぎる。そして自分への評価がまだ甘い。それは謙虚として美徳に上げるべきところなのかもしれないが、もう少し気をつけた方が良いよ」
『はぁ……』
「じゃあもう一つ、ヤンならどうする?」
『私なら、ですか?』
フロルはかつて、こう言った問いかけをよくヤンにしたものだった。ヤンにしてみれば、フロルとのこんな些細な思考実験が楽しいと思ったこともある。ヤンが戦術に興味を持ち始めたのも、フロルとのこうした会話がきっかけであった。
——それが、あのエル・ファシルにも役立っているかもしれない。
ヤンは7年も前になったエル・ファシルを思い出した。かつて、フロルとの会話で包囲下における脱出作戦について語り明かしたことがあったのだ。
——そんなことはありえないんだが、フロル先輩はああいった事態まで想定していたのかもしれない。そう、エル・ファシルの時だって、何も私じゃなくて、フロル先輩でも同じようにやってのけただろう。
フロルのヤンに対する働きかけが、かえってヤンのフロルに対する評価を上げていることを、フロルは失念していたのだった。
「そう、おまえさんが帝国軍の宇宙艦隊司令長官であらせられたら、今回の戦いをどうする」
フロルは皮肉な笑みを頬に浮かべながらヤンに問いかけた。
『私なら撤退ですね』
そしてその応えを聞いてより一層、笑みを深くする。
『今回の帝国軍の軍事行動には明確な軍事目標が見当たりません。戦っても、得るものが少なすぎる。私なら、無駄なエネルギーと人命の使い捨てはしませんね』
「だがおまえさんは軍人だ。上から命じられれば、やらねばならないのでは?」
『それはそうでしょう。民主国家の軍人は文民統制が原則ですから。ですけど、いくらなんでもそんな非合理的な作戦案が同盟で行われることは、ないと思いますが』
「それは、どうかな……」
フロルはアムリッツアを思い出していた。あれこそ、非合理と理不尽の間に生まれた私生児なのではないか、と。
『帝国軍ならばあるいはそんなこともあるかもしれません。特に儀礼的な軍事行動の場合、私は敵戦力の殲滅ではなく、撤退を目標とするでしょう。同数の艦隊ならば、敵を叩き、お互いがそれなりの犠牲を出したのち撤退する。もし可能ならば、同盟が敗走するような状況にまで追い込み、その心理的勝利を糧に帰っていくでしょう。帝国軍にはこのまま同盟首都に侵攻するだけの余力はありません。つまるところ、最大の勝利を得られたとしても、それはティアマトでの局所的な勝利に留まるのです』
「だが同盟にしても、戦わずして引くことはできない。ある程度の犠牲を帝国に出さねば、片道切符で帝国軍が侵攻し続けるかもしれない。いや、首都は無理にしても、同盟と帝国の境界線上にある惑星を占拠し、前線基地でも作られたら厄介だ。作戦を先延ばしにするのも、ここいらが限界だろう」
ヤンは一つ頷いて、腕を組んだ。フロルも、足を組み直す。コーヒーが欲しいところだった。
『戦略的にはそれしか道がないと思います』
「俺はおまえさんの戦術論を聞きたい。同盟は強固な防御陣を敷く。これを崩すに、帝国はどう動く?」
『全軍突撃、というのには厳しいでしょう。ティアマト星域の広さはそれだけの艦隊運動を許容しますが、帝国軍の練度がそれを阻みます。例えば、紡錘陣形による突撃攻撃には高い士気、十分な練度、そしてそれを統率できるだけの有能な指揮官が必要です。見るところ、練度に関して帝国はまだ不十分でしょう。第6次イゼルローン要塞攻略戦でもわかっていたことですが、どうやら訓練の質は同盟より帝国が下のようです。もっとも、そのミューゼル艦隊は別でしたが』
「それに指揮系統の問題もある。ミューゼル中将は確かに有能だが、ミュッケンベルガー元帥とは水と油だろう。ミュッケンベルガーは帝国の軍人気質そのものだ。成り上がりの小僧と仲良くできるはずがない」
『それは思い込みでしょう。ミュッケンベルガー元帥にそれだけの将器があるのなら、若造であろうとその手腕を大いに利用すると思いますが』
ヤンは言ったが、フロルはそれでも悩んでいた。原作におけるこの時期のラインハルトは、高慢稚気の固まりだった。ミュッケンベルガーを愚か者として嘲笑していたような男だ。例えミュッケンベルガーにそれだけの将器があっても、ラインハルトがそれに従うのだろうか。
『あるいは包囲を試みるかもしれません』
「それは無理だ。帝国と同盟は同数だ。包囲すれば艦列が薄くなりすぎる。同盟は簡単にそれを打ち破れるぞ」
『いえ、完全な包囲網ではなく半包囲の形で半月形の陣形を取り、両翼のスイッチ攻撃で同盟の出血死を狙うのです』
それはヤンがアムリッツアの撤退戦で用いた作戦であった。あの時は撤退する側として用いていたが、それを攻撃側で使用せん、ということらしい。同盟が戦列を立て直すために一端後退する隙に、追撃をかけるのも有効だろう。
「なるほど、なかなか手堅いな。囮の部隊でもって同盟の背後に回り込み、そのまま同盟領に侵攻するように見せかけるのもいい手じゃないかな」
『戦力分散の愚を看過すれば、確かに同盟軍の混乱は起きるかもしれません。ですが、この場合、敵領内に侵攻しているのは帝国であって、同盟にその類の心理的な揺さぶりは効果的ではないでしょう』
「うーん、そうだなぁ」
『敵はこちらが耐え切れないだけの損害を出すことを作戦目標とするでしょうから、実は両軍とも敵の消耗を狙うことになるんです。つまりは消耗戦に陥る可能性が大きい』
考えれば考えるほど、意味のない戦いだった。戦略的に何の意味もない消耗戦を戦術的な目標に据えるとは……。
通信を切ったのは、更にその一時間後のことだった。
『ただ、先輩、一つだけ、忘れないで下さい』
フロルは通信停止のスイッチから、ヤンに視線を戻した。ヤンは固い表情になって、口を開いていた。
『一頭の獅子は百頭の羊より脅威です。ゆめゆめ——』
「わかってるさ。俺は敵を過小評価はしない。わかってる」
——誰よりもな。
フロルは超光速通信を切ったあとも、一人通信室に座ったまま、考え込んでいた。
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